1. 2019年台風19号による千曲川下流域の洪水氾濫
令和元年(2019)10月6日にマリアナ諸島で発生した台風19号は、12日に静岡県伊豆半島に上陸し、関東地方や甲信地方、東北地方で記録的な大雨となり、激甚な被害をもたらしました。消防庁災害対策室2019年11月8日発表の「令和元年台風19号及び前線による被害および消防機関等の対応状況(第49報)」によれば、死者95名、行方不明5名にもなりました。国土交通省砂防部11月12日発表の「令和元年台風19号に伴う土砂災害の概要」(Ver.1.20)によれば、土砂災害発生件数935件、死者15名、行方不明5名にもなりました。
台風19号の襲来はコラム65の原稿を書いている最中でしたので、10月21日(月)に千曲川流域の洪水氾濫域の現地調査をおこないました。
図1は地理院地図をもとに、等高線毎に色分けしてあります。白線は台風19号による氾濫範囲です。千曲川左岸の長野市穂保地区で破堤し、破堤地区から標高の低い西方に流下し、北陸新幹線車両基地を含めて広範囲に湛水しました。破堤箇所のすぐ北側の長野市津野には曹洞宗の
玅笑寺があり、天正八年(1580)に旧三水村(現飯綱町)毛野から移転した寺です。歴代の住職が江戸時代から明治時代にかけて寺を襲った6回の床上浸水の水位を本堂の柱に墨で記しています(信濃毎日新聞社出版局編,2002)。玅笑寺境内にはこの水位を示した標柱が建立されており(写真3,4)、河川学や水文学・防災関係の研究者に良く知られていました。私も中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の善光寺地震(1847)小委員会で、平成18年(2006)の現地調査時に玅笑寺の本堂の柱に記された墨の印や境内の標柱を見て、驚いた記憶があります。この貴重な記録を基準に建てられた「善光寺平洪水位標」は、玅笑寺境内から北へ約1.5kmの国道18号交差点から100m西にあり(写真6,7)、北陸新幹線長野車両基地付近に位置します。
図1 長野市北部の千曲川河川付近の等高線図(地理院地図をもとに砂防F研究第一部江崎充典作成)
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この水位標は昭和16年(1941)、地元・赤沼の篤農家・深瀬武助さんが豊野駅に向かう県道沿いの自分の水田の入り口に建てられました。その狙いは「長沼村はようやくリンゴの村として暮らせるようになったが、かつては毎年のように洪水が襲った。その暴威に屈せず悪戦苦闘して今日をもたらした先祖の労苦を忘れてはならない。」と願ったものです。「最初は50mほど北にあったが、新幹線の車両基地の建設で平成4年(1992)に今の位置に移した」と孫の深瀬堅太郎さんは述べています。
信濃毎日新聞社出版局編(2002)によれば、歴史洪水の最高水位の標高は表1のようになります(千曲川河川事務所調べをもとに表を修正)。台風19号襲来後の玅笑寺周辺の人家やリンゴ畑は2m以上の高さに洪水痕跡が残り、堆積土砂が10〜30cmも堆積していました。写真1,2は玅笑寺境内の氾濫・堆積状況で、弘化四年(1847)の水位標より高い位置までゴミが付着し、この高さまで決壊洪水の水位が到達したことが判ります(高さ2.1m)。さらに1.7m位上に寛保二年(1742)の「戌の満水」の洪水の水位標がありました(写真3,4)。玅笑寺は千曲川左岸の自然堤防上にありますので、この付近では最も高い場所です。この寺のすぐ南側が今回の破堤箇所(穂保地区)で、破堤から8日後の10月21日に現地調査した時には、応急の締切工事が終了していました(写真5)。しかし、破堤箇所から西側の穂保地区などの人家やリンゴ畑は、かなり高速の洪水流が流下して、土砂が堆積したため、激甚な被害を受けていました。
表1 玅笑寺境内と新幹線車両基地周辺の水位標・標高・洪水位
千曲川工事事務所調べの表を修正
写真1 台風19号で被災した玅笑寺入口
写真2 境内に堆積した土砂のサンプリング
(2019年10月21日井上撮影)
写真3 玅笑寺に建立されている洪水位を示す標柱
一番上が戌の満水(1742)の洪水位
写真4 台風19号で善光寺地震(1947)の
