1. はじめに
「コラム34」でも説明しましたが、山梨県内は明治40年(1907)、明治43年(1910)に激甚な土砂災害を受けました。特に、明治40年災害は最も被害が大きく、表1に示したように、山梨県全体で、死者233人(全国の死者436人)、家屋全壊1267戸、流失4500戸もの激甚な被害を受けました。図1は、早川・須田(1911)の『山梨縣水害誌』の口絵に挿入されている
「明治四十年八月下旬山梨縣水害略図」です。
図1 明治四十年八月下旬 山梨縣水害略図
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山梨県内の富士川左支、笛吹川流域から山梨県東部の桂川(下流で相模川)流域で、激甚な被害を受けたことが判ります。特に、笛吹川上流の土砂災害は激甚で、上流部の支渓流から流出した土砂・洪水流は、笛吹川から富士川に流入し大氾濫しました。
「コラム28」で説明したように、明治22年(1889)の紀伊半島災害では、奈良県十津川村の被災家族641戸、2587人が北海道の石狩川中流西部地域に移住し、新十津川村を建設しています。山梨県でも明治40年(1907)災害を契機として、北都留郡、東山梨郡、東八代郡などの被災民約3000人が北海道南部の羊蹄山の南麓から北東麓に集団移住しました。富士川流域の甲府盆地周辺の調査結果は多く報告されているのですが(早川・須田,1911;河西,2001)、山梨県東部の桂川(神奈川県に入ると相模川)流域については、あまり知られていません。
明治天皇は山梨県内の災害を憂慮し、侍従日野西資博を山梨県に派遣して実態を視察させました。明治天皇は救済として、内帑金5000円を下賜したため、山梨県民はこの措置に深く感謝し、県議会も上奏文を決議して感謝の意を伝えました(当時の山梨県知事は武田千代三郎)。
明治40年(1907)と明治43年(1910)の大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるようにと、明治44年(1911)3月11日に、明治天皇から御料地が山梨県に下賜されました(山梨県の恩賜林面積16万4000ha,本県森林面積の約半分)。
甲府城(舞鶴城公園)内に、写真1に示した「謝恩碑」が建立されており、JR甲府駅の東京よりのホームからも謝恩碑はよく見えます。碑の建設は明治神宮造営局の伊藤忠太らの設計によりオベリスク型とし、大正6年(1917)から9年(1920)にかけての3ヶ年で建設されました。コンクリートの基礎地盤の上に花崗岩を48段積み上げた上に高さ60尺(18.2m)の碑身(下部7杓,上部6尺)が据えられています(碑台を含めると、碑の高さは25.6mにもなります)。竣工記念式典は、大正11年(1922)9月27日に行われました。碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋(1838〜1922,内閣総理大臣を経て、当時は枢密院議長)の筆によるものです。また、裏面には山梨県知事・山脇春樹の撰文による碑文があります。
写真1 甲府城内にある「謝恩碑」(2019年4月22日,井上撮影)
図2は、びゃく事例の分布図(基図は井上誠作成:傾斜量図,国土地理院10mDEM利用)で、コラム42に挿入した図1に本コラムで説明する大月市の3事例を追加しました。
図2 びゃく事例の分布図(基図は井上誠作成:傾斜量図,国土地理院10mDEM利用)
2. 山梨縣北都留郡誌編纂曾(1925):北都留郡誌による災害の歴史
早稲田大学の久保純子教授から、大月市郷土資料館に明治40年災害の展示があり、
「びゃく」の記載があったと教えて頂きました。このため、平成31年(2019)3月に大月市郷土資料館に行き、展示を見せて頂きました。展示では被災当時の災害写真とともに、奥脇愛五郎の
「明治40年(1907)8月水害史」(1907年9月1日)が展示されていました。
霹についての詳しい記述がありましたので、現地調査の結果を踏まえ、説明したいと思います。なお、山梨県東部の
びゃくに関しては「コラム42」でも説明していますのでご覧ください。
表1 山梨県の明治40年災(1707)の郡市別被害(早川・須田(1911):山梨縣水害史より)
