いさぼうネット
賛助会員一覧
こんにちはゲストさん

登録情報変更(パスワード再発行)

  • rss配信いさぼうネット更新情報はこちら
 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム76 川崎ローム斜面崩壊実験事故の背景  ―大石道夫先生と私―
1. はじめに
 昭和46年(1971)11月11日に国立研究開発法人防災科学研究所の前身である国立防災科学技術センター(以下防災センターと呼ぶ)をはじめとする4研究機関が、多摩丘陵にある生田緑地公園(川崎市)において実施した人工降雨による斜面崩壊実験を行いました。しかし、15時30分頃予想外の速度の斜面崩壊・土砂流下が発生し、15名の死者と11名の負傷者を出す極めて重大な事故を引き起こしました。2021年は崩壊実験事故から50年となりました。コラム43の5項でも、「びゃく」との関連で川崎市ローム斜面崩壊実験事故について説明しました(拙著,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』,そのTの「あとがき」でも大石道夫先生との関連で少し書きました)。
 国立研究開発法人 防災科学技術研究所では、令和3年(2021年)12月6日に「2021年度土砂災害予測に関する研究集会」(オンライン形式)を開催しました。午前中の9時30分〜12時30分は、「テーマ1 川崎ローム斜面崩壊実験事故から50年」が開催されました。国土技術政策総合研究所土砂災害研究室の中谷洋明室長の司会で4名の発表がありました。
 井口隆:ローム実験および事故の概要と教訓―事故発生50年の節目を迎えて―
 井上公夫:川崎ローム斜面崩壊実験事故の背景―大石道夫先生と私―
 落合博貴:実斜面における野外崩壊実験について
 笹原克夫:変位計測に基づく模型斜面の崩壊発生予測―変位増加から崩壊に至る力学的条件―
 このうち、井上の発表を中心に、川崎ローム斜面崩壊実験事故の概要とその背景について説明したいと思います。

2.ローム斜面崩壊実験および事故の概要
 この崩壊実験事故に関しては当事者である国立防災科学技術センターによる報告書(1971)をはじめとして、政府の「ローム斜面崩壊実験事故調査委員会報告書」(1974)、さらには地形・地質・土質などの多くの専門家による崩壊発生と事故に関する調査や見解が出されました。しかし、実験担当者の11名がなくなり、実験関係者の2名(防災センターの第2研究部の丸山文行部長と大石道夫地表変動防災研究室長)が起訴され、刑事裁判に問われたこともあり、この実験事故の要因等については、関係者間での議論はあまり深められませんでした。
 川崎市の生田緑地で行われた「ローム斜面崩壊実験」は、当時の科学技術庁特別研究促進調整費による総合研究として昭和44年〜46年度に実施された「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」(科学技術庁国立防災科学技術センター,通商産業省工業技術院地質調査所,自治省消防研究所,建設省土木研究所)の一環として行われたものです。
 その概要は図1に示すように、上部がローム層から構成される多摩丘陵の谷頭部斜面にレインガンを用いて散水し、様々な観測機器を用いて斜面の挙動を観測記録し、斜面崩壊の発生機構を明らかにしようとするものでした。
図1 ローム実験斜面の模式鳥瞰図(井口(2021)の図1を加工)
図1 ローム実験斜面の模式鳥瞰図(井口(2021)の図1を加工)
拡大表示

 本実験は11月9日から12日まで設定され、11日の午後もしくは12日の午前に崩壊させる計画で実施されました。実験は当初非公開の予定でしたが、報道関係者からの問い合わせもあり、防災センター企画課と科学技術庁との協議で、10日にプレス発表が行なわれました。実験3日目の11日朝から見学者や報道陣が集まり、現地で唯一斜面全体が見通せる斜面下部の防護柵(しがらみ柵)の後方で待ち構えていました。11日午後3時過ぎより斜面の変動が計測器で確認され、計測データを集約していた観測小屋から間もなく崩壊するという意味で笛が鳴らされました。崩壊は斜面下部が爆発するように膨らんで始まり、その第一波は泥水状で実験関係者・報道関係者がいた防護柵を乗り越え、斜面最下部の奥の池まで押し流しました。直後の第二波以降の土砂は数ブロックに分かれて流下し、それらの土砂に襲われた実験関係者・報道関係者の26名が土砂に埋もれ、15名(実験関係者11名,報道関係者4名)が亡くなりました。

