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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム70 兵庫県南部地震(1995)と土砂災害を振り返って
1. はじめに
 平成7年(1995)1月17日早朝5時46分に発生した兵庫県南部地震(M7.3)は、阪神地方を震度Zの激震となって襲いました。気象庁HPの『過去の地震津波災害(明治以降1995年まで)』(2021年3月12日閲覧)によれば、死者・行方不明者6,437人,倒壊家屋19万戸にも達する大惨事となり、阪神・淡路大震災とも呼ばれています。
 神戸〜西宮市街地の背後には、六甲山地の急峻な山並みが続いており、風化を受けやすい花崗岩で形成されています。このため、土砂の生産・流出・堆積作用が非常に活発で、下流域は度々大きな被害を受けてきました。特に、昭和13年(1938)には、豪雨による土砂災害が多発し、死者・行方不明者715人、被災家屋12万戸にのぼる大災害が発生し、六甲山地南麓の市街地も大きな被害を受けました。この災害を契機として、内務省では六甲砂防事業所を設置して、砂防事業を精力的に進めてきました。
 建設省近畿地方建設局六甲砂防工事事務所では、各方面の支援を得て、兵庫県南部地震による影響を精力的に調査しました。地震直後の調査段階では、大規模な崩壊や土石流は少なく、砂防施設などに大きな損傷は認められませんでした。これは、地震が雨の少ない時期に発生したことと関連しているようです。
 しかしながら、過去の大規模地震の関係資料を調べてみると、地震後の降雨により大きな土砂災害が発生している事例が多くあります。六甲山地でも激烈な地震動によって様々な変状が発生したと思われます。このため、今後の降雨により、崩壊や地すべり、土石流、天然ダムの形成と決壊による二次災害の発生が心配されました。
 このため、建設省河川局砂防部では平成7年(1995)9月に『地震と土砂災害』という冊子を監修(企画・編集:砂防・地すべり技術センター)、発行しました。この冊子では、過去の大規模地震による土砂災害事例を整理し、兵庫県南部地震の事例と比較することにより、地震とその後の降雨による土砂災害との関連をまとめました。
 兵庫県南部地震から10年後の平成17年(2005)1月18日〜22日に、神戸ポートアイランドの神戸国際会議場で、「国連防災会議」が開催されました。同時に「忘れるな!神戸〜市民を救え!町を守れ〜」と題して、第9回震災対策技術展自然災害対策技術展が開催されました。前年の2004年12月26日にスマトラ島沖地震(M9.1)が発生したため、168ヵ国2万4000人もの参加者があり、連日大きく報道されました。
 国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所では、平成19年(2007)3月に冊子『地震、土砂災害と緊急支援』を刊行しました。この冊子は上記の震災対策技術展で阪神淡路大震災10周年実行委員会が展示したパネルなどを再編集したものです。
 本コラムでは、上記の2冊の冊子などをもとに、26年前の兵庫県南部地震とその後の土砂災害について振り返り、主な土砂災害地点については現地調査を行いました。

