1. 昭和28年(1953)の昭和紀伊半島災害
昭和28年(1953)7月17日〜18日の災害は、有田川の中・上流域で大規模な土砂災害を発生させたため、
「有田川水害」と呼ばれることが多いのですが、図1に示したように、和歌山県・奈良県のほぼ全域で、土砂・洪水災害が発生しているので、
「昭和28年紀伊半島災害」と呼ぶべきだと思います。特に、有田川上流では深層崩壊、天然ダムが多数発生・決壊し、大きな被害が発生しました(和歌山県編,1963;和歌山県伊都郡花園村,1982;藤田・諏訪,2006)。近畿各大学連合水害科学調査団(1953)によれば、有田川流域だけでなく、和歌山県中・北部で激甚な土砂・洪水災害が発生しました。
河南ほか(2017),吉村ほか(2018)によれば、有田川上流域だけでなく、有田川中流域の清水町(現有田川町)の清水・二川地区でも激甚な土砂・洪水災害が発生しました。
和歌山県内で、死者・行方不明者1066人、重軽症者6619人、家屋の全壊4193戸、流出4407戸、罹災者は24万人にも上りました(近畿各大学連合水害科学調査団,1953)。災害を引き起こした豪雨は、17日19時頃から降り始め、18日早朝まで降り続きました。有田川上流域では18日3時〜5時頃が最も激しく、総降雨量は500〜1000mmにも達しました。
武田ほか(1954)によれば、有田川上流のかつらぎ町・旧花園村を中心として、豪雨の集中地区があったとしています。旧花園村には雨量観測点がないので、金剛寺集落の住民の「飲料水が不足することを予想し、戸外にバケツ(直径30.5cm,高さ27.6cm)を出すと2時間ほどでバケツから水が溢れていた」という証言から、時間最大雨量は100mm/時、総雨量は1500mm程度であったと推定しています。
表1は、昭和紀伊半島災害の和歌山県内の都市・郡別被害状況を示しています。図2は、和歌山県の都市・郡別死者・行方不明者数を示しています。有田郡で525人、日高郡で318人、伊都郡で191人、和歌山県合計で1066人にも達しました。住居被害では、全壊・流失の合計で、有田郡で3976戸、日高郡で2985戸、伊都郡で283戸、和歌山県合計で8600戸にも達しました。
図1 昭和紀伊半島災害の被害状況
図2 昭和紀伊半島災害の都市群別死者・行方不明者数
(近畿各大学連合水害科学調査団,1953)
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表1 昭和28年紀伊半島災害の被害状況(近畿各大学連合水害科学調査団,1953)
2. 明治22年(1889)8月17日、18日の美山村周辺の大水害
美山村史編纂委員会編(1995)
『美山村史,通史編,上巻』によれば、日高川は旧龍神村(現田辺市)の護摩壇山(標高1372m)を水源地として紀伊水道に注ぐ日本一長い二級河川(流路長127km,流域面積651.8km
2)です。美山村の日高川は、典型的な外帯河川の特徴を示し、穿入蛇行谷でしかも急流であることは、この地域の隆起運動の激しさを物語っています。日高川の谷底は、砂礫の堆積した川原となっています。
椿山ダム(堤高56.5m,総貯水量4900万m
3,昭和55年(1980)着工,昭和63年(1988)完成)ができて、河水の調節をするようになったため、自然な河川地形が見られなくなりました。日高川には
河成段丘が発達し、美山村付近の低位段丘は2万〜3万年前、中位段丘は5万年前以降、高位段丘は12〜13万年前の河底が隆起したものと考えられています(辻村,1926)。
美山村史編纂委員会編(1995)
『美山村史,通史編,下巻』によれば、明治22年4月1日の町村制の施行にともなって、
川上村と寒川村が発足しました。その後、昭和31年(1956)3月31日に川上村と寒川村は合併して、
美山村が発足しました。
明治22年(1889)8月17日、18日の