洪水位と同じ位置までゴミが付着している
写真5 玅笑寺南側の穂保地区の破堤箇所(応急締切終了)(2019年10月21日井上撮影)
写真6,7は、北陸新幹線の車両基地付近の洪水の水位標(玅笑寺境内より1.6m低い)です。高さ3.7mの位置にある善光寺地震時の洪水位とほぼ同じ位置までゴミが付着しています。弘化四年三月二十四日(1847年5月8日)の善光寺地震から19日後の四月十三日(5月27日)に犀川を塞止めた天然ダム(岩倉山)の決壊による洪水位とほぼ同じだったことが判ります。さらに1.6m上(地上から5.6m上)には、寛保二年(1742)の「戌の満水」の洪水位標が記されています。「戌の満水」は江戸時代以降東日本を襲った最大の洪水災害です(高崎,2001,信濃毎日新聞社,2002,町田,2014,北原,2018)。
図1を見るとわかりますが、千曲川は長野県中野市立ヶ花までは広い洪水氾濫域(白線で範囲をしめす)を持っています。立ヶ花から北は丘陵地の中を狭い流路で蛇行しながら飯山市方向に北流しています。狭い流路の東側には中野市街地の載る広大な夜間瀬川扇状地が、千曲川の流路を塞ぐように発達しています。扇状地の南側には長野電鉄(長野−湯田中温泉間)の延徳駅がありますが、その一帯は延徳田んぼと呼ばれる低湿地で、台風19号襲来により狭い範囲ですが浸水しました。
写真6 北陸新幹線車両基地付近の洪水の水位標
写真7 善光寺地震の洪水水位まで
ゴミが付着している
(2019年10月21日井上撮影)
図2 信州地震大絵図の東側部分(長野市真田宝物館蔵,地名追記)
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図2は、信州地震大絵図の東側部分を示しています。善光寺地震で岩倉山地すべりが犀川を塞き止めました。16日後に満水となり溢れはじめ、19日後に大きく決壊し、洪水段波が流下しました。犀川合流点から千曲川下流で大きく氾濫し、立ヶ花付近の狭窄部で流れきれなくなり、延徳田んぼ方向(中野と小布施の間、篠井川流域)に大きく氾濫しています。広大な夜間瀬川扇状地(中野陣屋(幕府天領)が載る)が存在するため、延徳田んぼの洪水は下流に流下できず、長い期間滞留しました。高社山には善光寺地震時に発生した2カ所の崩壊地が認められます。立ヶ花から丘陵地内の狭い流路を通過すると、飯山の城下町があり、その付近でも大きく氾濫しています(詳しくは『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』のコラム20,21参照)。
図3は長野県北部の接峰面図(1km谷埋め法)と善光寺地震の土砂災害地点(赤羽・井上,2007,井上,2007)を示しています。青色の部分は天然ダムの湛水範囲、青の斜線は決壊後の洪水段波の氾濫範囲です。善光寺地震の震源は×印の地点で、同心円が描かれています。震源地付近から南西方向の犀川丘陵の範囲で、土砂移動が多発していることが判ります。最も大きな土砂移動地点が岩倉山の地すべりで、天然ダムの形成地点です。
本コラムでは、これらの洪水と関連する長野県北部の夜間瀬川流域の土砂災害と砂防事業の歴史について、説明します。
図3 長野県北部の接峰面図(1km谷埋め方)と善光寺地震の土砂災害地点(井上,2007)
青色の部分は岩倉山天然ダムの湛水範囲,青の斜線は決壊後の洪水段波の氾濫範囲
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2.夜間瀬川流域の地形・地質概要
図4に示したように、夜間瀬川は、古い火山である志賀高原から多量の土砂を流出させる流域面積117km
2、全長26kmの急流荒廃河川で、中野市柳沢で信濃川に合流しています。標高2000m前後の志賀高原に源流を持つ横湯川と角間川が山ノ内町の湯田中・渋温泉付近で合流しています。湯田中・渋温泉などの温泉街は横湯川・角間川・夜間瀬川の河床や河成段丘上に発達していますが、しばしば激甚な土砂・洪水災害を受けてきました。また、夜間瀬川下流部は、長さ6km、面積25km
2の広大な夜間瀬川扇状地が形成されています。夜間瀬川扇状地の南側には延徳田んぼと呼ばれる低湿地があります。