3.大石道夫先生の略歴
 砂防関係の方はよくご存じだと思いますが、大石道夫先生の砂防に関する経歴を図2にまとめました。昭和27年(1952)に京都大学農学部を卒業され、建設省に入省されました。各地の砂防工事事務所で活躍され、昭和39年(1964)に日光砂防事務所の事務所長に就任されました。昭和40年(1965)に科学技術庁国立防災技術センターの地表変動防災研究室長に就任されました。
 降雨によるローム斜面崩壊機構の解明を目的として、昭和44年(1969)から3か年計画で「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」が開始されました。この総合研究は4つの研究機関が独立した研究テーマを持って参加し、大石室長はこの総合研究の取りまとめ役でした。昭和46年(1971)の事故では大石室長も重傷を負われました。
 事故後に事故調査委員会(委員長:安芸皎一東京大学元教授)が組織され、65回の委員会と数次の現地調査、各種実験により検討が行われ、昭和49年(1974)6月に「ローム斜面崩壊実験事故報告書」が公開されました。
 昭和51年(1976)7月に防災センターの丸山部長と大石室長は業務上過失死傷罪で起訴され、横浜地方裁判所で10年以上にも及ぶ審理が行われました。昭和62年(1987)に「被告人らはいずれも無罪」の判決が出されました。検察側は控訴せず、無罪判決が確定しました。
図2 糸魚川市(2018年公表):糸魚川市ハザードマップM
図2 大石道夫先生の略歴(大石道夫,2014をもとに作成)

 その後、大石道夫先生は昭和62年(1987)に日本工営株式会社非常勤顧問に就任されました。平成2年(1990)に砂防エンジニアリング株式会社を設立され、社長・会長を務められました。さらに「微地形砂防研究所」を設立され、砂防における微地形・地形発達史調査を長く実施されています。

4 大石先生と私(とローム実験事故)
 私は昭和42年(1967)4月に東京都立大学理学部地理学科に入学しました。地理学科の定員は昼間10人、夜間5人で、多くの先生や先輩に恵まれ、1年生の時から「地研ゼミ」というサークルの中で、多摩丘陵の露頭調査に連れて行って頂きました。当時の多摩丘陵は、箱根火山や富士火山から降下・堆積したテフラ(関東ローム層)の良い露頭が多くあり、多くのテフラ層の調査をしました。大学2年の冬に東京大学安田講堂事件などがあり、大学紛争が盛んとなりました。大学3年の頃には学生ストなどで、授業は休校が多くなっていました。
 こんな時期に当時東銀座にあった国立防災科学技術センター(現在の防災科学技術研究所)で、大石道夫地表変動防災研究室長のもとで、週2回ほどアルバイトを行いました。当時東京都立大学は昼夜開講制で、昼と同じ授業が夜間(18〜21時)にあり、アルバイトで昼聴講できない多くの授業を夜聴講できました(逆に夜間の学生が昼の授業を聞けました)。理学部は世田谷区深沢にありましたが、地質調査所も川崎市溝口にあり、何人かの職員も夜の授業を聞いていました。アルバイトでは、大石先生が研究されていた砂防に関する地形調査を手伝いました。とくに、土砂流出が活発な地域について、写真判読の方法と多くの事例を教えて頂きました。
 前述の4つの研究機関は、関東地方に広がるローム台地縁辺における崖崩れの仕組を解明すべく、昭和44年度から3か年計画で「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」を進めていました。取りまとめ役の大石先生のもとで、私は地形・地質調査の手伝いを行いました。川崎ローム斜面崩壊実験を行う予定の多摩丘陵斜面(現在の川崎市多摩区生田緑地公園内)の試験地には地質調査所の人達と数回行き、弾性波探査(換振器の設置)を手伝いました。
 東京都立大学理学部地理学科では、中野尊正先生、戸谷洋先生、貝塚爽平先生、町田洋先生などから地形学、とくにテフロクロノロジーを教えて頂きました。しかし、大学紛争の影響もあって、純粋地形学よりも土砂災害の調査に次第に関心が移りました。卒論の指導教官は門村浩先生、田村俊和先生で、新潟県松之山町(現在の十日町市)で地すべり地形の調査を行いました。東頚城丘陵の地すべり災害の史料を収集・整理するとともに、地すべり地形の写真判読と現地調査を行いました。大石先生の指導を受けて、当時防災センターにあった4級図化器を使って、湯本地すべり地の詳細地形判読を行いました。昭和46年(1971)3月に、「東頚城丘陵松之山町の地すべり地形」と題する卒論を作成しました。卒論の一部は、大石(1985)の写真24「東頚城丘陵東部松之山町の地すべり地形」や、いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」の「コラム25 石打の大規模地すべり地形(1176)と松之山町湯本地すべり」をご覧ください。
 卒業後、日本工営株式会社に入社し、防災部で地すべり調査を中心に北海道から沖縄まで現地調査を行いました。最初の長期間の調査は、群馬県沼田林業事務所の復旧治山事業で、尾瀬沼の2km南東にある直径1kmの巨大地すべり地(ニゴリ沢地区)の復旧治山事業でした。図3でを示したのが巨大地すべり地で、旅館のある片品村戸倉から大清水を経て、毎日20kmの林道を自動車で往復し、ボーリング調査や弾性波探査などの現場監督を務めました。
 青線(自動車道)と赤線(徒歩道)は、令和元年(2019)7月27日〜29日に行った現地見学会時のルートです(2班に分かれて現地見学)。
 を通って北々東−南南西に通る細い黒線は、奥只見ダム(高さ157m,総貯水量6.01億m3,電源開発褐嚼ン,1960年完成)から首都圏を結ぶ送電線奥只見幹線のルートです。巨大地すべり地内のNo.130鉄塔は地すべり変動により、数m移動したと言われており、鉄塔は建て替えられ、鉄塔の基礎はコンクリートで結ばれ、補強されていました。
図3 1/5万集成図「尾瀬」(昭和53年(1978)編集),赤丸が調査地の巨大地すべり地形
図3 群馬県北東部尾瀬沼南東部の巨大地すべり地形と調査地点へのルート
赤丸が調査地の巨大地すべり地形
<
拡大表示

