1. はじめに
本年は9月1日で関東大震災から100周年です。
90周年にあたる2013年9月1日に、『関東大震災と土砂災害』(井上編著,2013)を出版しました。
関東大震災による土砂災害については、いさぼうネットのコラム37,38,39,40,41,74で説明しました。
神奈川大学生涯学習エクステンション講座の2022年度後期連続講演会『1923年関東大震災から100年―横浜・神奈川における被災と復興―』が実施され、私も第3回で話をさせて頂きました。
11月5日(土) 吉田律人:横浜市の関東大震災
11月12日(土) 相原延光:複合災害としてみた神奈川・横浜の関東大震災
11月19日(土) 井上公夫:関東大震災による神奈川県内の土砂災害
12月3日(土) 内田青蔵:関東大震災を仮設住宅や災害復興住宅から考える
12月10日(土) 北原糸子:関東大震災と東日本大震災をつなぐ−復興事業の未来像
私の発表準備や他の方々の発表を聞いて、下記の本を読み直してみました。
O.M.プール(1976):古き横浜の壊滅,金井圓訳,有隣新書,219p.
原本は『The Death of Old Yokohama in the Great Earthquake of 1923』として、1966年にロンドンで発行されています。
この本の9月1日15時までのプールの逃避行については、井上(2013)やコラム37で紹介しました。
T 破滅以前の横浜,p.9-27.
U 1923年9月1日、土曜日,p.28-91.
コラム82では、9月1日15時以降のプールの逃避行と、復旧・復興に果たした神戸の役割について、説明します。
2. 9月1日0時〜15時のプールの逃避行の概要(プール(1976):p.28-91.)
図1は、1/1万旧版地形図「横浜近郊南部」(1922年測図)にプールの9月1日の逃避行ルートを追記したものです。この旧版地形図は関東地震時の1年前には測図作業は完了しており、関東地震前の横浜の地形(海岸部の埋め立て地)や土地利用状況を克明に示しています。
図1 プールの逃避行ルート,1/1万旧版地形図「横浜近郊南部」(1922年測図)に加筆 < 拡大表示>
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表1は、プール(1976)をもとに、1923年9月1日(土)0時〜15時までの経緯について、相原延光様の協力を得ながら作成したものです(相原,2017;井上,2019を修正)。表2と表3は、今回プール(1976)を読み直し、あらたに作成したものです。
図2は2013年9月21日(土)に実施した「関東大震災・横浜の現地見学会―1923年9月1日のプールの逃避行―」で実施した現地見学会のルート(緑線)とプールの逃避行ルート(赤線)を、1/1万地形図「関内」(1984年編集,2005年修正)に示したものです。図の右上には、現地見学会の見学地点と関東地震の慰霊碑の地点を示しています。この図を持って、プールが勤務先(ドットウェル商会,山下町60番地)から必死になって自宅(山手68番地)付近で家族と落ち会い、逃避行したルートを散策することをお勧めします。
表1 関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列,9月1日未明から15時まで(相原,2017,井上,2019を修正)
図2 プールの逃避行ルート(
赤線)と現地見学会ルート(
緑線)(井上,2013,2017)
(基図は1/1万地形図「関内」)(1984年編集,2005年編集)
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プールは9月1日の未明から15時までのことを、p.28〜p.91に詳述しています(表1)。
「・・・これまで私が話してきたすべてのことは、わずか3時間、つまり正午3分前に最初の震動があってからいろいろとごたごたのあった3時間の間に起こったことであった。いまは午後の半ばであった。火がおさまるまで動くことができないので、その後しばらくは仕方なくぼんやりして時を過ごすことになった。ぐるぐると歩き回る群衆のかなたには、燃えさかる海岸通りや、さらに港のかなたの神奈川のほうが見渡せたが、神奈川もまた焼けていた。横浜は、ひとり居留地や海岸通りの住宅や日本人町のみならず、周辺の田舎もまた消滅しようとしていることは明らかだった。何マイル四方にわたって、人が頭をその下で横たえることのできる屋根はなくなるであろう。事実、この段階では全日本がこの地殻変動にまきこまれたものと思われた。食料はおろか飲み水もないだろう。そして、世話をしなくてはならない何千という家なき人々がいるだろう。私たちのよく秩序だった生活が、もしできても早期の回復は不可能なほど混乱させられていたこと、しかも私たちは事情が許したらそうする計画を立てなくてはならないことが、もうすでにわかりかけていた。」
3.9月1日15時〜2日24時のプールの逃避行(プール(1976):p.91-157.)
