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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム62 南関東の「びゃく」という地名の由来について
1. はじめに
 「コラム37〜40」でも述べたように、筆者らは、『関東大震災と土砂災害』(井上編著,2013)を著し、4回の現地見学会を行ってきました(井上,2014;井上・相原・笠間,2014;井上・蟹江・相原,2016;井上・相原・森・山口,2016)。2013年10月16日の伊豆大島・元町での激甚な土砂災害発生直後に、現地調査を行いました(井上,2014a,b)。大島図書館で元大島測候所の調査官・田澤堅太郎氏が書かれた東京七島新聞(田澤,1988)と朝日新聞(田澤,2013)の記事などを読みました。その後、田澤先生のご自宅で伊豆大島について色々教えて頂きました(コラム41)。上記の新聞記事で、大島は火山噴火だけでなく、土砂災害にも注意すべきことを喚起しておられました。立木(1961)によれば、
「元町集落はかつて新嶋と呼ばれており、文禄年間(1592〜96)に「びゃく」に押されて500mほど北側の現在地に移転した。」
と書かれています。田澤先生は長らく気象庁大島測候所に勤務され、1986年の噴火に直面し、大島火山博物館の設立時の展示などに奔走されました。現在も大島に在住され、丹念に大島各地をスケッチされ、2014年に『火山 伊豆大島スケッチ―改訂・増補版―』(2015年の地理,60巻7月号の書架欄で井上が紹介)を著されました。「びゃく」とは豪雨のため、山麓から地下水が噴出し、土砂、立木、岩石などを交えて押し流す山津波などのことです。
図1 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点<br>井上(2013):関東大震災と土砂災害に伊豆大島を追記,▲びゃくの地点を追記
図1 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点
  井上(2013):関東大震災と土砂災害に伊豆大島を追記,▲びゃくの地点を追記

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 図1に示したように、関東地震による被災地域を調べてみると、今ではほとんど使われていませんが、南関東の広範囲に「びゃく」という地名が使われていたことを知りました(コラム42,43,44,61)。このため、「びゃく」の語源について整理したので紹介します(井上・相原,2015;相原・井上,2015, 2016)。

2.方言としての「びゃく」の研究
 南関東の方言「びゃく」を初めて紹介したのは、柳田國男編(初版1942,1972)『伊豆大島方言集』です。柳田の民族学の原点は徹底的な現地調査に基づく地名研究にあるといっていいと思います。すなわち、絶滅しかかっている日本各地の古い地名を掘り起こすことにより、文字に書かれた記録から過去に関する情報を取り出すことでした(柳田,1936初版;2015))。敬愛していた南方熊楠との2年間にわたる意見交換は生涯にわたる民俗学研究の重要な転機となりました((公財)神奈川文学振興会,2015)。旅と採集の離島研究をする中で、伊豆大島の「びゃく」を見出したが、ことばの起源がわからないとしています。
柳田國男編(初版1942,1972):『伊豆大島方言集』によれば、
 ビャク:崖の斜面
 ビャクガクム:崖が崩れる
 ビャクガオス:山ずりして土砂が押出す
藤井正二・元町読書会(1987):『島ことば集―伊豆大島方言集―』によれば、
 ビャク:山津波(神奈川・千葉・茨城・東京多摩などでは「はまことば」として使われている)
藤井伸(2013):『しまことば集―伊豆大島方言―』によれば、
 ビャク1:崖の斜面、崖そのもの
 ビャクガクム:崖が崩れる
 ビャクガオス:やまずり(活断層のことか)して土砂が押出す
 ビャク2:山津波、土石流、山崩れ、鉄砲水
「びゃく」は一般名詞としての「崖」そのものを指すか、「崖崩れ」を指す場合がある。「びゃくがくむ」「びゃくがおす」の場合は一般名詞「崖」+が(助詞)+くむ、おす(動詞)という使い方と考えられます。
 柳田(1936初版、2015)は地名研究者に対し、「地名を宛字するときの古来の用字法の誤謬」の中で、地名はすべてカタカナあるいはひらがな表記することで地名の起源を宛字からもたらされる先入観を排除する必要があるとしています。一方、白川(1970)は、柳田の民俗語彙の資料収集を基本とした柳田の方法を踏まえながらも柳田とは反対に、「中国の民俗研究には漢字の起源と系譜を迫ることが有効だ」と説いています。