2.六甲山地の地形・地質的背景
 図1は、近畿地方の活断層と被害地震の関係を示したものです(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)。太平洋側では、宝永地震(1707.10.28)、安政南海地震(1854.12.24)などのM8級の海溝型巨大地震が発生しています。近畿地方内部でも琵琶湖西岸地震(1662.6.16)、伊賀上野地震(1854.7.9)、北丹後地震(1927.3.7)などのM7級の直下型地震が発生しています。近畿地方には赤線で示した多くの活断層があり、繰り返し続いた地殻変動(地震や断層活動を含む)によって、特有の地形・地質構造が形成されてきました。東北東−西南西方向に延びる六甲山地の南側には西宮市〜神戸市の連続する市街地が存在し、多くの渓流が六甲山地から海岸に向かって流れ、土石流扇状地が重なり合って存在する(複合扇状地を形成)ことが分かります。
図1 近畿地方の活断層と被害地震(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)
図1 近畿地方の活断層と被害地震(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)
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 図2は六甲山地の余色立体図で、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5000分の1地形図のDEMデータを用いて作成されました(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)。赤青メガネをお持ちの方は、ご覧いただくと、六甲山地の立体地形が実感できます。
 六甲山地から流れ出す河川はいずれも山地内では急峻なV字谷を刻み、海岸近くの平野部に出ると、土砂を氾濫・堆積させて、明瞭な土石流扇状地を形成しています。これらの河川侵食による谷を埋めて地形を復元したのが図3の接峰面図です。この図は地形図を2km方眼に切り、それぞれの中の最高点をつないで作成したものです。この接峰面では、住吉川や生田川などが掘り下げた谷地形は表現されません。つまり、接峰面図は、河川侵食を無視した地形の概要を把握するのに適した図です。この図によれば、六甲山地には多くの活断層が走り、直線的に区画された幾つかの地塊に区分できます。
図2 六甲山地の余色立体図(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)国土地理院の2万5000分の1地形図のDEMデータで作成
図2 六甲山地の余色立体図(国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,2007)
国土地理院の2万5000分の1地形図のDEMデータで作成

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図3 六甲山地周辺の接峰面図と活断層(岡田,1995)藤田・笠間(1971・1982・1983)などをもとに編集,基図は30m間隔の接峰面図
図3 六甲山地周辺の接峰面図と活断層(岡田,1995)
藤田・笠間(1971・1982・1983)などをもとに編集,基図の等高線は30m間隔の接峰面図

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 大阪湾を取り囲む地域から京都盆地にかけては、多数の活断層が分布しています。この地域では歴史時代を通じて多くの被害地震が発生しています。今回の地震を含めて考えると、活断層のあるところでは数千年の間隔で直下型の地震が発生しているようです。古墳時代以降の被害地震の発生状況やその規模からみると、近畿圏は地震多発地帯と考えることができます。
 図4は六甲山地周辺の地質図です(池田,2001)。ピンク色部分が六甲花崗岩で、六甲山地の起伏の多い山地部をなしています。東北東−西南西に走る多くの断層によって六甲山地は分割されていることが分かります。六甲山地は活断層を境に階段状に上昇しています。活断層が通る山地斜面は一般に急斜面で、亀裂の発達した岩盤が露出しています。山頂部や台地状部は比較的なだらかな起伏を示しています。
 このような地形・地質条件を反映して、六甲山地を流下する河川は急流河川であるため、集中豪雨などを誘因として、六甲山南麓は大規模な土砂災害を受けてきました。特に、昭和13年(1938)7月の集中豪雨による阪神大災害は激甚で、死者・行方不明者715人、家屋の流失・倒壊・埋没5,732戸、半壊家屋8,630戸、浸水家屋10万9730戸にも達しました(六甲砂防事務所,1991)。この土砂災害を契機として、昭和13年(1938)9月21日に内務省六甲砂防事業所(現国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所)が開設されました。
 昭和42年(1967)にも昭和13年(1938)と同様の集中豪雨を受けましたが、砂防施設などが効果的に機能を発揮して災害規模を小さくすることができました。しかしながら、六甲山地周辺では住宅地の建設など、急激な宅地化が進んでおり、人工的な地形改変も予想以上のスピードで進んでいました。このような状況のもとで、兵庫県南部地震(1995)の直撃を受けました。
図4 六甲山地周辺の地質断面図(池田,2001)
図4 六甲山地周辺の地質断面図(池田,2001)
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 六甲山塊は50万年前から急激に隆起し始めるとともに、大量の土砂を大阪湾に供給し続けてきました。この結果、六甲山地の南縁部には新しい軟弱な地層(大阪層群、扇状地礫層、沖積層など)が分布するようになりました。これらの地層に対して、断続的に花崗岩類の堅い岩盤からなる六甲山地が突き上げるような構造運動が現在も続いています。六甲山地の地形境界線付近には幾つもの地質学的に重要な活断層が走っています。六甲山地南麓の緩斜面の上に西宮市・芦屋市・神戸市の市街地が発達しています。
 山陽新幹線の建設工事では、地質調査の結果、新神戸駅の直下に諏訪山断層に伴う断層破砕帯が存在することが判明しました(写真1)。このため、地震動の差異や地盤変動に対応できるように、構造物の設計(新幹線軌道と上り下りのプラットフォームを分離するなど)がなされました。このため、兵庫県南部地震(1995)では新幹線軌道と新神戸駅構造物にはほとんど被害は発生しませんでした。
図5 新神戸駅基礎断面と地盤地質(池田,1975)
図5 新神戸駅基礎断面と地盤地質(池田,1975)
写真1 山陽新幹線新神戸駅の工事現場で出現した諏訪山断層(池田,1975)
写真1 山陽新幹線新神戸駅の工事現場
で出現した諏訪山断層(池田,1975)
 
