1. はじめに
明治14年(1881)10月発行の『村誌 越後国西頚城郡 鬼伏村』によれば、
永祚元年(989)の地震により新潟県糸魚川市鬼伏で大規模な山崩れが発生し、大船の停泊できる港は消滅したと記されています。国土地理院の2時期の航空写真(写真1,2)を立体視してみると、幅300mの明瞭な滑落崖と長さ600mの崩落堆積物の地形が読み取れます。地震地すべりの事例として重要なので、東京農工大学名誉教授の中村浩之先生(元地すべり学会長)方と一緒に令和3年(2021)10月28日(木)に、現地調査したので、その結果などを報告します。
2.鬼伏地区の地すべり地形の概要
図1は、糸魚川市鬼伏・鬼舞付近の1/2.5万地形図「梶屋敷」「名立大町」の一部です。図2は、糸魚川市のハザードマップMで、能生〜間脇の地域を示しています。鬼伏付近では、古川流域と鬼伏の西側の小渓流に「土石流危険渓流」の指定があるものの、鬼伏地区は地すべり危険個所に指定されていません(国道付近以外に人家は存在しません)。
図1 糸魚川市鬼伏・鬼舞付近の1/2.5万地形図「梶屋敷」「名立大町」(2015年11月発行)
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写真1は、国土地理院が1976年9月19日に撮影した航空写真を立体視できるように加工したものです。図1の1/2.5万地形図と比較すると、鬼伏集落の南西側には標高170m〜220mの平坦面(海成段丘)が分布し、半円形の明瞭な滑落崖が形成されて、その直下から海岸線付近まで崩落堆積物が堆積しているのが分かります。鬼伏集落は海岸線に沿って通る国道8号付近のみに存在し、国鉄北陸本線(平成27年(2015)3月北陸新幹線開通後は「えちごトキめき鉄道」)がその南側に通っていました。北陸本線は昭和44年(1969)に浦本トンネルの完成により南側に移設されました(元の線路敷は自転車専用道となっています)。北陸本線の線路敷より南側には集落は存在せず、崩落堆積物が厚く堆積する凹凸のある緩斜面となっています。
写真2は、国土地理院が2009年11月7日に撮影した航空写真を立体視できるように加工したものです。海岸線付近には国道8号が通り、鬼伏の集落が存在します。写真1の時期には存在しませんが、昭和63年(1988)7月に全線開通した北陸自動車道が緩斜面上に敷設され、鬼伏トンネルで西方向につながっています。
図2 糸魚川市(2018年公表):糸魚川市ハザードマップ⑭
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写真1 糸魚川市鬼伏付近の立体視写真 CCB-76-4,C6-2,3
(国土地理院1976年9月19日撮影,元縮尺1/15,000)
写真2 糸魚川市鬼伏付近の立体視写真 CCB-2009-5X,C4-6,7
(国土地理院2009年11月7日撮影,元縮尺1/20,000)
図3は鬼伏付近の「地理院地図」で、図4に示した断面測線の位置を赤線で示しました。写真3は写真2を3Dで表示し、別の角度から見たものです(国土交通省国土地理院(2021年3月22日更新版)をもとに作成)。使用している写真は写真2と同じで、国土地理院が2009年11月7日に撮影したものです。図4は鬼伏地区の断面図(高さ方向2倍に強調)で、地すべり地形(頭部滑落崖と崩落土砂)の形態が良く分かります。断面図に後述する永祚元年(989)に発生した地震発生前の地形と想定すべり面を追記しました。地震前は入江となっており、日本海を運行する大船の湊があったとされています。永祚元年の地震によるすべり面は現在の海面よりも5〜10m低くなっていたと考えられ、鬼伏の湊町と入江は地すべり崩積土により埋没したものと推定しました。
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図3 鬼伏付近の地理院地図(赤線は断面位置)
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写真3 鬼伏付近の鳥瞰写真
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(国土交通省国土地理院(2021年3月22日更新版)をもとに作成)