 図4は、平野長靖(1972)『尾瀬に死す』(新潮出版)より転載した年表です。明治22年(1889)に桧枝岐村の平野長蔵は仲間と燧ケ岳に登頂し、翌年尾瀬沼の沼尻に長蔵小屋を建てました。昭和9年(1934)に日光国立公園に尾瀬地域は指定されました。昭和15年(1940)公園利用計画の一部として、旧沼田街道大清水−沼山峠間)を車道化することが決定されました。太平洋戦争の激化に伴い、車道の建設工事は休止していましたが、昭和41年(1966)に大清水から奥の建設工事が始まりました。昭和46年(1971)6月20日に建設工事によって石清水がつぶれ、道路工事の反対運動が始まりました。7月1日に環境庁が開設され、初代長官に大石武一氏が就任しました。長蔵小屋の若主人・平野長靖は大石長官に手紙を書き、実情を訴え、現地視察することを要請しました。8月1日に大石長官は尾瀬を視察し、「三平道路の中止、路線変更」の意向を表明しました。8月19日に神田群馬県知事は「工事中止と路線変更を検討する」と語りました。12月1日に平野長靖は長蔵小屋の冬籠りの支度に区切りをつけて、山麓・家族の元へ帰る途中、猛吹雪に遭い、石清水付近でビバーク中に遭難死されました。
図4 平野長正(1972)『尾瀬に死す』の関連年表
図4 平野長靖(1972)『尾瀬に死す』の関連年表

 私の実施した復旧治山事業の調査結果などは、「コラム64 群馬県北東部尾瀬沼南東部の巨大地すべり地形」をご覧ください。
 半年間の現場作業を終了し、片品村戸倉から東京に帰る途中の車のラジオで、昭和46年(1971)11月11日午後4時頃、晴天時に「川崎ローム斜面崩壊実験の事故」のニュースを聞きました。亡くなられた15名の中には、一緒に夜の授業を聞いていた地質調査所の方もいらっしゃいました。この実験の取りまとめ役であった大石道夫室長も流下してきた土砂に巻き込まれ、その後救出されましたが、重傷を負われました。

5.関東地震(1923)による土砂災害と「びゃく」と呼ばれる災害
 図5は、関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図(内務省社会局,1926)の上に土砂災害地点(〇は地震直撃によるもの,■は地震から2週間後の豪雨によるもの)を示しています。この図の上に「びゃく」と呼ばれる地点をで追記しました(井上,2013,2019a,b)。関東地震による土砂災害では、1064人+αの死者・行方不明者となりました。神奈川県西部で650人+α、神奈川県東部で295人+αにも達しました。
 今では使われなくなった用語ですが、高速の土砂移動を示すと考えられる「びゃく」と呼ばれる災害が関東地震による土砂災害とほぼ同じ範囲で多発しています(井上,2019c,d,e,相原・井上,2016)。特に、多摩丘陵で「びゃく」の事例が多いことがわかります。このこととローム実験事故でみられた高速斜面移動とは関連があるでしょうか。今後詳細に検討する必要があると思います。
 いさぼうネット『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』のコラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」(井上公夫,2019c)で伊豆大島の「びゃく」について説明しました。平成25年(2013)10月の台風26号の襲来による伊豆大島の土砂災害以前から伊豆大島では「びゃく」と呼ばれる土砂災害があることを、気象庁大島測候所・元調査官の田沢堅太郎氏は、朝日新聞(2013年11月12日夕刊)で指摘しました(2021年10月逝去,93歳)。
図4 鬼伏地すべりの断面図(推定元地形とすべり面を追記,測線位置は図3参照)
図5 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯概況図」と土砂災害地点(井上,2013,2019)
びゃくの地点を追記