3.六甲山地南部の市街地の発展
 図6は、2万分の1仮製図の「六甲山」(明治19年(1886)測図)と「神戸」(明治18年(1885)測図)で、住吉川流域周辺を示しています。図7は、1/2.5万地形図「有馬」「神戸」(大正12年(1923)測図),「宝塚」「西宮」(昭和7年(1932)測図)で、図6より少し広い範囲を示しています。六甲山系から流下する河川は、山地部から出ると見事な(土石流)扇状地を形成しています。中でも住吉川は扇状地の規模が最も大きく、土砂流出が活発なことがわかります。工部省鉄道寮は明治7年(1874)5月11日に大阪駅−神戸駅間の東海道線を開通させましたが、住吉扇状地の区間は扇状地に沿って南側に迂回しています。また、住吉川は天井川となっており、東海道線の線路敷は住吉川の下にトンネルを掘って建設されました。芦屋川、石屋川も河川敷の下にトンネルを掘って建設されましたが、石屋川では河川敷の上を橋梁で通るように変更されました。
図6 住吉川周辺の旧版地形図(1910年測図の1/2万正式図「御影」「有馬」図幅)
図6 住吉川流域周辺の2万分の1仮製図,「六甲山」(明治19年(1886)測図)
と「神戸」(明治18年(1885)測図)の一部

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図6 住吉川周辺の旧版地形図(1910年測図の1/2万正式図「御影」「有馬」図幅)
図7 住吉川流域周辺の1/2.5万地形図「有馬」「神戸」(大正12年(1923)測図)
「宝塚」「西宮」(昭和7年(1932)測図)

