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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム74 関東大震災による伊豆半島東部の土砂災害
1. はじめに
 静岡県熱海市伊豆山周辺で令和3年(2021)7月3日10時半頃、大雨によって大規模な土石流災害が発生しました。あいぞめ川上流部で発生した土石流が逢初川を2kmも流下し、多くの人家が流出・破壊され。静岡県災害対策室危機報道官(2021.9.3)によれば、26人の死亡が確認され、1人が行方不明となっています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々の1日も早い復興をお祈りいたします。
 災害直後からいさぼうネットの「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」のシリーズコラムを閲覧して頂く人が急激に増え、2021年7月の1ヶ月間のアクセス数は1万8836件で、2015年4月以降の6年間でもっとも多くなりました。
 1608件:コラム40 関東大震災(1923)による小田原市の土砂災害
       ―根府川・白糸川流域の大規模土砂災害地点を歩く―
 1216件:コラム46 広島安佐南区・八木地区の災害伝説と大正15年(1926)災害
 1126件:コラム54 昭和47年(1972)の高知県繁藤災害
 728件:コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「びゃく」
 626件:コラム38 関東地震(1923)による神奈川県東部の土砂災害
      −横須賀地区と浦賀地区の土砂災害地点を歩く−
 622件:コラム42 東京都山梨県の土砂災害を示す「びゃく」
 558件:コラム45 長野県西部地震(1984)による御岳崩れと土石流
 517件:コラム3 八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(887)と
      303日後の決壊
 508件:コラム44 カスリーン台風(1947)による土砂災害地点を歩く
 500件:コラム63 狩野川台風(1958)による洪水氾濫と土砂災害
のコラムが2021年7月の1か月間で500件を超えました。
 逢初川の上流部に盛土した土砂が土石流の発生に大きく関与したことが問題となっていますが、大正12年(1923)9月1日の関東地震によって発生した伊豆半島東部の土砂災害を振り返り、当地域周辺の地形・地質的な素因について考察してみます。

2.関東地震による静岡県東部の土砂災害
 静岡県東部の関東地震による土砂災害については、拙著(2013):関東大震災と土砂災害のp.184〜189で説明しています。
 表1に示したように、静岡県東部では、地震直撃で3箇所、地震後降雨(9月12日〜15日)によって4箇所の土砂災害を整理することができました。
表1 関東地震による静岡県東部の土砂災害一覧表(井上,2013)
表1 関東地震による静岡県東部の土砂災害一覧表(井上,2013)
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 2021年7月の土石流災害前の2021年5月29日に相原延光氏と一緒に神奈川県湯河原町の関東地震関連の現地調査(新崎川上流の大規模崩壊と天然ダムの形成,後述)をしました。この時に、国道135号(旧道)沿いにある慰霊碑(地点S1)の写真撮影を行いました。写真1,2を添付するとともに、少し説明します。
地点S1 熱海町稲村「万霊塔・関東大震災惨死者の慰霊碑」