9月1日15時〜2日24時のプールの逃避行の経緯などを表2に示します。
プールは、横浜は居留地や海岸通りの住宅や日本人町のみならず、周辺の田舎も消滅しようとしていることを知ります。正午にヴァンクーバーに向けて出航予定だったエンブレス・オブ・オーストラリア号は大桟橋につながれたままであり、義父キャンベル(提督)愛用のダイミョウ号もフランス波止場に停泊しているのがはっきりと見えました。海岸通りにあるグランド・ホテルなどの建物からは、赤い炎が吹き出していました。プール達は埋立地に家族などを残して、フランス波止場方向に偵察に行くと、風向きがすでに変わっていて、海岸通りを歩くことができました。フランス波止場のボートハウスにやっと行くことができました。しばらくしてダイミョウ号の老船頭に会うことができ、ボートで掘割にあるボート用上陸場に戻ることができました。そこで、近くの小舟を調達して、避難していた家族などを小舟に乗せて、ダイミョウ号に行き乗船させました。暗くなりかけた頃(18時頃)、プール達は小舟で埋立地に戻ると、オーストラリア号などの停泊中の外国船から救命ボートが出され、負傷者や避難してきた外国人など(一部日本人を含む)を外国船に運び始めているのを見ていました。ダイミョウ号に戻った時にはほとんど真っ暗(19時頃)でした。
「もうひとつ考えさせられる種となったのは、地震後2、3日の危険な時期に、横浜の南わずか15マイル(24km)の横須賀にいた強力な海軍基地から、日本の軍艦が1隻もこないという腑に落ちない事実であった。噂によれば、地震のなかですべての弾薬庫がひどく破壊されたため、水路が断ち切られてしまい、そして険しい崖の下の真下のドックに繋がれていた多くの船は使用不能となり、なかには沈没したものもあったとのことであった。横須賀が燃えているのは、横浜からも見えた。あとになってわかったことだが、小さな横須賀の町は完全に破壊され、700人が死んだ。」(コラム38参照)
横須賀地区で最も被害の大きかった場所は、図3に示した横須賀市港町(現汐入町5丁目)付近の横須賀鎮守府に面した急崖部です。海軍基地に面した見晴山の高さ30mの急崖部が長さ440mにわたって地すべり性崩壊を起こしました。崩壊土砂量は16万m³にも達し、横須賀駅から海軍基地に向かう県道と海軍工廠内の海軍軍需庫を埋没させ、その間の交通は途絶しました。このため、崩壊土砂に巻き込まれて、通行人など50人が死亡・行方不明となりました。崩壊土砂は大滝町(現在のショッピングセンター付近)に運ばれ、埋め立てに使われました。
図3中央部の港町公園には、「関東大震災供養塔」(写真1)などがあり、関東地震による横須賀地区全域の死者500名が祀られています。
表2 関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列,9月1日15時から2日24時まで
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図3 横須賀市港町の土砂崩壊状況図 (海軍省公文備考番号T12-172;蟹江,2014) < 拡大表示>
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写真1 横須賀市港町公園の関東大震災避難者供養塔 (2015年10月,井上撮影) |
プール(1976)と表2を見ていただくとわかりますが、プールの観察眼と文章力に驚かされます。
