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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム57 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会①
       −和歌山県田辺市奇絶峡付近の風穴と巨石積堰堤を歩く−
1.はじめに
 東北地方太平洋沖地震が発生した平成23年(2011)3月11日から半年後の9月3〜4日に日本列島を襲った台風12号により、紀伊半島南部の奈良県、和歌山県などで大規模な深層崩壊が発生し、激甚な土砂災害が発生しました。十津川流域を中心として、紀伊半島の多くの箇所で深層崩壊に伴う河道閉塞(天然ダム形成)によって、決壊洪水が発生した箇所もありました。さらに、大規模な深層崩壊が発生した地区では、背後の天然ダムが満水になると、決壊洪水が起こる危険性があるとして、国土交通省近畿地方整備局 紀伊山系砂防事務所などで、大規模な河道閉塞(天然ダム)対策などが直轄砂防事業(赤谷地区、長殿地区、栗平地区、北股地区、熊野地区、清水地区[宇井]地区、坪内地区、三越地区の8地区)として実施されています(近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター 紀伊山系砂防事務所,2017.9)。
 紀伊半島は、平成23年(2011)以前にも、明治22年(1889)8月18日〜20日に台風襲来によって、激甚な土砂災害と河道閉塞(天然ダム)災害を受けました(芦田,1987;宇智吉野郡役所,1891;蒲田・小林,2006;川村,1987;菊地,1986;田畑ほか,2002;千葉,1975;明治大水害誌編集委員会,1989)。また、昭和28年(1953)7月18日前後に、有田川上流域を中心として激甚な土砂災害を受けました(和歌山県伊都郡花園村,1982;藤田・諏訪,2006)。これらの災害は明治の十津川水害、昭和の有田川水害と呼ばれることが多いのですが、災害は紀伊半島全域に及んでおり、平成23年(2011)の平成紀伊半島災害と同様、明治22年(1889)の明治紀伊半島災害、昭和28年(1953)の昭和紀伊半島災害と呼ぶべきだと思います。明治紀伊半島災害については、コラム28で詳述しています。

2.平成30年(2018)11月30日〜12月1日の現地見学会
 平成30 年11 月30 日(金)〜12 月1 日(土)に井上と上森安(田辺ジオパーク研究会)が現地案内人として、大規模土砂災害と防災施設の現地見学会−和歌山県田辺市奇絶峡付近と日高川町彌谷地区を歩く−を開催しました。
 【現地見学会の目的】は、「和歌山県南部の田辺市奇絶峡付近にある大規模深層崩壊と明治期の巨石積堰堤や風穴などの地点を現地見学し、過去の大規模土砂災害と防災施設(砂防施設)を見学する。日高川町の彌谷地区では、昭和28年(1953)の土砂災害で、86人もの住民が死亡したが、そのことは地元以外にはほとんど知られていない。現地には多くの慰霊碑が建立されているので、それらを巡るとともに、土砂災害の素因となった地形・地質条件を探る。また、この災害で被災された住民の方へのヒアリングも行い、激甚な災害状況を復元することを目的とする。」としました。
 現地見学会に先立って、井上公夫・後誠介(和歌山大学災害科学教育研究センター客員教授)・上森安・秋山晋二(国際航業竃h災部)の4人で、11月30日の午前中に、田辺市役所の真砂充敏市長を表敬訪問しました。真砂市長に今回の現地調査の目的などを説明しました。真砂市長は、田辺市周辺の明治22年(1889)災害とその後に建設された巨石積堰堤に強い関心を示されました(田辺市内には、他にも巨石積堰堤が存在すると言われました)。
 11月30日(金)には12名、12月01日(土)には13名、計23名の参加がありましたので、2回に分けて報告します。30日の夜は有田川町の美山温泉・愛徳荘に6名の方が泊まり、ミニ集会を開催しました。

3.田辺市右会津川周辺の明治22年(1889)の土砂災害
 コラム28でも紹介しましたが、図1は秋津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委員会,1989)を示しています。明治22年(1889)の豪雨は、紀伊半島でも和歌山県中部(西牟婁郡,日高郡)から奈良県南部(宇智吉野郡)にかけて激しく、上記の3郡を中心として極めて多くの山崩れが発生し、急峻な河谷が閉塞され、各地に天然ダムが形成されました。これらの天然ダムのほとんどは、豪雨時、または数日後に決壊して段波洪水が発生し、下流域を襲いました。これらの土砂移動・天然ダムの決壊洪水によって、1000人以上が犠牲者となる事態となりました。図1に示したように、犠牲者は会津川(旧田辺町)と富田川(旧上富田町)流域に集中しています。8月18日から19日に豪雨がありました。
図1 秋津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委員会,1989)
図1 秋津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委員会,1989)

