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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム68 天和三年(1683)の鬼怒川流域の葛老山崩壊と天然ダムの形成,40年後の決壊による享保八年(1723)の五十里洪水
1. はじめに
 栃木県日光市、利根川水系鬼怒川上流の五十里(いかり)地区(江戸から50里,200km)で天和三年九月一日(1683年10月20日)の日光天和地震(M7.0±1/4)によって、鬼怒川(男鹿川)の右岸斜面(葛老山南西部の戸板山)が大規模な深層崩壊・地すべりを起しました。この地点は震央からわずか3kmで、ほぼ直下で起きた地震によって土砂移動が発生しました(井口・八木,2012)。崩壊した岩塊は斜面下方の布坂山まで崩落して鬼怒川を河道閉塞し、天然ダムを形成しました(湛水高80m,推定湛水量1億2000万m3,後述)。この天然ダムは130日後には満水となりましたが、流紋岩質の堅硬な岩塊が河道を閉塞したため、満水となって越水しても、すぐに決壊することはありませんでした。天然ダムの湛水範囲は、江戸と会津を結ぶ重要な交通路であるため、会津藩によって塞き止め岩塊を除去しようとしました。1万人以上の人足を集め、左岸側の尾根部の凹地を掘削しようとしましたが、岩盤の岩塊をわずかに切土しただけで、湛水を排水できませんでした。
 40年後の享保八年八月十日(1723年9月9日)の豪雨時にこの天然ダムは決壊し、洪水段波が鬼怒川下流域の広範な地域を襲い、その被害は70ケ村に及んだといわれています(宮村,1974;佐藤,1993)。
 天然ダムの形成・決壊と五十里洪水について、越川(1984)などをもとに整理しました。図1に天和三年(1983)の天和地震による葛老山の崩壊と鬼怒川に形成された天然ダムの湛水範囲、及び40年後の享保八年(1723)に天然ダムが決壊して鬼怒川を流下した五十里洪水の流下・氾濫範囲を示しました。
 コラム11で寛文二年(1662)の日光大災害を説明しましたが、その当時は『日光御番所日記』はまだ執筆されていませんでした。天和三年(1683)頃から『御番所日記』が作成され、日光東照宮編で昭和6年(1931)から昭和55年(1980)に『日光御番所日記』(第一巻〜二十巻)として刊行されており、地震災害の発生日時などが詳しくわかるようになりました。この日記などをもとに、越川(1984)は『下野地震史料―日光御番所日記を中心として―』を著し、日光地域の地震災害などを文字情報として、詳しく説明しています。本コラムでは、関連文献や旧版地形図、赤色立体図、航空写真などをもとに天然ダムの湛水範囲と決壊洪水による平面分布を検討した結果を報告します。
図1 1783年の葛老山の崩壊と天然ダム,40年後の決壊洪水の範囲(越川,1984をもとに1/20万地勢図日光・宇都宮・白川・水戸に追記)
図1 1783年の葛老山の崩壊と天然ダム,40年後の決壊洪水の範囲
(越川,1984をもとに1/20万地勢図「日光・宇都宮・白川・水戸」図幅に五十里洪水の範囲を追記)

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2.天和三年(1683)の主な地震
 天和三年(1683)は日光では大規模な地震が発生し、何度も激甚な被害を受けました。
五月二十三日(6月17日),M6.0〜6.5(日本被害地震総覧)
「東照宮・大猷廟・慈眼堂などの石の宝塔の九輪転落、石垣多く崩れる。大谷川左支・ 稲荷川の上流部に位置する赤薙山では、この地震によって甚しく崩れ、土石頂上より薙落て其跡殊に赤し、赤薙の称空しからざる也」(赤線で示した)。
 寛文二年(1662)の日光大災害については、コラム11で説明しました。『光嶺秘艦』によれば、「古く稲荷川の源頭部・七滝付近に湖水が湛えられていましたが、東側の峻崖が崩れて、天然ダムが決壊し、土砂と洪水が一度に押し出したため」と記されています。天和三年五月二十三日(6月17日)の地震によって、稲荷川上流の赤薙山が崩壊したのは、上記の赤薙山の東側の峻崖が拡大して崩れたのでしょうか(櫻井,2012)。
五月二十四日(6月18日),M6.5〜7.0(日本被害地震総覧)
「卯刻(6時頃)から辰刻(8時頃)まで地震7回、巳ノ下刻(11時頃)大地震。御宮・御堂・御殿・慈眼堂・本坊寺院の石垣残らず崩れ、石灯籠すべて倒れる。東照宮・大猷廟の宝塔の笠石その他破損。赤薙山の北方の山崩れる。卯上刻から夜中まで地震196回。江戸でも強く、城内の築屋少し崩れた。」
 この地震によって、男体山の大薙が大崩壊して土石流が発生し(赤線で示した)、細尾地点まで到達したと言われています。大薙の崩壊地は現在も拡大しており、砂防工事などが継続して行われています(全国治水砂防協会,1981;井上,2012b)。
九月朔日(10月20日),M7.0±1/4(日本被害地震総覧)
「下野三依川五十里村で戸板山(現葛老山)崩れ、川を塞ぎ、湖を生ず。鬼怒川の水流れず。寒川(1992)はこの地震を関屋断層系の活動によるとしている。40年後の享保八年八月十日(1723年9月9日)、暴風雨により、水面上昇し、決壊、下流域は大洪水となった。」