3.葉山町の小名にみられる,層序的にかさなる災害地名
 都市化の進んだ地域では、地名が改変されて小字名などがほとんど減少しています。三浦半島の神奈川県葉山町では町制施行90周年記念として、『葉山町の歴史と暮らし』(葉山町,2015)を発行し,多くの小字名が地形図上で明らかになりました。葉山町の大字「上山口」と 「下山口」には災害地名が多く認められます。この地域には古語や渡来系の小名が層序学的に残存していることがわかります。以下,土砂災害を中心にその特徴を抜き出してみます。図2は、葉山町・逗子市の「びゃく」と「じゃく」の分布図です(相原・井上,2016b;コラム43)。
○唯一「ビャク」地名のある「下山口」では,小字「平」に盤石関連の小名「硯石」「覗石」などの小名がある。本来急傾斜地をさす小名「平」もある。
○長柄地区は4世紀の前方後円墳があり、地方豪族や渡来人が入ってきた可能性が高いので、類似の地形から、下山口地域に古墳に準ずるものがあったのではないかと思われる。
○「上山口」は棚田などの自然地形を利用した土地も残っており、宅地開発などがあまり進んでいない。古語「崩れ」などの災害地名とともに、「ビャByak(u)=闢?(呉音)」の転訛(省略と変質)である「ジャ(Jya)=蛇」にもあり、長い期間にわたって災害地名が残されている。
○上山口は浦賀道(旧東海道)と考えられ、下山口はその裏街道なので、この地に住んでいる人は上山口より少なかったかと思われる。したがって,「びゃく」が変質や失われることなく土砂災害方言として残ったのだろうと思われる。
図2 葉山町・逗子市の「びゃく」と「じゃく」の分布(相原・井上,2016b)
図2 葉山町・逗子市の「びゃく」と「じゃく」の分布(相原・井上,2016b)
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A:1946年2月22日 1829m上空から米軍撮影(縮尺1/11,984) M53-A-7-17  M53-A-7-16 B:1977年10月26日 1250m上空から国土地理院撮影(縮尺1/8,000) CK7-37-1  C30-54-5 C:国土地理院2.5万分の1地形図 HPより

A:1946年2月22日 1829m上空から米軍撮影(縮尺1/11,984) M53-A-7-16,17
B:1977年12月26日 1250m上空から国土地理院撮影(縮尺1/8,000) CK771-C30-4,5
C:国土地理院2.5万分の1地形図 HPより

写真1 葉山町下山口流域の立体写真と地形図(「ビャク」の地点を追記)

 写真1は葉山町下山口流域の立体写真と地形図に「びゃく」の地名を追記したものです
 赤↓は1945年以前に発生し1977年には改修され,黄↓は1945〜1977の間に発生し、現在も河道閉塞中です。さらに上流側に高さの異なる段丘状の崩壊地形があり、河道閉塞と崩壊を繰り返しています。葉山町大字堀内〜一色〜上山口〜木古庭のルート(表1)は,7世紀末から古東海道としての1つである戸塚からくる浦賀道という交通の要所でしたが、「木古庭」では戦国時代に領主の駆落「闕」と百姓の逃亡が起きています。関ヶ原後は、幕府は交通路に人馬継立の厳しい取り立てに困ったという記録もあります。木古庭は湧水地で土砂災害も多かったと思われます。
写真2 下山川付近の露頭と「ビャクバ」の稲荷神社(2016年2月,相原撮影)(相原・井上,2016)
写真2 下山川付近の露頭と「ビャクバ」の稲荷神社(2016年2月,相原撮影) (相原・井上,2016)