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図4 鬼伏地すべりの断面図(推定元地形とすべり面(---),測線位置は図3参照)
鬼伏の地すべり地形を把握するため、五大開発株式会社の高橋浩貴様と新谷悠介様にドローン撮影をして頂きました。撮影地点は図3に示した3地点を計画していました。@地点は国道8号線のセブンイレブン付近で、ドローンを高さ90mまで上昇させて撮影しました。10月28日の午後撮影しましたが、天気が良過ぎて逆光となり、地すべり地の滑落崖は南から西斜面であるため、良い写真は撮れませんでした。A地点は高速道路(北陸自動車道)の工事用道路上で撮影しました。残念ながら滑落崖の斜面は逆光でうまく撮影できませんでしたが、北側の海岸線付近は良い写真が撮れました。地点Bは滑落崖上位の海成段丘面の上で、国土地理院が1976年9月19日に撮影した写真1では、林地となっていましたが、国土地理院が2009年11月7日に撮影した写真2では、畑が開墾されており、ドローン撮影には最適の場所と思っていました。しかし、この畑地はすでに放棄されており、畑地に向う林道は途中で通行不能となり、車では行けませんでした。
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写真4 地点① 国道8号線付近から鬼伏地すべりを望む(上の道路は北陸自動車道)
(2021年10月28日にドローンで五大開発轄kエ・新谷撮影)
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写真5 地点② 北陸自動車道の工事用道路から鬼伏地すべり北側を望む
(2021年10月28日にドローンで五大開発轄kエ・新谷撮影)
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3.鬼伏村と鬼舞村の地名の由来
新潟県糸魚川市の東側地域には「鬼」に関連した地名が多くあります。平凡社地方資料センター(1986):新潟県の地名,日本歴史地名体系第15巻のp.47-48などに、鬼伏村、鬼舞村のことが記されています。
鬼伏村(糸魚川市能生町鬼伏)
鬼伏村は、北陸道に沿った地区に立地する。もとは港があり、大船も停泊できたが、大崩れのため埋没したという(頚城郡誌稿)。現在の地形からも十分それが証せられ、地名を
崩山といい、西方に糸魚川市間脇集落があることもこれを物語る。天正十年五月二十六日(1573年6月25日)の上杉景勝過所(蓼沼文書)に「きはよりのひきやく弐人可通也」として「おにふし」の地名がある。
『正保国絵図』(1838年完成,図6参照)に
鬼伏という村名があり、延宝七年(1679)の越州四郡高帳に高51石6斗余、「此所番所 但、北国海道」とある。天和三年(1683)郷帳では高154石5斗余とある。高見崎の東、崩山一帯は山が海へせり出し、裏道・間道など抜道の難しい所で、関所を設けるのに好適な地である。正保国絵図に北陸街道の浜往来番所として市振(現青海町)と鬼伏が併記される。元禄十一年(1698)の村明細帳(伊藤家文書)によれば、番所屋敷は十間半(18.9m)に六間(10.8m)で、「越後中将様御代までの内、高田表より足軽弐人宛、庄屋所へ御入来、月々十五日かはり、船、沖ノ口御改」ていたが、天和元年(1681)に関所は廃止されたという。
江戸時代初めから鬼伏辺りの者は千石船を使って、北は北海道・千島から、南は大坂・九州辺りまで出かけて商売をしたという。越後の米を北海道へ運び、塩や砂糖を買って帰り、最盛期には鬼伏・鬼舞・能生で30 艘ほどの千石船があり、賑い栄えた。廻船が休みの冬漁として、くるみの場で手繰網により操業していた。この付近は中宿村(現糸魚川市)と言われており、沖の場の良い漁場であった。底刺網を仕掛けたため、寛延三年(1750)に紛争が起こったが、「広き海の儀に候間、相互ひに意趣を含み申されず、和順いたさるべく候」と話合いがついた(糸魚川市役所,1977bに記載)。幕末に異国船打払令により、崩山に大砲を備えた台場が築かれた。
鬼舞村(糸魚川市能生町鬼舞)
鬼伏村に続く北陸道沿いの村。