長野県は明治39年(1906)から夜間瀬川流域の砂防事業を開始していますが、明治42〜43年(1909〜1910)の豪雨によって、建設されたばかりの砂防施設はすべて破壊され、中流部の河谷沿いに立地している渋・湯田中・穂波などの温泉街も大きな被害を受けました。
図4 夜間瀬川流域の概要(田下ほか,2018,井上,2018)
3.夜間瀬川流域の直轄施工100周年記念シンポジウム
夜間瀬川流域の過去の土砂災害について、長野県建設部砂防課、北信建設事務所、長野県立歴史館、中野市立図書館、和合会、砂防図書館などから関連資料を収集・整理しました。特に、長野県立歴史館には明治39〜44年(1906〜1911)に実測された大判の測量図と横湯川砂防工事関連綴りが保管されています。これらの史料を閲覧するとともに、写真撮影しました(蒲原ほか,2017,田下ほか,2018,Kitahara, etc., 2018,井上ほか,2018)。
夜間瀬川中流部は,昔から温泉街・湯治場があったため,繰り返し土砂災害を受けてきました。夜間瀬川上流横湯川の直轄砂防は大正7年(1918)から開始されており、100周年にあたる平成30年(2018)11月8日(木)に長野県山ノ内町文化センターで、「歴史から学ぶ地域の防災〜夜間瀬川直轄砂防施工100周年シンポジウム」が開催されました(写真8)。当日は竹節山ノ内町長、栗原国土交通省砂防部長を始めとした夜間瀬川砂防行政関係者の参加をいただくとともに、地域住民や地元小学生など約360名が来場し、盛大に行われました。シンポジウムでは信州大学教育学部の竹下欣宏准教授の基調講演「地質が語る夜間瀬川周辺の大地のおいたち」の後、地域に伝わる土砂災害に関連した昔話「池に浮かんだ琵琶」の朗読や、「夜間瀬川 災害と砂防の伝承」と題したパネルディスカッションなどが行われました(井上,2018,藤井,2019)。本調査・研究の成果についても、地域の防災意識向上に役立てるため、ポスターや話題提供として掲示しました。
〈13:30〉開演 あいさつ/100周年記念シンポジウム実行委員長(山ノ内町長)竹節義孝
〈14:00〉講演 地質が語る夜間瀬川周辺の大地のおいたち/信州大学 竹下欣宏准教授
〈15:00〉パネルディスカッション「夜間瀬川 災害と砂防の伝承」
コーディネーター/田下昌志(長野県建設部砂防課長)
コメンテーター/栗原淳一(国土交通省水管理・国土保全部砂防部長)
パネリスト/竹節義孝(山ノ内町長)
畔上不二男(長野県立歴史館専門主事)
井上公夫((一財)砂防フロンティア整備推進機構技師長)
湯本和子(穂波温泉 あぶらや燈千 女将)
写真8 夜間瀬川直轄砂防施工100周年シンポジウム(2018年11月8日)
4.夜間瀬川流域の地形・地質
図5は、長野県林務部作成の1mDEMを用いて作成した夜間瀬川上流域の傾斜量図(井上,2009;脇田ら,2011)で、横湯川と角間川合流点から上流の詳細な微地形を表現しています(蒲原ほか,2017)。志賀山から流下する溶岩流地形とこの溶岩流によって堰き止められたと判断される旧湖沼地帯、その中央部に東西に伸びる落合地すべりが存在し、その下部には野猿公苑付近の横湯川の狭窄部、横湯川と角間川合流点の河床と河成段丘の地形などが読み取れます。溶岩流の上には琵琶池が存在します。
図6は、「長野県デジタル地質図2015」及び防災科学技術研究所 研究資料「1:50,000地すべり地形分布図」(清水ら,2004)を用いて作成した夜間瀬川流域の地質および地すべり地形分布図です(井上,2018)。現況崩壊地と地すべり地形は、横湯川右岸および角間川左岸に集中しています。地質は基盤を構成する閃緑斑岩及び石英閃緑斑岩等の貫入岩類と、志賀火山群より噴出した安山岩質溶岩及び安山岩質火砕岩が広く分布しています。横湯川右岸には、湖成堆積物および土石流堆積物が分布し、落合地すべりの変動域になっています。
赤羽ら(1992)によれば、更新世中期に志賀山からの溶岩流流出による堰止めで、落合地すべり地域の湖沼地帯ができ、軟弱な湖成層が形成されました。横湯川・角間川は溶岩流と基盤岩の境界に沿うようにして流下しています。
図5 夜間瀬川上流域の傾斜量図(井上,2018)
