1.はじめに
コラム82を執筆していて、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイム(Karl Juchheim)の存在を知りました。彼は日本にはじめてバウムクーヘンを紹介したことで有名ですが、2度の世界大戦と関東地震(1923)・阪神大水害(1938)などを経験しました。戦争も災害と考えると、実に数奇な災害経験を何度も経験して、生き延びてきました。
本コラムでは、ユーハイムの数奇な経歴を説明するとともに、ドイツ人菓子職人としての生き方を考えてみたいと思います。
2.生い立ち−菓子職人になるまで
南ドイツのライン川の河畔にある中世からの古い城下町、カウプ・アム・ラインで明治20年(1887)12月25日にカール・ユーハイム(ユッフハイム−ドイツ読み)は生まれました(株式会社ユーハイム,1964;頴田島,1973;巣山,2020)。「ローレライ」の歌で有名なライン川に面した美しい町です。父フランツと母エマの10番目の子供で、13人兄弟の賑やかな家庭で育ちました。
小さなビール工場を経営していた父は、ビール醸造マイスターの資格を持つ職人でした。マイスターとは優れた技能を持つ職人の称号です。カールは大家族の中にあって、お菓子を好きなだけ買ってもらう訳にはいかず、子供らしい菓子へのあこがれと、親方として慕われていた父親の姿を見て、「お菓子のマイスター」になる夢を描きました。義務教育が終わると、カールは菓子店に見習いとして勤め始めました。マイスターになるには、腕を磨くとともに、職人として働いた経験が必要でした。
カールが16歳(1902)の時、父親がビール樽の下敷きになり、大怪我を負いました。傷がふさがった後も体調は元に戻りませんでした。このため、カールは夜間の職業学校に通い、早くマイスターになって両親を喜ばせたいと思いました。しかし、怪我から1年後に父は亡くなってしまいました。
明治31年(1898)3月6日、ドイツと清国の間で独清条約が結ばれ、青島周辺並びに膠洲湾一帯551㎢を99年間租借することが決まりました。ドイツは青島に総督府を置くとともに、1500人の兵員を駐屯させ、市街地の形成に取り掛かかりました。青島には大勢のドイツ人が渡り、整然としたドイツ人町が形成されて行きました。
4年課程の製菓学校を卒業した22歳の頃(1908)、ユーハイムに菓子店協会の会長から青島で働くという就職の話がありました。ドイツのカウプから青島は地球を4分の1周する距離です。シベリア鉄道で何日もかけてひたすら森を通り過ぎて行かねばなりません。母は反対しましたが、兄たちは新天地青島に行くことを勧めました。
ベルリンからカールを乗せた列車はドイツ国境を越え、ポーランドの大草原を抜け、果てしなく続く白樺の森を越えて、10日間かけて青島に到着しました。初めて見る海で、青島には巨大なドイツ軍艦が接岸していました。兄たちの言っていた通り、青島は新しいドイツでした。中国人、欧米人、日本人らとともに、大勢のドイツ人が暮らし、音楽会や演劇、テニスやサッカーを楽しみ、緑の多い町で下水道が完備されるなど、最新の技術が使われ、活気に満ち溢れていました。カールは菓子店で働き始めました。
ところが、ここでの暮らしにやっと慣れてきた頃、母の死が知らされました。働き始めてまだ数ヶ月、ドイツから遠く離れていて、葬式に出ることも出来ませんでした。カールは歯をくいしばってがむしゃらに働き、青島に来て半年後の明治42年(1909)に働いていたブランクベックの店を譲ってもらいました。現在のユーハイムの創業年はこの年とされています。それから菓子の修行に打ち込んだカールは、念願の菓子食免許習得者(コンディーター・マイスター)の資格を取りました。マイスターの資格を取るにはバームクーヘンの試験があります。カールの最も得意とした菓子で、高い技術が入ります。カールのつくるバウムクーヘンは本場ドイツの味だと評判になり、大正2年(1913)、26歳の時にプリンツ・ハインリッヒ通りに「菓子・喫茶の店 ユーハイム」を開店しました。