彼は7歳の時に日本の横浜に来て横浜で育ち、日本国中を旅行しています。鬼気迫る具体的な描写力は多彩な趣味(水彩画と写真、山登り、鳥打)によるものです。明治37年(1904)に槍・穂高240マイル(386km)の試験登山が認められ、イギリスの王立地理学会の会員にも選ばれています。しかし、自宅が燃えてしまったため、絵画や写真、さらにアルバム(中央日本や蝦夷地など日本各地を回った記録)がすべて燃えてしまって残っていません。残っていれば、非常に貴重な絵画や写真だったと思います。
9月1日の夜は大型ヨットにいましたが、十分な食料がないので、2日の早朝全員がオートラリア号に向かいました。全員が乗船を許され、暖かい朝食を提供されました。食事後、プールと義父キャンベルは小型船でダイミョウ号に行き、上陸して会社と自宅付近の状況を偵察に行くことにします。
グランド・ホテル付近に上陸しましたが、ドットウェル商会を含め,海岸付近の外国人居留地の建物は焼跡の熱気で近づくことはできませんでした。山手の我が家(68番地)に向かいましたが、ほとんどすべて燃え尽きて、70年前の開港以前の状態に戻っていました。代官坂を見下ろすと、灰塵となった元町、破壊された堀割の護岸、その先の漂う煙で霞んで見える居留地以外、何も見えませんでした。
写真2は横浜古壁ウォッチングHPに掲載されていたもので,著者の鈴木広氏が2014年4月のインターネット・オークションでアメリカの収集家から入手したものです。裏に「General view of ruins(廃墟の全景)」と鉛筆で書かれていました。この写真を相原延光氏に見て頂き、主な地点名などを追記してもらいました。プールはこのような光景を見ながら代官坂を登り、我が家のあった山手68番付近を探索したようです。
プールと義父キャンベルは海岸通りに戻り、ダイミョウ号に乗船して、昼食を取りました。12時頃風向きがくるりと向きを変え、沖の方へ吹き付けました。このため、海面に流出していた油に火が付き、大桟橋に繋がれている大型船に炎が近づき、危険な状態になり始めました。プールたちは半マイル(800m)先のオーストラリア号で起こっている恐るべき事件をただ呆然と見守っていました。オーストラリア号にはプールの家族を含め、多くの外国人が乗船していて非常に危険な状態になっていました。
大型船の船員は消火ホースを出して、大桟橋に放水していました。オーストラリア号はゆっくりと桟橋から離れ始め、前進して小型船の群れに突っ込み、多くの小型船の船員は海中に放り出されました。プールたちはオーストラリア号の船長が「気ちがいに」なってしまったと思いました。大型船の一等航海士は、ダイミョウ号にブイを離して動くように叫んだので、義父キャンベルは仕方なくブイからダイミョウ号を切り離しました。オーストラリア号が通り過ぎる時、甲板上の避難民たちの「すまないなあ」との叫び声が聞こえました。プールたちは大型船の動きを見て、オーストラリア号の船長が的確な判断をしていたことをその後乗船してから知りました。大型船がすぐ近くを航行したため、ダイミョウ号は激しく揺れましたが、広大な海原に脱出できて、ほっとしたようです。
本牧の十二天の下方の湾内に行き、ダイミョウ号を停留させました。プールはヨット備え付けの小型船でオーストラリア号に戻り、乗船して家族と再会できました。プールは顔や手を洗いましたが、崖をよじ登ったままの服装は汚れたままでした。船上の会議で避難してきた人たちから、避難者の名前や様々な避難状況を聞くことができました。会議が終わり、プールや家族たちはやっと2日目の夜の眠りにつくことができました。
4.9月3日0時〜9日のプールの逃避行(プール(1976):p.158〜175.)
