1. はじめに
「コラム41」でも述べたように、昭和33年(1958)の狩野川台風は、観測史上最大級の台風(最低気圧887ミリバール(以下mb,hPaと同じ)で、最盛期9月24日3時〜25日15時の36時間もの間、中心気圧は900mb以下でした。図1は昭和33年(1958)9月26日0時の天気図(気象庁,1964)で、少し衰えたものの中心気圧は935mbでした。狩野川台風は26日14時ころ神奈川県に上陸しましたが、静岡県東部の伊豆半島(特に狩野川流域)に激甚な洪水氾濫・土砂災害を与えたため、「狩野川台風」と呼ばれています。図2は狩野川台風(22号)による都県別の被害調査図で、狩野川流域だけでなく静岡県東部から神奈川県、東京都に激甚な被害を与えました。伊豆大島・元町地域でも104棟が全半壊し、死者1名、不明1名などの激甚な被害が発生しました(詳しくは「コラム41」をご覧下さい)。
ここでは、伊豆大島以外の激甚な洪水氾濫・土砂災害について、説明します。
図1 昭和33年(1958)9月26日0時の天気図 図2 台風22号による被害調査(9月30日現在)
(気象庁,1964年12月:『狩野川台風調査報告』,気象庁技術報告,37号)
2.東京都周辺の土砂災害
狩野川台風による豪雨は、東京地方で総雨量402.2mm(最大時間雨量76mm,24時間雨量392mm)に達し、気象庁開設以来の豪雨を記録しました。都心付近でより多くの降雨をもたらし、図3に示したように、台地を刻む多くの河川(白子川,石神井川、神田川(上流の妙正寺川,善福寺川,神田川),目黒川(上流の北沢川,烏山川),呑川,仙川,野川など)で氾濫し、下町低地帯でも広く浸水しました(詳しくは国土交通省土地・水資源局,2011の災害履歴図[水害 昭和49年以前]参照)。このため、26日23時に全都に対して災害救助法が適用されました。狩野川台風による都内の浸水面積は211km
2に達し、床上浸水家屋14万2802棟、床下浸水33万7731棟、死者203人にも達しました(東京都建設局河川部,1972,中小河川における今後の整備のあり方検討委員会,2012)。本検討委員会では、東京都建設局河川部の諮問により、狩野川台風などの過去の大規模災害を検討し、東京都内の中小河川における今後の整備の方針が検討されています。
図3 狩野川台風による東京都内の浸水図(東京都河川部,1972)
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私は、狩野川台風の襲来時は小学校3年生で、世田谷区世田谷の桜木中学校付近に住んでおり、世田谷小学校に通っていました。台風通過による暴風雨を受けた後、27日の朝自宅のある高台から北方向(世田谷小学校方向)を見に行って驚きました。桜木中学校から北の烏山川(目黒川の上流部)の河谷は数百mにわたって氾濫し、眼下にある鴎友学園や私の通っていた世田谷小学校付近の住宅まで完全に水没していました。この災害について、東京都立中央図書館や世田谷区立中央図書館で調べました。杉並区向井町(向井町は旧町名で、下井草2丁目に向井橋があります)の妙正寺川、板橋区板橋の石神井川の氾濫状況を示す写真は見つかりましたが、世田谷区世田谷の烏山川付近の被災写真は見つかりませんでした。現在は烏山川のほとんどが河川整備され、緑道となっており、烏山川の氾濫状況を推測できない状況となっています。
昭和41年(1966)6月28日の台風4号襲来(総雨量235mm)による氾濫も激しかったのですが、狩野川台風ほどではありませんでした。
3.神奈川県内の狩野川台風(22号)による洪水・土砂災害
狩野川台風(22号)は、9月27日午前0時、神奈川県江の島付近から本土に上陸、京浜地方を思うがままに跳梁した後、27日午後次第に勢力を減じて仙台方面に抜けました(神奈川県,1958)。神奈川県下の雨量は1日平均300mmで、最も激烈を極めた丹沢地方においては、日雨量410mmにも達しました。
図4 狩野川台風による横浜・川崎市内の崖崩れ崩壊箇所図(気象庁,1964)
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このため、台地・丘陵地の多い横浜市内および川崎市内では、随所で崖崩れが発生しました(図4)。死者93人にも達し、91名が崖崩れ・土砂崩壊によるものでした(2名は水死,気象庁,1964)。●は崖崩れ土砂崩壊による死者発生場所で、横浜・川崎市内の多くの箇所で崖崩れによる犠牲者がでたことがわかります。加えて、低地盤の広がる鶴見川、帷子川の氾濫で、2万5000戸におよぶ家屋が浸水し、数万人の被災者を出しました。また、東海道の動脈は横浜市鶴見区で、鉄道・道路とも2日間にわたって遮断され、混乱は言語に絶するものでした。