 図1 中国の山東半島と青島(地理院地図より)
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3.青島での結婚生活と第1次世界大戦の開始
その翌年、嫁探しのため、故郷のカウプ・アム・ラインに帰りました。菓子店協会から紹介されたエリーゼ・アーレンドルフという22歳の女性と結婚しました。エリーゼは幼い頃に両親を亡くし、伯父の家で暮らしていました。「子供の頃お菓子はこの世界の中のあこがれだったわ。」と語るエリーゼの言葉には苦労がしのばれました。カールは先に青島に戻り、エリーゼは少し遅れてシベリア鉄道で青島にやってきました。二人は青島在住の2人の証人を得て、大正3年(1914)7月28日に結婚式を挙げました。
しかし、その頃世界のあちこちで無気味な暗雲が沸き上がっていました。大正3年(1914)6月28日、セルビアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されました。それがきっかけとなり、1ヶ月後の大正3年(1914)7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しました。オーストリアとドイツが手を組み、フランス、ベルギー、ロシア、イギリスとの戦争が始まりました。青島が孤立し、戦時状態に入ったのは8月4日、結婚式から1週間しか経っていませんでした。
膠洲湾総督府は青島籠城を前提として、老幼児女の退去を発令しました。新婚早々のエリーゼは夫ひとりを残して避難する気持ちにはなれませんでした。
日本は明治35年(1902)1月30日に日英同盟を結んでいたことから、大正3年(1914)8月23日にドイツに宣戦布告し、陸海軍併せて7万余の大軍を中国山東半島の青島を攻撃するために派遣しました。大正3年(1914)11月7日午前3時、カール夫妻にとって忘れられない日となりました。その日、今まで日本に頑強に抵抗していたドイツ軍は一斉に白旗を挙げました。その後日本軍が青島に進軍し、結婚して4ヶ月しかたたないカール夫妻の新婚の夢を奪い去りました。カールは跳ね起き、警報と同時に身支度をして、かねて通達されていた場所に向かいました。「大丈夫だよ。僕は戦闘員ではないから」と妻に言いました。
夜が明け始めると、裏山の各砲塁が白旗を掲げたことはすぐ市民に知れ渡りました。9時半頃、降伏の軍使が開城したいと日本軍に申し入れました。エリ−ゼたちは戸締りを厳重にして、地下室に身を隠しました。しかし、待ちに待っても夫カールは帰ってきませんでした。心細く思っていると、頭の真上で不意をついてガラスの割れる大きな音がしました。続いてドカドカと室内に乱入して来るドタ靴の音。地下室に潜むエリーゼたちは、頭の上を歩き回る重い足音を懸命に耐えていました。また一つガラスの割れる大きな音がしましたが、頭上の足音は隣家に移っていきました。
やれやれ今度だけは助かったと胸をなでおろした時、3人の日本兵がエリーゼの前に立ちはだかりました。絶望感を抱いた次の瞬間、日本兵は銃の構えを解き、ひどくくつろいだ姿勢を取り始めました。日本兵はポケットから赤や青の小さい粒を取り出し、エリーゼのうしろにいた2歳の子供に食べるように言いました。エリーゼは最初毒薬かと思い、強く首を振りました。日本兵は小さな星の形の粒を自分の口に入れ、笑顔を見せました。毒薬と思ったのは、慰問袋に入っていた金米糖でした。エリーゼは日本兵から受け取ったひとつまみの金米糖を見て、「神様はこんなに可愛い菓子も作られるのか」と思いながら、日本兵に笑顔を返しました。
