1. はじめに
東京の西に聳える高尾山から陣馬山に向かって延びる稜線があります。相模の国と武蔵の国との国境で、多摩川と相模川の分水嶺でもあります。稜線の南西側には美女谷(底沢)と地元で呼んでいる谷(現相模原市緑区千木良)があり、小仏峠から下って小原宿に至る甲州街道の北側から相模川へ流入する面積7.6km
2の渓流です。
ここに住んでおられた塚本良則先生から2冊の本をご恵贈頂きました。
塚本良則(2019):山里が輝いていたころ−高尾山地(小仏峠)西麓昭和10年代中頃の生活風景−,白山書房,218p.
塚本良則(2020):令和元年台風19号 山里を襲った土砂災害の体験記−老研究者がならす山里・山裾住人への警鐘,白山書房,218p.
上段の本はすでに絶版となっていますが、下段の本はAmazonなどで購入できます。
塚本先生は、日本学術会議会員、砂防学会会長、水文・水資源学会会長などを務められ、現在東京農工大学名誉教授で、八王子市のご自宅と相模原市緑区千木良の旧宅との間を往復されています。いさぼうネットの「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」では、以下の記事を書きました。
コラム69 アルプスにおける大規模土砂災害の事例紹介(2021年3月25日公開)
このコラムの中で、先生ご夫妻の御著から一部の図を引用させて頂きました。
塚本良則・靖子(2015):老夫婦だけで歩いたアルプスハイキング―氷河の地形と自然・人・材―,山と渓谷,393p.
3月26日(金)にJR相模湖駅に行き、先生の御著を見ながら、美女谷付近を散策しました。先生の旧宅付近を歩いていたら、先生ご夫妻が旧宅にたまたま戻られていたので挨拶をしました。ご夫妻は大変喜んで頂き、色々話を聞かせて頂きました。また、令和元年(2019)台風19号災害での
旧宅付近の土砂移動状況を見るとともに、美女谷の中でも一番大きかった崩壊地まで徒歩で往復し、色々と教えて頂きました。
本コラムでは、先生が2度も土砂災害を経験されたことの背景などを説明したいと思います。本項の一部は、日本地すべり学会誌、58巻2号に書評として紹介しました。その後、何人かの方から、書評を読んで『山里が輝いていたころ』が入手できないかと問い合わせがありました。出版元の白山書房に問い合わせたところ、御著は自費出版で数百部しか印刷しておらず、すでに絶版となっているとのことでした。以上のことから、2冊の本の概要と私が調査している「
びゃく」との関連について説明いたします。
図1 美女谷の俯瞰図(塚本,2019)
<拡大表示>
2.幼少期の山里での生活
塚本(2019)の「はじめに」によれば、「美女谷(底谷)では、昔の住人の多くは消え、空き家や廃屋が多くなっています。この地域は高尾山から延びる登山道や旧甲州街道を通るコースの一部でもあります。この谷は昭和の初期には40軒230人が住み、子供たちが走り回る賑やかな山里でした。少年Y(著者)の小学校の同級生はこの小さな谷だけで8人もいました。この賑わいは太平洋戦争が終了して、日本経済の高度成長期まで続きました。この谷の人口減少傾向は日本のすべての山里で起こりました。日本経済の工業化に伴う都市への人口流出による結果です。この谷は東京や神奈川の都市部に近いため(最寄りの中央線
与瀬駅(現相模湖駅)から新宿駅まで60分程度)、特に人口流出が激しく、少年Yもその一人でした。
この山里を訪ずれる人もそこに今住む人でも、半世紀前までこの谷に多くの人が住み、活気にあふれた生活があったことを知る人は少ないと思います。本書は相模の国の北端にある山深い小さな谷の三四半世紀前の生活をかすかな記憶を頼りに、聞き込みと文献などを参考にして、少年Yに語らせたものです。太平洋戦争開始前後の話で、戦争の足音は聞こえていましたが、山里はまだ長閑でした。今少年Yは老人Yとなって、再びこの山里に帰り、背景を説明しています。
本書を作らせた動機は色々あるといいます。何よりも大きいのは、美女谷の家々が急速に空になったことです。賑やかだった昔の山里の記憶は人がいなくなれば消えてしまいます。今老人Yが振り返ると、山里の生活には現在の都市生活では失われた何か貴重なものがあります。山里の生活は、今叫ばれている自然との
共生循環型社会そのものではなかったかと振り返っています。昔の生活用具は,博物館や郷土資料館に行けばある程度はわかりますが、日々の生活を綴った記録は少ないと思われます。
関東平野の西に聳える山地の山里は、僅かばかりの畑からの収穫と養蚕、林業で暮らしていました。少年Yの住む山里が活気に溢れていたのは、養蚕のためです。養蚕は水田のない貧しかった山里に、現金収入を与える近代産業が入ってきたようなものでした。桑畑は山の奥深くでも、また急斜面の荒れ地でも育つので、今では考えられないほど、多くの人を扶養しました。
養蚕業は、太平洋戦争までは日本を支えた大きな産業の一つでした。
富岡製糸場は、その養蚕業を基礎にした
近代産業遺産です。今流に言えば、当時の富岡製糸場は現在の自動車の最終組み立て工場で、養蚕業はその裾野に広がる部品工場群に相当すると考えられます。現在の自動車産業が輝いているように、当時の製糸場と養蚕業は輝いていました(一方では女工哀史という視点もあります)。
輝いていたということは、養蚕で現金収入が入ったということだけではありません。小さくても、人々の心に輝くものがあったということです。その頃日本は大陸に侵攻し、太平洋戦争も迫っていましたが、この谷には戦争の影響は殆どありませんでした。物
質的に少々苦しいだけで、人々は明日の生活に向かって、日々を励んでいました。生活は貧しく苦しかったが、皆が頑張ろうという気持ちで、心に張りがあり、前向きでした。本書(『山里が輝いていた頃』)の記述は、老人Yの記憶に頼っています。記憶は歳月とともに風化します。できるだけ文献や聞き取りなどで補填をしたかったが、今では聞く古老はなく、老人Yの体力もそれを妨げた。間違っている箇所があるかもしれない。そのことをお断りしておく。」と記されています。
以下に、本書の目次を記載させて頂きます。