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図6 夜間瀬川流域の地質および地すべり分布図(長野県デジタル地質図,2015などをもとに編集)
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5.夜間瀬川流域の過去の土砂災害
山ノ内町誌刊行会(1973)によれば、夜間瀬川中流部は鎌倉時代から温泉として利用されており、多くの利用者で賑わっていました。一方で、多くの土砂災害を受けてきたことが、中野市千曲川水系治水史編纂委員会(1994),山ノ内町誌刊行会(1973)などの記録から知られています。表2と図7は夜間瀬川流域の主な土砂災害等をまとめたものです。
表2 夜間瀬川流域の過去の土砂災害等
(夜間瀬川直轄砂防施工100周年記念シンポジウム実行委員会,2018の表を一部簡略化)
図7 夜間瀬川扇状地の災害状況図
(夜間瀬川直轄施工100周年記念シンポジウム実行委員会,2018の図を簡略化)
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中野市千曲川水系治水史編纂委員会(1994)によれば,中野市と小布施町の間に広がる「
延徳田んぼ」と呼ばれる低地は、かつて「
遠洞湖」と呼ばれる湖だったようです。『中野古来覚書』は江戸時代の宝暦前後(18世紀半ば)に書かれた古来からの覚書で、すでにこの頃から「遠洞湖」という呼び名がありました。「遠洞湖」はその後晩晴吟社(文化・文政期,19世紀前半)の詩人も使っているし、昔から当地方の関心事でした。この遠洞湖伝承にまつわる遺跡は周辺の村々に多くあります。
一つは桜沢南端の「舟繋ぎ石」です。「遠洞湖」が存在した頃、この角柱状の大きな石に舟をつないだといわれています。そののち湖が干上がって舟繋ぎができなくなっても、そのまま保存されて江戸時代に至り、築堤紛争の解決際の基準として役立ってきました。このように延徳田んぼ(遠洞湖)にとって大事な石でしたが、市役所の新築を祝って市役所の前庭に移されています。
二つは大熊の「飯盛松」で、大熊の上の仙化山に「飯盛松」という見事な松がありました(今は枯死)。建久八年(1197)に源頼朝が草津を経て善光寺参りをしたおり、遠洞湖に舟を浮かべてこの松の見事さをめでたと言われています。ちなみに天保(1830〜43)期に書かれた『信濃奇勝録』にも、この松と山ノ神が描かれています。山ノ神は「仙化山」という呼称からみて、おそらく浅間社(本社富士山)のことでしょう。
三つは更科の高井舟着神社と舟繋ぎ石です。この神社と舟繋ぎ石は崖の上にあり、その西側は一段低くなって「腰巻」と呼ぶ湾曲地形となっています。頼朝はここから「遠洞湖」に舟を出し、歌を詠ったりしながら「飯森松」を見たといわれています。
図7には、これらの舟繋ぎ石を結んだラインを描き、「古遠洞湖」の範囲を推定しました(標高350m,寛保二年(1742)の「戌の満水」よりも範囲はかなり広い)。
夜間瀬川は中野地方にしばしば水害をもたらしてきました。それは、志賀高原一帯の雨水を集めて、島崎(山ノ内町沓野)から中野地方(夜間瀬川扇状地)を襲うからです。伝えられる夜間瀬川氾濫の中で、その後の延徳田んぼにもっとも大きな影響を与えたのは、観応元年(1350)の洪水です。『延徳村史』によれば、「夜間瀬川・松川などは増水のつど土砂を運ぶため、しだいに地盤が高くなる。観応元年には夜間瀬川が氾濫し、小館の城を押し流す。そのさい一時に一丈余(3m以上)の土砂がつもり千曲川は西方に移動し、当地方は一大湖沼の状を呈す。遠洞湖とはこのことか。」と記されています。小館城は中野扇状地の東端の鴨ヶ嶽(標高688.3m)の西麓300mに位置しています。上記の伝承によれば、夜間瀬川はかつて小館城を襲ったといわれ、中野市教育委員会(1991,2000)によれば、地下には厚い土石の層が堆積しています。