 静岡県熱海町(現熱海市)の北部・稲村付近の現国道135号(旧道)の通る断崖近くの海側に「万霊塔・関東大震災惨死者の慰霊碑」が建立されています。内田(2012)によれば、軽便鉄道(小田原−熱海間の人車鉄道)の道路工夫、静岡県道路工夫など7人の名前が刻まれています。2013年5月の現地調査時に地元の方から聞き込みをして教えて頂き、稲村集落の熱海側の国道沿いに、慰霊碑を見つけ写真撮影しました(下記写真1,2は2021年5月29日に撮影したもの)。
 残念ながら、慰霊塔の表側の碑文は下の「塔」の一字のみ残っていますが、上半分は節理面に沿って剥がれ落ち、慰霊碑の横に置かれています。裏側の碑文には、「大正12年(1923)9月1日」の関東地震時に犠牲となった静岡県の道路工夫や軽便鉄道の線路工夫の犠牲者の名前が記されています。武村ほか(2015)に碑文が記されていました。
 「正面:万霊塔(塔より上が剥がれ落ちている)
  裏面上段:大正十二年九月一日大震災惨死者
  静岡縣道路工夫 小松富吉/仝 中田平吉/仝 中田平蔵/輕便鐵道工夫 木村春吉
  宝文工業職工 小林喜一/仝 樋川房吉/仝 平川芳三郎
  裏面下段:發起人並/寄附者芳名
  金貮百圓 庵原郡 二又川森太郎/金壱百圓 東京寶文館/金五十圓 別府 南辰造
  金五十圓 沼津 國分正吉/金五十圓 當区 小松政吉/石工 伊勢林造」
写真1 熱海町稲村の関東大震災の慰霊塔と剥離した表の文字(2021年5月井上撮影)
写真1 熱海町稲村の関東大震災の慰霊塔と剥離した表の文字(2021年5月井上撮影)
写真2 慰霊塔の裏面(犠牲者の名前が記されている,2021年5月井上撮影)
写真2 慰霊塔の裏面(犠牲者の名前が記されている,2021年5月井上撮影)

 図1によれば、湯河原から伊豆山付近にかけては紺色の斜線部の崩壊が連続して、海岸線付近を通っていた県道(現国道135号)と軽便鉄道(熱海鉄道)は、多くの地点で海に崩落し通行不能となりました。万霊塔のあった地点S1は、通行不能区間の南部に位置します。
 小田原−熱海間は、箱根火山の外輪山などが相模湾に面して急峻な地形をなしています。この区間の海岸線の美しさは、外国人向けの当時の『日本旅行案内』に、「日本の代表的な景勝である」とまで紹介されています(加藤,1995)。明治14年(1881)に小田原−熱海間の県道(現在の国道135号)が開通しましたが、人力車で5時間かかりました。国鉄東海道線の横浜−国府津間は明治20年(1887)7月に開通しました。外国人を含め箱根温泉の湯治客が増加したため、小田原馬車鉄道(現箱根登山鉄道)が明治21年(1888)に国府津−小田原−箱根湯本間を建設しました(箱根町立郷土資料館,2000)。小田原−熱海間については、豆相人車鉄道が鉄道建設の特許を明治23年(1890)に得て、明治28年(1895)7月に吉浜(現神奈川県湯河原町)−熱海間の10.4kmを、明治29年(1896)3月に早川南(現小田原市,現早川駅付近)−吉浜間の14.4kmを完成させました。明治33年(1900)に小田原馬車鉄道が電化されると、同年6月に人車鉄道は早川橋梁を完成させて520m延長し、早川口で小田原馬車鉄道と連結して、全線25.3km(現在のJR小田原−熱海間は20.7km)を完成させました。
 人車鉄道の軌間は2フィート(61cm)しかなく、客車の定員は上等車が4人、中等車が4〜5人、下等車が6人で、3〜4人の車丁と呼ばれる押し手が登りは押して運行するという極めて原始的なものでした。小田原から熱海まで4時間かかり料金は下等で50銭でした。人力車で行けば5時間かかり、料金は1円50銭もかかったため、人車鉄道はかなりの人気がありました。しかし、登り坂にかかると、下等の客は降りて押さなければならなかったし、ちょいちょい脱線するという、危なっかしい乗り物でした。
 写真3は小田原−熱海間の人車鉄道の写真で、写真4は根府川駅付近の「ホテル星ヶ山」のご主人・内田昭光氏がホテル内に復元した人車鉄道の客車です。
写真3 小田原−熱海間の人車鉄道(内田,2000)
写真3 小田原−熱海間の人車鉄道
(内田,2000)
写真4 ホテル星ヶ山で復元された人車鉄道(内田昭光氏提供)