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 扇状地の南側に沿って西國街道(山陽道、現在の国道2号)が通っています。西國街道では、西宮と兵庫に宿場が置かれ、中間の住吉は間之宿(あいのしゅく)(住吉神社が存在)がおかれました。西國街道とは京都(東寺口)から大山崎、高槻など、淀川右岸を通り、大阪を経て西宮・神戸を通り、西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路でした。近世から近代にかけて、幾多の人物が往来し、物資が流れ、情報や文化の伝播を担う動脈でした。海岸に沿っては浜街道(現在の国道43号、阪神高速が通る)がありました。この浜街道に沿って阪神電気鉄道が明治38年(1905)4月12日に大阪(出入橋駅)−神戸(三宮駅)間を開通させました。浜街道に沿って、魚崎村、御影町、都賀濱村などの集落(湊が存在)が並びますが、扇状地面は住吉村の集落を除けば、ほとんどが水田となっています。
 御影村(明治22年(1889)から御影町)から住吉村を通り、有馬温泉に向かう住吉道(有馬越)が住吉川に沿って、五助橋、六甲山付近を通っています。住吉川の荒神山(標高214m)付近には、御影石の石切場が多く開設され、多くの御影石が御影港まで住吉道を通って運ばれ、大阪・京都などに移送されました。東海道線の住吉駅が明治7年(1874)6月に開業された後、住吉道は六甲山付近の有馬越を越え、明治11年(1878)に有馬温泉まで開通しました(図6参照)。以前は関西方面から有馬温泉に向かうには、北側の有馬街道(生瀬・船坂経由)でしたが、東海道線開通後は、最短の道として、多くの温泉客が駕籠に載って有馬温泉に向かいました。住吉駅には多くの駕籠かきが客待ちをしていました。このルートは六甲山系の最高峰・六甲山(標高931m)の付近を通る難コースでした。図6(明治18年(1885)測図)によれば、六甲山周辺ははげ山や崩壊地が多く、海上から見ると雪が降ったように白っぽく見えたようです。このコースは現在通行できません。
 明治期には豪雨により多くの土砂災害が発生しました。特に、明治29年(1896)8月の豪雨は激しく、各渓流の上流部で崩壊や土石流が多発して、下流域に大きな被害が発生しました。その後、兵庫県では六甲山地の砂防・治山事業(植林事業が主体)が開始されました。
 明治31年(1898)6月8日に阪鶴鉄道が宝塚駅―有馬口駅(現在の生瀬駅)間を開通させ、大阪から有馬口まで鉄道(有馬口駅〜有馬温泉は徒歩か駕籠)で行けるようになり、住吉道の役目は終了しました。
 阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)は、大正9年(1920)7月16日に神戸本線(十三 駅− 神戸駅(後の上筒井駅)間を開通させました。この路線は東海道線の北側の扇頂部付近を通るルートで、六甲山地南麓の宅地開発が始まりました。大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生し、東京・横浜地区は激甚な被害を受けました。国際港である横浜港付近に居住していた外国人の多くは同じ国際港である神戸港付近に移住するようになりました。また、『細雪』を執筆した谷崎潤一郎などの日本人も東京から神戸周辺に移住してきました。このため、六甲山地南麓や扇状地での宅地開発は急激に進み、高級住宅地として発展するようになりました。
 住吉川流域(面積12km2)は、明治30年頃は森林に覆われ比較的安定した地域だったようです。住吉川上流部では昭和3年(1928)3月24日に大規模な山火事がありました。六甲村(昭和25年(1950)に神戸市に合併して東灘区)の5.7km2が焼失しました(住吉川流域の約1/2の面積)。
 昭和13年(1938)7月3日〜5日に発生した阪神大水害は、まさにこのような時期に発生しました。
 写真2は、六甲山地南部の余色立体写真(米軍昭和22年(1947)8月20日撮影)で、建設省河川局砂防部(1995)『地震と土砂災害』の表紙に使われた写真です(赤青のメガネで立体に見えます)。この写真は太平洋戦争直後に撮影されたもので、地形改変のあまり進んでいない状況が示され、断層地形がよく表現されています。白色部分は花崗岩地区特有の露岩地域や、地形改変が始まって裸地となっている箇所を示しています。住吉川や芦屋川の河道は裸地状態で白色の線となっています。また、住吉川の東側地域(国鉄東海道線付近まで)では、土石流扇状地のかなりの部分が白色となっており、昭和13年(1938)の洪水氾濫などの痕跡と思われます。
写真2 六甲山地南部の余色立体写真(米軍昭和22年(1947)8月20日撮影,M417,30〜41,縮尺1/39,180の写真をもとに作成)(建設省河川局砂防部,1995)
写真2 六甲山地南部の余色立体写真(米軍昭和22年(1947)8月20日撮影,
M417,30〜41,縮尺1/39,180の写真をもとに作成)(建設省河川局砂防部,1995)

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写真3 住吉川流域の立体視写真(米軍昭和23年(1948)11月22日撮影,R462,72〜74,元縮尺1/15,823の写真をもとに作成)
写真3 住吉川流域の立体視写真(米軍昭和23年(1948)11月22日撮影,
R462,72〜74,元縮尺1/15,823の写真をもとに作成)