拡大表示
図6 伊豆大島における「びゃく」
図6 伊豆大島における「びゃく」

 田沢堅太郎氏は、大島測候所に昭和29年(1954)に赴任、長らく大島火山の調査などに携われ、昭和61年(1986)の伊豆大島の割れ目噴火などを調査されました。その後、伊豆大島火山博物館の設立にも尽力されました。伊豆大島の各地を調査された成果は、『火山 伊豆大島スケッチ―改訂・増補版―』(2014)にまとめられています。420年ほど前に現在の火山博物館付近にあった集落が「びゃく」によって、新嶋村(現在の元町付近)に集団移転しました。また、昭和33年(1958)の狩野川台風による土砂災害について調査され、朝日新聞の記事の記事となりました。
 図6に示したように、伊豆大島の方言では急速な土砂移動現象として「びゃく」が使われていました(柳田,1977;藤井・元村読書会,1987;藤井,2013)。

6.昭和33年(1958)の狩野川台風災害 
 昭和33年(1958)の狩野川台風は、観測史上最大級の台風で、最盛期の9月24日3時から36時間もの間、中心気圧は900hPa以下でした(図7)。静岡県東部の狩野川流域だけでなく、神奈川県・東京都にも激甚な被害をもたらしました。全国の死者・行方不明は1269人で、狩野川流域を中心とする静岡県で死者・行方不明929人にも達しました(図8)。
 図9は狩野川台風による伊豆半島の浸水・氾濫と山崩れ・崖崩れの発生個所,図10は伊豆半島の市町村別被害状況を示しています(気象庁,1964)。この台風は、伊豆半島の狩野川流域で極めて激甚な被害を受けたため、「狩野川台風」と呼ばれることが多いのですがが、神奈川県・東京都でも激甚な被害を受けています(台風の名称のためか、このことはあまり報道されていません)。
pic-0402
図7 昭和33年(1958)9月26日の天気図 図8 狩野川台風による被害調査
(気象庁,1964)
拡大表示
pic-0402
図9 伊豆半島の浸水・氾濫と山崩れ・崖崩れの発生個所 図10 伊豆半島の市町村別被害状況
(気象庁,1964)
拡大表示

 図11は、東京都内の浸水図(東京都建設局河川部,1972)で、荒川や多摩川だけでなく、台地を刻む多くの河川(白子川、石神井川、神田川、目黒川など)が氾濫しました。都内の浸水面積211km2、床上浸水14万棟、床下34万棟、死者・行方不明者203人にも達しました。は私が住んでいた場所で、狩野川台風時小学校3年生でした。私の家は台地の上にありましたが、台風通過後の朝、烏山川を挟んで北側にある小学校を見に行くと、烏山川は数百mもの間氾濫していたのを鮮明に覚えています。
 台地・丘陵地の多い神奈川県横浜市内・川崎市内では、崖崩れが多発し、死者93人にも達しました。低地の広がる鶴見川・帷子川で氾濫し、2.5万戸が浸水しました。東海道本線は鶴見川付近で、2日間遮断され、社会的混乱が激化しました。
図6 伊豆大島における「びゃく」
図11 狩野川台風による東京都内の浸水図(東京都建設局河川部,1972)
拡大表示

 写真1〜3は、「地理院地図」から得られる年代別の写真です。写真1の地理院地図①は、1945〜1950年に米軍が撮影したもので、谷地は水田耕作が行われていました。谷地の斜面部は雑木林となっています。写真2の地理院地図②は、1961〜1969年に地理院が撮影したもので、昭和33年(1958)の狩野川台風の襲来によって、谷地田は流出した土砂でほぼ埋まり、水田は放棄されました(磯谷,2020)。写真3の地理院地図③は、2019年に地理院が撮影したもので、生田緑地公園内の現状の施設配置(青少年科学館,日本民家園,岡本太郎美術館)が認められます。
 写真4は陸軍が昭和16年(1941)8月7日に撮影、写真5は米軍が昭和22年(1947)9月16日に撮影した写真を立体視できるように加工したものです。 
pic-0402 pic-0402
写真1 地理院地図①
1945〜1950年撮影写真
1958年の狩野川台風以前は
谷地は水田耕作が行われていた。
谷地の斜面部は雑木林
写真2 地理院地図②
1961〜1969年撮影写真
狩野川台風によって、谷地田
は流出した土砂で埋まった。
1954年にゴルフ場が建設された。
写真3 地理院地図③
2019年写真
生田緑地・青少年科学館
日本民家園が建設された。
斜面部の樹木は繁茂した。
pic-0402
写真4 陸軍1941年8月7日撮影
63-C6-114,115,縮尺S=1/8000
写真5 米軍1947年9月16日撮影
USA-M470-41,42,縮尺S=1/9896