3.葛老山(戸板山)の深層崩壊・地すべり
 葛老山(戸板山)の深層崩壊・地すべりについては、儒学者・軍学者の山鹿素行(1622-1685)が日記に記録しています(越川(1984)の山鹿素行先生日記,p.60-61)。
「八月二十九日今暁朔日大地震、久不止、近年無之、同時日光山大地震、過夏地震、所所不残顛倒云云、九月朔日(10月20日)、曇、自夜中雨、依今暁之大地震小動数、午後又小動、各来間今暁之地震、津軽太守、松浦太守各賜使、凡日光山今度朔日二日、大小動地震、七百六十余度、晦日、晴、凡自朔日到今日、日光山之地震不休止、合千四百余動云云。」
[会津藩家世実紀](越川(1984)のp.61-62)によれば、
「天和三年九月朔日(1683年10月20日)、日光御領戸板山地震にて崩れ、御預所五十里川突留新湖出来、五十里川は五十里村高原峠之続布坂山と日光御領川治村分戸板山之間を流候処、今暁丑之刻(1〜3時)日光山大地震いたし暫々御普請出来候石垣不残崩、双輪塔も押倒し、当五月の地震よりは別て強き由、其辺之者とも申候程之事にて、戸板山頽れ布坂山押懸り、川なり四百拾間程(738m)、高さ十弐三丈(36〜39m)計、大石大木夥敷落重り流末を突留、布坂山之麓山頂より高く成候得は、暫時之間忽水湛五十里村水底に成り一里(4km)程之湖水に相成候、村高百弐拾石余家数三拾壱軒、水難を避け中井と申所へ仮に小屋を懸け引移候に相成・・・然は元来之地山布坂之碑き所川にも可成る候と見分致候所、此山之厚さ百九十間(340m)高さ水際より弐拾五六間(45-47m)も可有之、一坪(3.3m2)六人懸り三拾六万人程入候積に有之、大分之事に候間、当分は先上土を取除湛候水之通候程に水口を付置候はゝ、連々は水を以上土を払堀入川形りに可成候、其上にて底之様子知れ可申、大分之土にて候はゝ、水勢を以存之外川に成能可有之、若底に至り岩抔候とも其段は堀様可有之義に候、何れ之道にも南山通之往還留候ては、中迫之者とも失渡世、馬次之村々致迷惑候事勿論に有之、尤其分に仕置候ては、連々湛候水等之節一度に押切候はゝ、関東筋之川所々押流何様之大難出来候事難計、第一五十里村之本田捨り候はゝ、大成憂に候、公儀思召之所も如何に候条、何様にも水を払ふ日も早く水口を明ケ可然と、見分之趣兵左衛門申出候に付、加判之者とも致僉議候はゝ、地山を川に致候普請尤之様に候得共、大分之積急には不成様子に相聞、殊に五十里村之地、只今迄通住所罷成程には迚も難成、縦水口明候とも連々之普請に候得は当分より往還滞候間、松川通新道之事存寄候者有之、土津(にはつ)様御代万治二年(1659)嶋田角右衛門致僉議、此道筋を明候得は諸事之勝手に相成候故、時の御老中迄御内証被仰達候処、故障之筋有之被相止候、然処五十里村之普請容易に成難致事は顕然差見候間、一刻も早く新道相開度由諸人相願一同申候は、中三依村より塩原湯本之上地蔵之曽根と申場所え懸り、高原新田え出候に往還可相成道筋有之、既に只今も塩原より新田迄致往来候得は、僅三依より地蔵之曽根迄の間道に拵候とも輒き様子に相見、人足弐三千人にて可相済、尤高原迄之路程五十里より之道法と差替りは有之間敷候間・・・」と、天然ダムとその後の対応策に関するする所見を述べています。
図1 1783年の葛老山の崩壊と天然ダム,40年後の決壊洪水の範囲(越川,1984をもとに1/20万地勢図日光・宇都宮・白川・水戸に追記)
図2 葛老山(戸板山)の深層崩壊と天然ダムの湛水範囲(1/2.5万「五十里湖」図幅)
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 写真1は、国土地理院が1976年に撮影した葛老山(戸板山)の崩壊地の立体視写真です。図2には「掘割」と記された地点があり、写真2に示した慰霊碑と説明看板が建立されています。日光市五十里自治会が設置した説明看板には「伝 高木六左衛門の墓 この布坂山は別に、腹切り山とも呼ばれています。天和三(1683)年、日光大地震によって葛老山の一部が崩壊し、男鹿川をせき止めて周囲30余kmの湖ができました。これにより、会津西街道の交通は遮断され、会津地方からの年貢米の輸送等の大きな障害となりました。そこで会津藩は藩士の高木六左衛門に堀割の工事を命じ、湖水の切り落としを図りました。しかし、工事は厚い岩盤にはばまれて難航し、完成しなかったのです。そのため、高木六左衛門は、責任を取って、この場所で割腹、自害したと伝えられています。40年後の享保八年八月(1723年9月)この湖は決壊し、その水勢は下流に甚大な被害を及ぼしました。これが歴史に有名な五十里洪水です。」と記されています。
 日本地すべり学会(2002)のカルテ票9-3 日光南会津地震(五十里洪水,井上,2012)によれば、崩壊地の面積13万m2、長さ450m、最大幅400m、土砂量380万m3と見積もられています。この付近の地質は、川治カルデラを埋積した鬼怒川流紋岩類とされ、岩相はデイサイトないし凝灰角礫岩・火山礫凝灰岩を主体としています。発生斜面の地質構造は走向が移動方向に直交し、傾斜が斜面と調和的な流れ盤型を呈しています。
 現在の五十里ダムの貯水池の上部には崩壊土塊が残っていますが、男鹿川に流出して河道閉塞した移動土塊は、40年後の天然ダム決壊によって、ほとんど流出しています。図3は防災科学技術研究所の1/5万地すべり地形分布図「日光」の一部で、葛老山付近の地すべり地形を示しています(清水ほか,1997)。写真3は井口がセスナで撮影した斜め写真で、主な地名が書き込まれています(井口・八木,2012)。この写真では昭和31年(1956)に完成した五十里ダム(高さ112m,総貯水量5500万m3)の水位がかなり低下しており、葛老山地すべりより上流の男鹿川の地形状況が分かり、湖底に残っている地すべり移動土塊が認められます。
写真1 葛老山(戸板山)の崩壊地の立体視写真,CKT-76-1 C13-8,9,10 国土地理院1976年10月6日撮影,元縮尺S=1/15,000
写真1 葛老山(戸板山)の崩壊地の立体視写真,CKT-76-1 C13-8,9,10 
国土地理院1976年10月6日撮影,元縮尺S=1/15,000
写真2 掘割地点の高木六左衛門の慰霊碑と説明看板(日光砂防事務所提供)
写真2 掘割地点の高木六左衛門の慰霊碑と説明看板(日光砂防事務所提供)
図3 1/5万地すべり地形分布図「日光」(清水ほか,1997)
図3 1/5万地すべり地形分布図
「日光」(清水ほか,1997)
写真3 葛老山付近の斜め写真(井口撮影)K:葛老山,Sc:滑落崖,Ls:地すべり移動体,Hw:掘割,Ik:五十里ダム湖
写真3 葛老山付近の斜め写真(井口撮影)K:葛老山,
 Sc:滑落崖,Ls:地すべり移動体,Hw:掘割,Ik:五十里ダム湖