山里が輝いていたころ−高尾山地(小仏峠)西麓昭和10年代中頃の生活風景−
はじめに
1
〔コラム1〕「美女谷」の由来
3
1章 山里の四季
9
山里の春
10
〔コラム2〕少年Yの家の福寿草
17
〔コラム3〕火代
19
〔コラム4〕少年Yのお爺さんとお婆さん
22
山里の夏
26
〔コラム5〕山里と生物多様性
33
〔コラム6〕お化けが出る話
36
山里の秋
39
山里の夏
44
〔コラム7〕「木と竹と紙の文化」ではないか
52
2章 山里の四季
57
〔コラム8〕美女谷の地形特性
78
〔コラム9〕竹樋の話
81
〔コラム10〕古道とハイキング
82
3章 山里の住まいと仕事
85
〔コラム11〕養蚕の歴史
117
〔コラム12〕畑の石 あれこれ
119
〔コラム13〕草を刈るということ
121
〔コラム14〕山葵
124
〔コラム15〕セイダ
126
4章 山里の日々の生活
129
〔コラム16〕お茶作り
168
〔コラム17〕醤油絞り
169
〔コラム18〕お祭りの話
171
5章 山里の子供たちの遊びと学校
175
〔コラム19〕少年Yの太平洋戦争
198
〔コラム20〕土砂災害の思い出
203
〔コラム21〕美女谷温泉 幾つかの思い出
207
6章 あれから三四半世紀、美女谷の今
211
あとがき
214
引用・参考文献
216
図2は、「少年Yが生まれ育った家とJ集落の風景」(塚本(2019)のp.88)で、先生がスケッチされたもので、昭和10年代の自宅付近の状況がよくわかります。本書では、少年Yの生活の背景となった風景(地形)や生活状況を老人Yが振り返えりながら説明しています。本書の内容は、砂防図書館や防災専門図書館などでご覧ください。
図2 少年Yが生まれ育った家とJ集落の風景(塚本,2019) <拡大表示>
3.美女谷の地形・地質特性
写真1は、陸軍が昭和18年(1943)7月13日に撮影した航空写真(元縮尺S=1/12,000)を立体視できるように加工したものです。写真2は、国土地理院が昭和59年(1974)12月22日に撮影したカラー航空写真(元縮尺S=1/15,000)を立体視できるように加工したものです。図3は美女谷の詳細図(塚本
(2020)のp.29)です。
写真1では、明治34年(1901)8月1日に官営鉄道として、八王子駅−上野原駅間が開通した中央線が緩い円弧を描いて示されており、小仏トンネル(全長2,574m)で高尾・八王子方面につながっています。与瀬駅(現相模湖駅)は中央線開通と同時に開業され、美女谷から東京方面へ鉄道で行けるようになりました
(美女谷から与瀬駅まで徒歩40分程度)。しかし、美女谷から八王子・立川方面に通勤・通学する人はほとんどありませんでした。昭和39年(1964)9月29日に新小仏トンネル(全長2,594m)が開通し、この区間の中央線は複線化され、東京方面への電車の本数も増え、通勤・通学する人が徐々に増えて行きました。
写真2では、昭和43年(1968)12月20日に開通した中央道(八王子IC〜相模湖IC)が2本描かれています。下り線の小仏トンネル(全長1,642m)と上り線の第2小仏トンネル(全長2,002m)があります。
図1、図3、写真1、写真2を比較すると、美女谷周辺の地形状況と少年Y(塚本先生)の生活空間が良くわかります。塚本(2019)の
〔コラム8〕美女谷の地形特性から一部を引用させて頂きます。
美女谷の流域は周囲を標高700m程度の山に囲まれています。ハイキングで知られた高尾山〜陣馬山コースの尾根が流域界の半分を占めます。流域界を半時計回りに辿ると、千木良集落から東海自然歩道を城山に登ります。そこから城山(670m)→小仏峠(548m)→景信山(727m)→堂所山(731m)→底沢峠(721m)→明王峠(740m)までハイキングコースをたどります。明王峠からは与瀬に向かうハイキングコースを南に下り、矢ノ音(633m)→孫山(548m)の尾根を通って美女谷峡谷におります(図1参照)。
流域の中心を流れる美女谷川は相模川の支流で、遡ると谷の中程で2つに分かれ、東側の谷は堂所山に、西の谷は矢ノ音に向かいます。東の谷と西の谷を分ける尾根には古い道があり、現在は底沢峠に向かうハイキングコースとなっています。
美女谷の地形の特徴は、下流域では深い峡谷になっていること、上流域では山麓斜面に小さな段丘(テラスと呼ぶ)が発達していることです。この2つの地形の特徴が谷の中の家や道の配置、日々の生活に大きな影響を与えています。老人Yの家の福寿草を撮影した人がインターネットに載せています。その人は美女谷を“陸の孤島のようだ”と書いています。言い当てた表現と思います。初めて訪れる人は、国道20号(図3に赤線で示される)から入り、谷の入口の峡谷の絶壁を見ながら、岩盤をくりぬいた険しい上り坂を進む時、この谷の奥に沢山の集落があることなど考えられないでしょう。
図3には相原延光氏にシームレス地質図をもとに、地質境界と断層A,Bを入れて頂きました。右上図は産業技術総合研究所 地質調査総合センターのシームレス地質図(縮尺1/20万,2020年4月6日更新)です。緑色部分は小仏層群で後期白亜紀、黄色部分は相模湖層群で第三紀中期始新世〜前期漸新世)の付加体コンプレックス(メランジュ)です。ともに中国大陸縁辺部の海溝に堆積した付加体コンプレックスで、メランジュとは海洋プレート上の堆積物(例えば泥岩の基質)中に石灰岩・緑色岩・チャート・珪質泥岩・砂岩などからなる様々な大きさの礫あるいは岩塊を異地性岩体として数多く含む地質体です。美女谷は断層や破砕帯が多く、崩壊が発生しやすい地層と考えられます。
写真1 陸軍1943年7月13日撮影の立体視写真(元縮尺S=1/12,000)
写真2 国土地理院1974年12月22日撮影の立体視写真 (元縮尺S=1/15,000)
図3 美女谷の詳細図(塚本,2020),産総研シームレス地質図を追記<拡大表示>