 再び降り出した大雨は激しく、翌20日の1時頃には、「雨声砂礫を打つが如く」大粒の激しい雨が降り、田辺町・湊町は大浸水を受け、人命も多く奪われました。20日0〜6時頃の大洪水は、満潮時と重なり、増幅され被害を大きくしました。田辺町の19日の日雨量は902mm,時間雨量168mmにも達しました(時間雨量は1982年の長崎水害まで日本最大)。
 会津川(秋津川)では、中流部の2箇所(右会津川・高尾山,19日18時に天然ダム形成,3時間後に決壊,左会津川・槇山,20日4時に天然ダム形成,5時間後に決壊)で天然ダムが形成・決壊し、下流部の田辺市(田辺町)の市街地を土石流・洪水が襲い、死者320名にも達する激甚な被害が発生しました。富田川流域では、非常に多くの崩壊が発生し(天然ダムの位置は不明)、500人以上(上富田町で394人)の死者となりました。
 写真1は、田辺市民総合センター前の会津児童公園内に建立された「明治大水害記念碑」で、この記念碑の下には右のように記されています。 
写真1 明治大水害記念碑と碑文(田辺市民総合センター前の会津児童公園内に建立)
写真1 明治大水害記念碑と碑文(田辺市民総合センター前の会津児童公園内に建立)

 田辺市の大洪水の主原因は、豪雨時に生じた右会津川の「高尾地区」と左会津川の「槇山地区」の天然ダムの形成・決壊です。田辺市上秋津の高尾山の山麓斜面において、8月19日18時頃、右会津川の左岸斜面で長さ720m、幅540mの範囲が大規模な地すべり性崩壊(深層崩壊)を起こしました。右会津川の右岸側斜面も大規模崩壊し、挟み撃ちとなって、天然ダム(高さ15m,湛水量19万m3程度)が形成されました。この天然ダムは3時間後の21時頃に決壊し、多量の土砂を巻き込んで、田辺市の市街地付近まで流下し、田畑・道路・人家を埋没させ、多数の犠牲者を出しました。
 左会津川の槇山では、20日4時頃、左岸側斜面が長さ900m、幅540mの範囲で大規模な地すべり性崩壊(深層崩壊)を引き起こし、天然ダム(高さ20m,湛水量40万m3程度)が形成されました。この天然ダムは、5時間後の20日9時に決壊し、多量の土砂を巻き込んで下流に流下しました。上記2箇所の天然ダムの決壊で、上秋津の川上神社境内には3mあまり、下三栖地区では1.5mもの土砂が堆積しました。会津川河口にあった田辺港も上流からの土砂堆積で、水深が浅くなり、移転を余儀なくされました。

4.デレーケの田辺周辺の明治22年災(1889)の視察
 明治政府は、日本の荒廃した河川と港湾を再生するために、オランダから数名の水工技術者を招聘しました。その中の一人ヨハニス・デレーケ(Johannis de Rijke,1842~1913)は、内務省御雇工師として、明治6年(1873)に来日し、日本各地の河川・砂防現場を巡視し、30年もの長期間にわたって、様々な技術指導を行っています(上林, 1999)。明治22年(1889)頃は淀川の河川改修の技術指導のため、大阪周辺にいました。明治22年紀伊半島水害直後の困難な時期に、徒歩で高野山から尾根道を通って奈良県と和歌山県の視察調査を行っていますが、このことは今までほとんど知られていません。

1)  奈良県側の現地視察
 『吉野郡水災誌』(1891)によれば、デレーケらは明治22年(1889)9月初めに高野山に宿泊し、翌日から十津川流域に入っています。しかし、視察後具体的にどのような報告をしたのかは分かっていません。
9月6日(北十津川村:吉野郡水災誌・巻之四)
 農商務省農務局次長の片山遠平、内務省土木局のオランダ人技師デレーケ及び、奈良県収税長の磯貝信行、同収税所属杏百太郎、和歌山県所属田中正堅らが、被害調査のため、高野山より字赤谷嶺を経て、北十津川村谷瀬にやってきました。
9月13日(大塔村:吉野郡水災誌・巻之弐)
 オランダ人技師デレーケらは、一旦北の大塔村(現五條市)に向かいました。
9月16日(南十津川村:吉野郡水災誌・巻之八)
 デレーケや奈良県職員らは、被害実況調査のために、北十津川村に戻ってから、南十津川村役場にやってきました。翌17日には西十津川村に向かいました。