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 写真3は、住吉川流域の立体視写真(米軍昭和23年(1948)11月22日撮影,R462,72〜74,元縮尺1/15,823の写真をもとに作成)で、昭和13年(1938)の阪神大水害から10年後の状況を示しています。住吉川の中・上流部には多くの崩壊地が存在しますが、阪神大水害時に発生したものでしょうか。
 写真3は、終戦から3年後の写真なので、昭和20年(1945)の神戸大空襲で市街地のほとんどが消滅した状況を読み取れます。

4.兵庫県南部地震(1995)による土砂災害の概要
 図8は、兵庫県南部地震(1995)による六甲山系の主な山腹崩壊発生箇所図(建設省土木研究所砂防部,1995)を示しています。この地震による山腹崩壊、斜面崩壊は、六甲山地の東側に多く発生しており、住吉川・芦屋川・夙川・仁川・逆瀬川・太多田川・塩谷・観音谷に多く分布しています。この他にも中央部の新生田川・新湊川で比較的大きな斜面崩壊が発生しています。また、六甲山地の西端部において、数箇所の小崩壊が発生しています。大部分の崩壊地は比較的規模の小さな表層崩壊型(幅10〜20m、長さ50〜100m、厚さ1〜2m)です。これらの崩壊は、図3の⑤大月断層、⑥五助橋断層、⑧芦屋断層沿いに多く分布しています。
 地形的には山頂付近の遷急線付近からガリー状の崩壊地が形成され、下端部は崩壊土砂(礫や岩塊)が堆積しています。崩壊した土量は多くありませんが、山腹斜面の岩盤に発達していた亀裂が、この地震によって拡大したため、表層崩壊が多く発生したようです。今後集中豪雨や余震が多く発生すれば、崩壊地が拡大する危険性があります。さらに、土石流や天然ダムの発生も予想されます。
 六甲山地の山々は昔から崩壊地が多く土石流が頻発したため、五助橋断層が通過する住吉川や逆瀬川上流の谷間などには、多くの砂防ダムや流路工が設けられています。淡路島北部の野島断層沿いには、地震断層に伴う地表面の亀裂が連続して発生しており、この亀裂に沿って小規模な斜面崩壊や地すべりが数か所で発生しています。
図6 兵庫県南部地震(1995)による六甲山系の主な山腹崩壊発生箇所図(建設省土木研究所砂防部,1995,池田,2001)
図8 兵庫県南部地震(1995)による六甲山系の主な山腹崩壊発生箇所図
(建設省土木研究所砂防部,1995,池田,2001)

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5.六甲山地周辺の兵庫県南部地震による土砂災害
 六甲山地周辺の市街地では、家屋やビルの倒壊、高架橋の落下など甚大な災害が発生しました。これらの被害は、六甲南縁の活断層に並行して帯状に分布しています。淡路島と同様に内陸直下型地震によって、活断層が動いたと思われますが、特定されていません。この地域の土砂災害は、六甲山地周辺の地形・地質特性と密接に関連しています。山地部における崩壊や地すべり、土石流の土砂災害(地盤災害)が発生しました。 地形・地質特性からみた土砂災害を表1に整理しました。
 
表1 兵庫県南部地震で発生した土砂災害の形態
① 地震断層による水平と垂直の変位
② 緩んだ岩盤斜面の崩壊
③ 浮き石状岩盤からの落石や崩壊
④ 山間地の堆積層の崩壊、地すべり
⑤ 断層破砕帯に沿った大規模崩壊
⑥ 河道の堰止め、天然ダムの形成・決壊
⑦ 急傾斜人工斜面の落石・崩壊
⑧ 谷地などの軟弱地盤での変形