日本兵が去った後、疲れ切った顔でカールが帰ってきました。「あなた、カール! 私はもう一人ではないわ。あなたが帰らなければ、どうしようかと思った。あかちゃんが・・・かもしれないの」。「ああいつでも一緒だとも、安心していいさ」とカールは言いました。
「今朝行ったのは弾薬庫に貯蔵されている弾薬を海に捨てる使役だった。ぼくが平服なのを見た将校が『お前は兵隊ではないのか。それなら家に早く帰った方がいい。日本兵が来たら射殺されてしまう』と言われた。こうなったら死ねないよ、お腹の子供のためにも」と言って、エリーゼを抱きしめました。
日本軍政府により、青島の治安は急速に回復して行きました。「ユーハイム」の店にも日本軍将校などが連絡のため、時々顔を見せました。
ドイツ戦闘員の検挙は開城と同時に行われました。人別尋問終了後一時的に家に帰された者もモルト兵営に護送されました。ドイツ守備隊員は4300名、うち戦死者800人、捕虜として日本軍に収容された者は2300名にも達しました。数日後日本の新聞は、新たに収容すべき捕虜1410名、他に入院中の者436名が追加されたと報道しました。
カールは「ユーハイム」という菓子店を開いていた市民であり、捕虜に入れられる理由はありませんでした。青島の捕虜の日本輸送は、大正3年(1914)11月15日から開始されました。ドイツ人捕虜の日本輸送は11月21日に終了し、カールは含まれていませんでした。
しかし、カールが予想もしなかったことが、翌年大正4年(1915)9月に突然発生しました。=〇月〇日、着替えを持って〇〇に集合せよ=。カールは思いもよらぬ「捕虜」という通告で、身重の若妻に後ろ髪を引かれる思いで、指定日時に指定場所に出頭しました。それっきりカールの音沙汰は消えてしまいました。
エリーゼはほとんど狂気となって、かねて親切にしてくれていた野田参謀将校に哀訴しました。数日後にカールは一時エリーゼのもとに返されましたが、すでに捕虜として日本への移送が決定していました。再び出頭したカールが戻ってくることはありませんでした。日本の―オオサカ―に送られたという噂だけが後に残りました。非戦闘員のカール・ユーハイムがなぜ捕虜として日本に送られたのか、現在も正確なことは分かっていません。
4.大阪での捕虜生活
朝日新聞は大正4年(1915)9月20日、青島から捕虜28名が大阪市木津川尻にある西区南遠賀町の大阪俘虜収容所に収容されたことを伝えました。カールが日本に移送されたのはこの一行の中の一人と考えられます。大阪俘虜収容所にはすでにハス海軍中佐以下477名のドイツ人が収容されていました。すべてが軍人ではなく、青島独清高等学校長などの民間人も含まれていました。
所長の菅沼中佐以下の捕虜に対する方針は厳格でしたが、待遇自体はそれほど悪くはありませんでした。ハーグ条約に基づき、捕虜には一定の給与が支払われ、食事も比較的よく、酒保でキリンビールを買うこともできました。カールが不思議に思ったのは煎餅でした。煎餅を見ながら、無性に自分も菓子を作りたくなりました。
娯楽としてはテニスコート2面を持つ休憩所などがあり、捕虜たちはかなり自由に行動できました。第一次世界大戦はまだ続いており、ドイツが欧州における戦線の勝報が入るたび、「独逸皇帝万歳!」の声は収容所に満ち満ちていました。
しかし、大正4年(1915)5月23日、イタリアが対独宣戦布告を行ったため、捕虜たちは政府差し入れの新聞から祖国ドイツの敗勢を知ります。次第に捕虜たちの憂鬱は増していきました。そんな中で人一倍憂鬱な青黒い顔をしていたのはカール・ユーハイムでした。非戦闘員の捕虜たる不合理、祖国の敗色、身籠っている若妻と生まれて来る新しい命のことを思いなやんでいました。
青島の「ユーハイム」で売られていたバウムクーヘンは市民の間で、本場ドイツの味として知られていました。しかし、俘虜収容所ではこの菓子をつくることはできません。「エリーゼはどうしているだろうか。お腹の子に障りはないか。」 カールの異常さは誰の目にもまさに発狂寸前としか見えませんでした。