2) 三栖村の西尾岩吉村長とデレーケの田辺周辺の現地視察
 三栖村(現田辺市)の村長を務めた西尾岩吉(1854~1894)の『西尾岩吉日誌(弐号、三栖村文書)』によれば、デレーケと秋山書記官らが富田川水源を視察した際に随行したことが記されています(田辺市立図書館で西尾岩吉日誌を閲覧・コピーしました)。地図師(画工)の榎本全部(1830〜1920)も現地調査を行い、秋津川や芳養川はやかわ流域の詳細な被災絵図『明治22年災害の絵地図』(4枚)を測量し、作成しました。西尾岩吉村長は、明治22年(1889)災害の状況とその後の復興計画について、詳しく日記に書いています。彼は災害以前からデレーケの評判を知っていました。
8月18日(日)風雨
 本日午前ヨリ東風頗ル強ク大雨間断ナシ。・・・此夜新築セシ三梄小学校倒壊ス。
8月19日(月)風雨
 風雨尚止マス、東風ヨリ南風ニ轉シ亦西南西ニ變ス・・・午前十時比ヨリ大雨益々烈シクナリ恰モ盆ヲ覆ヘスガ如ク、河水漲溢橋梁悉ク流失シ、堤防川除本村ノ九分余ハ決壊シ、家屋ノ流亡倒壊浸水数多ク、大字上三栖同中三栖同下三栖ノ平坦ノ地ハ或ハ流亡浸水ノ害ヲ免レザルハナク、山々倒潰スル者何千箇所ト云ヲ知ラズ。道路ノ往来忽不通トナル。古老ノ未曾見聞セザル所ノ大洪水ナリト云う。午後三、四時ノ頃ヨリ雨止ミ河水少シク減水ス。夜ニ至リ亦降リ出シ其勢甚シク昼間ノ降雨ニ比スレバ、尚数層上ニ出ツ。凡ソ今夜寝ニ就キタルハ稀ナルヘシ。水勢ノ音、山岳崩潰スル響キ等夥シク天地震動シ暗黒咫尺ヲ辯セス人皆慓然トシテ死地ニ入ルノ思ヒヲ為シ安キ心アル者ナシ。此晝夜ノ雨量ハ實ニ空前絶後ノ雨量ニシテ蘭人デレーケ氏ノ説ニヨレバ、今回ノ雨量ハ世界萬国ニ於テ其ノ比ヲ見聞セズト以テ其大洪水タルヲシルベシ。
 今回ノ大洪水ハ和歌山縣全管下及び奈良縣芳野郡十津川郷ニ渉リ是内最モ甚シキハ西牟婁郡及十津川郷ニ於テモ冨田川筋三栖川筋秋津川筋ヲ最トス・・・
 三栖村被害ノ概況 流失戸数十七戸倒潰五十戸内外 床上戸数十戸餘・・・
 大字中三栖ニ於テ家屋埋没ノタメ壓死者三人ノミナリシハ不幸中ノ幸ナリキ。山々崩潰セシモノ大小ヲ合セテ幾千ト言フ丁ヲ知ラズ。・・・
 冨田川筋等ハ其ノ災害数層ノ上ニ出ツ。

8月20日(火)曇天
8月21日(水)曇天
 被害状況具申ノタメ宇井助役冨家勘七・・・等ト同伴郡衛ニ出頭シ秋山郡長及び第二課長ト面会ス。終ッテ扇ガ濱ニ出テ一見スレバ家屋及根引木人畜ノ浮漂スル者幾百ナルヤ図ルベカラズ。夫ヨリ宇井・梅田ノ両氏ト動向、喜多野ニ至リ昼飯ヲ喫シ、田辺市街ノ惨状ヲ見テ帰ル。此ノ日ノ天晴タリトイエドモ、諸所ニテ道路破壊シ橋梁流失シ水流變シ濁水尚甚シク減ズルニイタラズ。道路泥濘通行最モ難ス。
8月22日(木)曇天
 大字中三栖尋聲寺ニ於テ村會議員及重立タル者集會ヲ開ク。會開午後二時閉會同六時ナリ。・・・
村長西尾岩吉、助役宇井茂一郎、収入役梅田儀代吉臨席
 一、此度ノ水害ニ付本年ヨリ向フ五ヶ年間三栖村一般倹約法ヲ立テ左ノ條確定ス。
 一、三栖村人民ハ之ヲ遵守スへキ義務ヲ有ス。
村中倹約法
 一、祭典御湯神樂ニ止ムル事
 二、村民宮・寺等へ集合シテ飲食スル事ヲ禁ズ。
 三、念佛講ヲ除クノ外講日待等ノ際飲食スル事ヲ禁ズ。
 四、葬式ノ際門酒ヲ出ス事ヲ禁ズ、
 五、伊勢参宮ノ際酒迎ヒ及ヒ参宮人ヨリ餅ヲ配リ祝宴ヲ開キ客ヲ招ク之ヲ禁ズ。
 六、年忌之際其廣告ト共ニ配リ物ヲスル事ヲ禁ズ。
 七、初佛ノ家ニ提燈素麺等ヲ贈ル事ヲ禁ズ。但シ親戚ハ此ノ限リニアラズ。
 八、初佛ノ節百八明(タイ)ヲ點スル事ヲ禁ズ。
 九、正月旧盆共ニ物ヲ贈輿スル事ヲ禁ズ。
 十、普請悦ト称ヘ家屋ヲ新築スル家ヘ物ヲ贈ル事ヲ禁ズ。
 十一、氏神、旦那寺ヲ除キ他ノ神佛等ノ勤家ヲ断ハル事。
 十二、伊勢、熊野等新礼ヲ配ル事を禁ズ。
 十三、弔ヒ悔ミ等ニ際シ香典奠ヲ贈ル事ヲ禁ズ。但シ親戚ハ此ノ限リニアラズ。
 十四、葬式ノ節僧侶ニ酒ヲ進ムル事ヲ禁ズ。
 十五、表付ノ下駄・絹張リノ蝙蝠傘ヲ用ユル事を廃ス。
以上他村ニ干渉スル時ハ三栖村ノ定メニ従フ。
 一、當日ヨリ本年末マテ日雇賃金左ノ如クサダム
 一、男一日  拾銭