9月3日0時〜9日のプールの逃避行の経緯などを表3に示します。
3日の朝、オーストラリア号の上級船員からどこへ行きたいか決めて、指定された舷門の場所に行くように指示されました。プールは日本国中が地震の被害を受け、神戸も極度の困窮状態にあると考え、外国人にとって日本での生活は困難であると思いました。このため、妻と子供をシアトルに送り、先の見通しがつくまで待たせることにしました。プールは神戸まで妻と子供たちと一緒に行き、神戸に残るつもりでした。
船上の避難民はすし詰めの状態で、正甲板で並んで待つように指示されました。義母キャンベル夫人が重苦しい熱気を受けて失神したため、遊歩甲板で彼女を介抱しながら待つことにしました。プレジデント・ジェファスン号が神戸から到着し、新しい情報がもたらされました。静岡にいたプールの父は被害を受けず、元気であるとの情報が得られました。このため、プールたち家族は全員元気であることを父に伝言して貰いました。軽井沢に避暑に行っていた人たちに被害はなく、激甚な被害は東京から50マイル(80km)のみであると知らされました。軽井沢に行っていたプールの妹と家族は無事であると判断されました。このため、プールはカナダ号で神戸に行き、家族はシアトルに行かずに、上海の義兄宅でしばらく生活させることにしました。行く先が決った避難民や負傷者は神戸に向かうカナダ号に小舟で移動しました。プールと家族は小舟でカナダ号に移ることができ、神戸に向かいました。献身的な子守のミネも一緒に神戸に向かいました。カナダ号の乗客から避難民に対して、衣類などが与えられました。負傷者の手当てや手術も行われました。プールたち家族は、特等室を与えられ、アメリカからの乗客からトランク内の衣類を与えられ、着替えることができました。
神戸に向かう海上では乗客に無線電報で伝言することが許され、地震被害のニュースが世界に広まりました。ドットウェル商会の職員の安否が分かり、多くの外国人職員は神戸に向かいました。上海・香港・アメリカ・欧州に向かう者もいました。
箱根のフジヤホテルなどに宿泊していた外国人の多くは負傷していませんでした。プールの3人の子供の家庭教師だったローリットセン嬢は箱根にいました。外国人はほぼ無事で、4人の外国人と一緒に徒歩で箱根の峠を越え、御殿場から汽車で国府津までたどり着ました。国府津で自転車を手に入れて横浜に戻りました。夕方カナダ号に乗船できて、神戸から欧州に向かうことができました。
4日(火)朝早くカナダ号はプール家族などを乗せて、神戸に向けて出航しました。午前中アメリカからの乗客は食堂で会合を開き、救援処置を話し合い、寄付金を集めました。会合でアメリカ大使館の職員が東京の被災状況を説明しました。プールは横浜の被災状況などを詳しく説明しました。会合の進行中に他の外国船を含め、外国人の生存者名簿が作られ、ラジオで世界に報道されました。プールは下の会合に参加していたため、名簿に掲載されませんでした。満州の奉天にいたプールの兄は家族のみが助かったものと判断し、プールの妻キャンベルと子供たちを引き取るため、奉天から汽車と船で神戸に向かいました。
日没時に洋上で、幼女ヘレンが死んだので、上級船員によって簡潔な葬儀が行われました。神戸の外国人居留社会は3日に地震のことを知らされ、避難者救済キャンプが4日には作られました。数時間後に救援船が準備され、医療品・食料品・飲料水を積んで、夜半に出航し、5日明方に横浜に着きました。ドットウェル商会の神戸事務所の新入社員ユウイングはこの救援船に乗り横浜に向かいました。
表3 関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列,9月3日から9日まで
5日(水)夜明け直後にカナダ号は神戸に着きました。神戸は避難者たちでごった返しており、居留地の各種の委員会は救援物資を放出し、寄付者名簿が公開されました。ドットウェル商会神戸支店の支配人はカナダ号が到着すると、プールを北野町三本松の自宅に連れていきました。5日夜、カナダ号は日本を一時的または恒久的に去る数百人の避難者(妻ドロシーと子供たちも)を乗せ、上海に向かいました。
別荘地だった軽井沢には多くの外国人が滞在していました。幸い死傷者は少なかったものの、避暑に来ていた外国人は食料などが入手できず、困っていました。ジョージ・メイトランドから軽井沢にいるエノリアを救助するため、上海から軽井沢に向かうという電報を受け取りました。妻ドロシーと子供たちは、上海のドットウェル商会の職員の家に引き取られ、保護されました。
兄バードは満州の奉天から5日に汽車と船に飛び乗り、9日(土)に神戸に着きました。プールが生きていることを知ると、非常に喜んで奉天に帰って行きました。箱根・宮の下に滞在していた避難者は沼津から列車で神戸に着きましたが、その中にはプールの友人が多くいました。
オーストラリア号は他の大型船の錨綱と絡まり動けませんでした。潜水夫によって解き放され、航行可能となりました。8日の深夜に600人の外国人を乗せ出航し、10日に神戸に着きました。この船には義父キャンベルが乗っていました。プールは神戸にいるドットウェル商会の職員らを集め、「三本松」会食グループを主催しました。ユーハイムについては、コラム83で説明したいと思います。
図4 神戸市中央部の地理院地図,ドットウェル商会神戸支店と支店長宅(北野町三本松)
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5.不死鳥―神戸と連携しての横浜の復旧・復興―(プール(1976):p.176〜200.)