両鬼橋(写真6)から東の木浦川までの間に住家が立て込んでいる。後方台地に縄文中期の遺跡があり、硬玉原石や玉類が出土する。正保国絵図に村名があり、延宝七年(1679)の越州四郡高帳に高49石8斗とある。天和三年(1683)の検地帳(鬼舞集落蔵)によれば、田方6町2反3畝余・畑方9町3畝余で、田畑屋敷高合計95石2斗余である。鬼伏や能生と同様、江戸時代には千石船を使い、北海道から大坂・九州まで商売し、たいへん栄えたという。千石船には15人位乗込んだが、激しい船上生活に耐えられる若い者ばかりで、14歳くらいから乗込み、30歳すぎて船頭になったと言われている。
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写真6 鬼舞と鬼伏の境の両鬼橋
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写真7 鬼谷山西性寺(糸魚川市鬼舞)
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(2021年10月28日井上撮影)
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鬼谷山西性寺(写真7)は、図1に示したように現在は鬼舞の海岸付近に存在します。現地調査を行った時に西性寺を訪問し、楠田昌樹住職から色々と教えて頂きました。先代の住職・楠田昌瑛様が執筆された『鬼谷山西性寺誌―親鸞聖人七百回御遠忌法要記念―』(1974)を借用し、読ませて頂きました。
昭和5年(1930)刊行の『西頚城郡誌』によれば、
「鬼谷山 西性寺 文永元年(1275)三月信州水内郡平出村に浄願房樹心草創、応仁年中(1467〜69)に鬼伏に来り、其後永禄四年(1561)に鬼舞に移り、享保五年(1720)現在地に移る。」と記されています。鬼谷山という山号は、鬼舞・鬼伏という地名からとったことは明らかです。そしてこの地名の由来を語る伝説と、その基礎となっている信仰と結び付けて、西性寺はこの地に根を張り発展しました。
鬼伏という地名は、八幡宮の神が鬼と力くらべをして、これをこらしめ伏せたという伝説からきている」と記されています。
西性寺の裏の向山に昔から「鬼のお墓」と呼ばれる碑があるとお聞きし、楠田住職に案内して頂きました。風雨の激しい山頂にあり、花崗岩で造られた墓石は碑銘も読みがたいほど風化が進んでいました。図5は『鬼谷山西性寺誌』(1974)から転載させて頂きました。写真8は、令和3年(2021)10月28日に撮影したものです。
西向き正面は、聖徳太子(以下3字不明)
東向き裏面は、南無阿弥陀仏
北向き海側は、施主三固邑講
南向き山側は、四鬼舞埼度
と記されていますが、現在はほとんど読めません。
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図5 鬼のお墓(『鬼谷山西性寺誌』(1974))
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写真8 鬼のお墓(2021年10月28日撮影)
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墓石の花崗岩は、江戸時代の末期に弁才船で遠く瀬戸内の海から運ばれてきたものと思われます。施主の三固邑講は、鬼伏村・鬼舞村・木浦村の3ヶ村で講が組織されていたことが、今回の御遠忌のために本堂を修理した際、壁の下張りの中から出て来た帳面の表紙によって明らかになりました。南向きの
鬼舞埼は地名であるが、その下は度という文字だと思われます。「鬼舞埼のワタリ(ワタシ)」とでも読むのであろうか。それと頭の四の字の意味がわからないようです。