美女谷の深い峡谷は、どうしてできたのでしょうか。これは相模川の大きな河岸段丘を美女谷の川が深く削って出来たものです。今から2万年前の氷河期に地球の海水面が低下し、相模川が深く掘れて急激に河床が低下しました。元の川底は相対的に高い位置に残り、川に沿って広い平地(河岸段丘)を両岸の所々につくりました。相模川の河岸段丘は有名です。甲州街道の小原宿、与瀬宿、吉野宿、上野原宿、大月宿や千木良集落、奥畑集落などは相模川の河岸段丘の上に発達しました。
相模川の河床低下に連れて相模川に流れ込む支流の川も、急速に川底が深く掘れました。急速な河床低下に周囲の斜面侵食が追いつかないために、周囲の斜面が絶壁の峡谷になりました。これが美女谷渓谷です。峡谷部分が美女谷川の1/3程度を占めています。中央線の小仏トンネルを掘った掘削土によって昔の谷の姿は変形されて、峡谷の終点は判然としません。全体地形から推測してみると、峡谷の終点は現在の中央線の長久保トンネル(下り線)の少し上流付近ではないかと老人Yは思っています。理由はこの付近で、川の周辺地形が大きく広がっているからです。昔はここから上流の板橋に向かって低位段丘や広い河原があったのではないかと思っています。「市のはたと橋」は美女谷峡谷の終わった地点だと老人Yは推定しています。小仏峠へ上る基地としての旧甲州街道の「板橋」付近は広がりをもった河原のような所で、幾つもの茶屋や簡易な宿泊所などもあったと考えられます。この広い空間が中央線のトンネル掘削土の処理に使われたことになります。この付近には掘削土の埋め立てのために、川をトンネルで抜いている所が2か所あります。
この谷のもう一つの特徴は峡谷より上流に小さな段丘(テラス)地形が発達していることです。著者Y(塚本先生)は初め、昔急斜面の山裾を削って下方に盛土をして畑や宅地を造った結果、沢山のテラス地形が出来たものと考えていました。しかし、人工にしてはテラス末端の土手(急斜面)が少し大き過ぎる、またテラスの面積も大き過ぎる、などから近頃は自然に形成されたテラスではないかと考えています。形成は氷期と関係すると思われますが、成因や形成過程は著者には分からないと言います。テラスが良く発達する少年Yの小集落周辺では少なくとも3段のテラスが確認できます。この谷では、テラス地形を利用して家を建て、傾斜畑を作って作物を育て、また桑を育てて養蚕を営み、長い間生活してきました。
このテラス地形は、見方を変えると「
棚畑」と呼んでも良いと思っています。「
棚田」という言葉があります。土手と田んぼ、土手と田んぼの段々が上に向かって続く地形です。棚田は人間が手を加えた地形です。地すべり地に多いようです。風景的に美しく、生物多様性が高く、保存が叫ばれています。美女谷の傾斜畑も段の数は少ないが、土手と畑、土手と畑の段々で形成されています。人間の手が加わった地形です。麦秋の頃は棚田に劣らず美しい光景を見せてくれました。今そのほとんどは杉林に代わってしまいましたが、老人Yは「
棚畑」と呼んで、この美しい山里を人々の記憶に残したいと思っています。
4.少年Yが経験した昭和12年(1937)7月15日の土砂災害「ビャク」
塚本(2019)の
〔コラム20〕土砂災害の思い出に、昭和12年(1937)7月15日(木曜日)に(御著では8月1日となっていたが、先生と連絡し日付を変更)少年Yが経験した土砂災害「
ビャク」が記載されていますので、以下に転載します。
「お爺さんが“校長先生もあぶなかったな、5分遅ければ
ビャクに飲み込まれていた。今度来れば、家の裏山だ、前の牛小屋に逃げよう”とぼそりと言う。“この次大きな音がしたら、逃げるんだな”お父さんが続けた。家の者全員が表座敷に集まって、皆押し黙っていた。外は暗くなり始めた。茅葺き屋根からは物凄い勢いで雨水が流れ落ちている。しかし雨水の音は聞こえない。庭の前を流れる堀の轟音が全てをかき消した。
最初の
ビャクは家の山で起こり、下の畑を押しつぶして、川を越えて対岸に乗り上げたようだ。校長先生と教頭先生が、「明日の学校は休み」を告げるために各家を回っていた時だった。続いて母屋の東端にあたる土蔵の裏の土手が大きく崩れた。土蔵の隣にあった小屋を下の川まで押し流してしまった。この二つの
ビャクが起こった時は、前の堀の轟音に関わらず、大きな音が聞こえた。家の皆が、
ビャクは母屋の方に近づいていると感じていた。何故
ビャクが来る前に、牛小屋に逃げないのか、少年Y(当時5歳)はいらいらしていた。
ビャクとは山崩れのことである。この時の
ビャクの恐ろしさは、米寿に近い今でもYの心に鮮明に残っている。この豪雨(昭和12年(1937)7月14日〜16日)では千木良の赤馬で、一家が
ビャクに飲み込まれて、4人ほどが犠牲になった。以後これ程の豪雨は、この地域では経験していない(令和元年(2019)10月11日の台風19号で豪雨災害を受けた、後述)。
家の者全員が息を殺して、その時を待っていた。雨は一層激しさを増した。夏であるから、部屋の障子、その外側の雨戸も、開け放しであった。堀の轟音は一層激しくなってきた。その時、少年Yの耳に、ゴーという音が聞こえた。少年Yは真っ先に飛び出した。篠を突くような雨の中、庭を横切って、前の堀の激流を飛び越え、その先にある牛小屋に飛び込んだ。
後ろを振り返ると、来るはずの大人も妹達も、誰もいなかった。しばらくすると、お父さんとお母さんが雨の中で、“ヨシノリ、ヨシノリ”と大声を上げ始めた。お爺さんやお婆さんもでてきたようだ。“流されたな、ヨシノリ(5歳)にはこの堀は飛び越えられないな”と言うお父さんの声が聞こえた。お爺さんが、真っ暗のなか、“ヨシノリ、ヨシノリ”と叫びながら、提灯を持って牛小屋の前まできた。少年Yは小屋の麦藁束の後ろに隠れた。この時の気持ちは今記憶にないが、多分恥ずかしさのあまり、顔を見せられなかったのだろう。
お爺さんも帰ってしまった。しばらくして、隣の家のフネゲートのおじさん、ナカのお爺さんも来て、皆で“流されてしまったのだから、堀の下の方を探そう”と相談する声が聞こえた。皆が下流の方に行ってしまい、静かになった、少年Yは恐る恐る、しょんぼり家に帰った。残っていた全員が“よかった、よかった”で迎えてくれた。
後年山の見回りをしていたら、この時の大雨で裏山の3か所で