8月23日(金)曇天
 大字上三栖ヘ出張
 上三栖人民惣集會ヲ開ク。會場羽竹円蔵宅。
 廿二日ノ村定メノ事ヲ陳告ス。開會午後一時閉會同五時ナリ
 一時大字上三栖定メ
 一、 山崩レ一人の地所ニ入リタルモノハ設令地所ヲ侵害スルモ其樹木ハ山持チノ所有
  トスル事
 一、 洪水ノタメ河線ノ變動ヲ生シタル時ハ旧川ニ樹木等アリテ却テ新川路ニナリタル
  地所ニ樹木ナシ此等ハ新川路に變シタル地所ニ関係ノ者ノ協議ノ上、旧川ニアル樹
  木ヲ分チ取ル事ニ決ス。
  此日宇井助役井上巡査ト同行、大胆山ノ裂目及番平ノ被害ヲ見聞ス。

8月24日(土)曇天
 大字中三栖ニ出張
 中三栖人民惣集會ヲ開ク。會場尋聲寺。
 二十二日ノ村定メノ事を陳告ス。開會午後一時閉會同六時ナリ
 一時大字中三栖定メ
 一、大字中三栖ニアル三栖川筋小川谷筋ハ川ニアルト田圃ニアルトヲ論セス。全テ石ヲ
  拾フ事ヲ禁ズ。但此石ハ堤防及井堰等ニ宛ル筈。
 一、其他ノ谷々ニアル石ハ其両岸ノ地主之ヲ拾フヘシ。
 一、山崩レ他ノ地所ヲ侵害シタル時ハ其の土石ト共ニ落チ来リシ樹木ヲ山ノ持主ト侵害
  ヲ被リシ地主ト両分シ、土石ハ其ノ侭放棄スルモノトス。


 デレーケは、9月17日〜27日頃まで奈良県十津川村地域の被災地を視察し、9月30日に県境を越えて、和歌山県側に向かったようです。

9月30日(月)晴:
 荒地調査正委員ヲ招集シ取調方ヲ協議ス。内務省御雇工師和蘭人デレーケ氏及秋山書記官、其他土木課吏員数名、山本郡書記其他、慈幸儀平・栗栖市太郎随行シ、二等河川堤防巡視ニ付、富田川水源ヲ視察スルタメ三栖村通行、大字下三栖ニ迎謁シ、被害ノ件ニ付、秋山書記官ノ質問ニ応シ、長野村大字上長瀬水ヶ峠マテ随行ス
10月8日(火)晴:
 画工榎本全部水害地図調整ニ付、実地ニ就キ取調ベス、梅田収入役立会ス。長野収入役南氏及那須梅吉来場。榎本書記救助米ノ件ニ付、正午ヨリ出町郡衙ニ出頭ス。大字下三栖旧下組ノ貧民十余名救助願ノタメ出場。種々説諭ノ上、退散セシム。

デレーケは水害の原因を以下のように述べています。
「其初薄々の雲海洋に起こりて、黒風之を送り、幾んど十里郡日高川の海口を劃り、東西に向て進行せり。これに雨を含むこと頗る多くして、太だ重きが為に、高く騰るを得ず。故に東西牟婁二郡の間に峙ち、海面を抜く事三千八百七十尺(1161m)なる大塔峯に、右の一角を障えられ、前面は奈良県に聳えて四千尺(1200m)なる釈迦嶽に遮られ、直行突進能わず。雲将その神鞭鬼取の意の如くならざるを怒り、縦横顚狂噴瀉して遂に二処に近接の関係ある大和の十津川、我紀伊の日置川・富田川に災すること甚し・・・・」(明治大水害誌編集委員会,1989,『和歌山県水害記事』)。