鬼のお墓と言われていますが、この碑は経石を埋めた上に建てられた聖徳太子頌徳の碑です。鬼舞、鬼伏の地名発生の伝説をもとにして享和二年(1802)に書かれた『聖徳太子鬼神済度之御経石』なる由緒書によると、「太子十六歳之春の頃甲斐ノ国より献したる黒駒ニ乗り給ひ調子丸を御供につれ、仏法弘通の御志有て日本国を三日三夜に廻り給ふとき、越後之州頚城郡鬼舞の浜辺ニて太子の召したる駒の足を留むる者あり、太子不思議に思召て馬より下りさせられ見給ふに、あやしきかなおそろしき二鬼神現れ出ツ・・・。この鬼は一千年も生きていた両親が寿命つきて命が終わってしまった。それを自分の身におきかえて考えてみると悲しいと。鬼の目にも涙をうかべ、どうすれば千年も万年も生きられるか教えてほしいと訴えた。太子は「必ず一度ハ死すべし、汝等命永き事望むならば是より西方十万億土に阿弥陀仏という仏在す、此の仏を一念頼めば極楽といふ国へ生れ命ハ無量永劫老せず死せざる楽を得るぞ」と教えると二鬼神は大いに喜び、「口に南無阿弥陀仏を唱へ其のよふなる目出度き極楽へ親諸共に一度早く参るべしとて、自から舌をくひ切り往生をとげた」と記されています。その鬼を葬たる所に、「太子御手づから小石を拾ひたまひ法句経と浄土の三部経を彼の小石に御真筆在し」埋めたとのことです。「其の旧跡西性寺の境内に安置し奉る。御経塚鬼神の墓所なり・・・。」 楠田住職に、「向山の畑で耕作中、小石に一字一石の経石を拾って所持している人がいる」と数個の教石を見せて頂きました。これらのことから、経塚であることは間違いないが、鬼のお墓といわれ初めたのは、この碑を建て、西性寺で由緒書がつくられた以降ではないかと言われました。
4.永祚元年(989)の地震による鬼伏の地変
ウィキペディアなどによれば、 永延三年八月(ユリウス暦989年9月)の頃ハレー彗星が出現しました。『日本紀略』には七月六日の彗星と八月十三~二十三日の彗星が記載されており、前者についてはハレー彗星なのかどうか不明です。『一代要記』では八月十五日に東の空に彗星があったと書かれています。中国では『宋史』に観測記録があります。八月十三日にふたご座の西で出現し、30日間観測されました。最初の10日間は朝に見られたが残りは夕方に見られるようになったとも記されています。
5日後の永祚元年八月十三日(989年9月15日)に近畿地方を猛烈な台風が襲い、激甚な被害を受けました。早津(1994)、国土交通省国土地理院(2004)、気象庁編(2015,Web掲載版)などによれば、新潟焼山では「永祚元年に大々噴火あり」(伴家文書)と記されています。早川ほか(2011)、木村ほか(2017)は、炭素14 ウィグルマッチング年代によって、新潟焼山の早川火砕流噴火年代は1235年前後だとして、永祚元年の噴火を否定しています、
ともかく、永祚元年(989)は大変な年であったため、1年2か月で永祚二年(990年11月26日)に正歴に改元されました。
K・O生(1956)は、『汐路』18号の「
木浦特集」(p.24-26.)に「
崩山事変の事」と題する報文を記載しています。
「鬼伏の地名について、伝えられていることは次のようなものである。即ち西頸城郡郷土誌稿・第一輯口碑伝説編・第一冊に、浦本村大字鬼伏に、多数の鬼が出て大石の投げ合をした。この石を「手玉石」といってゐる。そこへ八幡神が現れて鬼共を投げとばした。「八幡切石」といった石もあった。鬼共は後の山に、己の背をすりつけて逃げ上った。頂上に達した時尻もちをついたので穴があいた。今はそこから水が湧いて流れ落ちてゐる。今もこゝを鬼の「せすり谷」といふ。
更に又西頸城郡誌町村開発の項に記されているものは次の如きものである。鬼伏は田伏とともに布施屋の跡かと、又港ありて大船さへ泊せしに大崩のために埋没せりと(崩山はそのあと)。其当時、其間の脇なりし故間脇と云。鬼伏と云い鬼舞といふ鬼は風俗の異れる人等の住居より来れるか。間脇又
舞鬼とも云
鬼舞・
鬼伏等に関係せる名なり。
以上の事から殆んど説明を要しないことであるが、今此処で問題となるのは、大崩にて埋没したと伝えられる一事である。
崩山の地名が残り、港があって大船さえ停泊出来たと伝えられることから、大崩の模様をさぐることが当然必要となってくる訳である。
そこで古書に記されているこの大崩に関係ありそうなものを二〜三拾って見る。
明治十四年(1881)10月発行の『村誌 越后国西頸城郡 鬼伏村』の冒頭に次のような記事がある。即ち
永祚元年六月三日(ユリウス暦989年7月8日)地大ニ震シ山海変化シ人畜尽く死シ又存スルモノナシト云フ今尚ホ上ヲ穿ツモノ往々石屈の器具ヲ得。
この永祚元年(989)に地震について記せる文書があるが、残念にも書記年号がない。それによると尚くわしくなっている。即ち
北陸者永祚元年六月三日震動而沼奈河之保内気吹浜郷変地、而山抜之下成人坒(?)