山梨縣北都留郡誌編纂曾の「北都留郡誌」(1925,復刻版,1987)の第二節 水害(p.1168-1172)には、北都留郡の災害史の年表が記載されています。
「甲府盆地の尚未だ湖沼たりし時代に於ても、既に桂川は河川を為して東流せしものゝ如く、又時々石器時代の遺物沿岸地方より発掘されしを傅ふるより見て、其上古に於て人類の此川畔に居を構えしことも知り得べく、又自然的地勢より累年水難のために苦しめられしことも想像するに難からず。まず左に舊史の一部を抄録す。
明応五年(1496):八月十六日(9月22日)、大風雨あり、諸川増水郡内地方殊に甚しく、且一般作物稔らず、郡民究乏せり。
明応七年(1498):八月二十八日(9月14日)、大風雨あり、低地は水のために、高地は風のために被害夥し。
大永八年(1528):五月十六日(6月1日)、大洪水あり、田畑多く流失、郡内地方餓死者を出せり。
天文二年(1533):六月〜八月(7月〜9月)に亘り数回の大雨増水あり、穀物亦凶作に陥る。
天文十五年(1546):七月五日(8月1日)、大雨大洪水あり、郡内地方山岳崩壊甚し。
寛文十年(1670):八月(9月)、大雨連日笹子川出水被害あり。
寛文十二年(1672):八月(9月)、出水あり、初狩村下組流失。
延宝四年(1676):秋、降雨旬日に及び大出水あり。
貞享五年(1688):夏、大洪水あり穀菽稔らず、十月又出水郡民究乏甚し。
元禄十二年(1699):八月(9月)、出水あり、郡内地方特に惱めり。
享保二年(1717):八月(9月)、大洪水あり、被害多し。
享保五年(1720):大洪水に襲われ、流失村落多し。
享保十三年(1728):七月七日(8月12日)、洪水あり、笹子村阿弥陀海流失。
享保十五年(1730):五月十五日(6月29日)、大洪水あり、殊に綱原村の如きは降雨のため、麥作立腐となる。
寛保二年(1742):初、洪水あり、山岳崩壊甚し。
延享四年(1747):秋、大洪水あり、笹子峠崩壊し、交通を阻止す。
天明五年(1785):郡内地方出水多し。
安政六年(1859):八月二十九日(9月25日)、大洪水あり。桂川下流上野原宿地内字境川立場茶屋二軒流失。
万延元年(1860):七月二十五日(9月10日)、郡内出水あり。
而して、明治年代に入り笹子川其他各川増水のため往々被害あり、殊に明治25年(1892)7月25日出水あり、笹子村追分流失し、又同三十年(1897)大洪水にて、鶴川出水のため甲東、大鶴両村は橋梁落ち、厳村鶴川橋々畔國道十餘間(18m)決潰し、交通途絶となり、上野原町浸水十餘戸、郡下堤防缺潰五十餘間(90m)ありたり。偶々、明治40年(1907)8月に至り、豪雨のため大洪水あり、河川の堤防決潰、山岳等に依り、縣下を擧げて其被害を受けしが、本郡また前古未曾有にしてその惨況戦慄するに餘りあり、左に一端を記す。」
3. 明治40年(1907)8月20日〜28日の天気図
図3.1〜3.3は、気象庁図書館で閲覧した明治40年(1907)8月20日〜28日の天気図で、天気図の裏面には岡田竹松予報課長の天気解説がありました、これらの記載をもとに、当時の天気解説を相原延光氏に整理して頂きました(各天気図の右側)。天気図の画像データは、原典:気象庁「天気図」を国立情報学研究所が加工し、「デジタル台風」として公開しているアジア太平洋地上天気図(明治40年(1907)8月20日〜28日)を利用しました。
当時の天気図には前線の考え方がまだなかったために、表現されていません。渦度の高い気圧の低いところは暴風圏=颱風と表現しています。天気図裏面の解説欄には岡田武松予報課長の名前が書いていますが、このあと引き継いだ藤原咲平はヨーロッパで天気図の講習を受けて帰国し、その後に天気図に反映しています。
図3.1 アジア太平洋地上天気図(明治40年(1907)8月20日〜22日)
(原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」)
図3.2 アジア太平洋地上天気図(明治40年(1907)8月23日〜25日)
(原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」)
図3.3 アジア太平洋地上天気図(明治40年(1907)8月26日〜28日)
(原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」)