狩野川台風や昭和41年(1966)6月28日の台風4号襲来によって、神奈川県では崖崩れが多発しました。このため、「コラム43」の5項で説明したように、昭和44年(1969)から3か年で科学技術庁を中心として「川崎ローム斜面崩壊実験」が計画されました。この崩壊実験は、昭和46年(1971)11月11日に発生した実験事故によって中止されました。
4.静岡県東部・狩野川流域の洪水氾濫・土砂災害
4.1 狩野川流域の被害の概要
狩野川台風によって、伊豆半島の狩野川流域は激甚な被害を受けましたが、日本工営株式会社は国土交通省中部地方整備局沼津工事事務所の依頼により、平成12〜14年度狩野川火山砂防地域流出土砂検討業務委託(2001〜2003)として調査を行いました。これらの報告書の中から、狩野川流域の地形・地質特性を説明します。
図5 伊豆半島中央部の2km谷埋め接峰面と東伊豆単成火山群の分布
(国土交通省中部地方建設局沼津工事事務所,2001;井上,2003)
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図5は、伊豆半島中央部の2km谷埋め接峰面と東伊豆単成火山群の分布(国土交通省中部地方建設局沼津工事事務所,2001;井上,2003)です。2km谷埋め接峰面とは、2km以下の谷を埋めて描いた等高線図で伊豆半島の地形の概要が良くわかります。ピンク色の線で示した範囲は狩野川流域の範囲を示しています。伊豆半島の東部には、多くの単成火山群があり、大室山やカワゴ平火山が目立ちます。狩野川流域では、3200年前に噴火したカワゴ平火山の影響が大きく、火砕流堆積物が大見川流域を広範囲に堆積した後、溶岩流が北方向に流下しました。その後、土石流が繰り返し流下して堆積し、狩野川の河谷を広い低平な氾濫平野に変えました。
4.2 北伊豆地震と狩野川台風による土砂災害
図6は、北伊豆地震(1930)と狩野川台風(1958)による崩壊発生位置図を示しています。北伊豆地震は、昭和5年(1930)11月26日に発生したM7.3の直下型地震で、震央は図6に示したように函南町付近でした(田方郡教育委員会・中伊豆教育委員会,1959;田方郡教育長会・校長会・教育研究会,1981)。北伊豆地震による活断層が、狩野川流域の東部の山地部をほぼ南北に発生しました。このため、当時建設工事中だった丹那トンネルが1mずれるとともに、狩野川の上流域で多くの土砂災害が発生しました(井上,2005)。28年後に襲来した狩野川台風の激甚な土砂災害・洪水氾濫が発生した遠因として北伊豆地震による影響があった可能性があります。
図6 北伊豆地震(1930)と狩野川台風(1958)による崩壊発生位置図
(国土交通省中部地方建設局沼津工事事務所,2001;井上,2003)
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5.静岡県東部・狩野川流域の洪水氾濫・土砂災害
5.1 狩野川流域の被害の概要
台風22号が狩野川台風と呼ばれるようになったのは、静岡県東部、特に伊豆半島の狩野川流域で、激甚な洪水氾濫・土砂災害が発生したからです。狩野川台風では人的被害が非常に多く、死者874人、行方不明283人、負傷者1849人にも達しました(気象庁,1964)。静岡県では、死者736人、行方不明193人、負傷者1497人にも達しました(静岡県広報協会,1962)。図7は、伊豆半島の浸水・氾濫と山崩れ・崖崩れ・地すべりの発生個所、図8は伊豆半島の市町村別被害状況を示しています。
図7 伊豆半島の浸水・氾濫と山崩れ・崖崩れの発生個所 図8 伊豆半島の市町村別被害状況
気象庁(1964):狩野川台風調査報告,気象庁技術報告,37号
表1は、被災時の市町村別の静岡県東部の狩野川台風による人および家屋の被害状況を示しています(昭和36年(1961)9月26日現在)。市町村名と市町村界は図7,図8と同じです。一番被害の大きかったのは、修善寺町(現伊豆市)で死者・行方不明者464名、全壊21戸・流失247戸、次に狩野川中流部の大仁町(現伊豆の国市)で死者・行方不明者220名、全壊41戸・流失147戸、韮山村で死者・行方不明者68名、全壊50戸・流失128戸、大見川上流の中伊豆町で死者・行方不明者83名、全壊84戸・流失110戸となりました。