写真4 ホテル星ヶ山で復元された人車鉄道
(内田昭光氏提供)

 この人車鉄道が一番繁盛したのは、明治37、38年(1904、1905)の日露戦争の時で、多くの傷病兵を湯河原や熱海の温泉に療養させるために、一度に20台もの人車が長い列を作って運転されました。しかし、人車鉄道は脱線・転覆事故が多く危険で、輸送力がなく、車丁の人件費が高くなり採算が取れなくなりました。このため、豆相人車鉄道は、社名を熱海鉄道株式会社に変更し、軽便鉄道に切り替える工事が進められました。明治40年(1907)7月から軌道を2.6フィート(76cm)に広げる工事にかかり、同年12月22日に全線開通し、24日から軽便鉄道の運転を開始しました。
 芥川龍之介(1922)の短編小説『トロッコ』は、この工事を舞台にトロッコに興味を持つ8歳の少年が主人公の物語です。この軽便鉄道は小さな蒸気機関車が定員24人の客車1両を引いて走りました。小田原から熱海までの所要時間は2時間30分で、人車鉄道に比べて早くなりましたが、3等の料金は70銭と高くなりました。軽便鉄道の小さな蒸気機関車は熱海駅前の広場に展示されています。
 東海道線(現在の御殿場線で、明治22年(1889)開通)の交通量が増えるにつれて、急勾配の続く御殿場線のルート(最高点は御殿場駅付近の標高457m)では輸送が困難となったため、丹那トンネル(全長7804m)を通るルートの建設が大正2年(1913)に決定されました。熱海線は国府津−小田原間が大正9年(1920)、小田原―真鶴間が大正11年(1922)に開通しました。このため、併走区間の軽便鉄道は廃止され、関東地震時(1923)には真鶴−熱海間は残っていました。
 このような状況の中で、大正12年(1923)9月1日に関東地震による激震を受けました。写真1,2の慰霊碑には、県道(現国道135号)と併走する静岡県の道路工夫と軽便鉄道の線路工夫などの7名の名前が刻まれています。

地点S2 熱海市伊豆山 逢初山隧道の破損
 熱海市から伊東市宇佐美にかけては関東地震の震源に近いため、山崩れが多発し、海岸付近は津波による被害も激甚でした。熱海線の湯河原−熱海間は大正11年(1922)12月21日に完成していましたが、運行はされていませんでした。伊豆山付近の逢初隧道(L=413m)は震災当時追加工事中でした。伊豆山神社付近では各地で山崩れが発生し、工事中の隧道が破壊し、作業中の工夫27人が死亡しました(静岡県,1996)
 
3.震災地応急測図で見る関東地震による熱海市周辺の土砂移動と土砂災害
 国土交通省国土地理院(旧参謀本部陸地測量部)には、関東大震災の被害状況を記載した「震災地応急測図原図」が保管されています。1/20万帝国図2枚、1/5万地形図28枚、1/5万秘図区域の写図7枚、1/2万地形図7枚、1/1万地形図19枚、計63枚(重複図あり)からなります。これらの地図は、関東地震直後の9月6日から15日という短期間で、当時の参謀本部陸地測量部が延べ94名もの要員を配して作成したものです。ですから、今から98年前の地形と土地利用状況、交通網の発達状況(鉄道と道路など)が分かると同時に、関東大震災による被災状況が克明に読み取れます。
図1 1/5万震災地応急測図「熱海」図幅(日本地図センター,2008)(関東地震時の土砂災害地点,S1,S2地点や地名を追記)
図1 1/5万震災地応急測図「熱海」図幅(歴史地震研究会編集,2008)
(関東地震時の土砂災害地点,S1,S2地点や地名を追記)

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 国土地理院の「地図と測量の科学館」では、関東地震から85年後の平成20年(2008)9月9日から11月3日まで、歴史地震研究会の企画・協力(著者も参加した)により、企画展「地図にみる関東大震災」が開催されました。この企画展では、それまであまり人目に触れることのなかった「震災地応急測図原図」を始め、関東大震災を伝える地図や写真などが展示されました。この企画展の図録が、日本地図センターから『地図に見る関東大震災―関東大震災の真実―』と題して2008年9月に発行されました。日本地図センターに依頼すれば、「震災地応急測図原図」の原寸大のカラーコピーを入手できます。