写真3 小地名「大崩」「蛇場見」「棚田」の風景写真(2016年2月,相原撮影)神奈川県葉山町下山川中流域・日影山の北斜面(相原・井上,2016)
写真3 小地名「大崩」「蛇場見」「棚田」の風景写真(2016年2月,相原撮影)     
神奈川県葉山町下山川中流域・日影山の北斜面(相原・井上,2016)

表1 葉山町の小名と災害地名(小川,2012をもとに編集)
表1 葉山町の小名と災害地名(小川,2012をもとに編集)

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4.言語学的考察
 蒲田・米山(2001):漢語新辞典 で「びゃく」と読む漢字を探すと、白、百、佰、帛、柏、僻、甓、辟、闢などと多数出ますが、このうち、「突然開いて横に広げる」とか「裂ける様子」を示す音符の「辟」に注目しました。字義は「ひらく」「のぞく」「さける(裂)」で、「呉音」では「びゃく」、「漢音」では「へき」と呼びます。発音は「入声」で、アルファベットで表記すると「byak」(日本人には「k」は声にならない)、中華台北の発音に近いとされます。日本語では「byak-u」となります。 
 音符の「辟」の字体は3つの部分からなっています。部首の「尸」は「しかばね」を意味し、不完全な人間の象形で、つくりの辛(鍼:はり)は傷口を意味します。すなわち、字義は「鍼を挿して一気に引き裂くような(痛みを伴う)現象」であるが、転じて「入れ墨」の意味もあり、生後間もない赤子に厄よけの意味で行われた風習もあるとされます。また、殷代にはその際に使われる刃物として「辛」があり、戦争捕虜を家内奴隷にするために足首を切り落とすという処置が行われており、「辟」と呼んでいました(小川豊,2012)。「辟」は「足首が落ちるがごとく、崖が落ちてくる」と解釈されます。
 土砂災害方言「びゃくがくむ」は孤立語「辟(呉音のびゃく)」→膠着語「びゃくが」→屈折語「びゃくがくむ」という変遷を経て作られたと考えられます。すなわち、「辟」は「裂ける」という意味の象形文字で、それが骨格となって中国大陸からやってきた漢字で、当時にの在来語であった「くむ」(漢字で「崩む」や「崩れ」)が訓読みされて日本語化したが、後述するように、「正音」である「漢音」を奨励する政策によって「呉音」である「びゃく」は使われなくなくなった可能性があります。
 日本では「天地を引き裂くような恐ろしい自然現象」として伝わり,ときに漢字が宛てられたと想像されます。
 一方、豊永(2019)は日本語の中核を形作っているのは「二音節動詞語尾」であり、これにより、日本語を分析できるといいます。「びゃく」という音符は、「bya」+「k(u)」という2音節動詞語尾に分けられます。「bya」は「b」発生時の印象である「飛び散る」という意味をもつ原始動詞で、「k(u)」は、「働きかける」という意味をもつ原始動詞であるといえます。こう考えると、「びゃく」とは「口から飛び出ると意味であり漢字の音符から辿った考察と音節語尾からの考察が類似している」と言えます。

5.歴史学的考察
5.1 漢字伝来と上流階級での公用語
 漢字を伝えたのは4世紀末の応神天皇の御世に百済より渡来してきた王仁(わに)で、「論語」「千字文」にあると「日本書紀」「古事記」に記されています。一方、国内で初めて製作された漢字文は千葉県の市原市の稲荷台古墳から出土した「鉄剣」や和歌山県橋本市の隅田八幡神社の銅鏡などが発見されています。倭の歴代の王は南朝の諸王朝に遣使し、朝貢し、 倭国王としての地位の確認を求め、同時に多くの造形文化や漢字・漢文の摂取に努めました。公用語は「呉音」の漢字であり、五世紀後半までには日本人は漢字を受容し使用していたと考えられています。
 その後、「呉音」は七世紀以後遣唐使等により実用性を否定され、洛陽・長安の発音である「漢音」を正統とする教育が導入されました。八世紀末の延暦年間には儒学・仏教の漢字発音を漢音に統一する試みがなされたが、仏教界の反発が強く、ほどなく「優れた学力の僧侶には呉音の能力を要求しない」という形で、後退を余儀なくされた歴史があります(笹原,2014)。このような事情から、現在は限られた地域にのみ残存する方言(笹原,2013)となったと考えられます。なお、「呉音」の「呉」は中国の歴史上に存在していた「呉」という国そのものを指すのではなく、漢語辞典で「呉音」と分類、把握している漢字音は、古くは「和音」(倭音)ないし「対馬音」と呼ばれているものであり、漢音を「正音」に対するものとして「呉音」として括られたものである(中澤2011)と言われています。