ビャクが起こっていた。2つは前記した。もう1つは、庭の前を流れる堀の源流部の斜面で起こっていた。土砂崩れが小さかったため、お爺さんが植えた杉の大木群に引っ掛かり、止まっていた。今専門家として振り返ると、3番目の
ビャクがもう少し大きかったら、杉の木を巻き込んで土石流を起して、少年Yの家を飲み込んでいた可能性があったと考えている。
集中豪雨とは、このような雨で、このような洪水を起こす。少年Yの心に強い衝撃を与えた。その時の洪水は、美女谷温泉の下のコンクリートの橋を壊し、道を寸断した。学校にいくために、一度Yの家の裏山の尾根まで登ってT集落に下りる山道がその後整備された。10日間くらい、山道を通って学校に通った覚えがある。」
5.昭和12年(1937)7月14日〜16日の豪雨
図4は、国立国会図書館の近代デジタルコレクションから入手した昭和12年(1937)7月15日(木)6時と18時の天気図です。7月15日18時の天気図は、少年Y(5歳)が牛小屋に逃げた頃の天気状況を示しています。
図4 天気図 1937年7月15日6時と18時(国立国会図書館近代デジタルコレクション)
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この時期の天候状況と災害状況を知るために、国立国会図書館で東京朝日新聞の昭和12年(1937)7月の縮刷版を閲覧しました。しかし、日中戦争が7月から始まっており、戦争関連の記事が多く、災害関連の記事は見つかりませんでした。この当時は夕刊に小さな天気図が掲載され、前日の気温一覧と簡単な天気予報があるのみでした。
相模原市立図書館に行き、相模原市(2013)『津久井町の気象』を閲覧しました。この本には美女谷地区から10kmほど南の津久井町鳥屋(現相模原市緑区)の気象観測データ(大正2年(1912)〜昭和53年(1978)の年月日・天候・降水量・最高気温・最低気温)が記録されています。また、巻末にCDがあり、気象観測簿の一覧表がありました。鳥屋の観測データを見ると、梅雨末期の昭和12年(1937)7月14日〜16日に非常に多くの降雨があったことが判りました。また、神奈川県(1971)『神奈川県災害誌』に記載されている津久井町青山横浜水道局(相模原市緑区,美女谷から南東に8km)での降水量も以下に記します(図7に美女谷・鳥屋・青山の位置を追記)。
月日 |
津久井町鳥屋 |
津久井町青山 |
7月14日 |
83.1mm |
15.0mm |
7月15日 |
293.5mm |
355.0mm |
7月16日 |
94.2mm |
75.0mm |
計 |
470.8mm |
455.0mm |
神奈川県(1971)『神奈川県気象災害誌』(自然災害)によれば、梅雨前線が昭和12年(1937)7月14日〜17日に神奈川県北部に停滞し、未曾有の豪雨を降らせたようです。図5は『災害誌』に記載された7月16日6時の天気図、図6は総降水量分布図(7月14日〜17日)です。
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図5 昭和12年(1937)7月16日6時の天気図 |
図6 7月14日から7日の総降水量分布図 |
神奈川県(1971)『神奈川県気象災害誌』(自然災害) |
図7 相模原市の水系図(相模原市,2020),美女谷・青山・鳥屋を追記
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『神奈川県気象災害誌』によれば、「7月12日頃満州南部から東志那海に達する気圧の谷が次第に深くなりつつあって、高気圧はオホーツク海から沿海州、日本海に広がって停滞していた。14日朝能登半島から伊勢湾にかけて次第にその範囲を広め幾分南に移動して、東北地方の南部から長野県の中部、紀伊半島の南端を通り四国沖を経て、九州の西海上に発生した低気圧に及ぶ梅雨前線となった。梅雨前線は気圧の谷の深まりと東進に伴って、次第に活動をはじめ、前線の南東側に位置した神奈川県内各地は14日から17日の朝方にかけて大雨が降り、とくに丹沢・箱根方面の山間部では未曾有の豪雨となって、多大の被害を出した。
14日の朝方、丹沢・箱根方面から降り始めた雨は次第に県内各地に広がり、午後に入ると相模川以西は雷を交え、雨は次第に強さを増して、夕刻頃には丹沢・箱根地方は大雨となった。15日朝一度は小降りとなったが、昼前から再び前線活動が強まって、翌16日朝までの24時間雨量は、美保村諸子平(現山北町の丹沢山南側、玄倉川上流)で568.4mm、美保村箒沢(丹沢山西部、中川上流)で532.9mm、丹沢山塊の各山頂では500mm以上、箱根金時山付近、道志川上流また下流の青山付近で350mm以上となった。16日も雨は継続し、この日早朝より各地で豪雨による家屋の浸水、流失、山崩れ、崖崩れなどによる大被害が続出した。3日間にわたって降り続いた雨も17日午前中から平野部で止みはじめ、夜に入り全域とも雨はやんだ。」と記されています。
横浜地方気象台(1996)『神奈川の気象百年』によれば、「山北・松田・南足柄で被害大、死者38人、行方不明者6人、負傷者22人、家屋全壊181戸、半壊167戸、流失90戸、床上浸水694戸、床下浸水3,340戸、堤防決壊88箇所、橋梁流失74箇所となった。山崩れ・崖崩れが多く発生し、農地・山林も被害大であった」と記されています。
6.相模川流域のびゃく(ビャク)
いさぼうネットの「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」で以下のコラムで、
びゃくの説明をしました。
コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「
びゃく」
コラム42 東京都と山梨県の土砂災害を示す「
びゃく」
コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「
びゃく」
コラム61 明治40年(1907)の山梨県東部の土砂災害と霹(