 コラム37(1/2万「横須賀・保土ヶ谷・神奈川」図幅)、コラム38(1/5万秘図地域「横須賀・浦賀」図幅)、コラム40(1/5万「小田原・松田惣領」)には、震災地応急測図が挿入してありますので、ご覧ください。
 図1は、1/5万震災地応急測図の「熱海」図幅の伊豆半島の東海岸部分を示したものです。元図は明治19年(1886)測図、大正5年(1916)修正測図の「熱海」図幅で、関東大震災直前の土地利用と鉄道・道路の状況がわかります。陸地測量部の隊員は、これらの地形図を持って、主な鉄道・国道に沿って徒歩で現地に入り、土砂移動の状況や鉄道・道路・人家などの被災状況を地形図上に克明に記入しました。また、地元の市町村から被害状況などの報告を受け、被害状況を追記しました。図1の右側の写真は、関東地震時に発生した津波による静岡県宇佐美村(現伊東市)の市街地の津波被害と市街地まで到達した漁船を示しています(歴史地震研究会編集,2008)。
 図1には、武村ほか(2015)で示された解読文を追記しました。赤色で示された地域は、家屋倒潰・流失地区を示しています。湯河原・伊豆山・熱海・宇佐美などの市街地はほとんどの地域で被災し、消失した地域もありました。海岸線に近い地区は、津波による激甚な被害を受けました。震災当時熱海町は戸数1600戸でしたが、約600戸が流失、全壊及び半壊で、海嘯(津波)の被害も受けました。湯河原−伊豆山間の県道と軽便鉄道が通行不能となったため、十国峠から熱海峠付近を通る山道を通って、湯河原−熱海間を通行していたことが記されています。
 小田原から伊東市宇佐美間の伊豆半島東部の海岸線部は、ほとんどの地区で崩壊や土石流が発生し、人家や鉄道・道路のある箇所での被災状況が示されています。真鶴岬の北側では白糸川を流下し、根府川集落と国鉄の根府川橋梁を襲った土石流や根府川駅の地すべり災害が発生しました。詳しくは、いさぼうネットのコラム40をご覧ください。
 熱海市は、令和元年(2019)2月20日に「防災ガイドブック(わたしのための・家族のための・みんなのための)」を更新して全戸配布しています。熱海市のHPで防災ガイドブックのすべてを閲覧できます。このガイドブックは51p.にも及び、防災情報編(p.1-10)、地震編(p.11-14)、津波編(p.15-28)、風水害・土砂災害編(p.29-46)、火山編(p.47-48)、相談窓口(p.49-50)に分けて、熱海市の防災に関する情報を詳しく説明しています。「熱海市土砂災害ハザードマップ」は全域図①と6地区に分けた図で、図2は、熱海市の伊豆山地域を中心とした「熱海市土砂災害ハザードマップ④」です。
図2 熱海市土砂災害ハザードマップC(熱海市,2019)防災ガイドブック(わたしのための・家族のための・みんなのための)より
図2 熱海市土砂災害ハザードマップ④(熱海市,2019)地名や盛土地区を追記
防災ガイドブック(わたしのための・家族のための・みんなのための)より

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ハザードマップの危険個所は、集落のある地区周辺の危険度を示していますが、逢初川上流部に盛土があったことは表現されていません。これらの地区が土砂災害に対して極めて脆弱な地域であるという認識は、地元住民や保養・観光目的で訪れる人達にはほとんどありませんでした。
 上記の市街地は震災当時規模の小さな集落でしたが、戦後になってから急速に観光地化が進み、ホテルや保養所、別荘地が建設されました。図2のハザードマップには、令和元年(2019)頃の集落配置が示されています。関東地震時には建物がなく、地震や2週間後の豪雨などで多くの崩壊や土石流が発生して被災した地区もあります。