5.2 海洋民の生活と使用した言語
 三浦半島の考古学の知見では、三浦半島の海食台に旧石器時代の遺跡や縄文前期〜中期の住居遺跡が認められますが、縄文晩期(3,000年前)になるとほとんど生活の痕跡がありません。寒冷化が始まる縄文晩期には人々は一時期いなくなりました。そして、弥生時代前期(四世紀後半)には神奈川県で最大の長柄桜山古墳群(平成14年(2002)国指定)が現れました。この古墳は、旧東海道(ヤマトから相模を抜けて東京湾を渡り上総から下総へたどるルート)の陸路と東海地域から伊豆・三浦半島にかけての海上交通の要所に作られました。「前方後円墳」は行きかう舟の灯台の役目を果たしていたと考えられています。また、リーダー格となっていた先進的な海洋民の技術集団が存在していることが推測されます(かながわ考古学財団編,2015)。弥生時代中期には塩田への流通路としての三崎道が通じています。古墳時代後期(五〜六世紀)には下山川の下流域にムラが形成されていました。
 活発な海洋民として考えられているのは安曇(あずみ)氏((はた)氏)という航海術を持つ海人族で、秦は朝鮮語の海を意味する「パタ」の転訛とも言われています。中国春秋戦国時代(紀元前473年)(日本では縄文時代晩期)に中国南部から逃れた難民集団でタタラや農耕、灌漑技術などもたらしました。4世紀初頭には九州から四国に進出し、「呉音」を使っていました。彼らは古代の呪術として、生まれたばかりの男子に入墨をする習慣(文身)がありました(白川,1979)。前述した漢字の説明で「辛」は刃物の他に、「入墨」を額に記すという意味もありました(白川,1970)。古事記や日本書紀には、倭人の特徴として「(げい)(「さける」と訓読みする)面」、すなわち入墨をしていたことが書かれています(奈良県立橿原研究所付属博物館編,2013)。聖徳太子ゆかりの京都市右京区の広隆寺は推古天皇十一年(603)に建立されていますが、 建立者である秦河勝(はたのかわかつ)を祭神とする「大酒神社」は古くは「大辟神社」「大避神社」と書かれたとあり、「おおさけ」と読ませています。この「大辟」については,西周の金文を取り上げ,「中国では大辟は「死刑」を意味する」としています(白川1970)。
写真4 京都市右京区太秦の広隆寺と大酒(大辟,大避)神社(2016年2月,相原撮影)(相原・井上,2016)
写真4 京都市右京区太秦の広隆寺と大酒(大辟,大避)神社(2016年2月,相原撮影)(相原・井上,2016)