びゃく)
コラム62 南関東の「
びゃく」という地名の由来について
これらのコラムを読んで頂くと判りますが、今までの調査で、図8や表1に示したように、南関東地方、特に相模川流域周辺で「
びゃく」が多く発生しています。相模川周辺の町田市や八王子市でも「
びゃく」事例が多く発生しています。
図8 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点
(井上,2013:『関東大震災と土砂災害』に▲びゃくの地点を追記)
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表1 「びゃく」の災害事例と地名(相模川流域)
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コラム43で、
2.7 山北町中川箒沢の昭和47年(1972)のびゃく を紹介しました。
横浜地方気象台(1996)『神奈川の気象百年』によれば、「この災害は
昭和47年7月豪雨と呼ばれ、昭和47年(1972)7月10日〜12日の梅雨前線によるものである。北西部の丹沢山地で局地的な大雨となった。山北町玄倉で12日6〜7時に86mm、7〜8時に85mmとなった。12日の日雨量は玄倉518mm、伊勢原市大山329mmに達した。このため、死者6人、行方不明者3人、負傷者28人、家屋全壊76棟、半壊26棟、床上浸水177棟、床下浸水4,464棟、山崩れ・崖崩れ299箇所に達した。」と記されています。
山北町立三保中学校(1972)の文集
「美しい三保への試練」には、三保中学校3年生女子の体験談が記載されています。コラム43の記載を再録します。
「まだ、ほの暗い朝、父が一生懸命に、家の方へ流れて来る水をせきとめていた。その時一度目のびゃくが来た。おじいちゃんは、ものすごい声を張り上げて、父に「
びゃく」が来たぞ−早く逃げろ−といった。幸いにも私の方へは来なかったが、同じ場所から二度目の
びゃくが出た。家の方へくるかと思ったが一度目と同じコースをとったため、被害はなかった。父には「危ないから家の中にはいって少しようすを見てみよう」といった。私は自分の部屋が危ないと思い、大事なものは、全部茶の間に出した。
それからどれくらいたったかわからなかったが、ちょうど、皆で朝ごはんを食べているときだった。だいどころで姉が「来た来た」といった。父はとっさに「みんなにげろ−となりの家に行け」といった。すぐに逃げ出した。母たちははだしでとんできた。いっしょにきた赤ん坊は、驚き泣き叫んでいた。私はあまりのおそろしさに、はしと茶わんを置くひまなく固く持ったまま、となりのうちまでとんでいった。
びゃくがおさまって少したってから、私だけ家にもどってみた。そしたら父が「手がつけられないから、消防の人を呼んできてくれ」といった。私は家の方へいきたかったが、怖くてとおれなかった。・・・
それから何時間たったか、やっと一段落ついた。父は死んだおじいちゃんに着物をきせてやりに、私をいっしょにつれていってくれた。おじいちゃんは、ふとんの上に毛布をかぶってねていた。わたしはそっと毛布をとった。・・・家のほうでは、14日から親せきの人がパンやラーメンをもってきてくれた。また近所のひとたちも、土出しを手伝いにきてくれた。母は、また
びゃくが来るのではないかと思い、ふとん、毛布、タンスなどは、みんな倉庫に入れた。そしてこわれたガラス戸などは、みんなで取りのぞき、大工さんや、たたみやさんに来てもらって直した。
昭和四七年(1972)七月十二日、この日は一生の思い出になると思う。二度とこんな日は来てほしくないと祈ります。」
7.令和元年(2019)台風19号による土砂災害
令和元年(2019)10月11日、「台風19号は、記録的な大雨になるかもしれません、厳重に警戒して下さい。昭和33年(1958)の狩野川台風に匹敵する大雨になる可能性があります。・・・」という警報を気象庁は発表しました。しかし、狩野川台風はどんな台風で、いかなる大被害となったのかの説明はほとんどありませんでした。
「気象庁|災害をもたらした災害事例の狩野川台風」(2021年5月7日閲覧)によれば、昭和33年(1958)の狩野川台風(22号)は、観測史上最大級の台風(最低気圧877ミルバール(mb,hPaと同じ)です。最盛期の9月23日21時〜25日15時の42時間もの間、中心気圧は900mb以下でした。26日21時過ぎに静岡県伊豆半島の南端をかすめ、27日00時頃神奈川県三浦半島、01時頃東京を通過、早朝に三陸沖に進んで海岸沿いを北上、夜に青森県の東海上付近で温帯低気圧に変わりました。静岡県東部の伊豆半島(特に狩野川流域)に激甚な洪水氾濫・土砂災害を与えたため、
「狩野川台風」と呼ばれています。狩野川流域だけでなく、静岡県東部から神奈川県、東京都などの地域に甚大な被害を与えました。「デジタル台風:台風被害リスト」(2021年5月4日閲覧)によれば、死者・行方不明者1,269人、負傷者1,138人、住家の全壊・半壊・流出16,743戸にも達しました。狩野川台風の被害状況については、「コラム41」(伊豆大島)、「コラム63」(東京・神奈川など)をご覧ください。
コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」
コラム63 狩野川(1958)台風による洪水氾濫と土砂災害
令和元年(2019)10月6日にマリアナ諸島で発生した台風19号は、12日に静岡県伊豆半島に上陸し、関東地方や甲信地方、東北地方で記録的な大雨となり、激甚な被害をもたらしました。台風19号は大変勢力が強く大型で、コースも狩野川台風と似ていたため、「狩野川台風に匹敵する被害がでる可能性がある」と報道されました。
消防庁災害対策室2019年11月8日発表の「令和元年台風19号及び前線による被害及び消防機関等の対応状況(第49報)」によれば、死者95名、行方不明5名にもなりました。国土交通省砂防部2019年11月12日発表の「令和元年台風19号に伴う土砂災害の概要(Ver.1.20)」によれば、土砂災害発生件数935件、死者15名、行方不明2名にもなりました。