 伊豆山神社は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社で、全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社、走湯神社などの起源となった事実上の総本社格です。修験道の始祖とされる 役小角(えんのおづぬ) が伊豆大島へ配流された折に、島を抜け出して伊豆山などで修行し、また走り湯を発見した等の伝説がある神社です。また、空海(弘法大師)が修行した伝承もあるように、多くの仏教者や修験者が修行を積んだ霊場でした。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されています。源頼朝と北条政子の逢瀬の舞台でもあったため、現在も縁結びや恋愛成就の神社として人気があります。関東地震当時は、伊豆山の南側に門前町がある程度でした。関東地震の激震によって、門前町の人家はかなりの大きな被害を受けました。
図3 3万分の1火山土地条件図「箱根山」の一部(国土地理院技術資料,D2-No.74)
LS1:集動地形>地すべり地形>滑落崖        LS2:集動地形>地すべり地形>移動体
Df:集動地形>土石流地形>土石流堆積地・沖積錐  DfT:集動地形>土石流地形>土石流段丘面
Id:外輪山前期火山体>開析地形>開析斜面     Td:多賀火山>開析地形>開析斜面 
TL:山麓堆積地形>崖錐・崩落堆・麓屑面      WC:波食崖 

図3 1:30,000 火山土地条件図「箱根山」の一部に地名等を追記(国土地理院,2021a,b)
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 図3は、国土地理院(2021)が作成した1:30,000火山土地条件図「箱根山」(国土地理院技術資料,D2-No.74)の一部で伊豆半島東部の地域を示しています。逢初川流域は古い湯河原・多賀火山の開析地域で、多くの崖錐・崩落堆・麓屑面(TL)からなります。また、多くの地すべり地形(LS)・土石流地形(Df)が存在します。つまり、この地域の地形は、地質学的な時間でみると、このような土砂移動現象が繰り返し発生して形成されたものです。
 逢初川流域のホテルや保養所、別荘地のほとんどは、上記のような土砂移動によって形成された緩斜面の上に戦後建設されました。
 7月3日(土)午前10時30分頃、熱海市伊豆山地区の逢初川で大雨による大規模な土石流が発生しました。土石流の誘因となった気象現象は、梅雨前線が停滞による長時間の降雨と海側からの水蒸気の流入による大雨です。神奈川県箱根ではアメダスの積算総雨量が72時間で805.5mm(1976 年の統計開始以来7月として最大記録更新,横浜地方気象台)、静岡県熱海市網代では72時間降水量411.5mm(1976 年の統計開始以来7月として最大記録更新,静岡地方気象台)となりました。
 レーダー観測では降水帯が線状に見えますが、線状降水帯の降雨基準値(3時間あたり100mm以上)より少ないので、線状降水帯の認定はされていませんでした。今回の大雨の特徴は短時間豪雨ではなく、長時間強い雨が続くパターンです。「線状降水帯発生情報」の基準には達していなかったものの、”隠れ”線状降水帯が現れていました。
 土石流の特徴は大量の土砂と水が一緒に流れ落ちてくることで、普通の洪水とは比べ物にならないくらい破壊力を持っています。また災害現場は谷沿いになっており、地形や火山灰土質の影響が災害規模を大きくしたことは間違いありません。今回の豪雨では、逢初川以外には土石流は発生しませんでした。令和3年9月7日(火)に「第1回逢初川土石流の発生原因調査検証委員会」が開催され、配布資料が静岡県交通基盤部河川砂防局砂防課のHPで公開されています。

4.神奈川県吉浜村(現湯河原町)の関東地震時の巨大転石と天然ダム