9月5日(水)に神戸に着いてから最初の数日間、プールは色々と心配の多い時間を過ごしました。ドットウェル商会(居留地内の神戸市海岸通り5番地)の職員と一緒に会社の状況の分析に没頭し、ひっきりなしの居留地社会の会合や各種委員会の会合に追われていました。横浜外国貿易理事会の主催する委員会の一員として、プールは神戸横浜合同救済委員会の委員に選ばれて、緊急措置に関する会議に参加しましたが、多くの利害が絡むものでした。しかし、一緒に働く20人に助けられて成就させることができたようです。
ベイトマンなどの職員が大型船で横浜に行くのを見送りました。戻って来た時の報告によれば、ドットウェル商会の敷地には金庫以外何もありませんでした。金庫はイギリス水兵によって爆破され、中の書類は保護されました。ベイトマンは山手にある自分の家に行ってみましたが、何もありませんでした。野犬化した犬の群れの中に愛犬を見つけましたが、喜んでベイトマンに飛びついてきました。彼はこの愛犬を神戸に連れて帰ることことにしました。
ベイトマンの報告を受け、プールは横浜に帰って状況を把握することにしました。横浜が消滅したため、東京に事務所を移す計画を日本人職員と打ち合わせました。カメラを持って周辺を歩き多くの写真を撮影しましたが、横浜の廃墟は何とも痛ましい光景でした。至る所に黒こげの死体が残っていて、死体を集め荼毘に付していましたが、死体の放つ悪臭はひどいものでした。我が家(山手68番地)に向かったものの、周辺の建物はすべて焼失し荒寥たる状景でした。
東京にも行きましたが、プールはその破壊の激しさに肝をつぶさんばかりでした。下町は一面焼失して広漠たる海のようでした。他方、丸の内の街区は多少の被害はあったものの、活動を再開できる状態でした。ドットウェル商会の東京事務所は東京駅付近にあり、焼け焦げていたが業務の再開は可能でした。日本人の幹部職員は神戸に行くことになりました。
極東本部がある香港では横浜で起こった事態に救援を送ることになり、大型船タイウェンファング号がチャーターされ、多くの救援物資を積んで横浜に急派されました。この船は横浜にしばらくとどまり、浮かぶホテルとして利用されました。ドットウェル商会は3つの寝台のついた船室を借り上げたため、多くの職員が利用しました。プールもこの船上で寝泊まりしたため、悪臭のする暑くてほこりっぽい海岸から離れました。快適な生活ができるようになり、多くの避難者と交流ができました。
その間陸上では生命の息吹が再生し始めていました。何千もの遺体が除去されると、木造の避難小屋がいくつも造られました。グランド・ホテルの一角には「テント・ホテル」が建設され、避難場所と食糧が供給されました。ドットウェル商会のシアトル事務所からは、バンガロー風の建材が届けられ、組み立てられました。小さな事務所として利用されました。
神戸は当座の救急対策だけでなく、再建にかかわる仕事の本部となりました。プールは独身時代、明治43年(1910)〜大正2年(1913)の3年間、神戸に住んでいました。多くの友人たちと六甲山周辺をハイキングしました。このため、多くの友人が神戸にいて、親切に対応してくれました。横浜ユナイテッドクラブの会員は、招かれて神戸クラブ(神戸外国倶楽部)の会員となったため、神戸クラブは昼食時と夕食時には大変混み合いました。
銀行や商社は財産を失っただけでなく、帳簿や書類を失ったため、顧客情報が確認できず、困っていました。ドットウェル商会では、ロンドンの事務所から帳簿類の写しを返却してもらいました。横浜にいた外国人・日本人の全社員を神戸に集めて、ごちゃまぜになっている情報を整理し、買い手や供給者情報、および輸送問題(依頼主に荷物が届いているか)の把握作業を行いました。
数か月苦労した後に、プールや職員は自分がどんな立場にいるのか、中断された仕事を再開するにはどうしたらよいのかを知ることができました。これらを整理することにより、損失額は当初想定の1/10程度になりました。
寒い気候が近づくと、冬の衣類を整えることと、ドロシーと子供たちを神戸に呼び戻す準備をするため、上海に大急ぎで旅立ちました。11月11日に家族を連れて上海から神戸に戻ってきました。彼らがみんな元気であり、あの地震の忌まわしい恐怖もほとんど消え去ったことを神に感謝しました。子供たちはもはやどんな音にも驚かないし、眠っているとき泣き出したりすることもなくなりました。