その頃から日本各地にある12箇所のドイツ人俘虜収容所では、脱走者が続出しましたが、すぐに掴まってしまいました。彼らの憂鬱、倦怠、絶望感は頂点に達していました。しかし、まだまだ捕虜たちの間には「祖国必勝! 最後にはカイザルが勝つのだ。」の信念が頑強に残っていました。大阪俘虜収容所所長の菅沼中佐は脱走などに対しては厳罰で臨む方針であることを通告しましたが、捕虜たちにサッカー、クリケット、バレーボールなどを許可しました。しかし、それらのグランドにカールの姿を見ることはまれでした。
大正4年(1915)11月4日に青島病院で男の子が生まれたという手紙が届きました。男の子だったら、敬愛した父の名前にあやかって、カールフランツ・ユーハイムと名付けるように言い置いてありました。口の中で呟いていても全身に暖かいものが感じられますが、それには寂しさが伴っていました。
やがて俘虜収容所にもクリスマスが近づいてきました。ドイツ本国では12月25日の4週間前の日曜日から始まります。捕虜たちは仮装行列、舞踏会、音楽会の許可を願い出ましたが、許可されませんでした。ただし、12月25日のクリスマスに祈祷会を行うことだけは許可されました。カールは自分の誕生日(12月25日)をこんな形で迎えようとは夢にも思っていませんでした。「・・・俺は“お菓子の家(ヘクセンハウス)”を作りたいよ。神様、お菓子の家が作れるよう力を貸したまえ!」と祈りました。
クリスマスが近づくと、捕虜たちにドイツ本国などからクリスマスプレゼントが届きました。しかし、カールには青島の妻エリーゼから何も届きませんでした。ドイツ政府から毎月頂く50上海ドルだけで生きている、乳呑児を抱えた若い母にはそんな余裕はなかったことは分かっていても、それだけ哀れでした。
“お菓子の家”を作ることは許可されませんでしたが、スコペラチウス(人形型のビスケット)を作ることは許可されました。カールはその気になり、火鉢の上にトタン板をかぶせて人形らしきものを焼き上げました。同室の捕虜たちはそれで十分、クリスマスを祝い、家族を思い自分の子供たちが身近にいるように思いました。カール自身もお菓子を取って、「カールフランツ」と生まれてきた子供の名を呼び、若い母親となった妻エリーゼの名を呼び、最後に「神さま」と言いました。
ドイツの敗色が濃くなると、俘虜収容所内も不穏な空気が流れ、何回か脱走者が出ましたがすぐに掴まってしまいました。「戦争に負けたら、ドイツはなくなってしまうのか。敗戦国の惨めさはひどいものだ。妻子のいる青島にもどれると思っているのか。」などと捕虜たちはささやきあいました。
そして1年が過ぎ、大正5年(1916)のクリスマスがやってきました。捕虜たちは許可された範囲のクリスマスの準備に没頭しました。「今年はスコペラチウスを少し沢山作って、将校室にもクリスマス気分を分けてあげよう。」カールはドイツ菓子らしきものを作る準備を始めました。
しかし、クリスマスの日に菅沼所長以下全員の「不時召集」がありました。捕虜全員が集合し終わると、各室一斉の捜査が行われ、屋根裏などから小銃弾数十や双眼鏡が見つけられました。厳しい尋問がおこなわれましたが、犯人や犯行予備計画は不明のままに終わりました。
その後、大阪俘虜収容所が「ニノシマ」に移転になるらしいと伝えられました。捕虜の多くはニノシマが大阪近郊だと考えていましたが、ひとりカールは青島からさらに遠い処へ移送されると思いました。大正6年(1917)2月19日に大阪俘虜収容所は広島県安芸郡仁保村の似島(広島市南区)に移転しました(青島には少し近くなりました)。
大正7年(1918)2月3日、アメリカ大統領ウィルソンは対ドイツ国交断絶を宣言しました。今まで中立だったアメリカが参戦したことで、ドイツの敗戦は決定的となりました。