4.天然ダムの湛水範囲と最大湛水量
 葛老山(戸板山)の深層崩壊・地すべりによる河道閉塞によって形成された天然ダムの湛水範囲はどこまででしょうか。図4は1/5万旧版地形図「川治」図幅(1912年測図)に天然ダムの湛水範囲を示したものです。写真4は昭和23年(1948)4月27日に米軍が撮影した立体視写真(M239-2,3)です。これらの図・写真は、五十里ダム(昭和31年(1956)完成)工事以前の地形状況を示しています。
[赤羽守治家文書]「藤原町史 資料編」(越川(1984)のp.226-227)に示されている『陸奥国 会津領御蔵入野州塩屋(谷)郡五十里村湖水水抜候覚書』によれば、山崩れ前の五十里村は、石高120.5石、家数31軒、男女156人でした。山崩れ(湖水)前は、農業のほか駄賃と山稼をして生活(渡世)していました。湖水(天然ダム湛水)後は、駄賃・船賃を取り、生活(渡世)するようになりました(山稼は減少しました)。山崩れ後の五十里村(新田)は、石高6.5石で、合計家数29軒、男女177人となりました。山崩れ前後で比較すると、天然ダム湛水により、石高は95%も減少し、生活がかなり困窮していることが伺われます。
 同様に最上流部の独鈷沢村は、山崩れ前の石高89.1石、家数13軒、男女84人でした。独鈷沢村は農業の外、湖水以前から下駄・足駄などで生活(渡世)していました。
図4 旧版地形図1/5万地形図「川治」(1912年測図)
図4 旧版地形図1/5万地形図「川治」
(1912年測図) 