4.奥脇愛五郎(1907)の明治40年災害の記載
大月市立郷土資料館に展示されている記載内容(写真3)を以下に示します。図4、5は、大月市郷土資料館の担当者から関連地名をお聞きし、1/2.5万旧版地形図の「大月」図幅(1929年測図)と「笹子」図幅(1921年測図、1929年修正測図)に赤字で追記したものです。
「明治40年(1907)8月22日(旧暦七月十四日)より雨、頻りに降りて、一時も雨止まず、23日に至れば益々雨甚だしく旧盆に相当するも墓地へ火を燃しに行く者なし。偶々各戸秋蚕を飼育し居るも桑葉を給するを得ず、24日に至り雨益々急なり、笹子川出水追分、阿弥陀海、橋爪、立川原等家屋の流失するもの、頻々続々亦
、上野原は唐沢山崩れて霹(山津波のこと)を為し、近隣の者、笹子川の出水を恐れて避難したる祖師堂は押し潰され、上野原大屋吉造氏の母同所小林浅右エ門氏子供2名、其他数名の即死者出したり(図2の右下)。
夜に入りて、藤沢も大上手の後の山崩れありて、戸数14戸を押し流し数名の死傷者あり、為に心も心ならず、何れも戦々競々として安眠するものなかりし、25日(旧七月十七日)の朝に至りしに、雨少しく静かに諸川幾分か減水したりと思い居るうち、自宅などでは前夜より妻まさ、賢吾、かのと、勝満露の家族及び子供のおゑい、清水伊三郎の子、おせき(当家に本年中奉公に定めし子)等を社原へ避難旁々泊りにやり置きしが、静かになりたりとて自宅へ打ち揃うて帰り来るや。
写真2 明治40年(1907)の水害で流失した祥雲山瑞龍庵・地蔵堂(祖師堂)跡地と碑記
(中初狩藤嶋で唐沢山が崩れて霹流出) (2019年4月,井上撮影)
図4 1/2.5万旧版地形図「大月」図幅(1929年測図)
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写真3 大月市郷土資料館の明治40年(1907)災害展示写真の一部(2019年3月,井上撮影)
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写真4 自徳寺墓地から笹子川上流の河谷を望む
(この付近にあった人家が被災した)
写真5 完成したばかりの寒場沢砂防堰堤
(209年4月22日,井上撮影)
突然轟々たる地響の音、汽車は諸川出水のため不通となり居るに、どうして汽車は来たりしかと思いの外、寒場沢、村持の御林は山崩れを起こし、黒煙を挙げて山の神社まで来りし故、前記の妻子及び是より先きに来り居りし、佐藤とよ、天野伝右エ門等も一同拙宅の2階へ馳せ上がりたる時には、既に早其の霹は飛び来りて自宅の長屋、斎藤兼吉夫婦、桜井正雄親子4人の居宅並びに小笠原八郎兵衛、渡辺豊吉宅を押し飛ばして、自宅の前後左右は恰も土呂海と化せり(図5の左下付近)。
此時二階の騒ぎは一方ならず、絶叫の声、非絶惨絶、遇々拙宅二階より斎藤周作方の石垣の上に様子を以て橋を架け置きたれば、夫れを渉りて我が二階へ入りるものは斎藤周作妻まつが其の孫、三九馬を、亦嫁のおたかは其子いせを、天野伝右エ門倅佐久平其弟嘉吉を、何れも背追ひて来り共に叫び騒げども、泥中に独立したる我家の二階如何ともする能わず。時に、奈良勘次、小坂金太郎、伊沢忠吉の三氏、佐藤重吉宅の前迄来りて今に工夫して援くる故、安心し居れと謂ふ時、最早第二の霹声寒場沢奥に聞へたれば、心も心ならず一同泣き叫びて援ひを請ひしに、前記の3氏は佐藤重吉宅前より拙宅へ向け泥中を渉り来るを見れば、其深さ股に達す、これを見て彼等3名の渉る所いかでか渉るを得ざらん。サー皆下に降りて早く向ふの佐藤重吉宅へ昇れと拙者先ず賢吾を負ふて其泥中を渉り、庭の中央迄行き時第2の霹は山の神社辺迄来りたれば、ソレ亦来れり。急ぎ渉れと云ひながら、後も見ずに辛ふじて佐藤重吉宅前へ駆け上り、ふり向き見しに、此の時早やく彼の時遅く一人も一人も拙者後を来るものなく、霹は既に原入川に着けり、嗚呼々々残念なるが援ひに来りし者も、諸伴第二の霹の為に泥中に葬むられしきか名残惜しき至りなりと思ひながら、自徳寺墓地道迄来りし時、正木吉五郎と天野角太郎との間より泥中へ葬られしと思ひし人々は一人残らず出て来りたれば、其の時の喜びは如何計りか。人員を調べみれば、一人も埋没したるものなし。