 写真4は、宝塚高校の背後の山腹斜面に見られる小規模な崩壊地帯です(建設省河川局砂防部,1995)。校舎が載る平坦面の背後には、芦屋断層の延長部が通り、さらに奥側の山塊との間に五助橋断層、大月断層の延長部が通っています。活断層に面した斜面に崩壊地が列状に分布しているように見えます。
 写真5は、宝塚高校北方の逆瀬川の支沢に発生した比較的規模の大きな崩壊(建設省砂防部,1995)を示しています。表層1〜2mの風化を受けて緩んだ花崗岩が全面的に崩壊しました。ここでは、斜面に沿った流れ盤の亀裂と高角度な受盤状の亀裂の2系統が発達しています。これらに規制され、すでに緩んでいた風化岩盤・土砂が地震による震動で振い落とされたものと思われます。
写真3 宝塚高校背後の山腹斜面に見られる小規模な崩壊地群(建設省河川局砂防部,1995)
写真4 宝塚高校背後の山腹斜面に見られる小規模な崩壊地群(建設省河川局砂防部,1995)
写真4 宝塚高校北方の逆瀬川の支沢に発生した比較的規模の大きな崩壊(建設省河川局砂防部,1995)
写真5 宝塚高校北方の逆瀬川の支沢に発生した比較的規模の大きな崩壊
(建設省河川局砂防部,1995)

 写真6は、西宮市仁川で発生した地すべりと河道の堰止めの状況を示した斜め航空写真(中日本航空㈱撮影)です。仁川に面した右岸斜面が地震時に急激な地すべりを起し、死者34人、埋没人家8戸という兵庫県南部地震では最大の土砂災害となりました。この地すべりは、幅約100m、長さ約100m、深さ約15m、移動土塊は約10万m3にも達し、多量の崩土が仁川を堰止め、小規模な天然ダムができました。この天然ダムが決壊して、土石流が発生する危険性があったため、河道内の土砂は速やかに排土されました。また、兵庫県西宮土木事務所では、綿密な地すべり調査(地すべり自動監視システムによる動態観測を含む)を行い、地すべり発生機構を解明した上で、集水井などの排水工や法面対策工が実施されました。
写真5 西宮市仁川百合野地区で発生した地すべりと河道の堰止め(中日本航空()撮影)(建設省河川局砂防部,1995)
写真6 西宮市仁川百合野地区で発生した地すべりと河道の堰止め(中日本航空㈱撮影)
(建設省河川局砂防部,1995)

 兵庫県阪神南県民センター西宮土木センターでは、平成9年(1997)に仁川百合野地区地すべり資料館を開館しました(所在地:西宮市仁川百合野町10-1,県立甲山森林公園の東隣)。この資料館は仁川百合野地区の斜面の動向を監視するため、平成9年(1997)11月開館され、当時の被害やその後の対策工事、地盤安定確認のための観測データ、また土砂災害のしくみ等について伝えてきました。その後、震災20年を迎えた平成27年(2015)1月に土砂災害の教訓や最新の知見をもとに、展示物やガイダンスシアターのリニューアルが行われました。開館時間は10時〜16時で入館料は無料です(休館日:毎週月・木曜日,年末年始)。
 写真7,8は、令和3年(2021)3月に地すべり資料館を訪れ、仁川地すべり地を見学した時の写真です。分かりやすいパンフレット(4p.)も発行されていますので、一度現地を訪れて下さい。
写真6 仁川地すべり資料館と仁川災害の慰霊碑(井上2021年3月撮影)
写真7 仁川地すべり資料館と仁川災害の慰霊碑(井上2021年3月撮影)
写真7 仁川地すべりの現況と対策工事と地すべり観測システム(井上2021年3月撮影)
写真8 仁川地すべりの現況と対策工事と地すべり観測システム(井上2021年3月撮影)