 コラム40でも説明しましたが、白糸川の土石流は小田原市根府川集落を襲い、91戸のうち、64戸を埋没させ、死者408名もの犠牲者を出しました。白糸川上流部の大洞地区で発生した100万m3の巨大深層崩壊は、大規模な土石流(岩屑なだれ)となって谷沿いを流下し、根府川集落を埋め、海岸線付近を通る熱海線(将来の東海道線)の白糸川橋梁を破壊しました。帝国大学地震学研究室の今村明恒助教授は関東地震直後に白糸川の現地調査を行っています(今村,1925)。
 神奈川県吉濱村(現湯河原町)の新崎川でも大規模な崩壊・土石流が発生し、新崎川を河道閉塞して小規模な天然ダムが形成されました。この天然ダムが決壊して大規模な土石流が発生する可能性が指摘され、京都大学理学部地質学教室も現地調査を実施しました。神奈川県(1927)の『神奈川県震災誌,及び大震災写真帳』にも写真A〜Cが掲載されています。写真A,Bを見ると、表土や流木はほとんどなく、かなり粒径の大きな岩塊が土石流となって流下したことがわかります。斜面下部には小規模な天然ダムが形成されました。この天然ダムは決壊せず、徐々に土砂で埋まっていったようです。写真Cは、幕山から新崎川に崩落した人家大の巨石で、手前に人が写っています。
写真A 吉濱村鍛冶屋 川上流ヲ岩石ニテ閉塞セラレタル景(神奈川県,1927)
写真A 吉濱村鍛冶屋 川上流ヲ岩石ニテ閉塞セラレタル景(神奈川県,1927)
写真B 星ヶ山南斜面崩壊による岩屑なだれが新崎川を河道閉塞
写真B 星ヶ山南斜面崩壊による岩屑
なだれが新崎川を河道閉塞
写真C 吉濱村新崎川ニ山頂ヨリ<br>墜落セル岩石(神奈川県,1927)
写真C 吉濱村新崎川ニ山頂ヨリ
墜落セル岩石(神奈川県,1927)
写真5 大石ヶ平の天然ダム形成地点(B)
写真5 大石ヶ平の天然ダム形成地点(B)
写真6 新崎川の巨大転石(頭部だけが見える,C)
写真6 新崎川の巨大転石(頭部だけが見える,C)
(2021年5月29日井上撮影)

 令和3年(2021)5月29日に、相原延光氏と一緒に新崎川流域を現地調査しました。この時には、地元の小石川保様(観光ガイド<フリー>)、山口光彦様(湯河原町観光ボランティア)、鈴木幸雄様(元町議,鍛冶屋地区在住)に現地案内して頂きました。図4に示したように、写真A〜Cの位置を特定できました。写真5はB地点と同じ場所です。大石ヶ平と呼ばれてかなり平らなのですが、樹木に覆われ天然ダムの名残は写真ではよくわかりません。この天然ダムを形成した崩壊・岩屑なだれは硬質な転石を多く含むため(流木がほとんどない)、決壊することなく上流からの土砂で次第に埋積していきました。湯河原町(1984)の「146 京都大学理学部地質学鉱物学教室への回答」(大正13年(1924)3月12日吉浜村役場)によれば、「幕山大崩壊ノ為メ新崎川上流紅葉ノ渡場附近ニ於テ岩石河流ヲ堰止メ為メニ周囲約一町(100m)、深サ二十尺(6m)ノ湖水ヲ生ズ」と記されています。すなわち、関東地震から半年以上経っても、この天然ダムは決壊していないことが判ります。
 表1は、上記の「京都大学理学部地質学鉱物学教室への回答」に記載された神奈川県吉浜村の調査結果をもとに全壊戸数と死者数を示しています。大字吉浜の全戸数は403戸で全壊戸数220戸(全壊率54.6%)、大字鍛冶屋の全戸数は197戸で全壊戸数31戸(全壊率15.7%)、吉浜村全体の全戸数は600戸で全壊戸数251戸(全壊率41.8%)でした。吉浜村全体での全壊率41.8%は、関東地震の震源地に近いためか、極めて高い全壊率になっています。
 吉浜村全体の死者数は、20名にも達しました。
表1 神奈川県吉浜村の全壊戸数と死者数
表1 神奈川県吉浜村の全壊戸数と死者数
図4 神奈川県湯河原町の新崎川流域と写真撮影位置(相原作成)
図4 神奈川県湯河原町の新崎川流域と写真撮影位置(相原氏作成)