しかしながら、妻まさは(他の者も顔色は悪るかりしが)腰を抜かしたるや歩行も叶わず、顔色は青ざめ泥は満面に冠むり、小坂金太郎の肩にすがりて、漸く難を免れたるもの故、之を見しものは、まさ丈は時を経づして絶息するならん位の考は起したるならん。而して栄八横の鉄橋を渡りたる時亦第3の霹は来れり、斯らくして7、8回の霹は飛び来れり。然るに我が家は5、6回目迄は只泥土に押し込まれたるのみにして家は建ち居りしが最後の大霹の為に土蔵も何もかも押し流されたり、此時亀田由右エ門、天野森之甫、小笠原辰之助、富田次郎右エ門、宮崎藤甫、小笠原茂一郎、宮崎伝吉迄破壊され、亦中丸中に只一軒残り居し丸屋迄、全部押し潰し尽したり、而して恰度十二時頃に至り上野原は唐沢第3回の霹の為めに全滅せられたり、我等最早震へ居る際とて此の上野原の霹声の為此の社原迄影響を及ぼさざる。
此霹に恐れて妻子諸共大雨をも厭わず、八幡神社境内へ避難す。
其の内大柏山、今に崩れ来る鬼窪は、必ず飛び来ると諸説何れも危険の話のみなれば、人心只ならず社地に避難し来るもの続々。
夕刻に至りて雨少しく小降り空腹になりたる故、拙者は妻子を伴ふて、社原奈良家に帰れば此家に集まるもの拙者等家族7人、斎藤周作家族7人、天野伝右エ門同5人、佐藤とよ同4人、志村政吉同3人、渡辺豊吉同4人、志村とく同3人、佐々木惣平同5人、小笠原辰之助同3人、計41人、之れに社原の内のもの9人を合して総計50人サー避難は何人来るとも、家に入る丈けは何人ともよろしけれども、2年も凶作の続きたる翌年の事とて米はさらになし(と云ふた処にて是丈けの人数にて一昼夜を過ごす位の事は出来たり)。諸所に人を派して需めしに漸く田中より三升を借り来りて、社原の内米に足して僅かに糊口を凌げり。
26日(七月十八日)に至り村の有志は寄付を募りて罹災民に食料の救援をなせり。
27日も同様に糊口を凌ぎ、28日に至れば郡役所より出張せられて県費の救助米を分配せらる。
其間、土中に埋没せられたる人の死骸を掘るやら、下河原まで流れたる寝具を拾いに行くやら、其惨憺たる光景目を宛てられざる程なりし。漸く29日に至りて少しく雨止む。
30日に至れば久し振りの太陽顕はれ、31日快晴併し一時間計りの夕立あり。
9月1日、初めて笹子村花田屋まで機嫌伺ひに行き来たりしが、笹子村の荒れを見ては死者こそあれ、未だ未だ当初狩などは弟たるなり、誌して以て後世の記念とす。
明治40年(1907)9月1日記す。
下初狩八十二番戸
奥脇 愛五郎」
奥脇は
びゃくに
「霹」という漢字をつかっていますが、この字には「いかずち」という読み方もあります。現在のところ,音符「ビャク」に対応する様々な漢字が使われているのが現状ですが,相原氏が「コラム62」で詳しく解説します。いずれにしても、雷を伴った大雨時に繰り返し発生した土石流のような現象を「
びゃく」と呼んでいたと想定されます。極めてまれな驚くべき現象だったのでしょう。
5.早川・須田(1911):山梨縣水害史,山梨縣水害史發行所の記載
第9章 明治40年水害史 第七節 南北都留両郡水害實記,p.266〜285.より
明治40年度(1907)の雨量は笹子附近に最多量を示し、所謂郡内地方より言ふ時は、其裏に當れる東山梨郡に於ては、日川・重川の氾濫となり、東八代郡に於ては金川・御手洗川等の洪水となれり。而して笹子・御坂等の諸山を界して其表に位置する我郡内地方も笹子川・大幡川及び河口湖等惨状最も峻烈を極めたり。以て知るべし。此大洪水は笹子及び御坂等の連山を中心として起り、裏に流れたるは所謂國中地方を禍ひし、表に注ぎたるは所謂我郡内地方を苦しめたるものなるを、前既に叙したる如く我南都留郡に於ては22日より26日迄5日間で1576.5mmの降雨を示し、就中中野村は雨量645mm大量に達す。北都留郡に於ては大原村は718mmの大雨量を示し、他の観測を合する時は1740.5mmに達せり。此驚くべき大雨量は23の渓流に注いで下流桂川(相模川)によりて海に入るものなるが、渓流如何でか此大雨量に支え得べき、果然山岳崩壊となり渓流の押出となりて、近世稀なる大破壊を見るに至れり。又増水の為に水底に沈没したる村もあり。
北都留郡を貫流するを笹子川とし、大鹿川其他の支流ありて皆之に注ぐ、笹子・初狩の二大村は多数の部落を率いて此笹子川の左右に誇れり。而して22日以来の降雨によりて笹子川は大洪水となり、又左右の群山には大崩壊起りて、或は支流の渓谷に押出し、或は笹子の本流に墜落す。斯くて笹子川の流域は大惨状を呈するに至れり。