5.田辺市右会津川周辺の現地見学会
 図2は、今回の現地見学会のために秋山が作成した会津川(秋津川)周辺の現地見学会のコースを示した平面図で、以下のタイムスケジュールで現地見学会を行いました。 ①秋津野ガルテン集合 10:30→②奇絶峡付近の大規模崩壊地と上秋津風穴 11:00〜13:20 →③左向谷の石積堰堤 13:40〜14:20→ ④槇山の大規模崩壊地と長野風穴 14:40〜15:30 →⑤宿泊施設(日高川町美山温泉愛徳荘) 17:00(夜小集会、翌日の現地調査箇所の紹介)  
図2 会津川(秋津川)周辺の現地見学会のコース案内図(秋山 晋二作成)
図2 会津川(秋津川)周辺の現地見学会のコース案内図(秋山 晋二作成)
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① 秋津野ガルテン
 田辺市立上秋津小学校の跡地で、平成20年(2008)11月に地域住民が出資し誕生させた、都市と農村の交流を目指したグリーンツーリズム施設です。校庭内には地元のお母さん方がつくるスローフードバイキング料理を提供する農家レストランや宿泊施設、お菓子工房や旧木造校舎を活かした体験棟、地域のみかん作りの歴史を紐解いたみかん資料館があります。

② 奇絶峡付近の大規模崩壊地と上秋津風穴
 右会津川の明治22年(1889)災害の大規模土砂災害地点の上流部には、「奇絶峡」と呼ばれる景勝地があります。河口から7kmの地点で約2kmに亘って右会津川に沿って絶壁が差し迫り、奇岩や巨岩が立ち並びます。沿道には桜が植えられており、秋の紅葉とともに名所となっています。右会津川は、上流の秋津川地区ではなだらかな山間を穏やかに流れていますが、奇絶峡区間では両側の谷壁が急に迫っており、特異な渓谷美を見せています。また、両側の谷壁から転げ落ちたと思われる巨大な転石が多く存在します。
図3 西牟婁郡秋津三ヶ村洪水災害之絵図(榎本全部作;上会津愛郷会蔵)
図3 西牟婁郡秋津三ヶ村洪水災害之絵図(榎本全部作;上会津愛郷会蔵)
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 図3は、絵地図師・榎本全部が描いた右会津川(秋津川)流域の土砂災害・洪水氾濫分布図です。①は旧田辺市街地で、②地点に北から流入してくるのが、左向谷で、デレーケ堰堤と呼ばれる巨石積堰堤などが存在する渓流です。右会津川中流部の③に高尾山の大規模崩壊地(深層崩壊)が右会津川の左岸側に存在します。右岸側にも少し規模の小さな崩壊地が存在します。図2の現地見学会コース案内図と比較すると位置関係が良くわかります。
 これらの崩壊地は、明治22年(1889)8月19日18時頃、右会津川の左岸斜面で長さ720m、幅540mの範囲が大規模な地すべり性崩壊(深層崩壊)を起こしました。右会津川の右岸側斜面も大規模崩壊し、挟み撃ちとなって、天然ダム(高さ15m,湛水量19万m3程度)が形成されました。この天然ダムは3時間後の21時頃に決壊し、多量の土砂を巻き込んで、田辺市の市街地付近まで流下し、田畑・道路・人家を埋没させ、多数の犠牲者を出しました。これらの土砂移動現象が図3には、詳しく表現されています。
 写真2は、昭和22年(1947)11月05日撮影の米軍写真M629,47〜49の立体視写真で、図2のコース案内図とほぼ同じ範囲を示しています。写真3は、昭和51年(1976)年2月05日撮影の国土地理院写真CKK75-15, C&-15〜17で、右会津川の奇絶峡付近の立体視写真です。