明治紀伊半島災害で、美山村(当時は川上村と寒川村)などの日高川中・上流域は、激甚な土砂災害・洪水被害を受けました。日高川本流の水位は、大字串本下村で最高15.5mの水位を示し、寒川谷では朔日川(土居)で6.4m、小籔川(下坂)で7.3m、西野川(高野)で5.5m、寒川本流(高野)で8.2mの増水を記録しました。寒川村は、隣村川上村や山路峡に比べると被害は少ない方でしたが、田畑の流失は甚大でした。家屋の流失全壊は26戸(寒川13戸、串本13戸)、死亡者は3名(男2名、女1名)、朔日男子1名、下小籔川2名(男1名、女1名)となりました。地すべり・山崩れ・土石流によって、日高川と支川は氾濫し、道路はズタズタに寸断されました。串本では日高川本流の増水が川岸の耕地・家屋を破壊し、上村の笹、下村の小滝浦、初湯口の被害が特に大きくなりました。田畑の流失は今までになく大きく、水田流失50.5町(61%)、畑5.67町(11%)、宅地1.15町(16%)に達し、その復旧には実に20年の歳月がかかりました。
沖野岩三郎(1876〜1956)は和歌山県生まれで、明治学院大神学科卒、和歌山県で伝道中に大逆事件に巻き込まれました。1917年大逆事件をモデルとした小説
『宿命』が大阪朝日新聞の懸賞に当選、1918年上京して芝三田統一基督教会の牧師となり、宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童読物、通俗小説のほか
『娼妓解放哀話』で知られています。沖野は
『混沌』(1919)で、明治大水害の実情について、次のように記しています。
「天の底が抜けたかのように、寧る落ちて来るのが適当な言葉だと思うほど雨が降った。信次(沖野岩三郎自身がモデル)は小割松に火をつけて、雨戸の隙間から外を覗いてみたが、雨は白い丸太の様に条になって降った。雨だれ落ちは軒口から大きな巾の廣い一枚の蓆を吊したように細い白線が何百となく棒のように立っていて、庭一面には泥水が波を打って流れていた。天も地も悉く勢いを得て猛り狂った。木や草は悉く虐げられて叫び吠えた。開闢以来何百年の間土中に深く埋められていた怪物が、一度に鬨の声をあげて、岩を押分け土を揆ねあげて、山から野から川の底から真黒い恐ろしい顔を闇の中に突出してきて、山を掴み、峰を揺ぶって喜ぶように思われた。」
寒川村では、災害のため失業し、米を買う金にも困っている村民のために、復旧土木事業を起こしました。国庫及び県費救済交付金を原資として、1885円55銭を計上し、道や橋を復旧しました。さらに、日雇い賃金収入を村民に与えるため、県道滝山道路改修工事に、734円22銭(半額県費補助)を投入しました。大字寒川足谷口より、下流字滝山通り下山路村境までの道路及び橋梁工事でした。
沖野(主人公・信次)は災害当時13歳の少年でしたが、寒川村の委員たちの賄係として採用されました。大字寒川惣代人監督は井川善一郎で、惣代人(調査委員)の就業時間は午前7時に始まり午後9時に終わり、夜課日当及び賄料は支給されませんでした。賄係の沖野は、各委員日当の中から食料品を購入して食事を提供しました。
「郡役所からも県庁からも役人達が視察に来た。そして、被害地の租税免除額を出す為に、10何名の委員を選んで、田畑の流失浸水堤防崩潰の実地調査をする事になった。河内神社という氏神の拝殿を事務所にして、村での算筆のたつ人達が15、16人も集まって、毎日部署を定めて調査に出かけ、夜になると其丈量してきた段別の計算をした。信次は其人達の炊事係に雇われて、ご飯を炊いたり味噌汁を沸かしたりした。斯うして晝夜働く委員達の手当は食費共で平均20銭であった。信次は1日米5合の外に日当4銭づつ貰っていたのである。」。
明治22年(1889)頃の労務賃金は、庄屋4銭、横3銭、飛切2銭、上等1銭5厘、中等1銭、
竝5厘、小庄屋(帳簿会計係)2銭でした。賃金がなく食事だけ支給の人もあり、女子は男子の半分が標準でした。物価も安かったですが、村民のくらしが苦しかったことが、この賃金でよくわかります。
明治27年(1894)まで、引き続き災害復旧工事が実施されました。明治22年水害復旧工事4298円42銭(地方補助金半額)で、龍神街道と日高川の改修が行われました。これで一応災害復旧工事は終了しましたが、村民の生活の困窮は続きました。
3. 旧美山村(現日高川町)の昭和28年(1953)災害の惨状
日高川に流入する
弥谷川(流路長4km)は、弥谷奥の
洞に発して南流し、方向を南東に転じて美山村役場付近の鳥井原で日高川に合流しています。
激甚な被害のあった
彌谷地区は昭和28年(1953)災害当時、川上村でした。川上村と