塚本良則先生は、令和元年台風19号について、以下の本を出版されました。
塚本良則(2020):令和元年台風19号 山里を襲った土砂災害の体験記−老研究者がならす山里・山裾住人への警鐘,白山書房,218p.
まえがき
18
1章 山里・山裾には潜在土石流が多い
25
山里・山裾には潜在土石流が多い
26
2章 台風19号が美女谷に残した爪痕
33
1節 美女谷の惨状
34
2節 土石流と崖崩れの挟み撃ち――我が家の被害状況
50
コラム:美女谷で経験した大雨の思い出
63
3章 復旧に向けて
67
1節 復旧への勇気を与えてくれたボランティア
68
2節 社会福祉協議会(社協)の活動報告に参加して
80
3節 公共機関の支援
82
4節 締めくくりは自分達の手で
88
おわりに
95
あとがき
100
参考文献
102
本書の口絵には、15ページにもわたって、先生が撮影された台風19号による被災写真と復旧工事の状況(30枚)が収録されています。
気象庁から警報が発令されたため、塚本ご夫妻は田舎(美女谷)の家を離れて八王子の家に向かいました。田舎の家の玄関には、
《この家の住人の掟》が掲げられています。
『 |
大雨予報が出た時・・・・この家に居ることを禁ずる。
山荘の裏の沢は土石流危険渓流である。山荘は昔の土石流扇状地の上にある。
異常な大雨の時には危険であるから、避難すること。大雨警報が出た時、また裏の水路の水位が10cm以上になった時(この時は10cm大の石が流れて大きな音がする)、至急避難すること。安全な場所は旧美女谷温泉の周辺である。』
|
塚本先生ご自身が書いた掟に従って家を離れ、八王子の現在の家に行きました(美女谷温泉はすでに営業していなかった)。
八王子の家で感じた台風の雨と風は普通の台風のようで、特別恐ろしいものではなかったので、安心して過ごしていました。長野県の千曲川の堤防の破堤が報じられると、一気に大災害の様相を呈してきました。千曲川の堤防決壊による被害状況については、コラム65の3項,4項をご覧ください。
コラム65 長野県北部夜間瀬川流域の土砂災害と砂防事業の歴史
3.2019年台風19号による千曲川下流域の洪水氾濫
4.玅笑寺と千曲川破堤箇所の再調査
塚本先生の旧家のある相模原市緑区でも、牧野地区に大きな山崩れが起こって(執印ほか,2020)、犠牲者が出たことを報じ始めました。豪雨が降り止んだ後、塚本先生も八王子から美女谷にある田舎の家(山荘)に駆けつけたそうです。たどり着いて見たものは、身の丈まで土砂で埋まった我が家でした。“やっぱり、やられたか”が塚本先生の第一声でした。土砂災害に関係する研究に多年たずさわった者として、土石流の発生はある程度予想していたそうです。それでも、災害の現場を見て、また、自分の年齢(昭和7年(1932)生まれ)を考えると、これからの復旧の難しさが頭に浮かんで心は沈んだそうです。
図3 美女谷の詳細図に、美女谷の道路と集落配置、台風19号で発生した土石流や大崩壊の位置が示されています。塚本先生の家(Ty)の位置も示されています。
数日後からボランティアの人達が駆けつけてくれ、その後、県や市などの支援を受けて家の周りの土砂を何とか排除しました。残った部分をご夫妻で一つずつ片付けて、やっと“これで住めるか”という段階になったのは、その年の暮でした。
「ここまでたどり着く過程では、多くのボランティアや公共機関の支援を頂いた。これに報いる方法はないかと考えた。できそうなことは、この災害の記録を残して、土砂災害の恐ろしさを少しでも知っていただき、土砂災害の軽減に少しでも役立つことくらいであった。
本書は、わが家のある山里を襲った山崩れと土石流の実態と恐ろしさ、それが引き起こした災害とはどんなものか。更には災害復旧で受けたボランティアや公共機関の支援など、土砂災害の最初から復旧の終わりまでを読み物としてまとめたものである。誰でも読める軽い読み物をとしてまとめたものである。
本書に記したような土砂災害は、日本の山里・山裾の何処でも起こりうる災害である。二百年の間災害がなかったから大丈夫だ、ということは全くあたらない。土砂災害は、過去に災害がなかった所ほど危ない、と考えた方がよい。
本書は、こんな観点から、これからの山村を担う若いリーダー、山里の防災にたずさわっている技術者や団体職員、砂防・治山を学ぶ学生の教科書の副読本として、また災害ボランティアとして活動したい一般市民などにも読んで頂けたら幸いである。
「天災は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦が残した有名な言葉である(
コラム1)。
コラム1 寺田寅彦『天災は忘れられたる頃来たる』
残念ながら日本列島では、「天災はまた来年も来る」というようになってしまった昨今である。土砂災害は、列島で起こる各種災害のなかで、代表的な災害の一つである。本書が日本の土砂災害を少しでも軽減することに役立つことを願っている。」
と塚本(2020)の前書きに記されています。
8.美女谷を歩く
先生から頂いた2冊の本を持って、令和3年(2021)3月26日(金)に中央線相模湖駅から小原宿経由で美女谷を散策してきました。図9は相模湖駅の観光案内所で頂いた「相模湖案内図」です。
図9の下部には相模川が流れ、相模ダムと相模湖があります。相模川は古来より度々災害に見舞われ、治水対策が急務でした。その一方で、横浜市や湘南地方は関東地震(1923)以降人口が急増し、新規の上水道補給が必要となりました。相模川本川に多目的ダムを建設して、上水道・工業用水道の供給を行い、併せて貯水を利用した水力発電を行うべく、昭和13年(1938)に神奈川県議会の臨時議決を経て、正式に相模川河水統制事業、のちの相模川総合開発事業がスタートし、根幹施設として相模ダムの建設が着手されました。相模ダムは昭和16年(1941)に着手し、昭和22年(1947)に完成した高さ58.4m、総貯水容量6320万m2の重力式コンクリートダムです。戦中から戦後にかけて建設されたダムで、殉職者83名を出すなど、補償問題を含めて多くの問題があったようです。今では相模湖周辺は東京に近い観光地となっています。