相模湾に面した伊東市では、死者・行方不明者58名、全壊125戸・流失76戸にも達しました。
表1 人および家屋の被害状況(昭和36年9月26日現在)(静岡県広報協会,1962)
5.2 狩野川流域の狩野川台風による地形・地質特性と降雨量
狩野川は源を伊豆半島の中央部の天城山脈(最高峰・万三郎岳1407m)に発して北流し、左支猫越川・舩原川・修善寺川、右支大見川などを合流し、伊豆市修善寺で田方平野に入ります(建設省中部地方建設局沼津工事事務所,1971)。さらに北に向かって蛇行しながら流下し、函南町日守から流路を西北に転じ、箱根火山から流下する来光川・大場川を合流し、沼津市大岡で北から流下する黄瀬川と合流後、駿河湾に注ぎます(流路延長46km,流域面積852km
2)。天城山の東に大室山(881m)、西に猿山(1090m)があって、その北側に狩野川の集水域が存在します(図9)。
狩野川流域は火山地帯であり、第三紀から第四紀にかけて噴出した天城山、達磨山、箱根山、愛鷹山、富士山などが存在します。狩野川の上流域には各所に温泉が点在しており、観光開発が進んでいます。山地部を流下した狩野川は修善寺付近で開け、東部の山地と西部の段丘との間に幅3000m程度の沖積平野部を蛇行しながら北流しています。このような地形・地質特性を反映して、狩野川台風による豪雨は南部の湯ヶ島で9月6日9時〜7日9時の24時間雨量で694mm、最大時間雨量は120mmにも達しました(図10参照)。
図9 伊豆半島の地形(一点鎖線は狩野川流域)
(気象庁,1964)
図10 静岡県東部の降雨量(9月6日9時〜7日9時)
(静岡県砂防誌編集委員会,1996)
5.3 伊豆半島中央部の山地崩壊および渓流の荒廃
林業試験場の川口武雄・難波宣士・瀧口喜代志・河野良治・岸岡孝は、激甚な山地崩壊・渓流の荒廃が発生した伊豆半島中央部について、山地崩壊・土砂流出状況を明らかにし、今後の治山特に予防治山の基礎資料として、その防止対策を考究するために現地調査を行いました(川口ほか,1959,伊豆治山災害調査会,1959)。調査は北伊豆治山調査団として、昭和33年(1958)11月に5日間と12月に4日間行われ、さらに昭和34年(1959)2月に治山第一研究室として調査が行われました。
図11は、伊豆半島中央部の山地崩壊および渓流荒廃分布図(川口ほか,1959)で、伊豆半島中部の流域界、国有林界を示すとともに、崩壊地(赤点)と荒廃渓流(赤線)をしめしています。狩野川上流部で非常に多くの崩壊が発生するとともに、多くの渓流に土砂が流入し、狩野川本川に激甚な洪水・氾濫を生じる原因ともなりました。狩野川の修善寺橋から上流の流域面積は290km
2で、崩壊箇所数は3500箇所、山地崩壊面積3.5 km
2(崩壊面積率は1.2%)、山地崩壊からの流出土砂量は50万m
3と推定されました。
図11 伊豆半島中央部の山地崩壊および渓流荒廃分布図(川口ほか,1959)
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静岡県広報協会(1962)によれば、集中豪雨に見舞われた天城山北斜面では崩壊した斜面から土砂が押し出し、狩野川最上流部の上狩野村(現伊豆市湯ヶ島)の各集落は大きな被害が発生しました。すなわち、おびただしい山地崩壊によって供給された土石と根こそぎ倒れた流木は、狩野川や大見川の谷底に堆積し、支渓流をダムアップしました。やがて土石のダムは崩壊し、土石流となって、押し出しました。この土石流は谷底一面に溢れながら奔走し、そこに立地する民家を破壊し、押し流し、あるいは埋めるなどの災害となりました。
5.4 中伊豆町(現伊豆市)筏場地区の大規模崩壊と土砂流出
狩野川右支・大見川上流の筏場地区で、狩野川台風では最大の崩壊・土砂流出が発生しました。図12の左図は、平成27年(2015)5月調整の1/2.5万地形図「湯ヶ島」図幅の一部で、天城火山のカワゴ平溶岩流とその北側に広がる火砕流堆積台地を示しています。右図は筏場付近の拡大図です。図13は、国土交通省中部地方整備局沼津工事事務所(2002)の「平成13年度狩野川火山砂防地域流出土砂検討業務委託」(日本工営株式会社)で実施した大見川流域・筏場付近の地質踏査平面図です。地質構成表(凡例)を右下に入れました。