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写真4 米軍1948年撮影立体視写真(M239-2,3)
写真4 米軍1948年撮影立体視写真
(M239-2,3)

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山崩れ後は、石高72.5石(内本田71.1石、新田1.4石)、家数14軒、男女64人とな りました。このうち新田とは独鈷沢村地内の石木戸地点(現在は位置不明です)で、五十里村の百姓11人が移住したようです。
 五十里村・独鈷沢村の川筋は、野州・奥州の境、横川村男鹿ヶ岳より水流れ、「男鹿川」申候。川幅は六・七間(11~13m)で、日光御領西川村の川(湯西川)と落合、御領川路村の下流にて、鬼怒川へ落合申候。
 40年前の天和三年亥九月朔日(1683年10月20日)に地震が発生し、「日光御領戸板山崩落、五十里村地内布坂山之出崎男鹿川・西川村の川落合候下にて、河道閉塞し、天然ダムを形成した(「築留水湛、湖水ニ罷成候」)」と記されています。
 この湖水は段々水上へ湛え上り、独鈷沢地内中井と申畑高18石、五十里村地内高125.5石が湖水になりました。満水になったのは貞享元年正月十三日(1684年2月28日)で、130日かかり満水となりました。五十里村の集落はすべて水底になってしまったため、名主百姓31人のうち、21人は五十里村より辰巳(南東)方向の山の中段の「上野」というところに引き移って住居仕、残りの10人は湖水を隔て、独鈷沢地内「石木戸」という処へ引越し住居したとのことです。
 湖水長は五十三丁拾八間(5800m)、深さは築留前(河道閉塞箇所付近)で弐拾六間(47m)、本五十里で拾八間(33m)、仏の岩で十間半(19m)、石木戸で三間半(6m)と記されています。
 以上の記載から判断して、図2に示した湛水範囲は、湛水標高630m(独鈷沢の集落が水没する水位)と想定しました。図2から計測すると、湛水高80m、湛水面積は4.5km2、 湛水量1億2000万m3となりました。田畑ほか(2002)では、湛水高70m、湛水面積は4.2km2、湛水量6400万m3と推定しています。昭和31年(1956)に完成した五十里ダムは、堤高113.0m、湛水面積3.1km2、総貯水容量5500万m3なので、葛老山の崩壊による天然ダムの方が、湛水量は大きくなります。