 
6.伝承と災害
 安曇氏のルーツは中国揚子江(長江)流域に住む海上生活をする種族です。彼らの社会に伝わっている説話は「天地開闢」です。
 中国古代の漢字研究者白川静は、漢字の生い立ちと背景について次のような解説を行っています。白川(1979)によれば、
 「昔天地が別れる前に、世界は一つの混沌であった。その中に「盤古」が生まれた。盤古は一日に一丈ずつ大きくなり、一万八千年ののち、天地は今のすがたになった。盤古の屍体からは自然が生まれた。気は風雲となり、声は雷となり、目は日月となり、四肢五体は四方四極・五岳となり、血液は江河をなし、筋脈は地理となり、肌肉は田土を形成し、ひげは星辰、皮毛は草木となった。
 一方、盤古系の南方神話に対し、北方には「洪水説話」があります。黄河上流の氾濫地帯における種族が伝えたものです。この洪水説話を発展させ神話としたものに「道教神話」があります。白川(1970)によれば、
 「天地陰陽の気を受けて生まれた盤古真人は、自ら元始天王と称して、混沌のなかに浮遊していた。やがて天地が分かれ、地の岩から水が流れ出た。原虫が発生し、やがて龍が生まれた。その後、流水の中から人間の姿をした太元玉女が生まれた。彼女は太元聖母と名乗り、元始天王と気を通じて天皇を産んだ。…」
 治水神としての「禹王」の知名度は高い(植村善博+治水神・禹王研究会,2019)。「()」は()の国を建てたといわれる王の名前で黄河の洪水を治めて大功があり、聖人となり、信仰集団の墨子学派を作りました。「禹」は爬虫類の一種(虫)をかたどり、音形上は雨に通じて、雨水の神をあらわします。「禹」の神像は人面魚身をしており、時には「龍」形となって現れ、洪水で河口に進むときは龍が首を上げて海に向かって進むと考えられています(奈良県立橿原研究所付属博物館編,2013)。日本人からみると「禹王」は「渡来人」であり、治水神としたのは司馬遷の「史記」です。「治水神・禹王」は武士階級へは儒学書で、庶民には寺子屋における刊行物の朗読を通して広まっていった(王,2014)と考えられます。
 盤古神話や禹水伝説などは、水害・土砂災害の多い気候・地理条件を有する日本の文化に少なからず影響を与えたことは間違いありません。

7.災害の記憶と開発の結果としてのリスク−神奈川県江の島
 江の島は湘南を代表する観光名所で日本百景の地で、古くから人々の生活がありました。島の周囲は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には下部には海蝕台(波蝕台)が発達しています。大正12年(1923)の関東地震後の隆起で海面上に波食棚が姿を現しました。波食棚は観光客の休憩や磯遊び、磯釣りの場として賑わっていました。米軍(1946年撮影)と国土地理院(1977年撮影)の航空写真を比較するとわかりますが(写真4,5)、1964年の東京オリンピック以来ヨット競技場などの施設ができ、大規模な地形改変が行われ、急傾斜地に住宅が増えました。そして災害の記憶もわからなくなりました。
 発生年は特定できませんが、島の南東の中津宮下では凝灰質砂岩急崖(約50m)が度々崩潰し、幼少時に母親から「びゃくがくんだ」というのだと教わったという老女(明治38年(1905)生)の証言があります。江の島大橋左の裏山が明治23年(1890)4月15日の豪雨で崩潰して一家5人が死亡したという石碑もあり、この証言とほぼ同時期です。大正9年(1920)年9月30日の台風の豪雨で「延命寺」裏山が崩潰し、道沿いにある土葬の墓地から多数の人骨が流出しました。さらに同じ場所で昭和36年(1961)6月28日(いわゆる三六(さぶろく)災害)に土砂が流出しました(図3)。
図3 江の島の「びゃく」の地点(藤沢市教育文化センター(2004)に追記)
図3 江の島の「びゃく」の地点(藤沢市教育文化センター(2004)に追記)

写真4 1946年2月15日 1829m上空から米軍撮影(縮尺1/11,930) M46-A-7-1 -176,177
写真4 1946年2月15日 1829m上空から米軍撮影(縮尺1/11,930) M46-A-7-1 -176,177

写真5 1977年12月28日 1250m上空から国土地理院撮影(縮尺1/8,000) CK771 C46-2,3
写真5 1977年12月28日 1250m上空から国土地理院撮影(縮尺1/8,000) CK771 C46-2,3

 昭和39年(1964)の東京オリンピック以来ヨット競技場などの施設ができ,大規模な地形改変が行われ、急傾斜地に住宅が増えています。令和2年(2020)の東京オリンピックを迎え、数千人以上の見学者がこの地を訪れるとも見込まれています。平成23年(2011)の東日本大震災以来,各地で津波避難対策が検討されているが、この付近の避難路は狭い上,災害履歴があります。早急に対応策を検討すべきでしょう。