寒川村は、昭和31年(1956)に合併して美山村が発足しました、このため、昭和28年災害の状況は、
美山村史などに詳しく記載され、写真1に示した
「供養地蔵尊」が昭和38年(1963)に、美山村によって建立されています。美山村は、平成17年(2005)に川辺町、中津村と合併して日高川町となりました。
吉田(2011)によれば、
「旧美山村(現日高川町,平成7年(2005年)5月に合併)では、139名の尊い人命を失ったが、特に死の谷といわれた弥谷(彌谷)の惨状は目を覆うばかりで、郷土の詩人、西川好次郎氏の2首『あの朝のこだまは悲し、子は親を呼び、子らを庇いて散りし人群れ』、『馳せつけて救いの手だて尽くしつつ散りにし人のこころ尊き』が刻まれる慰霊塔には今も香華の絶えることがない。弥谷での遭難者は86名(うち4名は救援に赴き遭難)であった。今の時代であればヘリコプターでの救出など手だては講じられたであろうが、大崩落が続く中、対岸で凝視する人々に別れのサインを送りつつ視界から消えた人々の心中は計り知れない。今でもこの地に立てば鬼哭啾々の気配が濃厚である。
昭和28年(1953)は春先から降雨の日が多く、特に6月は明けても暮れてもの雨模様で不吉な予感に慄えていたが、7月に入り夏型に戻り、稲作も順調で三番草も終わり、豊作を寿ぐ順気祝いに浮かれていた矢先のことであった。7月17日、運命の日を迎えたのである。
写真1 供養地蔵尊 昭和28年7月18日水害遭難者一覧
(昭和38年(1963)7月美山村建立) (2018年12月1日井上撮影)
図2 弥谷付近の昭和28年(1953)災害状況図(秋山作成),基図は地理院地図(1/25,000)
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この日は午後から雨脚が強まり、夕刻と共に雷鳴を伴った豪雨は破天荒な勢いで日高川流域全体を包み込み、18日未明には、山を呑み、川を溶かし、村々、町々に有史以来の惨禍をもたらしたのである。日高川の源流に位置する護摩壇山(標高1372m)では、年間雨量の1/ 3に当たる700mm が数時間の単位で記録した結果、野も山も人家も一蓮托生の大惨禍に巻き込まれたのである。母なる川・父なる山の荒廃に茫然自失の住民に追い打ちをかけたのは食料欠乏であった。山の手の安全地帯には多くの避難民や川止めになった上下流の住民が詰めかけ、パニック状態になったが、軍隊経験者による統率で平静を取り戻したと伝えられている。川原河は川上村の中心地(役場所在地)であった。川原河と対岸の皆瀬は人口の密集地ゆえ被害が集中していたが、彼我の間は日高川に阻まれているので、安否の確認に手間取ったのであった。電信電話、道路等のインフラが破壊されていたので、水位の減少を待って各地域に秘蔵している祭礼用の弓矢による矢文で消息を確認したのであった。
7月19日に各地域の情報が役場に集まり始めた。弥谷(彌谷)が全滅し、86名が死亡との知らせに気力も消え失せ、慟哭の余り失神者が続出したと言われている。矢文は次々ときて、一憂は一憂を生む。このような極限の中にも再建への若い息吹が芽生え、20日に青年達は非常連絡隊を立ち上げ、悪路を踏破して、県庁に急を告げたのであった。余りの被害の大きさに県庁内には緊張と戦慄が走り、進駐軍への救援要請となったようである。その願いは翌日には具体化したのであった。
21日午後5時頃、偵察を兼ねた米軍機が飛来し、川原河の上空で旋回し、食料と新聞を投下してくれたのであった。絶望に打ちひしがれていた住民にとって、地獄で仏とはまさにこのことで、遠ざかる機影に伏し拝んだものだと古老は語る。機上からみる日高川流域は、その後の県政を沈滞させる惨状を呈していたであろうが、断片的な写真しか存在しないのは残念至極である。ともあれこれが端緒で翌22日から本格的な救援が始まり、『寒川村誌』によれば、23日米軍機から米2斗入り39袋,24日3斗入り20袋,27日3斗入り40袋……等々克明に記録されている。
4.平成30年(2018)12月1日の現地見学会