不残皆死其節伊藤祐右エ門栄貞舎弟祐三郎栄亟上申者致上京都尓居天石北越之大変 平聞驚早急立帰此変地平見而目も当羅礼奴大変諸有而無活合者淋々タリ。月日平朧蘄(?)時至り其後抜跡 志友住居栄庵平結互先祖代々跡平営ミ続志ナリ。背者焉平気吹浜之塁至リ其頃ヨリ鬼伏之庄止唱フ。
又北越風土記に次の様に記されている。
越後国図者永祚元年六月三日北越震動海陸国中の人生残者ニ分也ト申フ。
永祚元年は西暦989年、六十六代一條天皇の時代であるが、高田神原藩士庄田直道翁(?)越后頸城郡誌第五編災害之部に記されている中から抜粋して往古の災害の模様を推察してみる。
夫天災地変ハ、古今数ノ免レザル処ニシテ人生ノ此災害ヲ受ル其大ナル者ニ至テハ海湧、地震、山崩、地抜ケ、河塞リ。又旱魃、飢饉、洪水、大火、疫病等ニ至ルマデ、苟モ人民の住スル処ニテ 是ノ災害ヲ免ル事態ハザルハ数ノ定マレル処アレバナリ。然リト蚩モ、其郷党民間伝ル所の口碑如何ヲ按スルニ、往古大津波アッテ妙高山ノ裾野波防岩迄水涌至リ。其朋異船アッテ難波山ノ瀕ニ繫ガリシヲル降ル風ノ三鉄ノ宝ヲ残シ置タリト云フ。又西浜ノ海岸ノ西海谷、東海、間瀬浦本辺ハ往古ノ海水湾入セル処ナリケルニ、何レノ世ノ海伯ノ荒ラビヤニ今ノ如キ磯浜トナリケルト云フ。又直江津モ沖ヨリ西浜海岸ニハ 往古七ツノ小島アリケルニ是モ何レノ世ノ津波 海湧ニ欠崩シテ今ハ跡ダニナシト蚩モ何レノ世ノ津波 海涌ニ欠崩シテ今ハ跡ダニナシト蚩モ、海底ニ往時ノ島名残レリト云フ。云々。
第二節往古災害の項には
当郡往古天災地変ノ類・・・茫乎トシテ其事暦ヲ明ニスル能ズ。唯青史ニヨッテ之ヲ糺スニ、北陸道飢饉国(?)何々或ハ地震或ハ洪水或ハ海涌或ハ水涌等アリト蚩モ、何郡何郷ニテ何ノ災害アリト明細ニ其模様ヲ記セシモノ一ツモ地方に伝ハルモノナシ。僅ニ何神社或ハ何山何年ノ地変に崩震云々ノ口碑ニアリト蚩モ、其事暦ヲ判然スルヲ能ズ。云々。
いずれにしても、大崩があったことを思わせる地形であり、古来地辷の多い地帯であってみれば否定する訳にも参らない。従って、糸魚川出身の理博中村慶三郎氏はその著書『地辷及び山崩』(1948)の中で次の様に記している。「即地辷、山崩の変動其のものに因んだと思われる集落名も稀でない。新潟縣木浦村の一部にある崩山と云ふ部落は、其背後に明瞭な山崩地形を有している。然し其崩壊当時既に此部落があって災害を受けたものか、或は其の地変後に此地に占住したものか不明である。」
以上で一応この項を終わる。尚鬼舞浜郷変地と記されていることから、又鬼舞、鬼伏の地名の近似点からも将来この二つの地名について研究の余地あるものかと思う。」(K・O生(1956)からの引用)
宇佐美ほか(2013)『日本被害地震総覧599-2012』を見てみましたが、永祚元年(989)の地震は掲載されていませんでした。
5.明治14年(1881)10月発行の村誌
新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム 学芸係の小河原孝彦様から、『村誌 越後國西頚城郡 鬼伏村』を探して頂きました。
非常に分かり易く、永祚元年六月三日(989年7月8日)の地震や鬼伏港のことが記されていたので、下記に紹介します。
「村誌 越後国西頚城郡 鬼伏村
本村昔シ氣吹濱ト稱シ又鬼伏港ト云フ
今ヲ距ル八百九十二年前永祚元年六月三日(989年7月8日)地大ニ震シ山海変易シ人畜尽く死シ、亦タ存スルモノナシと云。当時本村ノ海上ニ数箇ノ島廣有リ、焼島ト称スルモノハ常ニ煙烟ヲ吐ク。因テ氣吹濱ノ名有リト、又タ海水湾ヲナシ破船ニ宜シク一小港タリ。故ニ鬼伏港ノ名アリ。開發時代及ヒ何人ニ係ルカ、詳ラカナラズ。
古時高志國ニ属シ後チ本國ニ属ス。而シテ本郡ニ属シ、奴奈川郷ニ属ス。豊臣氏ノ時地ヲ撿シテ高七十五石有。寄テ量出ス。徳川氏ノ時天和三年(1617)地ヲ撿シ更ニ高百五十四石五斗八升九合ヲ量定ス。安永四未年(1775)新墾ヲ撿シテ高四斗二升六合ヲ増シ、