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図5 新崎川流域・幕山周辺のトレッキングコース(湯河原町役場観光課)
図5 新崎川流域・幕山周辺のトレッキングコース(湯河原町役場観光課)
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 写真6はC地点とほぼ同じ地点で、幕山から崩落してきた巨大な転石は半分以上砂礫で埋まっていました。河原の巨石は雑草に覆われていていたのですが、背景の山(白銀山)を目当てに確認することができました。
 図4は、現地調査結果をもとに作成した神奈川県湯河原町の新崎川流域と写真撮影位置(相原氏作成)を示しています。図5は、新崎川流域・幕山周辺のトレッキングコースを示しています。図5の下部の幕山公園には、駐車場があり、そこに車をおいて、A・B・C地点まで徒歩で行くことができます。 
 B地点の大石平には、写真7に示した「鍛冶屋山の神」が祭られています。
 説明看板には、下記のように記されています。
『鍛冶屋山の神
 豊かな山の幸に感謝し、仕事の安全を願い江戸末期頃から「山の神」が山仕事の仲間によって祭られました。その後、毎年一月十六日に鍛冶屋山の神講によって祭事が行われ山の恵みや安全を祈願しています。
 この「山の神」は平成十六年十月二十六日に山の中腹から現在地に移設されました。
平成十八年十一月』
写真7 鍛冶屋山の神と説明看板(2021年5月29日,山口光彦様撮影)
写真7 鍛冶屋山の神と説明看板(2021年5月29日,山口光彦様撮影)

 現地案内の方によれば、「鍛冶屋のいわれについては、伝承されておらず不明です。湯河原町教育委員会の大石賢一氏は、鍛冶屋地区にある製鉄関連の地名や遺物を調査していました(大石,2005,大石氏退職後調査は中断)。この地域の数カ所から鉄滓(古代製鉄時に出来る副産物)が出土し、14C年代測定の結果は945〜1025年で、平安時代のものと判明しました。その他、鍛冶屋地内には製鉄に関係すると考えられる地名が多くあり、製鉄に関係あるのではと思います。
 古老の伝承によれば、幕山裏には鉄鉱石を掘っていたと思われる坑道があったが、関東大震災で潰れてしまった(早藤巌(2002)『わがふるさと古老が語る鍛冶屋』)。坑道があったとされる所は、大石ヶ平から大多賀窪へ登る中間の左の山(穴口と呼ばれている)のようです。この穴口とは写真6(B地点)のまさに崩壊している正面当たりになります。私は、この写真を初めて見たときに、何とも不思議だなと思いました。山が崩れたならば土や生えていた樹木などが一緒になって流れ出すと思うのですが、写真A、Bでは大量の石だけが雪崩のように押し出していて何か不自然です。地質に詳しい箱根ジオパークの学芸員の方からは、「幕山の地質から鉄鉱石の産出は考えられない」との指摘を受けています.よしんば「鉄鉱石では無い」としても,ズリ石の山が崩れたのではと感じます。」と語っていました.
 その他に,石切り場の廃材の可能性もあり,さらに調査を進める必要があります.
 
引用・参考文献
芥川龍之介(1922):トロッコ,1922年3月に『大観』に発表,芥川龍之介全集,第3巻,筑摩書房,1958年発行に収録
芥川龍之介(1968):蜘蛛の糸・杜子春,新潮文庫,152p.,「トロッコ」はp.88-95に収録
熱海市(2019):防災ガイドブック(わたしのための・家族のための・みんなのための),51p.
熱海市(2019):熱海市土砂災害ハザードマップC,防災ガイドブックのp.40.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,226p.
井上公夫(2018):歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,264p.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU),丸源書店,306p.