これにこりた高梨氏(当時は中野氏の時代)は観応二年(1351)に館の鬼門除けとして王日良山(鴨ヶ嶽)にあった日野社(現王日神社)を居城のすぐ近くに奉還したといわれています(王日神社社伝)。観応の頃、夜間瀬川は扇頂部の松崎から夜間瀬川扇状地を乱流して、延徳田んぼ(遠洞湖)に流れ込んでいたと考えられます。観応の伝承にいう土砂が一丈余(3m)も堆積した場所は、夜間瀬川扇状地南端から延徳田んぼ北辺を指します。そのために、この地帯の地盤が高まり、流れが困難となって、千曲川は延徳田んぼを迂回せず、立ヶ花の旧流路へ回帰を余儀なくされたと考えられます。ちなみに、千曲川の旧流路とは立ヶ花狭窄部から古牧までの現流路を指します。延徳田んぼへは篠井川が流入していますが、そこは低平な地なので千曲川への排水が悪く、常に湖沼状を呈するようになったと考えられます。
応永十三年(1406)の大洪水で、夜間瀬川は現在の流路になったと伝えられています。暴れ川の異名をもつ夜間瀬川はいくつもの氾濫伝承があります。その中で延徳元年(1489)の岩倉沢池(志賀高原)の氾濫・崩壊についてみると、「延徳元年(1489)、沓野の奥の岩倉沢池があふれ抜け、夜間瀬川が激流となって、南の遠洞湖へ流入してしまった。そのため、水がほとばしって蟹沢と立ヶ花との間を掘り下げ、千曲川の流れをよくした。その結果、湖の水もようやく干上がりはじめたのであった」(『中野古来覚書』)。岩倉沢池は志賀高原の山中にあり、三所(岩倉沢・大沼・琵琶)の一つで大きな池であったといいますが、今は残っていません。田ノ原湿原がその残りと言われています。
このように、岩倉沢の氾濫・崩壊により、千曲川の流れがかえってよくなりました。その結果、湖の水も干上がりはじめ、延徳田んぼの開拓が可能となりました。
「遠洞湖には、夜間瀬川・松川から洪水のたびに土砂が運ばれてきたので、地盤が高くなりました。延徳元年(1489)以降、ようやく沿岸の住民が耕地を開拓するようになりました」(延徳村誌)。延徳年間、領主高梨氏(政盛の時代)が千曲川を浚せつして、篠井川を掘り開き、耕地にした」とも記されています(下高井郡誌)。慶長十九年(1614)、豪雨により高社山で土石流が発生し、土石流は蛇礫(じゃがら)地蔵辺りまで流下しました。
夜間瀬川はその後も毎年のように氾濫を繰り返し、享保八年(1723)には旧越村(現中野市越地区)が被災し、高社山麓に移り住みました。寛保二年(1742)の「戌の満水」では、夜間瀬川の濁流が古遠洞湖への旧流路に流れ込み、扇状地の田畑が埋没しました。宝暦七年(1757)には横湯川が出水し、旧上条村(現山ノ内町上條地区)の河原湯が流失しました。渋大湯の裏山が崩壊し、大湯付近の家屋20余戸が倒壊・埋没しました。
弘化四年(1847)の善光寺地震では、千曲川上流・犀川流域の岩倉山地すべりで形成された天然ダムの決壊洪水により、延徳田んぼ等が被災しました(図2参照)。
明治43年(1910)の8月10〜14日には記録的な豪雨が続き、東日本の広い範囲で被災しました(明治以降で最大の水害)。夜間瀬川流域でも甚大な洪水が発生し、浸水面積390町歩、浸水家屋740戸、神社3箇所、温泉6箇所に達しました(写真9)。
写真9 明治43年(1910)8月10〜14日の豪雨による延徳たんぼの湛水 (中野市立延徳小学校蔵)
6.横湯川流域の砂防事業の経緯
表3に示したように、長野県は明治30年(1897)に砂防法が制定された後、浅川,牛伏川,保科川等の砂防工事を開始し、明治39年(1906)から夜間瀬川の右支・横湯川上流部で,砂防事業を開始しました。図9は長野県立歴史館蔵の明治四十一年度横湯川砂防施工個所見取図で、横湯川の右岸側、竜王沢合流点付近の落合地すべり(ビリクソ地区)下部付近で多くの砂防事業を計画・実施中であったことが分ります。この当時の施工は空石積の堰堤や排水路工、積苗工が主でした。しかし、明治43年(1910)8月の大洪水によって、激甚な土砂災害を受け、それまでに建設された砂防施設は、ほとんど破壊され残っていません。図8,9には計画中の施設もありますが、明治末期に施工された砂防施設の配置として、非常に貴重な図です。
長野県沿革史第5編(1915)によれば、「明治三十九〜四十三年ト施工シ来リタル処四十三年ノ大水害ニ依り到底施工ノ途ナキニ至リタルヨリ廃止ス」と記載され、明治43年(1910)10月に砂防事業は中止されました。しかし、被災した地元民からの強い要請もあって、内務省は大正7年(1918)から信濃川上流流域において、直轄砂防事業を開始し、横湯川も施工対象の一つとなりました。施工は新潟土木出張所平隠砂防工場直営で昭和8年(1933)まで行われました。横湯川では65箇所の砂防施設が整備され、現存しているものも多く、練石積の堰堤などが現地調査で確認できました。