寛政六寅年(1794)復タ新開ノ田圃ヲ量シテ高五石六斗九升九合トス。
彊 域
東ハ頚城郡鬼舞村ト田圃ヲ以テ境ヲ接ス。
辰巳ノ方同郡木浦村曁ト鬼舞村ト山林を以テ境ヲ接ス。
西ハ海ニ面シ 戌灾ノ方又タ同シ
南ハ大谷川及ビ神楽谷山ノ嶺ヲ以テ同郡間脇村ニ界シ、及ヒ西ノ内山の嶺ヲ以テ同郡越村ニ界シ」
未申ノ方大谷川ヲ以テ間脇村ト境ヲ彊ル
北ハ海ニ面シ
右本村地誌繪圖共取調相違無之候也
越後国西頚城郡鬼伏村
明治14年11月
戸長 山本多三郎
6.正保国絵図による関川〜姫川間の地名
図6は、国立公文書館デジタルアーカイブの「天保国絵図・越後国(高田長岡領)の一部で、海岸線沿いの地名を赤字で追記しました。
国立公文書館の天保国絵図・越後国の説明文によれば、「江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等が作成されました。 このうち、天保国絵図は、天保六年(1835)その作成が命じられ、同九年(1838)に完成しました。縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、河、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡と城主の名前が記されています。各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が付け加えられています。一部の地図には罫線が引かれています。陸地測量部が新たな地図作成のために、国絵図を模写したこともあり、明治維新後も実務に活用されていました。 国立公文書館には、天保国絵図全国分83鋪(重複を含めると119枚)、縮小図等12鋪が保存されています。元禄国絵図及び松前島から琉球まで国ごとに各村の石高を記した「天保郷帳」85冊等とともに昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されました。天保国絵図は、良質の料紙に描かれた上、何重にも裏打ちがされているため、かなり厚いものになっています。そのため折り目によるかすれ・しわ等がみられますが、今回の撮影は、現状に手を加えることなく行っております。そのため、一部不鮮明な個所がありますが、ご了承下さい。原図サイズ:東西608cm×南北521cm」と記されています。
図6は、姫川から関川間を示しており、高田城を中心として、主な街道が赤線で描かれています。海岸線に沿って通るのが北陸道で、有間川−名立川間の海岸線付近は急崖で、街道は急崖の上を曲がりくねって通行しています。
図6 天保国絵図・越後国(高田長岡領)の一部(姫川〜関川間,主な地名を追記)
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
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この地域は、寛延四年四月二十六日(1751年5月21日)の高田地震(越中・越後地震)によって、無数の土砂災害が発生しました。特に、名立崩れと追立山の巨大地すべりは激甚な土砂災害となりました。詳細はいさぼうネットのコラム8とコラム9をご覧ください。
コラム8 高田地震(1751)による日本海側の無数の大規模土砂災害
コラム9 高田地震(1751)による名立崩れと追立山の巨大地すべり
百川〜間脇には、日本海にかなり大きな島(岩)がいくつも描かれています。このような島(岩)は『天保国絵図・越後(高田長岡領)』の描かれた時期(1835〜1838)には存在したのでしょうか。それとも誇張されて描かれているのでしょうか。