平成30年11月30日(金)の田辺市奇絶峡付近の現地調査後、30日(金)の夕方、日高川町彌谷地区の区長・藤本賢一様のご自宅へ伺いました。藤本様に明日彌谷地区の現地調査を行うとともに、彌谷災害の状況を89歳の玉置昭様からお聞きしたいとお願いし、了解して頂きました。また、30日の夜には美山温泉・愛徳荘でミニ集会を行うので来てくださいとお願いしました。ミニ集会では、井上と秋山が今回の現地見学会の概要と彌谷災害の現在までの調査結果を説明しました。藤本様は、山本国次郎氏作成の
「山津波(水害)昭和28年7月18日当時迄の弥谷部落のイラストマップ」(図5参照)を持参して頂き、話をお聞きしました。
図2は、
弥谷付近の昭和28年(1953)災害状況図(基図は地理院地図1/25,000)で、現地見学会の前に秋山が何度か現地調査をした結果をもとに作成したものです。
写真2は彌谷集落入口の
慰霊碑です。旧美山村大字
愛川地内の遍照寺の中村弘明住職の話によれば、
「あの慰霊塔は、金剛峯寺座主歴代400世管長 大原智乗の作です。遍照寺の住職の先代(父親)が高野山にお願いして書いてもらったそうです。山村の慰霊碑に書くなどというのは、ないことですが・・・ 1世の弘法大師から続く、由緒ある方でもあります。寺の過去帳とは別に、この災害で亡くなられた方々だけの過去帳もありました。それだけ、大切に重要な記憶として残しておきたいと思ったのでしょう。法要の度にお経を唱えながら、ここに記されている方々、一人一人のお名前を呼んであげたいと感じています。」と言われました。
現在も毎年の慰霊祭の折には、中村住職が法要をおこなっています。この慰霊碑の刻みに黒の塗料を入れて、読めるようにしてあげたいと思います。
図3は、5万分の1地形図
「川原河」図幅(明治44年(1911)測量の旧版地形図で、旧川上村の中心地
川原河と
皆瀬を通る日高川の河谷から北北西の
彌谷付近を示しています。
彌谷集落は、川上村の役場のある川原河から細い山道を通って登っていった山の中腹に存在する平坦地などに存在する住民100人のかなり大きな集落でした。日高川の上越方には、明治40年(1907)9月に運用開始の
旧越方発電所がありました。児玉(1990)によれば、旧越方発電所は、和歌山県下で一番古い発電所(日本全体でも10番以内)で、和歌山水力電気株式会社が建設しました。その後、大正11年(1922)に京阪神電鉄(株)、昭和5年(1930)に合同電気(株)、昭和12年(1937)に東邦電力(株)、昭和17年(1942)に関西配電(株)、昭和26年(1951)に関西電力(株)と経営企業の変遷がありました。そして、昭和28年(1953)7月の紀伊半島大水害により、発電所は流失・大破という壊滅的な被害を受け、40数年間の運転の歴史を閉じました。その後、昭和31年(1956)12月に現在地に従来よりも出力を増して、新発電所が建設され、今日に至っています。
図3の地形図(1911年測量)によれば、旧越方発電所の送電線が権現峠を通って、尾根線沿いに彌谷集落の上を通過して白馬山脈の稜線を越えて、有田川の金屋方向に向かっているのが分ります。また、彌谷の谷沿いには鉱山があり、索道が尾根越えで建設されていたようです。彌谷集落は江戸時代から交通の要所として栄えていました。
図4は、5万分の1地形図「川原河」図幅(昭和7年(1932)測量)の旧版地形図で、彌谷集落の中心部を自動車道が通り、白馬山脈の稜線を越えて、有田川方向に続いています。この旧版地形図は、昭和28年(1953)災害当時の土地利用とほぼ同じだと思います。
写真3は、昭和23年(1948)3月4日に米軍が撮影した写真で、昭和28年(1953)災害以前の地形状況を示しており、彌谷の集落の存在する平坦面は古い地すべり変動の跡地だと分ります。写真4は、昭和28年(1953)12月14日に林野庁が撮影した写真で、災害直後の状況を示しています。写真5は、昭和38年(1963)9月5日に国土地理院が撮影した写真で、災害から10年後の状況を示しています。写真6は、昭和51年(1976)10月6日に国土地理院が撮影したカラー写真で、大規模な養鶏場が建設されています。
写真2 弥谷の慰霊塔(昭和28年7月18日災害),2018年12月1日井上撮影
図3 5万分の1地形図「川原河」図幅 明治44年(1911)測量