5.天然ダムの決壊洪水
 図1に示したように、天然ダムの決壊洪水は、70km下流まで流下しました。図5(鬼怒川上流部)、図6(鬼怒川中流部)は、国土地理院の10mメッシュデータをもとに作成した赤色立体図の上に決壊洪水の範囲や被災集落の地名などを示しました。
 全国治水砂防協会(1981)の「1.1 稲荷川(大谷川)水系工事誌」によれば、享保八年八月五日(1723年9月4日)から十日(9月9日)まで豪雨が降り続き、大谷川・稲荷川・田母沢で洪水・土石流が発生しました。山内で出水、御番所流出、日光仮橋流失し、交通途絶などの大被害となりました。下流でも鬼怒川の支流の荒川(新川)、山田川、田川、釜川が氾濫し、五十里洪水がさらに激化したようです。
 以下、[栃木県史 地理編](田代善吉著)の第三章 五十里洪水(越川(1984),p.220-226)をもとに、天然ダムの決壊洪水の状況を説明します。
5.1 藤原地方(現日光市)
 享保八年八月十日(1723年9月9日)午後2時半頃、掘割の西部に堆積した岩石は、長き湿気に土砂がゆるみ、一途に押し崩されたので、40年間蓄水した湖水はたちまち押し流されました。あたかも山の如き決壊洪水が流下しました。決壊洪水は、11km下流の藤原に午後3時頃(平均流速22km/h)、22km下流の大渡に午後4時頃(平均流速11km/h)、32km下流の小林に午後5時頃(平均流速9km/h)、45km下流の氏家に午後6時頃(平均流速13km/h)流下してきました。
 4km地点の高原新田では、高い位置にあったので幸いにも水難はありませんでした。11km地点の藤原は四周山に囲まれ、川幅もせまかったため、泥水が潮の如く押し寄せました。山の如き濁流が押し来るや、村民は始め水と思わず、黒雲であると思った所が大洪水でした。これと知るや皆先にと裏山へ必死となって逃げ避けました。藤原の北西に「太閤オロシ」という難所があります。龍王峡と呼ばれる峡谷で、左支野沢の上流1.5kmの日塩有料道路沿いに太閤下ろしの滝があります。この地区は旧会津街道ですが、道幅僅か2尺(60cm)しかなく、40度位の急斜面なので、馬を通ずることは容易でなかったようです。会津に向かった秀吉がこの箇所の手前で馬を降りて歩いたとか、上記の滝を愛でたとか言われています。
 決壊洪水はこの渓谷部を高速で流下(流速22km/h)したため、急斜面の岩石は大音響とともに崩壊しました。その時の凄き物音は尋常ではありませんでした。その上大ベツリ、小ベツリという難所(はっきりとした位置は不明です)もありました。大ベツリは藤原への入り口約半里(2km)で、川を隔てて下滝という温泉場がありました。小ベツリは藤原の入口にて2〜3戸人家のある処ですが、山上より土砂崩落して人畜に被害がありました。両難所とも年々幕府の命によって、河岸の崖に柱を建て、板や粗朶を並べて橋となし、山際の砂を平らにして道となした地区でした。決壊洪水は山の中段までも浸水したので、道路などは跡方もなくなってしまいました。今は会津西街道として県道に編入され、大ベツリ、小ベツリという難所も自動車や電車で通行できるようになりました。
 藤原付近では、岩砕け、砂を流し大石転げ出したる箇所も多く、狭き山間なるが上に、土砂崩れのために藤原集落は幾分水湛える気味になりました。村民は西北にある高台に避難して命は辛くも助かりましたが、住むべき家は残らず押し流されました。上ノ台という処に避難した者は、字小原の民家より山伝えに食物を運びました。2日目に上滝の民家は流失しました。
 流失した本地方も3年後にはほぼ復興しました。藤原村民では溺死した者はありませんでしたが、往来せし人、旅人は残らず死せしも、その数は知れないという。
 16km地点の大原は河岸段丘の上にあり、地高く河幅が広いため、災害を蒙らず、只浸水しただけでした。しかし、畑地には泥土が堆積しました。
 20km地点の高徳もまた谷間広く、河よりも高き処にあるため被害を受けませんでした。ただ河岸にありし畑地に浸水しただけで、人畜に被害はありませんでした。21km地点の中岩は宇都宮領と日光領との境界にあたるので、碑を建ててその領分を明らかにしていたが、決壊洪水により碑は流されてしまいました。
図5 葛老山の崩壊と天然ダムの湛水範囲,決壊洪水の流下・堆積範囲の赤色立体図(国土地理院の10mメッシュデータをもとに磯谷和也作成)
図5 葛老山の崩壊と天然ダムの湛水範囲,決壊洪水の流下・堆積範囲の赤色立体図
(国土地理院の10mメッシュデータをもとに磯谷和也作成)

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図6 鬼怒川中流の赤色立体図(五十里洪水の流下・湛水範囲囲と越川(1984)による地名(赤色立体図は国土地理院の10mメッシュデータをもとに磯谷和也作成)
図6 鬼怒川中流の赤色立体図(五十里洪水の流下・湛水範囲囲と越川(1984)による地名
(赤色立体図は国土地理院の10mメッシュデータをもとに磯谷和也作成)