7.多摩丘陵周辺の宅地開発と崖崩れ実験

  図12に示したように、昭和38年(1963)11月に南多摩地域の都市計画が決定されました。東急田園都市線、小田急多摩線、京王相模原線の建設工事の進捗に伴い、この地域のニュータウン(都市化・宅地化)建設が進み、多くの箇所で関東ローム層の崖地が樹木のはがされた状態で露出(露頭)するようになりました。このため、崖崩れが多発するようになり、大きな社会問題となりました。このような社会情勢から、前述の4つの研究機関による「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」が昭和44年度から開始されました。昭和45年(1970)2月に川崎市長は生田公園緑地内に実験場を設けることを許可しました。そして、3カ年研究の最終年度となる昭和46年(1971)11月11日にローム斜面崩壊実験が実施され、死者15名の実験事故が発生しました。
図12 多摩丘陵周辺の宅地開発と崖崩れ実験の経緯
図12 多摩丘陵周辺の宅地開発と崖崩れ実験の経緯
8.ロ−ム斜面崩壊実験の概要と教訓
 ロ−ム斜面崩壊実験の詳細については、政府の『ローム斜面崩壊実験事故調査委員会の報告書』(1974)をご覧ください。また、昭和46年(1971)11月の実験事故以来、多くの研究者などから、様々な論文などが発表されています。引用・参考文献一覧にその一部を示しました。
 防災科学技術研究所の2021年度土砂災害予測に関する研究集会の「テーマ1 川崎ローム斜面崩壊実験事故から50年」では、井口隆様が「ローム実験および事故の概要と教訓―事故発生50年の節目を迎えて―」と題して説明されました。ここでは、政府の事故調査委員会の報告書から、その一部を紹介します。
 図13は、ローム斜面崩壊実験事故調査委員会(1974)に挿入されている川崎ローム斜面崩壊実験事故調査位置図です。は防災センターが建立した慰霊碑の位置で、枠は図15〜17の範囲を示しています。
 図14は、地質区分模式断面図を示しています。斜面下部には飯室泥岩層が分布し、その上位におし沼砂礫層が最上部に関東ローム層が分布します。散水した実験斜面は斜面上部のみで、関東ローム層の範囲のみです。関東ローム層上部の谷部分には、狩野川台風時の崩積土と緑地公園の遊歩道造成時の残土が捨て土されていました。斜面中央部にはおし沼砂礫層の下に飯室泥岩層が露頭となっていました(現在は樹木が繁茂し確認できません)。下部斜面の位置に防護柵(しがらみ柵)が設置され、実験担当者や報道関係者は防護柵の下で、カメラを構え崩壊発生の様子を取材していました。
図11 川崎ローム斜面崩壊実験事故調査位置図(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)
図13 川崎ローム斜面崩壊実験事故調査位置図(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)   
●慰霊碑,□枠は図15〜17の範囲
拡大表示

 研究班たちは、散水が斜面上部に限られていたことから流下土砂は飯室泥岩の露頭付近で停止すると想定していたようです。しかしながら、15時30分頃発生した土砂移動は最高速度16.9m/sにも達し、防護柵(しがらみ柵)を乗り越え、奥の池にまで達しました。しがらみ柵付近で待機していた26名が押し流され、実験関係者11名、報道関係者4名の15名が亡くなりました。
図11 川崎ローム斜面崩壊実験事故調査位置図(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)
図14 地質区分模式断面図(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)
拡大表示

 図15,16,17は、ローム斜面崩壊実験事故調査委員会(1974)の報告書の附図です。左側の図(図15)は、実験前に測量された平面図で、実験開始前に設置された計測器の配置状況を示しています。中央の図(図16)は、15時30分の崩壊発生後流下した土砂の流動方向を示しています。斜面上部にレインガンによって400mm以上の散水が行われ流下した土砂は、飯室泥岩層の露頭やしがらみ柵を乗り越え奥の池まで到達しました。
 政府のローム斜面崩壊実験事故調査委員会(1974)は、ビデオに記録された映像の分析から、土砂がしがらみ柵に達した時点で毎秒16.9mの速度であったとしました。この速度は摩擦係数(μ)をゼロと仮定しても計算上説明できず、斜面上の薄層水流の上を摩擦抵抗なしで流下したと推定しました。そして、事故発生については複合的な要因が重なったことが指摘されました。実験斜面には生田緑地の遊歩道工事を行った際に出た捨土が最大4mの厚さで堆積していました。この件に関する調査が不十分で実験関係者でも共有されていませんでした。これが崩壊の規模を大きくし、高速流下につながったのではないかと推定されました。また、レインガンによる不均質な散水や、実験斜面全体を見通せる場所が土砂の流下経路の先にある防護柵(しがらみ柵)付近しかありませんでした。さらに実験参加各機関の連携不足や実験の規模に比して研究期間が短すぎるなどの指摘がありました。これらの諸点のいくつかは現在でも同様の状況もあり、この事故を教訓に今後の研究推進にあたっても留意が必要です(井口,2021)。
図15 実験前の地形
計器の配置等の状況
図16 泥流の流動等の概況 図17 崩壊直後の状況
(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)
拡大表示