写真2 1947年11月05日撮影の米軍写真 M629-47〜49(縮尺1/43,914)
写真2 1947年11月05日撮影の米軍写真 M629-47〜49(縮尺1/43,914)
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写真3  1976年2月05日撮影の国土地理院写真 CKK75-15, C&-15〜17(縮尺1/10,000)
写真3  1976年2月05日撮影の国土地理院写真 CKK75-15, C&-15〜17(縮尺1/10,000)
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 「風穴」とは、地下のトンネル状の空隙のことで、夏~秋季には冷風(冬~春季には暖かい風)が吐出します。「蚕種貯蔵風穴」は全国各地に分布しており、大正初期の最盛期には全国で300ほどの風穴が営業していました。駒澤大学非常勤講師・清水長正氏は、日本国内の風穴を研究しています(清水・澤田(2015)。大正期に全国の蚕種貯蔵風穴を調査した『蚕業取締成績』(農商務省農務局,清水長正氏蔵)があります。清水(2019)によれば、和歌山県内には「高野風穴」(高野山町)、「龍門山風穴」(紀の川市)、「熊野風穴」(日置川町)の3箇所が、蚕種貯蔵風穴として記録されています(奈良県内は0)。蚕業取締成績には記されていませんが、新宮市高田地区の「口高田」「相賀」(後,1985)、田辺市大塔地区の()(もり)」の風穴については、地元の方の案内で現地調査を行い、清水氏が自記温度計を設置して、2016年11月〜2019年3月に風穴の温度を測定しました(図4参照;清水長正提供、上秋津風穴にも自記温度を設置しましたが、うまく作動しませんでした)。
 夏季に冷気が得られることから、現在でも地域のクールスポットとして脚光を浴びているところもあります。前面に小屋を設け、天然冷蔵倉庫として利用している箇所もあります。一般に電気が普及していない明治・大正期には、蚕種(蚕の卵)を風穴に貯蔵し、孵化を遅らせて、養蚕期間を秋期まで延長させる手法が定着していました(生糸が横浜に送られ、絹製品が貿易産品となりました)。
 地下の空隙は、当然、地形条件や表層地質条件に支配されています。地すべり地形や崖錐斜面にあることから、土砂移動に関連した地形です。また、岩盤の開口節理が風穴となっているところもあり、岩盤が移動する予兆現象を見せている可能性もあります。風穴と土砂災害との関係は現時点では把握できていません。
 写真4は、平成30年(2018)年3月20日に撮影した右会津川の奇絶峡付近の河谷地形を示しています。この写真の左側の急斜面の上に、図2に示した巨大崩壊地形上秋津風穴があると地元の方に案内して頂きました。全員で上秋津風穴まで登り、風穴の内部に入りました。上秋津風穴付近は、巨大な岩盤崩壊(深層崩壊)の内部で、周囲には巨大な転石が多く分布しています。斜面の中腹には旧発電所の水路跡に沿った道があり、そこまでは徒歩道がありますが、そこから風穴までは岩場をよじ登りました。
図4 2016年11月21日〜2017年12月15日間の 木守風穴の温度変化(清水長正提供)
図4 2016年12月〜2019年3月の 木守風穴の温度変化(清水長正提供)