 写真9は、神戸市東灘区西岡本6丁目の地すべり被害の状況(中日本航空且B影)を示しています。図7,写真3と写真9を比較すると、昭和23年(1948)以前は緩斜面の林地でした。西岡本6丁目の住宅地は住吉川東側の緩斜面を戦後に造成した斜面(住吉川の古い段丘堆積物か扇状地堆積物からなる)であることがわかります。この造成地の南斜面で兵庫県南部地震により幅20m、長さ20mの斜面崩壊が発生しました(建設省土木研究所,1996)。この崩壊地にはのり枠工が施工されていましたが、隣接した斜面のり枠工にもはらみ出しや亀裂が認められました。その後背地にも亀裂が多数発生し、崩壊の拡大が懸念されました。このため、斜面の上部・下部地域に避難勧告が出されました。幸いにも地すべり変動は比較的緩慢であったため、人的被害は生じませんでした。
 その後、神戸市建設局東部建設事務所によって、地すべり調査が実施され、地すべり対策工事が施行されました。
写真8 神戸市東灘区西岡本6丁目の地すべり被害(中日本航空且B影)(建設省河川局砂防部,1995)
写真9 神戸市東灘区西岡本6丁目の地すべり被害(中日本航空且B影)
(建設省河川局砂防部,1995)

6.むすび
 私は日本工営㈱の大阪営業所に勤務時の昭和53年(1978)頃、阪神電鉄の青木駅付近のアパートに住んでいました。ここから阪神高速道路の下を通り10分ほど歩くと東神戸港に着きました。東神戸港からフェリーで四国の新居浜港との間を何回か往復し、四国内の地すべり調査の現場に行きました。船窓から六甲山の山並みと神戸の夜景を見て、その美しさに見とれていました。
 兵庫県南部地震時には東京にいて、阪神淡路大震災の激甚な被災状況をニュースなどで見ていました。青木駅付近の阪神高速の高架橋が倒壊したことに驚くとともに、非常に多くの方々が亡くなったことに胸を痛めました。26年ぶりに六甲山山麓の被災地を訪れて、その当時土砂災害が発生した地点などを見てまわりました。現在の西宮市から神戸の街並みは兵庫県南部地震がなかったように繁栄していますが、詳しく見ると地震による被災の痕跡が多く残っています。
 26年前の震災を忘れずに、今後の防災対策を進めていくべきだと思います。令和3年(2021)1月17日に阪神淡路大震災から26周年となり、多くの震災関連の報道がありましたが、土砂災害についてはあまり報道されなかったと思います。
 原稿を執筆中にもう一度現地調査をしたかったのですが、コロナ禍で神戸に行くのをあきらめ、国会図書館・砂防図書館・防災専門図書館・日本地図センターに行き、多くの引用・参考文献を収集し、少しずつ文献を読んでいます。
 関東地震(1923)による大震災からもうすぐ100年になります。大都市を襲った2つの地震による土砂災害について、比較・検証していきたいと思います。

引用・参考文献
粟田泰夫・水野清秀・杉山雄一・下川浩一・井村隆介・木村克美(1995):地震に伴って出現した地震断層,地質ニュース,486号,p.16-20.
池田碩(2001):1995.1.17大震災と六甲山地,写真によるその変形・変状の記録,国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,DVD,593p.
池田碩(2016):1995.1.17大震災と六甲山地,写真によるその変形・変状の記録(20年間の経年変化),国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所,DVD,185p.
池田俊雄(1975):地盤と構造物―自然条件に適応した設計へのアプローチ―,鹿島出版会,p.232-240.
石川浩次・溝口昭二・大鹿明文(1995):兵庫県南部地震の神戸の地盤と被災状況調査,応用地質,36巻1号,p.62-80.
石橋五郎・松井武敏・近藤武敏(1938):六甲山麓の大水害速報,地理学,古今書院,口絵,p.1-4.,本文,p.1-12.
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T図:1886(明治19)年頃の神戸(2万分の1)
U図:1935(昭和10)年頃の神戸(5万分の1)
V図:1969(昭和44)年頃の神戸(5万分の1)
W図:1987(昭和62)年頃の神戸(5万分の1)
X図:1998(平成10)年頃の神戸(2万5千分の1)
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