9.斜面崩壊実験の跡地を歩く
 平成19年(2017)4月15日(土)の平成28年度(公社)砂防学会公募研究会「巨大(深層)崩壊の高精度編年研究会」(全体は平成27〜29年度)が、専修大学サテライトキャンパス(小田急線向ヶ丘駅付近)で行われました(コラム49 富士川右支小武川・ドンドコ沢の巨大深層崩壊と岩石なだれ(887)参照)。午前中に有志で「1971年の川崎ローム斜面崩壊実験の慰霊碑と崖崩れ実験をした斜面」の見学を行いました。図18は、生田緑地MAP に1971年の川崎ローム斜面崩壊実験場所と慰霊碑の位置、および現地見学会のルートと写真8〜14の撮影位置(@〜F)を示したものです。
 ローム斜面崩壊実験事故調査委員会(1974)によれば、生田緑地付近は元々谷地田でした(写真1〜5参照)。しかし、昭和33年(1958)の狩野川台風時に、このあたりの谷では谷頭部で崩壊が多発し、谷部の水田の多くが土砂で埋まりました。その後放置されていましたが、公園造成により上の池(西側、実験場下部の奥の池のこと)と下の池(東側)がつくられました。池の平水時の水深は若干の変動はあるが、30cm程度であり、池の底質は泥質でした。
図16 1971年の川崎ローム斜面崩壊実験場所と慰霊碑の案内図(生田緑地MAPに追記)
図18 1971年の川崎ローム斜面崩壊実験場所と慰霊碑の案内図(生田緑地MAPに追記)
拡大表示

 写真6は、崖崩れ実験から3年2か月後の昭和50年(1975)1月4日に国土地理院が撮影した航空写真で、立体視できるように加工してあります。写真7は、8年後の昭和54年(1979)10月20日に国土地理院が撮影したものです。赤〇を付した地点がローム崩壊実験場ですが、植生の回復が早く、崩壊箇所の特定は困難でした。
写真6 生田緑地 地理院1975年1月04日撮影,CKT-74-15 C35-12,13,14 S=1/8000
写真6 生田緑地 地理院1975年1月04日撮影,CKT-74-15 C35-12,13,14 S=1/8000
写真7 生田緑地 地理院1979年10月20日撮影,CKT-79-4 C16A-9,10,11 S=1/10000
写真7 生田緑地 地理院1979年10月20日撮影,CKT-79-4 C16A-9,10,11 S=1/10000

 写真8、写真9は、東口ビジターセンターから升形山へ登る途中の登山道に設置された地質の説明看板と関東ローム層の露頭です。看板の一番下は約140〜120万年前の海底に堆積した地層(飯室泥岩層)です。その上に、約30万年前のおし沼砂礫層が堆積しています。その上に、厚い関東ローム層が堆積し、多摩ローム層、下末吉ローム層、武蔵野ローム層、立川ローム層などに区分されています。ローム層中には、AT、三色アイス、ごま塩などと命名された軽石層が挟まれています。
 写真10は、枡形山山頂(標高84m)の平坦面に建設された展望台で、周囲の地形が良く見えます。右側の写真は展望台から撮影したもので、桜は散り始めた状態でした。遠景は北東方向で多摩川を経て、東京方面を写しています。写真11は、生田緑地公園の遊歩道の見晴らしデッキから崩壊実験場跡地方向を望みましたが、植生が繁茂し良く分かりませんでした。
写真8 @升形山登山道入口にある地質の説明看板(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真8 ①枡形山登山道入口にある地質の説明看板(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真9 A升形山登山道途中の関東ローム層の露頭(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真9 ②枡形山登山道途中の関東ローム層の露頭(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真10 B升形山山頂(標高84m)の展望台  展望台から見た桜(散り始めている),遠方は東京方向<br>(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真10 ③枡形山山頂(標高84m)の展望台  展望台から見た桜(散り始めている),遠方は東京方向
(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真11 C遊歩道から崩壊実験場方向を望む  樹木が繁茂して実験場は見えない(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真11 ④遊歩道から崩壊実験場方向を望む  樹木が繁茂して実験場は見えない
(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)