図12の左 2015年5月調整の1/2.5万地形図「湯ヶ島」図幅,右図は筏場付近の拡大図
(〇が崩壊箇所,皮子平と記されている箇所から3200年まえのカワゴ平溶岩流が北流する)
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図13 大見川流域・筏場付近の地質踏査平面図(国土交通省中部地方整備局沼津工事事務所,2002)
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小山(2010)によれば、大見川上流部はカワゴ平(皮子平)と呼ばれる東西1kmの凹地から分厚い溶岩流が流下した特徴的な地形をなしています。この火山はカワゴ平火山と呼ばれ,約3200年前に大規模な噴火をしました。この溶岩流の北端から筏場付近には分厚い火砕流が堆積しています。筏場付近の火砕流は、ピンク色がかった灰白色の細かな火山灰の中に白い軽石が点々と散らばる地層であり、厚さが20mにも達します。この地層はもろくて侵食されやすいために、切り立った谷がいくつも刻まれています。
写真1 蛇喰山地区の大規模土砂流出(静岡県広報協会,1962)
図14 蛇喰山の崩壊模式図(気象庁,1964)
この火砕流堆積物の中には、火砕流の熱によって焼かれた炭化植物が多く含まれています。中には太い枝や巨木が含まれる場合があり、「神代杉・神代檜」などと呼ばれ、貴重な木材資源として利用されてきました(伊豆市資料館に直径2mの円盤状の材が展示されています)。写真1と図13,図14に示したように、狩野川台風襲来時に、この火砕流堆積地で大きく崩壊し、流路変更しました。大見川(図14では筏場川)上流部が
蛇喰川方向に流下するようになり、80万m
3もの土砂が流出したと言われています(静岡県広報協会,1962)。その後、河川改修工事が実施され、大見川(筏場川)は元の流路に戻されました。佐藤(1989)によれば、蛇喰(食)とは大蛇のことで、湧水の多い火砕流斜面の神代杉・檜の採掘凹地には、多くの大蛇が生息していたと筏場の区長から聞きました。写真2は、国土地理院1978年2月27日撮影のカラー航空写真で、筏場地区の地形変化の状況が良くわかります。
赤〇で示した範囲が大きく変化した地域です。
写真2 筏場地区の立体視写真(国土地理院1978年2月27日撮影,CCB77-19,C6-17,18)
5.5 修善寺町(現伊豆市)の狩野川左岸(熊坂地区)の激甚な洪水氾濫
図15は、明治20年(1887)測図、同22年(1889)製版・出版、同42年(1909)鉄道補描の1/2万正式図「修善寺村」図幅で、修善寺橋下流の河川状況を示しています。写真3は、米軍が昭和22年(1947)10月15日に撮影した写真(縮尺1/43971)です。狩野川台風(1958)襲来以前の狩野川周辺の地形・土地利用状況を示しています。河川の両岸には堤防はほとんどなく、狩野川は自然流下に近い状態でした(昭和2年(1927)から堤防工事着手)。図16は、修善寺橋から下流の狩野川の洪水氾濫の流下方向と被害甚大地域(静岡県広報協会,1962)を示しています。写真4,5は、最も被害の大きかった修善寺町下流の昭和37年(1947)12月10日と昭和51年(1976)11月28日撮影の立体視写真です。
図15 1/2万正式図「修善寺村」
1887年測図(1909年鉄道補描)
写真3 米軍撮影(1947年10月15日)の
狩野川流域写真,M557-72(元縮尺1/43971)
図16 鹿野川の洪水氾濫の流下方向と被害甚大地域(静岡県広報協会,1962)
静岡県広報協会(1962)によれば、9月26日昼過ぎから徐々に増水した狩野川は、26日夜に至って、修善寺橋(図16の1地点)でダムアップされ、橋の上流部は異常な高水位を示すようになりました。修善寺橋から300mほど上流左岸の小立野では、浸水は段丘面上の1.5mにおよび、西の山に向かって逆流しました。修善寺橋付近で最高水位は河床上9mに達しました。26日21時40分(大仁署の警察官が確認)、堅固なコンクリート製の修善寺橋を押し倒し、両側の民家を押し流し、左岸の堤防を破って、修善寺町(現伊豆市修善寺)横瀬の集落および修善寺中学(2地点)を押し流しました。その直後、沖の原(3地点)は津波状の激流に襲われ、77戸が跡形もなく流れ去り、続く大仁町(現伊豆の国市)大仁の民家21戸も流出しました。22時をわずかに過ぎた頃(熊坂駐在所の警察官が確認)、狩野川左岸の修善寺町(現伊豆市修善寺)熊坂(地点4)も平野部の90%(79戸)を失いました。さらに22時〜22時30分頃、熊坂の北側で狩野川右岸の堤防を破った洪水は、大仁町(現伊豆の国市)中島(地点5)の民家約半数を押し流しました。