プールたち家族はいまや日本では中枢部となった神戸で暮らすことになりました。ベイトマンとアンダースンは新事務所を開くため東京へ、バーネットは横浜に戻っていきました。日本人職員も以前の役割に戻っていきました。義父母のキャンベル夫妻は家が手に入れば、横浜に戻ることになりました。しかし、救援船で日本を去った外国人の多くは、もう日本には戻りませんでした。
プールは、「あの古い親密に結ばれていた居留地社会は、地球上の四方八方へと散ってしまった。なつかしい、昔からの場所自体が風とともに去ってしまったのである。あんなにも多くの人々にとってふるさとを意味してきたすべてのものが、愛情や大切にされていた親交のきずなのすべてが、いまではもう過去の思い出にしかすぎないものになっている。
しかし、残された人々が再建というきわめて困難な仕事にあれほど勇敢に立ち向かっていったことはすばらしいことである。逆境と戦ってこれを食い止めようとする精神は決して抑えきれるものではないと思われる。まことに人類は強靭な創造物であり、征服しがたいものである。」と述べています。
6.むすび
プールの逃避行を説明しながら、関東大震災の復旧・復興に対する神戸の役割を考えてみました。相原(2013)によれば、震災前日本の天気図は東京の中央気象台で全国の気象観測デーを集め、1日に3回作成していました。しかし、中央気象台は関東地震によって大きな被害を受けたため、8月31日6時の天気図が最後で、それ以降9月20日まで天気図は作成されませんでした。中央気象台に代わって、神戸気象台が天気図を作成しました。神戸がなければ、関東大震災の復旧・復興はかなり遅れたと思います。
プールは、関東地震から20か月後に社長から手紙を受け取り、家族とともにカナダのブリティッシュ・コロンビアに渡って、健康回復のための休暇を3ヶ月とるように提案されます。1925年7月7日にインディア号で神戸を去りカナダに向かいました。そして、カナダでの3ヶ月の休暇ののち、プールはニューヨークの事務所を引き継ぐように命ぜられます。プールは米国およびカナダにおける総支配人となり、その後日本へは一度も帰りませんでした。
2013年9月29日に実施した現地見学会は土曜日のため、中華街や元町の商店街は観光客であふれていました。観光客だけでなく、商店街の人達も90年前に実際におこった激甚な被災状況を知る人は少ないと思います。首都直下地震や海溝型地震は今後確実に発生します。90年前と比較すると関東大震災の被災地や避難した場所は人口が増えて、都市開発・宅地開発が進み、大震災が発生した場合に、避難できる場所が少なくなっていると思います。
その後も何回かプールの避難経路を歩いて調査していますが、神奈川大学の生涯学習エクステンション講座で話をさせて頂いたことを契機として、プールの『古き横浜の壊滅』を読み直して、このコラム82を執筆しました。9月1日15時以降のプールの避難行動を新たに整理しましたが、改めてプールの描写力に驚くとともに、関東大震災の被害の激甚さを思い知らされました。
今年は関東地震から100年となります。今後襲って来る地震や火山噴火、豪雨などによる災害(特に土砂災害)に対する対応策を検討しておく必要があります。
本コラムをまとめるにあたっては、引用・参考文献に示した多くの論文や資料を読ませて頂き、参考にしました。厚く御礼申し上げます。
引用文献
相原延光(2013):2.5 関東地震前後の天候状態,井上公夫編著:関東大震災と土砂災害,古今書院,p.27-31.
相原延光(2017):関東地震時のO. M. プールの行動―横浜の地形地質を中心として ―,第374回資源セミナ−,8p.
井上公夫編著(2013):『関東大震災と土砂災害』, 古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
井上公夫(2013):関東大震災・横浜の現地見学会報告 ―1923年9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―.地理,58巻12号,口絵,p.8.,本文,p.82-91.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩くU,丸源書店,306p.
コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,
p.78-90.
コラム38 関東大震災(1923)による神奈川県東部の土砂災害―横須賀地区と浦賀地区の土砂災害地
点を歩く―,p.91-104.
コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖周辺の土砂災害地点を
歩く―,p.105-119.