写真4 右会津川の奇絶峡の河谷地形(2018年3月20日 井上撮影)
写真4 右会津川の奇絶峡の河谷地形(2018年3月20日 井上撮影)

写真5 上秋津風穴の入口と縦割れ亀裂の下に風穴がある(2018年11月30日井上撮影)
写真5 上秋津風穴の入口と縦割れ亀裂の下に風穴がある(2018年11月30日井上撮影)

写真6 上秋津風穴の割れ目に沿って下に降りた清水長正氏と井上(2018年2月22日)
写真6 上秋津風穴の割れ目に沿って下に降りた清水長正氏と井上(2018年2月22日)

 また、4月26日には、左向谷の石積堰堤を見学してから、左向谷と右会津川の間の尾根部の細い農道を登って、上秋津風穴を上から降りて見学しました。
 写真5は、上秋津風穴まで登って風穴の入口と高さ5m以上の巨大亀裂を示しています。地元の参加者に案内して頂いて、清水長正氏と井上も風穴の中に入りました(写真6)。大正・昭和期には、貯蔵場所として使われていたそうですが、風穴内に人工構造物は見つかっていません。

③ 左向谷の巨石積堰堤
 ふるさと上秋津編集委員会(1984)『ふるさと上秋津―古老は語る―』「15 (せま)()の堰堤と護郷の碑」(p.38〜p.40,2009年秋津野マルチメディア班がWeb版として復刻)によれば、「右会津川の右支川の左向谷さこうたに流域も明治22年(1889 8月の豪雨時に激甚な被害を受けた。前日からの雨は降り続き、819日は1日中激しく降った。夜中を過ぎて、あちこちで山崩れが起こったので、子供をおんぶして、お年寄りの手をひいて、泥水の瀬をわたって、近所の安全な家まで避難した。夜が明けてみて驚いた。家は傾き、物置や牛屋は流されてしまった。家の中はみな流されて、砂や石が一杯たまっており、平和な里が一夜で地獄と変わった。その時亡くなった方が、秋津でも6070人もあり、流れた家はその4倍もあったであろうか。
 この災害は秋津にとっては未曾有のもので、河川の復旧工事は郷土の人総出で行われた。県や国も大変力を入れて、紀南で一番大きかったのが迫戸の巨石積堰堤であった。東西両方の山裾を掘り割って、三十米
30m)あまり下から大きな岩を並べ、表側と裏側から堤防のように積み上げて二十幾米、どの岩をみても何トンもあるものばかり。日本人技師だったらこんな大工事は出来なかったであろう。国の方でオーストリアの土木技師(デレーケならオランダ?)に設計させ、愛知県か岐阜県の人を付けてくださったので、この大工事が完成した。
 それから
90年(1984年が発行年)もたった今、紀州一を誇った迫戸の石積堰堤も土砂で埋まって、広い平地ができた。石積堰堤も飛び散る水のため、大きな岩にはいつのまにか、くぼんだところができた。私達は先祖が残してくれたこの大堰堤を見守って、昔のみじめさを繰り返さぬよう、補強工事もし、修繕もして、永く子孫に伝えねばなりません。
 お年寄りから教えられて私のなぞがとけました。この小さな左向谷に国民も県民も市民も注目して頂いたお蔭で、迫戸の堰堤より上流にも数箇所に砂防堰堤が出来て、山崩れや水害を防ぐことになりましたが、これだけで安心はできません。昭和
47年(1972)から多くの国費と県費を使って、5つの砂防堰堤が建設されました。これらの砂防堰堤で堰き止められた土砂は、奥地に大地すべりが発生しない限り、百年間は大丈夫だと言われています。昭和56年(19814月、すべての砂防工事が終了したため、「護郷之碑」が建立されました。」
 上記の左向谷の砂防施設について、和歌山県砂防課に問い合わせたところ、「昭和47年(1972)〜昭和56年(1981)に施工した施設の砂防台帳はあるが、明治期に施工された巨石積堰堤は砂防台帳に記載されていない。」とのことでした。 
写真7 迫戸の巨石積堰堤
写真7 迫戸の巨石積堰堤
下部は河川施設としてコンクリート補強
(2018年4月16日井上撮影)
写真8 補強したコンクリート堰堤から巨石積堰堤を望む
写真8 補強したコンクリート堰堤から巨石積堰堤を望む
(1t以上の巨石が多く使われている空石積)
(地上部は5m位だか、下に5m位はあるであろう)

 平成30年(2018)4月16日に、地元の農家・原和男様(『ふるさと上秋津―古老は語る―』の編集委員会代表)などに案内して頂き、左向谷の迫戸の巨石積堰堤などを現地調査しました。写真7,8はその時に撮影したものです。
 写真9は、平成30年(2018)11月30日の現地見学会時に撮影したもので、河川水は石積堰堤の上を流れず、伏流していました。参加者の姿から見て、石積を構築した巨石の大きさが判ると思います。  
写真9 迫戸の巨石積堰堤(積み上げた巨石の大きさが判る,2018年11月30日撮影)
写真9 迫戸の巨石積堰堤(積み上げた巨石の大きさが判る,2018年11月30日撮影)

写真10 対岸から見た迫戸の巨石積堰堤
写真10 対岸から見た迫戸の巨石積堰堤
(2019年1月29日上森撮影)
写真11 巨石積堰堤の上を慎重に登る参加者
写真11 巨石積堰堤の上を慎重に登る参加者
(2018年11月30日井上撮影)

写真12 迫戸堰堤の巨石からなる天端部
写真12 迫戸堰堤の巨石からなる天端部
写真13 左岸側から見た巨石積の迫戸堰堤
写真13 左岸側から見た巨石積の迫戸堰堤
2018年4月20日原和男撮影

写真14 護郷之碑(和歌山県知事 仮谷志良書)
写真14 護郷之碑(和歌山県知事 仮谷志良書)
(2018年4月26日井上撮影)
写真15 護郷之碑の背面(建碑竣工1981年4月)
写真15 護郷之碑の背面(建碑竣工1981年4月)
明治堰堤、明治41年(1908)完成と書かれている