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5.2 籠岩(塩谷郡塩谷町)
 23.5km地点の鬼怒川の川中には、籠岩と呼ばれる大岩があったが、今は北岸にあります。岩の大きさは、五、六十間(90〜108m)で、砂岩からなるが、その形は籠を幾つも並べたような形状しているため、名付けられました。決壊洪水は籠岩の下を潜流し、岩の突起にぶつかる様は絶景というか物凄い光景でした。この洪水のために、籠岩も押し埋められたところも多く、岩体侵食を受け周辺のみ残っています。現在鬼怒川の中に高二丈(6m)ばかりの大岩があり、俗に籠岩と呼ばれていますが、誤りです。これは「ヒヨトリハガ」という岩で、北岸は水深ければ南岸の町谷、大渡方面から岩上に登ることができました。籠岩は流水の侵食作用のため、軟弱な部分は欠けてしまいました。

5.3 船生、大宮方面(現塩谷郡塩谷町)、小林(現宇都宮市)
 22km地点の河内郡豊丘村大桑及び芹沼、25km地点の大渡方面は、皆浸水を受けました。大渡は日光領への入口であるので、船生より渡船をして交通の便が計られていました。この地方は川幅が広いため、家屋などで流されていたものはありませんでした。船生は丘地にあるため、その災難を免れました。30km地点の佐貫方面も家屋被害はありませんでしたが、浸水地域は広く、田畑に土砂が押し寄せた所もありました。
 32km地点の河内郡篠井村小林では、田畑流出しただけで、人畜には被害はありませんでした。
 37km地点の塩谷郡大宮村付近では、上沢地方は高地に位置するため、浸水しませんでした。37km地点の風見、38km地点の上平は浸水し、田畑に土砂が流入し、農作物に被害が多くありましたが、人畜には被害はありませんでした。上平では河原の中に材木蔵があり、増水にてその蔵も危くなったので、村内に急告を発し、川除を急造しようとしましたが、増水は激しくなり、材木だけでなく材木蔵さえも押し流されました。蔵の普請に来た者の中には、己れの命助からんと泳ぎ出た者もあったが、溺死した者も多くでました。蔵の屋根に登りし者は残らず命は助かりました。37km地点の大宮、38km地点の田所、39km地点の大久保、41km地点の肘内なども浸水を受けました。これは、左支川の新川(荒川)からの氾濫水による影響も大きいものと思われます。

5.4 氏家町・阿久津付近(現さくら市)
 鬼怒川の流れは、37km地点の風見付近より平野に出るため、水勢は緩流となるも、川幅広く洋々たる濁流物凄き有様でした。上平の西に羽黒山があります。洪水流は羽黒山に衝突し、その余勢を以て東に偏向し、45km地点の氏家町方面に猛進したので、この方面の被害を大きくしました。41km地点の押上の清滝神社の松林に、上平の材木蔵が流れてきて止まりました。43km地点の長久保新田、43km地点の蒲須坂新田、43km地点の富野岡など一面の洪水にて、田畑はことごとく泥海と化し、農作物は流されて収穫は皆無となりました。残るものは家屋のみの荒原となりました。45km地点の馬場、47km地点の桜野、47km地点の氏家新田などは、洪水高一丈三四尺(3.9〜4.2m)にも達しました。45km地点の氏家町は鬼怒川より約半里(2km)以上も隔たり、かつ河床よりも低くはありません。しかし、洪水流の中心がこの方面を流下したため、人馬の溺死するものが多くなりました。
 馬場村には郷社今宮神社があり、毎年祭礼には近在の者参詣する者が多い神社です。この年も屋台を出し、娘子供などが踊りを仕込み、賑やかに祭礼を行わんと準備していましたが、この洪水のために中止となりました。
 48km地点の塩谷郡上阿久津では、床上浸水すること三四尺(0.9〜1.2m)に達したが、村民は東の台地に避難して人畜に被害はありませんでした。しかし、上阿久津には数多くの御蔵があり、数棟で流失などの被害がでました。