コラム40 関東大震災(1923)による小田原市の土砂災害―根府川・白糸川流域の大規模土砂災害地
点を歩く―,p.120-133.
コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,p.134-147.
コラム74 関東大震災(1923)による伊豆半島東部の土砂災害(2021年10月11日公開),p.1-15.
井上公夫・相原延光・茅野光廣(2013):出版記念講演会と横浜市内現地見学会資料−O. M. プールの逃避行ルートを歩く−,33p.
蟹江康光(2014):91年前の大正関東地震で生じた横須賀港町と西浦賀の大規模崖崩れ―過去に何度も起きていた地すべりであった―,三浦半島の文化,24号,p.48-60.,横須賀市
プール,O.M.,金井圓訳(1976): 『古き横浜の壊滅』,有隣堂,220p.
Poole, O. M. (1966): The Death of Old Yokohama in the Great Earthquake of 1923,135p.
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参考文献
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一ノ木星樹・生出恵哉・小森秀治・中島信一編集(1995):横浜に震災記念館があった,横浜郷土研究会,165p.
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伊藤泉美(2014):ある英国人女性の手紙 関東大震災からの逃避行,<資料紹介 関東大震災関係2>,横浜開
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井上公夫(2017):コラム32 明治24年(1891)の濃尾地震直撃による土砂災害,土木情報サービス,いさぼうネット,2017. 5. 24.
井上公夫(2021):コラム70 兵庫県南部地震(1995)と土砂災害を振り返って,いさぼうネット,2021.4.28.
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会,1923関東大震災報告書,第1篇,p.50-79.
今井精一(2007):『横浜の関東大震災』,有隣堂,307p.
神奈川県(1927,復刻1983):『神奈川県震災誌及び大震災写真帳』,神奈川新聞出版局,写真,32p.,本文,848p.
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蟹江康光(2016):関東大震災―未公開写真,神奈川は被災地だった―,ジオ神奈川,162p.
北野・山本地区をまもり、育てる会(1999):北野・山本まちなみフェスタ’99『街並み歴史トーク』,p.1-13.
北原糸子編(2010):『写真集関東大震災』,吉川弘文館,422p.
武村雅之(2009):『未曾有の大震災と地震学―関東大震災―』,シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ,古今書院,209p.
中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):『1923関東大震災報告書』,第1篇,242p.,平成24年11月19日訂正
内務省社会局(1988改訂版):『写真と地図と記録でみる関東大震災誌・神奈川編』,千秋社,750p.
ノエル・F・ブッシュ,向後英一訳(2005):正午二分前,外国人記者の見た関東大震災,早川書房,293p.
波多野勝・飯森明子(1999):『関東大震災と日米外交』, 草思社,271p.
フェリス女学院150年史編纂委員会(2010):『関東大震災女学生の記録―フェリス女学院150年史資料集−』,第1集,306p.
諸井孝文・武村雅之(2004):関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定,日本地震工学会論文集,4巻4号,p.21-45.
山手資料館(1977):『山手資料館展示目録』,16p.
横浜開港資料館(2005):横浜&バンクーバー 太平洋を越えて,33p.
横浜開港資料館(2005):企画展「太平洋を越えて 横浜&バンクーバー」展示陳資料より,横浜開港資料館館報・開港のひろば,90号,p.1-3.
横浜開港資料館(2013):関東大震災90周年被災者が語る関東大震災,平成25年度第2回企画展示,7月13日〜10月14日.
横浜市史資料室(2010):『報告書横浜・関東大震災の記録』,108p.
横浜市史資料室(2013):レンズがとらえた震災復興1923〜1929,企画展示,7月13日〜10月14日.
横浜市役所市史編纂係(1926〜27):『横浜市震災誌』,第壹冊,120p.,第二冊,199p.,第三冊,651p.,第四冊,491p.,第五冊,665p.
横浜都市発展記念館(2013):関東大震災と横浜―廃墟から復興まで―,開館10周年記念特別展,7月13日〜10月14日.
吉田律人(2022):横浜市の関東大震災―被害と復旧―,神奈川大学2022年度後期連続講座「1923年関東大震災から100年―横浜・神奈川における被災と復興」,配布資料
吉村昭(1973):『関東大震災』,文芸春秋社,249p.