 写真12は、遊歩道から日本民家園を望んでいます。遊歩道を降りると、「奥の池」があり、奥の池の対岸が「ローム斜面崩壊実験」を実施した斜面です。奥の池のほとりには、写真13の「ローム斜面崩壊実験事故慰霊塔」が建立されています。慰霊塔の奥には、説明看板(ローム斜面崩壊実験の概要)などが設置されています。
写真12 D遊歩道から日本民家園を望む
写真12 ⑤遊歩道から日本民家園を望む 実験場の下に現在もある奥の池
(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
写真13 Eローム斜面崩壊実験事故慰霊塔
写真13 ⑥ローム斜面崩壊実験事故慰霊塔               説明看板
(井上 2021年12月4日撮影)

 写真14に示したように、崩壊実験場の周囲には実験当時とほぼ同じ位置に遊歩道があり、実験場跡地を周回できます。しかし、現在は灌木が繁茂し、ここが実験場跡地とはわからないと思います。
写真13 Eローム斜面崩壊実験事故慰霊塔
写真14 Fローム斜面崩壊実験横の遊歩道         灌木が繁茂して地表面は見えない
(国際航業・秋山 2017年4月15日撮影)
  
10. むすび
 
令和3年(2021年)12月6日の「2021年度土砂災害予測に関する研究集会」(オンライン形式)では、午前中に「テーマ1 川崎ローム斜面崩壊実験事故から50年」が開催されました。オンライン形式でしたが、270名の方が参加されました。参加登録された方には、メールで研究集会の発表要旨集のpdfが送られています。この研究集会の「プロシーディング」の編集作業が行われており、夏までには防災科学技術研究所のHPで公開される予定です。
 NHK首都圏局 首都圏ネットワークの記者が上記の研究集会に参加するとともに、テーマ1の発表者などに取材を行っています。2021年12月30日の「首都圏ナビ・webリポート」のサイトに、「ローム斜面崩壊実験事故50年」の記事が掲載されました。記者は、「一般向けということで、ご専門の皆様の目からすると、言葉足らずの部分など 多々あるかと存じますが、50年前の実験事故を今に伝えるとともに、今なお甚大な被害をもたらす土砂災害への関心を、こうした事実を通じて少しでも高めていただくように」と記事にしたそうです。この中には、NHKのカメラマンが事故発生当時撮影した土砂移動の状況を示す貴重な映像が含まれています。このwebリポートは、1月4日現在で3万人を超える多くの方に読まれたそうです。現在は「首都圏ナビ・webリポート」は閲覧できません。
 防災科学科学研究所の山田隆二主任研究員は、1月13日付で「砂防学会」と「地すべり学会」のメーリングリストに、「川崎ローム斜面実験事故ウェブ記事掲載のお知らせ」をメールしており、現在でも学会員の方は「首都圏ナビ・webリポート」閲覧することができます。
 防災科学研究所には、50年前の実験当時の膨大な観測データが残されています。政府の「ローム斜面崩壊実験事故調査委員会報告書」(1974)や地形・地質・土質などの多くの専門家による調査報告を含めて、アーカイブとして残し、きちんと分析していく必要があると思います。