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図4 5万分の1地形図「川原河」図幅 昭和7年(1932)測量
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写真3 米軍写真 M793-182,183(1948年3月4日撮影),元縮尺:1/43790
赤丸地域が彌谷集落の位置する緩斜面
写真4 林野写真 山13 C65-145,146(1953年12月14日撮影),元縮尺:1/20000
写真5 国土地理院 KK-63-10X C6-15,16(1963年9月5日撮影),元縮尺:1/20000
写真6 国土地理院 CKK-76-8 C2-15,16(1976年10月6日撮影),元縮尺:1/10000
弥谷の模崩壊地の跡地の平坦部には、大規模な養鶏場が建設された。
12月1日(土)は、和歌山大学の後先生なども参加されて、彌谷地区の現地調査を行いました。この現地調査には、写真7に示したように、慰霊碑近くの駐車場で、89歳の玉置昭様に災害当時の状況をお聞きしました(足が悪く、耳が少し遠いということで、娘様の玉置玉緒様と甥の小畑貞夫(日高川町会議員)様に援助して頂きました)。藤本賢一様には、図5の山本国次郎作成の
「山津波(水害)昭和28年7月18日当時迄の弥谷部落のイラストマップ」を持参して頂き、この図を見ながら色々と話して頂きました(写真7〜9)。
このイラストマップの裏には、作者の以下のようなコメントがありました。
「皆さん、これが水害前までの弥谷部落の姿です。当時のふる里を残しておきたい一念から記憶を辿りながら今、パネルの上に再現する事が出末ました。弥谷の起源については何時頃からか詳しい事は解らないが、遙か遠く大昔前からこの地に私達先祖は暮らしていた事と思う。平地の少ない狹隘な部落は川口附近から高地まで、下組・中組・上組 の三つの集落に分かれ、大字弥谷を形成していた。広範囲に点在する部落ではあったが、とにかく平和な日々が続いていた。
併し、梅雨末期の集中豪雨により、平山頂附近から凄じい山津波が起り、別場所に避難した少数の人々を除き、下組から尾根道(タイラ横出)を通っての偵察、救援に向った4名も含めた、計62名(吉田(2011)によれば,死者86名)の方々が土石流の渦中に尊い生命を落とした。
第二次大戦の敗戦間もない復興途上の日本には、まだハイテク機器もない上、流域の交通も分断され、現在の様な救出活動はされず、大多数の人々が遺体も発見されず、行方不明のままになっている。その後、事故現場附近は下流への砂防ダムエ事施エにより、崩落土砂の自然流出がなく殆んど埋没、当時の状態に近いままの固定地形となっている。水害後助った残りの5家族は其の後下組に合流し、現在の僅か10戸足らずの部落となった。生き残った私達はこの惨禍,今後永久に後世に伝え残そう。 K.Y.」
図5 山津波(水害)昭和28年7月18日当時迄の弥谷部落のイラストマップ(山本国次郎作)
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写真7 熱心に説明される玉置昭様
写真8 和歌山大学の後先生など皆で議論した
その後、彌谷地区の集落の中心地で現在は大規模養鶏場となっている平坦地に車で向かいました。写真7で、玉置昭氏が指差している箇所の人家跡地の平地前(写真10)に止まりました。昭氏の話によれば、この家は彌谷地区の大規模土砂移動の範囲外で被災しませんでしたが、現在は離村しているそうです。弥谷川の南側の人家にいた身重の妊婦が弥谷の山津波(土石流)に気が付き、安全な場所に避難しようとしました。
しばらくすると、流出した土砂によって弥谷川が河道閉塞され、一時的に川水が流れなくなったので、対岸に渡ることができ、山の斜面をよじ登って先ほどの人家まで避難しました。その後、妊婦は無事に子供を産むことができ、子供様は現在も彌谷地区に住んでおられます。
図6 図5の弥谷集落付近の拡大図
写真9 妊婦が避難してきた人家の跡地で
無事に妊婦は子供を産むことができました
写真10 85名の尊い犠牲者を出した7月18日
弥谷の山津波(和歌山県水害記録写真集より)
写真11 南側の尾根部から養鶏場を望む
(2018年10月15日上森撮影)
写真10は、