中央線の与瀬駅(現相模湖駅)は甲州街道の与瀬宿があった場所で、甲州街道は小原宿を経て、小仏峠経由で、八王子・江戸(東京)に向かっていました。甲州街道(国道20号)は小仏峠経由から、明治21年(1888)に大垂水峠経由に変更されました。与瀬駅(現相模湖駅)は明治34年(1901)8月1日の中央線開通と同時に開業しました。
相模湖駅から小原宿まで20分程歩き、小原宿本陣を見学しました。小原宿本陣(旧清水家住宅)は、信州の高島藩・高遠藩・飯田藩の大名と甲府勤番の役人が江戸との往復に利用していました。旧清水家住宅は本陣特有の座敷構えを示すとともに、津久井郡の典型的な大型養蚕農家の構造を示しており、県下に残る唯一の貴重な本陣建物です。
図9 相模湖案内図(相模原市緑区作成).
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写真3 小原宿本陣の門 |
写真4 旧清水家住宅 |
写真5は、国道20号から美女谷に向かう道路が右岸から左岸に渡る美女橋で、上空に中央自動車道の高架橋が写っています。写真6は「照手姫物語」の説明看板です。浄瑠璃や歌舞伎で知られる「小栗判官と照手姫」の物語があります。照手姫は小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったと言われています。北面の武士だったという父とやさしい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長しました。美女谷川上流の七つ釜で豊かな黒髪を梳く姿はまばゆいばかりの美しさを放ち里の若者を魅了
したと言われています。新編相模風土記(1841)によれば、「昔此處より美女出たれば地名となるという」と書かれています。地形図に使われている地名は「底沢」です。新編相模風土記によれば、この地は「そく沢」と言われていたようです。「そく」は塞(そく)から来ており、「塞」はふさぐ、とざすなどの意味があり、要害の地を表します。高山に囲まれた美女谷は要害の地であり、「そく沢が転じてソコサワ(底沢)になった」と記されています(郷土さがみこ,1996)。
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写真5 美女谷橋と中央高速道路橋 |
写真6 照手姫ものがたりの看板
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美女谷の道を登って行くと、対岸に中央高速道路建設時の工事用道路があり、道路法面が崩壊していました。中日本高速道路株ェ王子支社 八王子工事事務所によって、災害復旧工事が実施されていました。塚本(2020)の写真2によれば、台風19号襲来時に工事用道路の法面が崩れて、美女谷川まで土砂と倒木を押出し、倒木が道路を閉塞しました。台風襲来から1年半経過していますが、災害復旧工事が継続して施工されていました。
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写真7 中央高速道路の工事用道路の崩壊 |
写真8 中央道関連の災害復旧工事 |
写真9〜14は、塚本先生のご自宅付近の斜面崩壊と土石流の流下痕跡を示しています。塚本(2020)の写真13〜24と比較すると、土砂の流出状況がわかります。これらの土砂移動の規模がもう少し大きかったら、大惨事となっていた可能性があります。写真14はご自宅北側の小規模渓流で、現在はコンクリート護岸の流路工となっていますが、昭和12年(1937)7月の災害時には、「
ビャク」流出直前に5歳の少年Yが飛び越えて、牛小屋に飛び込んだ自然状態の渓流でした。
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写真9 塚本先生のご自宅の入口に向かう道 |
写真10 ご自宅と納屋背後では斜面崩壊が発生 |
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写真11 納屋は崩壊土砂で変形している |
写真12 母屋背後の崩壊斜面,土砂は撤去 |
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写真13 北側の沢で土石流発生、樫木で止まった |
写真14 ご自宅北側の小規模渓流 |
写真15は、図3に示した美女谷奥の大規模崩壊地で、土砂が川を埋積し、対岸にあったO氏の自宅は破壊されました。写真16は、破壊されたO氏の家と流木の集積状況を示しています。写真17は、上流側から見た大規模崩壊地で、河道閉塞した土砂は排土作業が進み、崩壊地上部では治山工事(法枠工)が始まっていました。
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写真15 美女谷奥の大規模崩壊地,土砂が川を埋積 |
写真16 破壊されたO氏の家 |
写真17 大規模崩壊地で開始された治山工事
9.むすび
以上、先生の2冊の御著をもとに、美女谷の地形特性と先生が経験された2回の土砂災害にいて説明しました。1回目(昭和12年(1937)7月15日)では、「
ビャク」という言葉で土砂移動・災害を表現していました。関東地方南部では、土砂移動・災害について、「
ビャク」ということばが多く使われていました。塚本先生の言葉や山北町の中学3年生の作文を見ても、土砂移動・災害について、「
ビャク」ということばが使われていました。令和元年(21019)の災害では、この言葉は使われませんでした。避難行動を考える場合、重要な言葉が使われなくなったことを非常に残念に思います。
引用・参考文献
相原延光・井上公夫(2016):南関東の「びゃく」という地名の由来について,地理,61巻7号,口絵,p.7,本文,p.68-75.