5.5 羽黒村(現宇都宮市)
 河内郡羽黒村では、39km地点の宮山田、41km地点の今里などは、羽黒山のために浸水を免れ、被害はありませんでした。冬室・関白・中里などは、鬼怒川からの洪水を受けませんでしたが、山田川の氾濫で田畑に土砂が流入しました。38km地点の鬼怒川流域には、以下のような民話があります。
宇都宮の歴史と文化財:五十里洪水の予言,歴史文化財資料アーカイブ,宇都宮にまつわる民話
 https://utsunomiya-8story.jp/archive/contents_03/tale03/co-1/
「むかし、二荒山の大明神を深く信仰しているおばあさんがいました。ある晩、大洪水が起こるという夢をみました。その夢とは・・・。二荒山神社の神主たちが集まって相談をしていました。
 そのとき、本殿の奥の方から、「この付近は、八月十日(民話では8月8日となっています)に大洪水に見舞われ、多くの人々は、命を落とすことになるだろう。どのように防げばよいか。」という神様の声が聞こえてきました。
 このとき、長老の神主が「大洪水を防ぐには、羽黒山のふもとのイチョウの木を切り倒し、その木を川すじに横たえて水の流れをさえぎれば被害は少なくなると思われます。」と答えました。
 しかし、羽黒山のイチョウは神木なので、切り倒してよいか羽黒山の神と相談することになりました。長老の神主が神社の前に置かれた木馬に乗ると、木馬はたちまち生きた白馬に変わり、空高く飛んで行きました。
 しばらくすると、神主は羽黒山の神とともに戻ってきました。そして、二荒大明神に神木のイチョウの木を切ることを承知すると伝えました。
 おばあさんはたいへん驚いて飛び起き、朝になると近所の人たちに「大洪水が起こる!」とふれまわりましたが、だれも信じてはくれません。仕方なく、一人で大明神を一心に祈りました。
 享保八年(1723)八月七日から降り続いた大雨は、五十里湖の堤防をくずし、宇都宮の方面に向かって流れ出しました。そのときです 、羽黒山のふもとのイチョウの木が、流れをさえぎるかのように横に倒れました。
 また、二荒山大明神の古い杉の木がイチョウの木を支えるために、羽黒山に向かって飛んで行ったではありませんか。こうして宇都宮は大洪水から救われたのです。
 このことがあってから、宇都宮の人々はおばあさんの言葉が思い出され、二荒山の大明神を尊敬するようになりました。なお、杉の木に支えられたイチョウの木が横たわっていたあたりは、今では逆木と呼ばれています。」
 右岸側には逆木という地名があり、享保八年八月八日(1723年9月9日)の決壊洪水の際に、流木を多く含む崩壊・土石流が発生して、鬼怒川の南側の河道を塞ぎ、宇都宮方向の洪水流の流下を減少させ、宇都宮の中心部まで、洪水流が流下しなかったようです。

5.6 絹島村・田原村・古里村・平石村・瑞穂村・本郷村・豊郷村(現宇都宮市)
 鬼怒川の南側に位置する河内郡絹島村の40km地点の上小倉、43km地点の下小倉、45km地点の東芦沼・西芦沼などは、決壊洪水流下後一面の湛水となり、田畑残らず浸水およそ三尺(0.9m)、村内一体の浸水のため、田も畑も水のみにて青物は見られませんでした。ただ寺の屋敷十坪(33m2)ばかりは浸水しなかったようです。
 河内郡田原村の47km地点の上田原、50km地点の下田原、48km地点の古田、50km地点の室井などの地内は、田畑に土砂侵入し、川原となれる所もあったということです。
 河内郡古里村の47km地点の下ヶ橋は、一面に泥水の侵入を受け、田畑は押し流され、家屋は倒され、溺死する者はおびただしく、その惨状は甚しくなりました。下ヶ橋郷間由蔵宅の裏に大榧の木があり、その木に登って助かった者もありました。その榧の木は今もなお現存しているようです。50km地点の白沢も浸水したが、村民はすぐ近くの台地に避難できたので、溺死する者はありませんでした。西の台地の麓まで一面の湛水となったので、何れの家も床上三四尺(0.9〜1.2m)も浸水しました。51km地点の和久は四尺(1.2m)浸水したが、西の台地に避難しました。52km地点の中岡本、55km地点の下岡本も西の台地の麓まで浸水したが、台地に避難し、死傷者はありませんでした。しかし、この地域の田畑には水砂流入し、荒地となった所が多くありました。
 河内郡平石村では、59km地点の上平出、60km地点の下平出、62km地点の石井などは宅地及び田畑に土が侵入しました。平出の村民は雷神社山に避難しました。
 河内郡瑞穂村では、63km地点の上桑島、65km地点の下桑島、66km地点の西刑部、66km地点の東刑部、67km地点の木代などは一面浸水三四尺(0.9〜1.2m)になり、田畑は泥砂となりました。
 河内郡本郷村では、67km地点の文挟、67km地点の西木、68km地点の東汗などは田畑に土砂侵入して一面水となって時ならぬ湖水となりました。
 河内郡豊郷村にては、鬼怒川洪水の余勢を受けて、田川もまた大洪水となりました。52kmの上川俣、53kmの下川俣、55km地点の山本、55km地点の長岡、55km地点の岩倉、56km地点の竹林などは一面の泥海と化し、家屋の流れるもあり、田畑には土砂が侵入しました。山田川、田川からの洪水も加わって氾濫したようです。
 57km下流の八幡山(宇都宮市)の下通りの57km地点の今泉・塙田・宿郷・簗瀬、その他下町全域が浸水三四尺(0.9〜1.2m)、田畑に土砂侵入し、作物は流出して皆無となりました。
 河内郡横川村田川洪水のため、60km地点の東川田、62km地点の上横田、猿山新田、63km地点の東横田、65km地点の中島などは浸水し、土砂流入して田畑を埋めたようです。田川洪水と書いてありますが、氾濫範囲から考えて、釜川からの氾濫もあったと考えられます。