 残念ながら「びゃく」という言葉も大規模崩壊の記憶も失われています。

8.まとめと今後の研究課題
 「びゃく」は中国大陸起源の象形文字である呉音で発音されたことばで、日本では孤立語「辟=裂ける」が骨格となって、膠着語「びゃくが」と変化し、くむ(崩む:千葉県の方言で「国字」)という訓読みがされ、最後に助詞「が」加わり、屈折語「びゃくがくむ」という変遷を経て、日本語の方言として定着したと解釈できます。
 「辟」を音符とする漢字には「僻」「劈」「壁」「嬖」「臂」「璧」「癖」「襞」「譬」「躄」「避」「霹」「闢」などがあります。このうち、「天地を引き裂くような恐ろしい自然現象」として「(開)闢」や雷雨に伴い土砂災害が起こるときは「霹」と表記されたと想像されます(コラム61)。いずれにしても、畏敬の念をもって災害に対峙する地名として、「びゃく」を伝承として残した可能性があることを示しました。日本人はこの外来語を古語「くれ」や「くえ」であることを認識し、国字「崩」(山+鳳=ひろがり散る)に宛てて、共存させました。「崩」は日本で作られた漢字で、日本でしか使われていません。したがって、方言は層序学的秩序を持って存在します(柳田,1936)。
 拙著(そのU)やコラム61を読んで頂いた天竜川流域の郷土史研究家の今村理則様から、長野県南部の地域を「小字名」を調査していると、「びゃく」に関連する小字名が多くあるとご指摘を受けました。今まで「びゃく」の分布は南関東に限られるとしていましたが、長野県南部まで広がることになります。今村様からアドバイスを受けながら、さらに調査していきたいと思います。

注)コラム41〜43の「びゃく」の表記についてのコメント
コラム41 大島噴火によって生じた災害名「びやく」→「び」+「やく」→「火」「焼」と書いた・・・焼けた溶岩流,御神火,噴石による火災であるが,土砂災害と無関係である.
コラム42 「璧に(おされて)」(たま,へき)(山梨),「璧」は「天子が所持して長さの尺度とする玉」のこと(漢語辞典),「びゃく」の音符「辟」を「璧」は呉音で「びゃく」と読む.この形声漢字は土砂崩壊とは無関係である.
コラム43 毘野首(びやくび)(静岡)…「毘」は古事記において発音「び」に当てた漢字であるが,崩下(びゃく+した)(千葉)…「びやく」を翻訳し古語「くれ」に「崩」を当てた国字
 今も、確実に絶滅しつつある「びゃく」の記述を発見し、考察を深め「びゃく」という土砂災害を表す地名を防災対策に活用していきたいと思います
 本稿をまとめるにあたり、「びゃく」という土砂災害事例調査のきっかけを与えて頂いた田澤堅太郎先生に御礼申し上げます。関東大震災と土砂災害に関する現地見学会に参加された方からも多くの事例を教えて頂きました。「びゃく」の事例を現地調査し用語の起源を分析するに当たり、各地の教育委員会や博物館で様々なご教示を頂いたことに感謝致します。

引用・参考文献
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井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵16p.,本文226p.
井上公夫(2013):関東大震災・横浜の現地見学会報告−1923年9月1日のプールの逃避行ルートを歩く−,地理,58巻12月号,口絵p.8,本文p.82-91.
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井上公夫・蟹江康光・相原延光(2016):関東大震災による横須賀・浦賀地区の土砂災害,地理,61巻3月号,口絵p.4-5.,本文p.80-87.
井上公夫(2014):伊豆大島・元町の土砂災害史,地理,59巻2号,口絵p.8.,本文p.10-19.
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柳田國男(1936初版、2015):地名の研究,講談社学術文庫,320p.
相原延光(あいはらのぶみつ):東京工芸大学工学部・非常勤講師,神奈川県立総合高等学校・非常勤講師,1950年神奈川県生まれ,横浜国立大学教育学部地学科卒業,元神奈川県立教育センター研修指導主事,専門は岩石学,火山地質学,地学教育,元文部省学習指導要領作成協力委員.
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