井上公夫(2017〜2021):いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」
コラム1 寺田寅彦『天災は忘れられたる頃来たる』(2015年4月16日公開)
コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」(2017年11月17日公開)
コラム42 東京都と山梨県の土砂災害を示す「びゃく」(2017年12月13日公開)
コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「びゃく」(2018年1月17日公開)
コラム61 明治40年(1907)の山梨県東部の土砂災害と霹(2019年8月29日公開)
コラム62 南関東の「びゃく」という地名の由来について(2019年9月19日公開)
コラム63 狩野川(1958)台風による洪水氾濫と土砂災害(2019年10月24日公開)
コラム65 長野県北部夜間瀬川流域の土砂災害と砂防事業の歴史(2020年1月23日公開)
コラム69 アルプスにおける大規模土砂災害の事例紹介(2021年3月25日公開)
井上公夫(2021):書評BookReview:塚本良則著:山里が輝いていた頃,令和元年台風19号 山里を襲った土砂災害の体験記,地すべり,58巻2号,35p.
榎本政一(1971):千木良の変遷,相模湖教育委員会,56p.
大高利一(2019):街道を歩く――甲州街道,揺籃社,236p.
神奈川県(1971):神奈川県気象災害誌(自然災害),横浜地方気象台監修,296p.
神奈川県土木部(1980):神奈川の砂防,62p.
相模湖町史編さん委員会(2001):相模湖町史,歴史編,相模湖町,907p.
相模湖町史編さん委員会(2007):相模湖町史,民族編,相模原市,522p.
相模湖町史編さん委員会(2008):相模湖町史,自然編,相模原市,530p.
相模湖町文化財保護委員会(1996):郷土さがみこ 地名編,相模湖町教育委員会,179p.
相模原市(2013):津久井町の気象,津久井町史調査報告書,143p. 及び巻末CD(気象観測簿の一覧表)
相模原市(2020):2020-2027第2次相模原市水とみどりの基本計画・生物多様性戦略,115p.
佐藤健夫(1991):『聞き書き 博労一代 佐藤計一とカツの記録』,私家版,215p.
産業技術総合研究所 地質調査総合センター(2020年4月6日更新):シームレス地質図(縮尺1/20万,V2版
執印康裕・内田太郎・海堀正博・竹下航・飛岡啓之・西脇彩人・山越隆雄(2020):令和元年台風19号等の豪雨によって2019年10月に関東地域で発生した土砂災害について,砂防学会誌,72巻6号,口絵,p.2,p.54-62.
消防庁災害対策室(2019年11月8日発表):令和元年台風19号及び前線による被害及び消防機関等の対応状況(第49報)
千木良小学校創立百年祭記念誌刊行委員会(1980):千木良小学校創立百年祭実行委員会,250p.
塚本良則編著(1992):森林水文学,文永堂,319p.
塚本良則編著(1992):森林・水・土の保全――湿潤変動帯の水文地形学,朝倉書店,138p.
塚本良則(2019):山里が輝いていたころ−高尾山地(小仏峠)西麓昭和10年代中頃の生活風景−,白山書房,218p.
塚本良則(2020):令和元年台風19号 山里を襲った土砂災害の体験記−老研究者がならす山里・山裾住人への警鐘,白山書房,218p.
塚本良則・靖子(2015):老夫婦だけで歩いたアルプスハイキング―氷河の地形と自然・人・材―,山と渓谷,393p.
塚本良則・小橋澄治(1991):新砂防工学,朝倉書店,205p.
富岡製糸場世界遺産伝道師協会(2014):富岡製糸場と絹産業遺産群,上毛新聞,112p.
守屋次郎・益男(2011,新版2019):新版高尾山登山詳細図,陣場山・景信山・城山全112コース,縮尺1:12,500,吉備人出版
柳田國男(1936初版,2015):『地名の研究』,講談社学術文庫,320p.
柳田國男編(1942初版,1972):『伊豆大島方言集』,図書刊行会,87p.
山北町立三保中学校(1972):『美しい三保への試練』,170p.
横浜気象台(1996):神奈川の気象百年,日本気象協会横浜支部,216p.
盧田伊人(1977):新編相模国風土記稿 第5巻,雄山閣,441p.