5.7 清原村(現宇都宮市)
 鬼怒川東岸の芳賀郡清原村では、55km地点の坂戸、57km地点の刈沼、57km地点の刈沼新田、58km地点の道場宿、59km地点の竹下、61km地点の鐺山などは、床上三尺(0.9m)の浸水、田畑は残らず河岸のものは土砂に埋められました。

5.8 決壊洪水の氾濫範囲のまとめ
 以上の記載は、『栃木県史 地理編』の著者・田代善吉氏が実地に踏査し、あるいは古記録・口碑などによるものです。「其の時期は未だ制度の不完全なる時代なれば、被害各地の具体的調査を行はれざるを以て統計の如きものなく、被害田畑の反別、浸水家屋数、死傷者の数など知ること能はざるを遺憾とす。古里郷土に左の如き記事あるのみ。
 享保八年八月一日(1723年8月31日)、二百十日御座候処、八月十日(9月9日)五十里抜け土台下より氏家下迄平押に相成候、氏家大谷川通御領分中流死者九百九十七人御座候。上小倉村にて簗人数十二人一人も不残流死仕候。同村にて他十一人流死して二十三人子も(子も流れたとあるは親子共流死の惨を云ひるならむ)。上平流河原新田にて馬十三疋、流民氏家にて百人。大谷村にて四十人流死、東下ヶ橋にて家二十五軒、五人流死、下小倉芦沼村にて一人も紛せず候也。清原村滝原に家三軒流、水量三丈余も増したる云々。
 溺死したる人畜は、其の数を知れずと云ふことなるべし、翌九年(1724)幕府にては、川除普請を仰付けたり。惨害を蒙りたる村々は、皆石を以て川除の堤を築き立てたり、敷五間(9m)、高さ九尺(2.7m)、馬踏九尺(2.7m)と云ふ堤防なり。
 惣奉行石原七郎兵衛は前記の村々に出張し、東西に紙旗を立て目標とし、専河除工事を監督せり。田畑の砂入りたるは、幕府より賃銭を下附し、他村より人夫を傭へ河除普請に当らしむ、且つ石砂を取り除けしむ。人夫の入り込みて工事に従事すること数百人、古今未曾有の大事業たり。
 東は氏家、肘内より西は宇都宮、横川に至る、東西約六里(24km)、肘内、中里に至る約二里(8km)の間は漫々たる大湖水と化し、深さは平均三尺(0.9m)以上の浸水なりと、如何に大洪水なるかを予想せしむるに足る。」

6.むすび
 天和三年九月一日(1683年10月20)の日光天和地震によって、葛老山南西部の戸板山が大規模な深層崩壊・地すべりを起して鬼怒川(男鹿川)を河道閉塞し、湛水高80m、湛水面積は4.5km2、湛水量1億2000万m3の天然ダムを形成しました。40年後の享保八年八月十日(1723年9月9日)午後2時半頃、この天然ダムは決壊し、「五十里洪水」が鬼怒川の70km下流まで流下し、激甚な被害を与えました。1/5万旧版地形図や越川(1984)『下野地震史料』などを丹念に読み取り、土砂・洪水氾濫状況を解明し、図5,図6 赤色立体図に氾濫範囲を示しました。
 「新型コロナウィルス問題」などで、詳しい現地調査を実施できない状況です。越川(1984)に記載されている「高原峠、中井、上野、石木戸、仏の岩、大ベツリ、小ベツリ、下滝(温泉)、上ノ台、上滝、字小原、中岩、籠岩、ヒヨトリハガ」などの地名を特定できていません。本コラムを読まれて、「五十里洪水」に関して地元に残る被災状況などの史料があれば、教えて下さい。春になったら現地調査をして確認したいと思います。

引用・参考文献
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