井上公夫(2020):歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのV),丸源書店,268p.
今村明恒(1925):震災予防調査会第百号(乙),関東大地震調査報文地震及び津浪,根府川方面山津浪調査報告,p.P85-86.
内田一正(2000):人生八十年のあゆみ・内田一正,編集・発行,内田昭光,152p.
内田宗治(2012):関東大震災と鉄道,新潮社,239p.
大石賢一(2005):湯河原町鍛冶屋の製鉄遺跡について,3p.
加藤利之(1995):箱根山の近代交通,箱根叢書(25),神奈川新聞/かなしん出版,235p.
神奈川県(1927,復刻1983):神奈川県震災誌,及び大震災写真帳,神奈川新聞出版局,写真32p.,本文,848p.
国土地理院(2021a):1:30,000火山土地条件図「箱根山」,国土地理院技術資料,D2-No.74
国土地理院(2021b):1:30,000火山土地条件図「箱根山」解説書,国土地理院技術資料,D2-No.75,60p.
小山真人(2010):伊豆の大地の物語,静岡新聞社,304p.
静岡県(1996):静岡県史,別編2 自然災害誌,第3章第9節 関東大震災,p.523-537.
静岡県(2021.9.7):第1回逢初川土石流の発生原因調査検証委員会配布資料
(資料1)設置内容と意図、設立趣意書、規約、委員名簿,6p.
(資料2)逢初川土石流災害の概要と発生原因の当初の推定結果,18p.
(資料3)逢初川土石流の「初期(原因推定のため)の逆解析」と 「原因解明のための逆解析」,6p.
(資料4)逢初川災害における実現象(土石流の状況),2p.
(資料5)逢初川源頭部土砂崩落と水道管破損,4p.
(資料6)逢初川土石流発生箇所の土地改変行為の経緯,13p.
(資料7)逢初川源頭部の総盛土量の推定,9p.
(資料8)地形改変の経過, 8p.
(資料9)逢初川土石流災害の雨量規模,3p.
(資料 10)逢初川源頭部付近への水の流入状況,3p.
(資料 11)逢初川周辺の地形・地質,11p.
(資料 12)逢初川地区 流失・堆積土砂の土質調査及び土壌調査結果,12p.
(資料 13)逢初川源頭部付近の土地の安定性と逢初川への影響,3p.
(資料 14)崩落面等の調査結果,13p.
(資料 15)ボーリング位置の選定,3p.
(資料 16)解析すべきことに対する解析手法等と取得すべきデータ,3p.
(資料 17)委員会スケジュー配布資料, 1p.
http://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-350/sabouka/r3hasseigenninncyousakennsyouiinnkai.html
静岡県災害対策本部危機報道官(2021.9.3):(件名)熱海伊豆山地区の土石流の発生について(第50報)(2021年9月3日16時現在),4p.
https://www.pref.shizuoka.jp/kinkyu/documents/atamidosya0903.pdf
静岡地方気象台(2021):令和3年6月30日〜7月4日の大雨に関する静岡県気象速報.9P.
武村雅之(2009):未曾有の大災害と地震学―関東大震災―,古今書院,210p.
武村雅之・都築允雄・虎谷健司(2015):神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構(その2 県西部編(熱海・伊東も含む)),名古屋大学減災連携研究センター,149p.
箱根町立郷土資料館(2000):箱根彩景,138p.
早藤巌(2002):わがふるさと古老が語る鍛冶屋,湯河原町教育委員会,123p.
真鍋政彦・奥山晃平:徹底検証 熱海土石流,日経コンストラクション,第765号(2021.8.9),p.8-19.
湯河原町(1984):湯河原町史,第2巻,近現代資料編,p.298-301.
横浜地方気象台(2021):令和3年6月30日〜7月4日の大雨に関する神奈川県気象速報,11P.
歴史地震研究会編(2008):地図に見る関東大震災―関東大震災の真実―,日本地図センター,68p.

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