表3 夜間瀬川砂防事業の変遷(井上,2018)
昭和7年(1932)に農村振興土木事業が企画されたのを契機として、内務省から長野県に移管され、県工事として砂防事業が開始されました。横湯川と角間川の合流点付近に多くの流路工が施工されました。この際、長野県で初めての砂防事務所として、夜間瀬川砂防事務所が設置されました。横湯川・角間川流域では多くの砂防ダムが建設され、温泉街付近では流路工が施工されることで夜間瀬川の沿川の安全性は増しました。昭和39年(1964)には地獄谷野猿公苑が開設され、近年は世界的に有名となり、多くの観光客が横湯川の河谷を訪れるようになりました。
写真10〜17は竣工当時の写真(信濃川直轄砂防百年史編集委員会,1979)と現況写真を比較して示しました。
図8 明治三十九年度砂防工事の横湯個所図面 明40 39〜40 砂防工事関係書類 土木課
(長野県立歴史館蔵,明40-2B-1)
図9 明治四十一年度 横湯川砂防施工個所見取図
横湯川砂防工事関係綴 第一工事監督区
(長野県立歴史館蔵,明39-2-14-2)
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図10 横湯川における明治期の砂防工事施工
推定箇所(落合(ビリクソ)地すべり付近)
(図9をもとに1/2.5万地形図に推定して作成)
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落合地すべり地域では、本格的な調査が昭和53年(1978)から開始されました。平成2年(1990)の災害を契機として、平成3年(1991)に地すべり防止区域に指定され、本格的な地すべり対策工事が開始されました。平成28年(2016)までに多くの集水井や排水トンネル工が実施され、地すべり変動は抑制されているようです。しかし、平成29年(2017)の融雪期には変動を示す計測器も認められました。このため、長野県北信建設事務所では再度現地調査を行い、地すべり変動箇所を確認し、当地区の地形・地質状況と関連させて、地すべり発生機構の検討が始められています。
写真10 直轄第3号石堰堤(大正10年(1921)竣工)
写真11 同現況写真
信濃川上流直轄砂防百年史編集委員会(1979):松本砂防のあゆみ
写真12 直轄第34号石堰堤(大正12年(1923)竣工)
写真13 同現況写真
信濃川上流直轄砂防百年史編集委員会(1979):松本砂防のあゆみ
写真14 直轄第39号石堰堤(大正13年(1924)竣工)
写真15 同現況写真
信濃川上流直轄砂防百年史編集委員会(1979):松本砂防のあゆみ
写真16 太古岩崩壊地 植栽工施工中(撮影年不明)
写真17 現在の太古岩崩壊地(駐車場)
信濃川上流直轄砂防百年史編集委員会(1979):松本砂防のあゆみ
図11と図12の1/5万地形図「岩菅山」図幅(1931年と1960年)を比較して頂くと判りますが、昭和7年(1932)から始まった横湯川の流路工整備により、横湯川の流路が固定されました。図11では、横湯川の河原に♨マークが付けられ、露天風呂が開設されました。流路工の進捗により、段丘下の谷底低地に徐々に温泉街が形成されて行きました。
図11 横湯川温泉地付近の1/5万地形図「岩菅山」図幅,昭和6年(1931)修正測量
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図12 横湯川温泉地付近の1/5万地形図「岩菅山」図幅,昭和35年(1960)修正測量
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7.穂波温泉街の発達と昭和25年(1950)災害
山ノ内町誌刊行会(1973)によれば、湯田中温泉の対岸に位置する穂波地区は、明治31年(1898)の洪水で川原と化し、長い間荒地となっていました。大正14年(1925)に穂波温泉が発掘され、昭和7年(1932)からの長野県営砂防工事で夜間瀬川(横湯川・角間川)の流路工が整備されると、穂波地区などの段丘面下の夜間瀬川の沿川は温泉街として繁栄しました。