笹子川の上流に黒野田あり、之れ笹子川の一部落なるが、此部落は所謂笹子隧道(中央本線,明治36年(1903)開通)によりて天下の旅客に記憶せらる。然るに此部落は笹子川の大氾濫によりて破壊せられ、殊に鉄道線路を破壊せしかば、旅客運送の不便實に言はん方なりき。茲に於て政府は其復旧を急ぐと共に隧道口に臨時停車場を假設し、以て辛うじて交通の便を開けり。下りて字橋詰に来れば、民家の流出したるもの甚だ多く、近く身邊を見、遠く停車場を望めば、唯残留半潰の家屋と左右諸山の崩壊のみ、大字白野に来れば、大鹿川氾濫して巨岩を押出し、高さ丈餘(3m)に達せる鳥居を埋め去り、僅かに其蓋木のみ露わす。電信柱の向ふに見ゆるは即ち鳥居の蓋木とす。今尚旅客の見る如く此附近一帯大石巨岩の磧にして中には数満貫に達するものあり。写真6は巨石中の巨石にして長さ八間(14.4m)、巾六間(10.8m)と註せらる。當時水害視察として来峡せられたる日野西侍従等此巨大なる石よりも之を押出したる崩壊の威力に驚き、縣内先導者と共に撮影せらる。白野の国道の人家は、此大鹿川の氾濫によりて全く埋没の厄を免る能はざりしもの多く、殊に此地方は住民は養蚕家のこととて家も二階立なるが多し。然るに大鹿川の押出しは何の苦もなく之を埋没せり。白野が激流の本瀬となり、為に流失したる残存家屋の一部を示したる写真をみると、一枚の寫眞尚一小渓に過ぎざる大鹿川の横暴の如何に甚だしかりしかを知るに足るべし。
写真6 大鹿川に横たわる長さ八間巾六間の巨石
(日野西侍従,武田知事,飯島郡長,代議士天野薫平)
写真7 大鹿川に現存する巨石(写真6より小)
(2019年4月,井上撮影)
写真8 1907年災の笹子川(中央線の鉄橋が見える)
(大月市役所総務部総務課,2004:時をつなぐ街
写真9 国道20号笹子川橋から見た現況
(2019年4月,井上撮影)
写真10 1907年災の笹子川と流失した中央線の線路)
(大月市役所総務部総務課,2004:時をつなぐ街)
写真11 国道20号笹子川橋から見た現況
2019年4月,井上撮影)
笹子川に沿へる國道は全部破壊せられ、鐵道線路は崩れ、鐵線は曲り所々切断するものあるを見き、斯して笹子村に於て140の人家を流し、40の人家を埋没し、1000人に餘る人民を窮乏に陥ゐれ、跡振り向きもせず、之より一寫初狩村を襲ふなり。
初狩村の惨状は笹子村に比して其性質残酷なり。平地は笹子川の為に流出し、山麓は崩壊の為に壓倒せられたり。初狩村字立河原が笹子川の氾濫によりて、其國道を川の本瀬とせられたる。既に國道激流の本瀬と為る以上は、沿道の人家、附近の田畝の安全なるべき筈もなく、一寒部落にし初狩區なる唐沢崩壊して祖師堂跡26戸を潰し、11名の即死者を出す。水に流没するの惨に比して唯だ一思ひに壓死するの安きを言ふ勿れ、死の惨は一なり、傷の苦みは一なり。何?苦楽を異にせんや。其唐沢が崩壊して祖師堂跡を破壊したる實況なるが、他人之を寫眞に見るも尚恐怖の念に満たされ惻隠の情禁ずる能はざるものあり。況や爰に家居したる26戸の人々、其親の苦悶を見、其愛児の悲涙を聞き、其死を見、其傷を見、而して己も土砂木材の下に壓せられ身動きさへも自由ならざるの境遇にある時、嗚呼此處は活きながらの地獄なり。罪なくして陥ゐりたる惨酷なる地獄なり。誰か同情の涙に咽ばざるものぞ(写真2参照)。
唐沢の大崩壊は崩壊と云ふよりも一種急激なる河の観を為せり。其無限の土砂は墜落以上一歩を進めて流下せり。而して其速度は墜落に劣らず、其崩壊が如何に怖るべき勢を以て流れたるかを示せるもの、其下にあるものゝ危険押して知るべきのみ。
初狩村の崩壊は、之に止らず、下初狩に至て實に惨状極に達せり。即ち此區字下宿なる寒場澤に大崩壊起こり、50余戸の人家は土砂の下に埋没又は潰倒し、25名は即死し、10名は傷く前には家も蔵も人も家畜も、田も畑も、山も宅地も、大地皆呑み盡さんとする笹子川あり。後ろには寒場澤崩壊して恐怖にて満てる村民を老ひも若きも男も女も、壓殺せんとす。否既に50の人家を潰し、30の生命を奪ひたり。見よ満目潚滌として地に生色なく、鬼哭く長へに絶へざらんとす。高きを見れば山は落ちるんとし、低きを視れば家は覆らんとするとき、神、佛にも見離されたるを感じたるんらん、徒らに天道の無情を恨むで恵澤の厚きを思はざるは、悲しき時の人情なりと雖も、亦彼等が欺る叫びに同情を表せずんとばあらず。由来笹子川の沿岸、山岳の傾斜最も急なれば之を耕したるの罪を責むるは、冷静なる者獨り之を克くす。今其惨状を見其苦みを後代に傳ふるに傳ふるに當て、是等に想到するは到底為し能はざる處なり。