『和歌山県水害記録写真集(1953年)』に挿入された災害直後の写真です。写真11は、南側の尾根部から彌谷集落の跡に建設された養鶏場を撮影したものです(2018年10月15日上森撮影)。
『美山村の沿革』(2005年4月)によれば、この養鶏場は昭和49年(1974)9月28日に着工し、昭和51年(1976)8月1日に完成(事業開始)したものです。当時美山村農協は赤字を抱えており、その解消を目的として養鶏事業が計画されました。この事業には和歌山県農協が支援し、被災地の土地権利者の強い要望(土地使用料としての 収入)もあって、実現しました。当時の美山村も雇用の創出が図れるとして協力し、実際に大勢の人が働いていました。現在は、有田養鶏農業協同組合が事業を引き継いでいます。
写真12 養鶏場の上部斜面にある崩壊岩塊を地質観察する和歌山大学チーム(12月1日井上撮影)
写真12は、養鶏場の上部斜面にある崩壊岩塊を地質観察する和歌山大学のチームです(2018年12月1日井上撮影)。山津波の土砂移動のあった沢の西側には
釈迦堂がありました。玉置昭氏には、沢沿いに釈迦堂の跡地まで登って頂き、災害前の釈迦堂の状況を話して頂きました。写真13に示したように、災害前はかなり立派なお堂がありましたが、山津波の土砂は東側の沢部を通り抜け、被災しませんでした。しかし、現在は廃堂となっています。
井原(1990)によれば、一般に釈迦堂と呼ばれていますが、旧来の名称は
「光明山法性寺」です。本堂はカヤブキ三間(5.4m)四面の建物でしたが、昭和28年(1953)災害後、本堂を取潰し、弥谷公民館(写真15)内に祭壇を造り、釈迦三尊像(写真16)が安置されています。
写真13 釈迦堂のあった平地(五輪搭などが残っている)
写真14 釈迦堂付近の墓地
釈迦堂は山津波の土砂を受けなかった。玉置昭氏にはここまで登って来て説明して頂いた。
写真15 弥谷公民館(この中に釈迦三尊像安置)
2018年12月1日井上撮影
写真16 釈迦堂(光明山法性寺)の釈迦三尊像
2019年2月2日小畑貞夫撮影
本尊は釈迦如来で、台座を含めて高さ56.5cmありました。釈迦三尊を主とする形式は天台宗系ですから、本堂の開創は室町初期と考えられます。現在でも旧敷地には五輪搭一基が残っています。当時の釈迦堂の住職は岸本静念師で、釈迦堂に住んでおられました。そのお世話を周辺の住民が行っていました。お世話をしていた家族は助かったので、御利益があったと言われています。
『(1953)七・一八水害誌』の死の谷(彌谷部落)より要約すると、
「今次の豪雨はいたる処筆舌につくし難い変貌を呈したけれども、その最たるものと言われているのが、川上村彌谷であった。この部落は全部で23戸、白馬山脈の南面にごく狭い山肌を利用して耕作していた部落であって、この山峡をのぼりつめれば有田郡に越していける道路に散在していた。小字は更に上下2段に分かれていた。18日11時頃、下の段9軒26人が山津波の犠牲になり、続いて第2回の山津波があった。その後2時頃、上の段がいずれもものすごい崩れで全滅、計82名が生き埋めになった。部落の三隅の一番端の家が1軒宛、3軒だけ残っているが地滑りのため使用に耐えない。然も1軒の家人はすべて最初の山崩れの犠牲になった。山崩れは幅150m,縦400mにわたり、土砂は3段に重なって川底を埋め、林道から80mも上にあった地蔵堂が新しい川底から手の届くほど近くになった。
従来、彌谷川はわずか3mの川幅しかなかったが、今度は広いところでは50mもある大きな谷川になった。中腹の県道はすっかりなくなった。さて生き残った19人の人たちによると真っ先に地蔵堂に逃げ上った。竹やぶなら大丈夫だと思い、平山の峰伝いに逃げた。30数人が県道から少し上にかたまっていた。ゴゥォーッとすごい音がしたかと思うと、真っ黒な土煙が上った。頂上の松の木がすべり落ちて県道付近まで来た時、そこにいた人達はだんだん土に埋もれていった。ウォーと悲鳴ともなんともつかぬ声が巻き上がった。その時は救うことも何も出来ない。お互いが死の別れの手をふっただけであった。特に前村長・井原広市氏は重要書類を左脇に9歳の子供を右脇に抱えて消えていったのが今も眼にうつるようだ。」
玉置昭様の甥の小畑貞夫様(日高川町議)が再度ヒアリングしたことを教えて頂きました。