写真18 赤木正雄博士の頌徳碑と説明看板 (2018年8月,井上撮影)
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大正14年(1925)ヨーロッパ留学から帰国した赤木正雄博士は、内務省土木局勤務となり砂防の統括者としての立場となりました。以来、全国の荒廃渓流を踏査し、渓流ごとにその荒廃の原因、形態、地質等による分類を行い、それまでの画一的な砂防計画を改め、各渓流の特性に応じた工法を適用する砂防計画論を確立しました。
赤木博士は、夜間瀬川およびその支川の横湯川・角間川においても流路工を計画し、施工指導を行っています。前述のとおり、明治年間の長野県工事、大正年代から昭和初期にかけての内務省直轄工事による、夜間瀬川砂防の成果を受けて、昭和7年(1932)から再び長野県による砂防工事が開始されましたが、その最初の事業である農村振興土木事業が赤木氏の計画に基づいて行われました。
写真18の頌徳碑は、夜間瀬川の治水砂防事業に貢献した赤木農学博士、及び平隠村の宮崎通知村長と穂波村の山本保村長への感謝の意を表するために、山ノ内町議会が中心となって昭和36年(1961)に建立されたものです。
穂波温泉区誌編集委員会・稲穂温泉区誌編集局(1991)によれば、昭和25年(1950)8月の豪雨で鉄砲水が発生し、角間川左岸の堤防が切れ、穂波温泉街を襲いました。図13はこの災害における濁流の流路を昭和22年(1947)米軍撮影の空中写真上に示したものです。洪水流は穂波温泉街に流入し、段丘に沿って流れ、夜間瀬川本川に戻りました。穂波温泉では死者6名のほか、家屋・耕地被害が多数発生しました(写真19〜21)。また、星川橋に多くの流木がかかり、星川温泉街に浸水被害が発生しました。写真22はこの災害を伝える穂波温泉水害決壊跡地記念碑です。
この災害を受け、横湯川と角間川の合流点付近を中心に流路工などの砂防施設が整備されるとともに、住民の要望で霞堤が整備されました。この災害以降、夜間瀬川流域で死者の出る土砂災害は発生しておらず、穂波温泉街は復興しました。
図13 昭和25年(1950)の災害状況図(井上,2018)
(昭和22年(1947)米軍撮影空中写真の上に堤防決壊箇所等を示す)
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写真19 昭和25年災害の状況@
写真20 昭和25年災害の状況A
(穂波温泉区誌編集委員会,1991)
写真21 昭和25年災害の決壊箇所
(穂波温泉区誌編集委員会,1991)
写真22 穂波温泉水害決壊跡地記念碑
(2018年8月,井上撮影)
8.むすび
本コラムでは、夜間瀬川流域の土砂災害史を整理するとともに砂防事業の展開を知ることができました。今後は、かつて温泉街発展の脅威となっていた上流部の火山性の脆弱な地盤に形成されたV字谷でどのような現象が発生していたのか、また砂防施設がどのように機能しているのか検証していきたいと思います。2018年11月8日に長野県山ノ内町文化センターで「歴史から学ぶ地域の防災〜夜間瀬川直轄砂防施工100周年シンポジウム」が開催され、地域住民や地元小学生など約360名が来場した意義は大きいと思います。
また、1項で述べたように、夜間瀬川扇状地の発達は千曲川の流路を立ヶ花から西側の丘陵地内の狭い流路に追いやり、「戌の満水」(1742)や善光寺地震(1847)時の岩倉山天然ダムの決壊洪水による千曲川流域の異常な湛水の要因にもなっています。今後はこれらの点についてもさらに考察していきたいと思います。
本コラムを執筆するにあたり、貴重な図や写真などを提供して頂いた国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所、長野県建設部砂防課、長野県立歴史館、長野市立真田宝物館、中野市教育委員会(中野市立延徳小学校)、並びに山ノ内町に感謝いたします。
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