山は斯の如く崩壊して200有餘の家を奪ひ60人を殺す。而して川は愈々激して沿岸悉く嘗め盡し、之より尚も其下流なる廣里村を衝く。同村眞木區地籍に架したる鐵橋は築堤と共に流失し、國道の橋梁又木片の如くに流れ行けり。大字花咲に至れば、國道は流失して激流となり、沿道の人家悉く流失す。其悲惨なる實況の一部を寫したるものなれども、此一部以て全村の荒廃を知るを得ん。
丹波川にも崩壊あり、都留川にも崩壊ありき、左れど北都留郡の惨状は此の笹子川の流域に如くものなく、就中笹子・初狩及び廣里の三村最も悲惨なる状況に陥ゐれり、左れば此郡被害の九割は此三村に係るものと知るべし。
郡内の者澤の押出しの音を聞いてビャク来ると謂ふ、川に沿ひ、山を負ふて家居する郡内地方のことなれば、澤の押出の恐るべきは言ふを待たず、郡内人にはビャク程恐るべきものなく、小兒泣いて静まらざればビャク来ると唱えば泣き已むと稱せらる。然るに明治40年(1907)の洪水は笹子川の大氾濫と同時にビャク大に来りて、泥水巨石を流したるものビャク来の聲に子供を泣き已ませたらんも、全人民の叫喚となれり、嗚呼。
南都留郡の洪水は二種に區別せらる。即ち一は笹子川と其性質を一にし、二は全然其性質を異にす。大幡川の洪水は以て笹子川に比すべく、河口湖邊の洪水は若し其比を求むべくは笛吹・釜無合流點に類して、更に停滞的なるものなり。明治40年(1907)の洪水は、南都留郡は北都留郡よりも稍軽微なりしが、之罹災區域の少なきを意味し、其惨状に至ては少しも劣るものにあらじ。
御坂の彼方には金川ありて黒駒以西の諸村に大災害を與へたることは既に叙せり。此方は即ち南都留水災の焦点たる大幡川及び河口湖とす。而して大幡川は大幡山の大崩壊によりて其洪水の狂暴に勢いを與へ、沿岸に存在する寶村の諸部落及び壬生村に莫大なる損害を與へたり。被害人家は宝村に於て約600、壬生村に於て800餘戸と註せらる。而して殊に悲惨を極めたるものは大幡山の直下に在りし字大幡にして、60戸の家屋は流失し、劃さえ山の崩壊の為に埋没したる人家亦尠なかざりき、後ろに山の崩壊来前に川の氾濫を望むの實況なるが、之れ恰かも前門虎を防ぐ能はざりるに後門亦狼に迫らるゝもの、而して大幡は前門の虎にも噛まれ後門の狼にも噛まれて、終に屠られたるものとす。大幡は斯の如くにして殆んど全滅し、大幡川は最初の血祭りに威大なる暴力を得、下へ下へと屠り行くなり。水の觸るゝ處壊れざるものなく、浪の躍る處崩れざるはなし。即ち寶、壬生の二村は大幡川に沿へる村落なるの故を以て、多大の損害を被むり、傷痍又永久に癒えざるもの多々あるに至れり。」
河口湖周辺の災害状況
河口湖畔に村を樹つる者、河口・舟津外五ヶ村、而して此河口湖に注ぐ處の渓流数十個、左れば一朝豪雨あれば、渓流皆満水して此湖に注ぐを以て、湖畔の村落は必ず多少の害を被むるなり。
仰いで山を見よ、之れ彼方に金川を流せる御坂にあらずや、峡東一帯に大洪水を起し、建國以来の大災禍を與へたる其水源の連山にあらずや、之より流るゝ渓谷の如何で凋れ居るべき、果然数十の渓流は悉く満ち溢れつゝ河口湖に注げり。掌にも比すべき河口湖の何とて此大水を飲み得んや。忽ちにして溢れぬ。平水よりも貳丈(6m)の高さとなりぬ。斯くては湖畔の人家は悉く水没するは説を待たず。河口湖上の一島なるが、此洪水の為に半ば没して唯其頂を露はすのみ、附近の村々は湖心となり、船津村の如きは全く水底に没したる處さへ多かりき、船津村字御屋敷と稱する處なるが、一段高き處に祭れる大神宮の祠すらも早や危く見えたり。附近の人家は既に半ば没し、流れるゝの恐れなきも家居に堪へざらんとす。而して河口湖は入る口あり、出づる口なきものなれば、減水の困難なる、昔も今も変わらず。殊に湖の所在地は富士の高岳に程遠からず、冬来るの早くして其去るの速かなる處、従って温度によりて蒸発を待つには餘りに遅緩なり、然れども河口湖は天の蒸発に待つの外道あることなし。左れば此湖一旦満水すれば、長きは数十日間減水を見ず。明治40年度(1907)の大洪水に於ては水少しも減退せざるに、夙く秋となり冬にとなれり。地方住民の困窮如何ばかりなりしや、想像するに難からざるなり。