前述のK.O生(1956)によれば、「
又直江津モ沖ヨリ西浜海岸ニハ 往古七ツノ小島アリケルニ是モ何レノ世ノ津波 海湧ニ欠崩シテ今ハ跡ダニナシト蚩モ何レノ世ノ津波 海涌ニ欠崩シテ今ハ跡ダニナシト蚩モ、海底ニ往時ノ島名残レリト云フ。」と記されています。
図7は、能生〜糸魚川間の海図(1/5万)「糸魚川−直江津」の一部です。能生から鬼伏付近の日本海はかなり遠浅の海底が続いていますが、能生漁港付近に小さな島があるのみで、天保国絵図に描かれているような島はほとんど描かれていません。
図7 能生〜糸魚川間の海図(1/5万)「糸魚川−直江津」
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図8は、能生町教育委員会(1993)『いそべたの民俗』の第三節 口碑・伝承ー岩や石のまつわる話から、挿入されている図を1/2.5万地形図「名立大町」「槙」「梶屋敷」の上に転記したものです。鬼伏の崩山の海岸部には「切石」「手玉石」などの岩が点在しています。
図3の天保国絵図ほどではありませんが、
トットコ岩(写真9)、
弁天岩(写真10)などの島が数多く描かれています。小泊海岸では、黄色で塗色した範囲が盛土造成され、多くの島が消滅しました。新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム 学芸係の小河原孝彦様は、「周辺には、
鬼伏や鬼舞、両鬼橋、鬼谷山西性寺など鬼に関係した地名が多く残っています。鬼の墓とされる墓石が鬼谷山西性寺にあります(3項参照,図5と写真8)。この地域は古くから漁業が盛んで、江戸時代には廻船(北前船)の船頭が多く住んでいます。鬼とは何かという問いですが、良い鬼と悪い鬼がいたという話を地元の方がしています。良い鬼からは船の航海の仕方を教えてもらったとのことです。おそらく鬼とは、ロシア人などの外国人で船が難破して流れ着いたのではないでしょうか。その外国人と鬼伏・鬼舞の方は船の航海の仕方を教えてもらうなど関係を持ち、最後には鬼の墓まで作りました。」と説明されました。
図8 能生町教育委員会(1993)『いそべたの民俗』による日本海の島々
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写真9 トットコ岩(2021年10月井上撮影)
写真10 曙橋と弁天岩(2020年2月高橋浩貴撮影)
7.むすび
糸魚川市はユネスコ世界ジオパークとして、世界のジオパーク地域と交流を深めていますが、鬼伏・鬼舞の人々は大昔から異文化コミュニケーションを進めています。
本コラムの執筆にあたっては、色々な方から貴重な意見を頂きました。まだ、未解決の問題が多くあり、今後も調査を進めていきたいと思います。
引用・参考文献
糸魚川市(2018):命を守る!! 防災ハンドブック,糸魚川市消防本部,86p.,ハザードマップ⑭
糸魚川市役所(1977a):糸魚川市史,1巻,自然・古世・中世,524p.
糸魚川市役所(1977b):糸魚川市史,2巻,近世(江戸前期),544p.
糸魚川市役所(1981):糸魚川市史,5巻,近世(江戸後期),541p.
糸魚川市役所(1984):糸魚川市史,6巻,近代(明治・大正),532p.
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井上公夫(2018):コラム9 高田地震(1751)による名立崩れと追立山の巨大地すべり,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,p.52-57.
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