 写真10は、2019年1月29日に上森安が対岸から撮影した迫戸の巨石積堰堤です。迫戸巨石積堰堤は、河川事業として施工されたコンクリート護岸工の下にも存在するので、規模はかなり大きいと判断されます。写真11は、11月30日に井上が撮影したもので、巨石積堰堤の上を慎重に登る参加者を示しています。写真12,13は、原和男が2018年4月20日に撮影した迫戸堰堤で、天端部分の巨石積の状況が良く判ります。
 左向谷を少し上流に行くと、いくつかの練石積堰堤やコンクリート堰堤があり、写真14,15のような「護郷之碑(和歌山県知事 仮谷 志良書)」(建碑竣工 昭和56年(1981)4月)がありました。護郷之碑の背面には、左向谷に建設された11基の砂防堰堤の名称と完成年が示されています。最初に記載されている「明治堰堤(恐らく迫戸の巨石積堰堤)」は、明治41年(1908)完成と記載されています。デレーケが田辺周辺にきてから18年後に完成ですので、デレーケが迫戸の巨石積堰堤の建設を直接指示したとは考えれられません。しかし、真砂市長の話によれば、田辺市周辺には多くの石積堰堤が存在するので、きちんと調査をする必要があります。

④ 槇山の大規模崩壊地と長野風穴
 3項で述べたように、左会津川の槇山では、20日4時頃、左岸側斜面が長さ900m、幅540mの範囲が大規模な地すべり性崩壊(深層崩壊)を引き起こし、天然ダム(高さ20m,湛水量40万m3程度)が形成されました。この天然ダムは、5時間後の20日9時に決壊し、多量の土砂を巻き込んで下流に流下しました。天然ダムの決壊で、下三栖地区では1.5mもの土砂が堆積しました。
 槇山の大規模崩壊の南側には、「長野八幡神社」があり、社務所の中に図5に示した『長野八幡神社絵図』(長野八幡神社蔵)』がありました。この神社は明治22年(1889)災害の前は、この崩壊地の下部斜面にありましたが、8月20日の大規模崩壊の前から地すべり変動が始まりました。この絵図は、神社の宝物を数人の人達が背負って安全な場所に避難させている状況を描いたものです。右下には下記の説明文があります。  
図5 『長野八幡神社絵図』(長野八幡神社蔵)
図5 『長野八幡神社絵図』(長野八幡神社蔵)
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写真16 県道216号線に面した長野風穴 
写真16 県道216号線に面した長野風穴
(県道拡幅時に風穴はかなり埋められた)
写真17 斜面防災ネットの奥に風穴がある
写真17 斜面防災ネットの奥に風穴がある
2018年11月30日井上撮影 

「西牟婁郡長野村大字上長瀬 村社 八幡神社水害記
凡ソ宇宙災害アルハ古ヨリアリト雖モ 殊ニ明治二十二年八月ノ水害は甚大 アタカモ盆ヲ覆ヘスガ如クニ 昼夜風雨車軸ヲ流シ 心謄シントウヲ寒カラシメタリ
我県下災危ヲ受ケタル事 古今未曾有ニテ 茲(ココニ当村社鎮座シ給ウ地ハ字沢ノ口ニアリ 樹木欝蒼ウッソウトシテ古来ヨリノ名地メイチ□□□ シカレドモ豪雨ノ為 殆ど危ク人ニ如何□□□□神霊ヲ奉ジ移サント □□氏□□□危難ヲ浸シ霊ヲ□□□□□□□□ 翌二十日天地一時震動シ□□□□ミナギリ戦々競々トシテ生ケル心ナカシトゾ時 牧山(槇山)ハ大崩壊シ 河水氾濫シ田畑ハ流レ 道堤皆無 実ニ悲傷ヒショウ惨澹サンタン 筆紙ヒッシツクス所ニアラズ 当時神霊ヲ奉ジ帰リシ□□七名ニシテ 一名ノ溺死者ナカラシハ 氏神ゴ加護ナラシ手 後年降雨ヲワズラヒ 今ノ布瀬谷ノ山鎮座シ給ウ 因テ此ニ水害ノ大畧タイリャクヲ記ス)」
  図2に示したように、「長野風穴」が槇山の大崩壊地の少し北側にあります。長野風穴は1箇所ではなく、左会津川の崖錐斜面に沿って、数箇所あったようです。和歌山県西牟婁長野村・長野高等尋常小学校編(1936)『長野村郷土史』の「刀落(洞窟)」には、以下の記載がありました。
 「本村大字上長瀬小字大倉山中にあり洞窟の口径約6尺(1.8m)、深さ40尺(12m)に及べりと。昔(年代不詳)一人の落武者来りて、之の洞窟に刀を落としたれば之の名を得たりと。深さは俗に上秋津村を流るゝ會津川に貫通せりと云ふ。付近に小柴叢生して口穴より冷風逆上し来ると。約五間(9m)位斜めに通じたれば入るを得れども、夫れより急に直下したれば降ること能わず。国に近来風穴として蚕種貯蔵所たらしめんとせしが計画、次に効をなさずと。」
 写真16と17に長野風穴の写真を示しましたが、県道拡幅工事前にはもっと多くの風穴がありましたが、拡幅工事などによって埋められてしまった箇所も多いようです。

引用・参考文献
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