對岸はなるが、此村は船津村に比して一層竣刻なり。山よりは土砂流れ来り、湖よりは水浸入す。耕地家屋は川の流木土砂の為に埋没し、加ふるに湖水は低地一帯を沈めて人畜を驅逐す。家を倒したる大木は疲れて村内に横はり、其為に倒されたる家屋は微塵と為りて残骸を留む。誰の人家ぞ、一夜にして潰倒し、又住むに家なからんとす。由来家は多く田よりも高所を占む。然るに其家既に埋没の厄に逢ふ。低地にある田畝に於てをや、即ち此村の住民は住むべき家を奪はれ、食ふべき稲壬を掠められたるなり、収穫の秋には手を空しくして冷を恐れ、収蔵の冬には食を憂ひつゝ寒を憂ふ。自然の横暴も茲に至りて、人は刻薄を極むと云ふべきなり。隣して西湖なる一小湖あり。之亦満水す。而して此の両湖の間に挟まれたるものを長濱村とす。窮乏は同じ、悲惨は同じ、嗚呼湖畔の住民之を思ふにだに悲哀の感に満たさる。年々歳々此厄に逢ふ處の者、恐らくは寧き心を以て年を送りたることなく年を迎えたることなからん。唯明治40年(1907)の大洪水は其度に於て空前なりしのみ。明治の秋元但馬(1649-1714)出でずんば、此河口湖畔の民を如何せん。嗚呼但馬以上の秋元氏出ずんば湖畔の民を如何せん。白扇水底に映じ、風景絶?なる河口・西湖も湖畔窮乏の民には何の意義なし。但馬出でゝ之を樂むの民たらしめよ。
北都留郡水害調査表
●人死者87人,傷者36人 ●家屋全潰246戸,半潰64戸,破損468戸,流失825戸,浸水347戸
●堤防決潰37ヶ所,1585間(2853m)破損,4ヶ所,106間(191m)
●道路流失埋没279ヶ所,1万2075間(2万1735m),破損342ヶ所,6126間(1万1027m)
●橋梁流失破損捐217ヶ所
●田埋没流失76丁5反(76万5000m2),浸水29丁8反(29万8000m2)
●畑流失埋没329丁2反(329万2000m2),浸水29丁8反(29万8000m2)
●山林埋没流失405丁3反(405万3000m2) ●山崩914ヶ所
南都留郡水害調査表
●人死者31人,傷者5人 ●家屋全潰140戸,半潰104戸,破損183戸,流失316戸,浸水244戸
●堤防決潰58ヶ所,4174間(7513m),破損69ヶ所,1742間(3156m)
●道路流失埋没51ヶ所,9651間(1万7372m),破損24ヶ所,873間(1571m)
●橋梁流失破損捐289ヶ所
●田埋没流失176丁(176万0000m2),浸水94丁2反(94万2000m2)
●畑流失埋没105丁4反(105万4000m2),浸水151丁3反(151万3000m2)
●山崩168ヶ所
6.立体視写真で見た明治40年災害の地形状況
米軍写真(昭和23年(1948)3月31日撮影,USA R1232-58〜64,元縮尺S=1/15,875)と地理院カラー写真(昭和50年(1975)9月10日撮影,CCB-75-15 C4-7〜13,元縮尺S=1/15,000)を入手し、笹子地区、大鹿川・白野地区、初狩地区について、立体視写真を作成しました。立体視出来る範囲は、図1と図2に赤枠で立体視写真1〜3として示しました。米軍写真と地理院写真の元縮尺はほぼ1/1.5万であるので、作成した立体視写真の範囲はほぼ同じです。地理院カラー写真が撮影された昭和50年(1975)は、中央自動車道路(昭和52年(1977)12月20日,大月JCT〜勝沼IC開通)の建設工事が最盛期の頃です。
立体視写真1.1 笹子周辺(米軍1948年3月31日撮影)
(USA R1232-62〜64,元縮尺S=1/15,875)
・1国鉄鉄橋 ・2国道笹子川橋
・3笹子駅 ・4黒野田 ・5追分
立体視写真1.2 笹子周辺(地理院1975年9月10日撮影)
(CCB-75-15 C4-7〜9,元縮尺S=1/15,000)
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6.1 笹子周辺(立体視写真1.1,1.2)
笹子川に沿った大月〜笹子峠間は甲州街道が通り、大月宿、花咲宿、下初狩宿、中初狩宿、白野宿、阿弥陀海道宿、黒野田宿などの宿場町がありました。しかし、2項で述べたように、繰り返し大洪水や土砂災害を受けてきました。