引用・参考文献
相原延光・井上公夫(2016):南関東における「びゃく」地名の由来,地理,61巻7号,口絵,p.7,本文,p.68-75.
磯谷達宏(2020):多摩丘陵生田緑地とその周辺地域における土石流発生の履歴―1958年狩野川台風襲来時を中心に―,国士舘人文学,10号,p.47-72.
井上公夫(1971):東頚城丘陵東部松之山の地すべり地形,昭和45年度東京都立大学理学部地理学科卒業論文.65p.,別冊図面集,19p.
井上公夫(1985):写真24 新潟県松之山町湯本地すべり,大石道夫編著『目でみる山地防災のための微地形判読』,鹿島出版会,p.62-64.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,226p.
井上公夫(2018):コラム25 石打の大規模地すべり(1176)と松之山町湯本地すべり,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』,丸源書店,p.194-199.
井上公夫(2019a):コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.78-90.
井上公夫(2019b):コラム38 関東大震災(1923)による神奈川県東部の土砂災害―横須賀地区と浦賀地区の土砂災害地点を歩く―,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.91-104.
井上公夫(2019c):コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.134-147.
井上公夫(2019d):コラム42 東京都と山梨県の土砂災害を示す「びゃく」,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.148-161.
井上公夫(2019e):コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「びゃく」,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.162-175.
井上公夫(2019f):コラム49 富士川右支小武川・ドンドコ沢の巨大深層崩壊と岩石なだれ(887),『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのU)』,丸源書店,p.237-258.
井上公夫(2020a):コラム63 狩野川台風(1958)による洪水氾濫と土砂災害,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのV)』,丸源書店,p.196-213.
井上公夫(2020b):コラム64 群馬県北東部尾瀬沼南東部の巨大地すべり地形,『歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのV)』,丸源書店,p.196-213.
井上公夫(2021):川崎ローム崩壊実験事故の背景―大石道夫先生と私−,2021年度土砂災害予測に関する研究集会発表概要集,防災科学技術研究所,p.3-4.
井口隆(2021):ローム実験および事故の概要と教訓―事故発生50年の節目を迎えて―,2021年度土砂災害予測に関する研究集会発表概要集,防災科学技術研究所,p.1-2.
大石道夫・榎本真(1961):砂防における地形調査試案,T〜V,新砂防,16巻4号,p.24-41.,19巻2号,p.18-25.,3号,p.29-35.
大石道夫(1974-81):空中写真判読シリーズ,No.1〜27. 新砂防,27巻1号〜33巻2号
大石道夫(1985):目でみる山地防災のための微地形判読,鹿島出版会,267p.
大石道夫(2014):微地形砂防の実際―微地形判読から砂防計画まで―,鹿島出版会,288p.
岡重文・桂島茂・清水道也(1969):ローム台地の崖崩れ―川崎市の場合―,地質ニュース,176号,p.19-27.
気象庁(1964):狩野川台風調査報告,気象庁技術報告,37号,168p.
黒田和男(1980):地質調査所における傾斜地災害の調査・研究の変遷,p.20-24.
国立防災科学技術センター(1971):ローム斜面崩壊実験事故報告書,10p.
高柳淑子(2003):狩野川台風以降の川崎市の崖崩れ―地形面と降雨量について―,川崎市自然環境調査報告,X,p.541-562.
田沢堅太郎(2013年11月12日):大島忘れていた「びゃく」,朝日新聞夕刊記事
田沢堅太郎(2014):火山・伊豆大島スケッチ―改定・増補版―,之潮,117p.
東京都建設局河川部(1972):東京の中小河川,108p.
内務省社会局(1926):大正震災志,上巻,1236p.,下巻,836p.,附図.20葉
中野尊正(1978):崩壊現象の復元,『地図との対話』,講談社現代新書,p.204-213.
中西望介・山森大史(2017):枡形山の歴史的背景をめぐって,川崎市文化財調査収録,51号,川崎市教育委員会
西川泰(1971):ローム斜面崩壊実験事故発生までの経過概要,応用地質,12巻4号,p.43-45.
羽鳥謙三(1971):宅造地の崩壊,國土と教育,9巻2号,p.98-103.
羽鳥謙三(1972):川崎市生田緑地における崩壊実験事故現場の地質と問題点,地球科学,26号,p.85-88.
羽鳥謙三・羽田野誠一・大屋和恵・寺本一彦・藤井陽太郎(1972):川崎生田の崖崩れ実験事故を検討する(討論会記録),日本の科学者,7巻2号,p.28-35.
平野長靖(1972):尾瀬に死す,新潮社,275p.
藤井正二・元村読書会(1987):島ことば集―伊豆大島方言―,第一書房,223p.
藤井伸(2013):しまことば集―伊豆大島方言―,藤井晴子・伊豆大島文化伝承の会,362p.
増淵和夫(1998):露頭報告 生田緑地の川和層と未区分の相模層群,仮称枡形層,川崎市青少年科学館紀要,9号,p.15-20.
増淵和夫・高野繁昭・秋葉知子・山口惇(1987):生田公園緑地周辺の露頭調査,川崎市青少年科学館年報,4号,p.27-32.
増淵和夫・竹井久男・時岡秀我・瀧沢朝代(1994):生田緑地におけるおし沼砂礫層の堆積相,川崎市自然環境調査報告,V,p.9-18.
増淵和夫・藤沢正一・児島茂雄(1994):生田緑地における立川ローム層の層序区分,川崎市自然環境調査報告,V,p.19-26.
村瀬忠・鈴木尉元(1991):生田事故20回忌と事故のあらまし,地質ニュース,438号,p.63-64.
守屋喜久夫・堀木正子(1973):川崎市生田緑地公園内のがけ崩れ実験惨事の地質学的考察,日本大学理工学部一般教育教室彙報,14号,p.1-5.
柳田国男編(初版1942,1977):伊豆大島方言集,国書刊行会,全国方言資料集成,87p.
ローム斜面崩壊実験事故調査委員会(1974):ローム斜面崩壊実験事故調査委員会報告書,概要,28p.,本編,160p.,資料目録,20p.,付属資料集,369p.
ローム斜面崩壊実験事故調査対策委員会(1972):ローム斜面崩壊実験事故調査対策委員会報告書,川崎市,20p

Copyright(C) 2002- ISABOU.NET All rights reserved.