「先日より弥谷崩壊地の検証についてご苦労様です。Facebookやメール等のやり取りの中で、疑問に思ったことや知りたいことがありまして、再度地域の方々にお話を聞きました。
① 崩壊が発生した時の時系列での出来事
崩壊の始まりが不明確なのですが、逆の時系列で聞き取り調査をしてみました。
・18日夕方(夏の事なので6時前後と思われる)に3km程下流域の谷川の水位が下がった。そのあと、土砂と共に人が流れてきたが、谷川の土砂はドロドロで入っていけなくて助けられなかった。
・18日昼前(11時過ぎ)に弥谷の下地区の数人4人が谷川を流れていく家具などを目撃し、上流地域の異変を感じた。そこに馬力引き(賃料で荷物を馬で引く人)が自分所有の馬を上の集落に置いてあるのが心配になって、その4人と一緒に山道を上の集落に向かった。この5人も土石流の犠牲者になったので、おそらくこの5人が現地に到着したのは12時過ぎ頃だったと思われる。ここからは推測ですが、この5人も救援活動や避難活動を支援したと思われます。
この話から最後の大きな崩壊による土石流の時間が想定できそうです。
② 弥谷鉱山について
現地確認はしていませんが、現地に5カ所の鉱山坑口があるそうです。大きなものは、幅2m、高さ3mもあります。内部は、鉱脈を求めて上下左右に掘り進んで上部の尾根に出ることもできます。相当に大きなエリアで掘っていたようです。弥谷に岡山から来た工夫が住み着いて、地元の人と結婚して死ぬまで弥谷に住んでいたそうで、名前を松本といいました。
最初は含有量も多かったようですが・・・黄鉄鉱や黄銅鉱だそうですが・・・
弥谷崩壊の一考察
まず、昭和28年7月17日は、連日の降雨であった。明くる18日は、晴天であったそうです。亡くなった方々は、18日に亡くなられている事から考えて見た。
18日の午前中に下集落の5名(地元民4名と馬力引き業者)が異変に気づき、上集落に向かった。
なぜ、異変に気づいたか。上集落からは、救援を求める為に下集落に来ていない。下集落の住民が、谷川を流れるタンス等を見た事で、上集落の異変を察知したそうです。おそらくは、17日の夜中に何らかの崩壊が発生したのでしょう。5名が調査に向かったのが、18日昼前(11時30分頃と想定)でした。谷川をタンス等が流れたのは、朝の10時頃かと思われる。その頃、崩壊現地では昨夜のうちに、上集落の下方の崩壊で家屋が被災していたと思われる。タンス等は、この家屋のタンスではないのか。
現地を再踏査すると、上集落の上部が崩壊したとすると、タンス等が谷川を流れるとはいえない。途中で引っ掛かったり、破損したりして下方谷川まで押し出されて谷川を流れることにはならない。おそらくは、17日の深夜に下方崩壊により家屋が被災を受けたと思われる。調査に向かった5人は、下方集落にたどり着き、救援活動を行ったと思われる。何時ごろに現地に着いたのか。現地を実際に歩いて見ると、30分位を要しました。
そうすると5人は、12時頃に着いたのではないか。その頃、下集落の谷川の状況は、水位が高かった。しかし、午後に水位が急激に下がったと言われています。
それを見た住民の話によると、午後4時頃だったそうです。それから、夕方6時頃にどろどろの土砂と一緒に木材や人間が流れて行ったそうです。水位が急激に下がった事は、崩壊による土砂ダム(天然ダム)が出来た可能性を想定できます。前述のように、川の水が流れなくなったため、身重の妊婦が川を渡って対岸の家まで避難できました。
住民宅と崩壊地の距離は3km程なので、土砂ダムは3時頃に出来たと想定できます。上集落の83名が亡くなっています。5人は下方家屋の救助活動を行っており、上部の状況は知らなかった。さらに、上部の集落民もまだ崩壊に巻き込まれていなかったと思われる。崩壊をある程度知っていれば、何人かは助かったと思われるが、全員が犠牲となっているということは、急激な大規模崩壊がなければ、そうはならない気がする。崩壊地最上部の深層崩壊によって、一気に下方に土石流となって全てを呑み込んだのではないのか。その時間は、18日の午後2時30分頃だったのではないのか。
小畑 貞夫」
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