国鉄中央線は、甲武鉄道として明治22年(1889)4月11日に新宿駅〜立川駅間、8月11日に立川駅〜八王子駅間が開通し、順次西方向に延伸されてきました。官設鉄道として明治34年(1901)8月1日に八王子駅〜上野原駅間、明治35年(1902)6月1日に上野原駅〜鳥沢駅間、10月1日に鳥沢駅〜大月駅間が開通しました。大月駅〜初鹿野駅(現甲斐大和駅)間が明治36年(1903)2月1日、初鹿野駅〜甲府駅間が6月11日に開通しました。
明治40年(1907)8月の土砂災害は、この付近に鉄道が開通してから4年後の大惨事でした。写真8,写真10に示したように、鉄道線路や甲州街道筋の集落の多くは流失し、激甚な被害となりました(事前に洪水から避難したためか、人的被害はほとんどない)。笹子川の上流部は、各支系流からの土砂流出がはげしく、唯半潰れの人家と流出した大量の土砂堆積している状況だったようです。
政府は鉄道線路の復旧を急ぐとともに、笹子隧道付近に臨時停車場を仮設して、辛うじて交通の便を計ったようです。
6.2 大鹿川・白野周辺(立体視写真2-1,2-2)
写真の中央には北方向から流入する大鹿川の大規模な土石流扇状地が存在し、大鹿川からの土砂流出は極めて活発で、本流の笹子川は南側に押しやられています。明治40年災時にも大規模な
土石流(霹)が何回も流出しました。写真6は大鹿川に横たわる長さ八間(14.4m)、巾六間(10.8m)の巨石で、水害視察に来られた日野西侍従などが写真に写されています。米軍の写真では土石流扇状地(原地区)中央部にはほとんど集落はありません。
立体視写真2.1 大鹿川・白野周辺(米軍1948年3月31日撮影)
(USA R1232-60〜62,元縮尺S=1/15,875)
・1白野宿 ・2原 ・3大鹿川
立体視写真2-2 大鹿沢周辺(地理院1975年9月10日撮影)
(CCB-75-15 C4-9〜11,元縮尺S=1/15,000)
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6.3 初狩周辺(立体視写真3-1,3-2)
立体視写真3-1によれば、初狩宿西側の唐沢下流には土石流扇状地が存在しています。明治40年災では、唐沢上流の唐沢山が崩れて、
霹(山津波)が発生して、笹子川の氾濫を恐れて避難していた祖師堂は流され、数名の即死者を出しました。写真2に示したように、祖師堂は再建されず、跡地には祥雲山瑞龍庵・地蔵堂(祖師堂)跡地と書かれた碑記が残されていました。
笹子川に沿って初狩宿の集落があります。初狩駅は明治40年災害後の明治41年(1908)7月9日に初狩信号所として開設され、明治43年(1910)2月10日に駅に昇格しました。中央線の過ぎ南側に自徳寺があり、現在は広大な墓地となっています(写真4)。この付近には寒場沢があり、土石流扇状地が広がっています。明治40災では、寒場沢から繰り返し、霹(山津波、最後のものが一番大きい)が発生して、50余戸の人家は土砂に埋没・潰倒し、30人の死者をだしました。
立体視写真3.1 初狩周辺(米軍1948年3月31日撮影)
(USA R1232-58〜60,元縮尺S=1/15,875)
・1唐沢 ・2祖師堂 ・3上野原
・4初狩駅 ・5自徳寺 ・6寒場沢
立体視写真3-2 初狩周辺(地理院1975年9月10日撮影)
(CCB-75-17 C4-11〜13,元縮尺S=1/15,000)
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引用・参考文献
大月市役所総務部総務課(2004):時をつなぐ街―大月市制50周年記念誌―,大月市役所,172p.
早川文太郎・須田宇十(1911):山梨縣水害誌,371p.
笛吹市風水害誌編集委員会(2007):笛吹市風水害誌―100年の災害の記憶を未来に―,山梨県笛吹市,239p.
武井時紀(2006):北海道の中の山梨:移住二世が語る山梨県団体移住史,240p.
山田清(1980):山梨県団体の北海道開拓移住,山梨郷土研究会,甲斐路,38号,p.25-37.
富士川砂防事務所(1981):富士川砂防工事事務所二十年史,388p.
山梨縣北都留郡誌編纂会(1925,復刻版,1987):北都留郡誌,第二節 水害,p.1168-1172
山梨県土木部(1950):昭和二十五年山梨縣砂防工事説明書,6p.
山梨県土木部砂防課(1972):山梨の砂防,46p.