写真6 修善寺橋(鉄橋)
(2019年10月5日井上撮影)(当時はコンクリート製)
写真7 伊豆市狩野川記念公園内の慰霊碑と裏の説明
写真8 同公園内の復興碑
(2019年10月5日中村撮影)
一番被害の大かった伊豆市熊坂地区に昭和37年(1962)3月に狩野川記念公園が建設されました。写真7,8は記念公園内に建立されている「狩野川台風殉難者慰霊碑」と「狩野川台風復興記念碑」(2019年10月5日中村撮影)です。
中島の下流部にあたる大仁町(現伊豆の国市)白山堂・御門(地点6)は、集落の100m程上流で、攻撃斜面(右岸)の堤防を破壊した猛烈な洪水によって、22時半頃(大仁町役場および現地被災者の談)その大部分を失いました。勝村(1981)の『狩野川台風と白山堂』(静岡県出版文化会)には、白山堂の歴史と狩野川との関係、狩野川台風の記録、復興経緯(生まれかわる白山堂)が詳しく記載されています。白山堂27世帯(193人)の全世帯が被災し、死者65人・行方不明者9人、重傷27名,全壊4戸,流出23戸にも達しました。写真9は、狩野川台風殉難者供養塔(昭和37年(1962)9月26日除幕式)で白山神社(写真10)の前に建立されました。
写真9 伊豆の国市白山堂の慰霊碑
写真10 伊豆の国市白山堂の白山神社
(2019年10月5日井上撮影)
白山堂下流左岸の神島でもその一部が破堤によって流出しました。次いで22時55分(南条駐在所巡査が駐在所の柱時計で確認)には、千歳橋(地点7)上流の蛇行部で攻撃斜面(右岸)の堤防が決壊し、決壊部に接する韮山村(現伊豆の国市)南条(地点8)の駅前集落の大半が流失しました。
こうして、横瀬(地点2)より南条(地点8)に至る狩野川河岸の沖積低地の諸集落はほとんど例外なく洪水災害を受けました。修善寺橋流失(21時40分)に引き続いて、横瀬から暫次下流部に及んでいます。しかも、夜間だったため警戒員たちが住民に知らせる間もないほど速やかに決壊し、避難のいと間がなく、多くの犠牲者を出しました。
韮山村(現伊豆の国市)長崎(地点12)、函南村(現函南町)新田・肥田(地点11)を中心とする盆地状低地は、水害常襲地帯で、堤防未完成時代は長期間にわたって民家が水没した地区でした。ここに立地する集落は、いずれも厳重な水害対策をたてていました。宅地の土盛りにつとめ、上流部の諸地方より堅固な屋敷林を仕立て、ほとんど全戸が2階造りとし、一段と高い土盛りの上に2階造りの土蔵や石蔵を建て、多くの民家が小船を常備していました。
狩野川台風による洪水はこの地方一帯で氾濫し、2階の上まで浸水したが、家屋の流失はごく少数で、人的損害はほとんどありませんでした。しかし、狩野川左岸の函南村(現函南町)日守(地点10)では、無堤防であったため、多数の破壊家屋を出したのが目立ちます。
6.むすび
狩野川台風襲来後、狩野川に沿った堤防が整備され、昭和40年(1965)7月に狩野川放水路が完成しました。しかし、狩野川流域だけでなく、神奈川・東京などを襲って激甚な災害となったことをきちんと伝承していくべきだと思います。2019年10月の台風19号の襲来によって、狩野川上流域では狩野川台風時とほぼ同等の豪雨がありましたが、狩野川放水路や河川堤防が整備されていたため、大きな洪水氾濫は発生しませんでした。
本コラムの作成に当たっては、国土交通省中部地方整備局沼津河川国道事務所、静岡県交通基盤部河川砂防局砂防課、防災専門図書館、砂防図書館などで多くの資料を閲覧させて頂きました。これらの資料をもとに、2019年10月5日(土)に、日本工営株式会社静岡営業所の中村明様の案内で、狩野川流域の慰霊碑と筏場地区を訪れ、写真撮影を行いました。
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東京都建設局河川部(1972):東京の中小河川,東京都河川局,108p.
中小河川における今後の整備のあり方検討委員会(2012):中小河川における今後の整備のあり方について最終報告書,81p.
原久雄編著(1981):狩野川台風 熊坂災害・復興誌,熊坂土地改良区発行,575p.