5.似島の地形特性と土砂災害
似島俘虜収容所について説明する前に、広島湾に浮かぶ似島の歴史、特に土砂災害史について調べてみました。
平成26年(2014)8月20日未明、広島市安佐南区から安佐北区にかけて局地的な集中豪雨を受けました。このため、大規模な土石流が各地で発生し、激甚な被害となりました。また、昭和20年(1945)9月17日の枕崎台風によって、8月6日の原爆投下後の広島湾周辺に激甚な土砂災害が発生しました。これらの災害については、いさぼうネットのコラム46、47で説明しました。
図2 広島湾岸地域で明治・大正・昭和・平成に土砂災害が発生した渓流の分布(コラム46の図1)は、天満(1972)の図に昭和・平成の渓流を追加したものです。明治以降の150年間でみると、広島湾に面した斜面部では、少なくとも1回以上の土砂災害が発生していたことが判ります。天満(1972)には似島の記載はありませんでした。
『ふるさと似島』(ふるさと似島編集委員会,2003)を見ると、「11 似島のあゆみ(年表)」に詳細な年表が記載されています。昭和20年(1945)9月17日の枕崎台風襲来により、「似島では17日22時過ぎ大風と水害に襲われ、大出水・土砂崩れにより民家浸水・倒壊など、自然災害としては過去最大の10数名の死者を出し、大混乱となりました。町民はこの長雨を「流れ」と呼び記憶している。」と記載されていました。枕崎台風では、呉、江田島、宮島、大野(広島陸軍病院大野分院)などでも激甚な土砂災害が多発しました。
似島の大正期以前の土砂災害は不明ですが、上記の枕崎台風以外にも、昭和9年(1934)9月21日、昭和19年(1944)9月27日、昭和26年(1951)10月14日ルース台風、昭和29年(1954)9月26日台風15号、昭和30年(1955)9月30日台風22号、平成3年(1991)9月28日台風19号などで災害が発生しました。
平成30年(2018)6月27日〜7月8日の西日本豪雨により、似島では死者はなかったものの激甚な被害を受けました。図3は、似島小学校区ハザードマップ(広島市下水道局河川防災課)です。図4は、平成30年(2018)災害時の土砂移動渓流で、国土地理院が災害直後の平成30年(2018)7月11日に撮影した航空写真(CCG20814,C10BとC11B)を判読し、土砂移動が判読された渓流を赤線で示したものです。
似島の北部には標高277.8mの安芸小富士があり、広島側から見るときれいな富士山型の山に見えます。図3のハザードマップを見ても明らかなように、似島は急傾斜な斜面が多く、集落は海岸沿いの小さな緩斜面に存在するだけで、ほとんどの集落が崖崩れや土石流の土砂災害警戒区域や特別警戒区域にかかっています。図4に示したように、平成30年(2018)災害時には多くの渓流で土砂移動が認められ、多くの集落で土砂が流入するなどの被害がでました(広島市危機管理室危機管理課,2019)。高齢化が進む似島では、連日住民が総出で土砂災害の復旧に追われました。また、多くの災害ボランティアが似島を訪れ、災害復旧を手伝いました。似島は今回の災害では、人的被害がなかったものの、土砂崩れで複数の住宅が壊れ、道路が寸断されました。

図2 広島湾岸地域で明治・大正・昭和・平成に土砂災害が発生した渓流の分布
(天満,1972に昭和・平成の渓流を追加;井上,2018,2020)
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図3 似島小学校区ハザードマップ (広島市下水道局河川防災課) < 拡大表示>
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図4 平成30年(2018)災害時の土砂移動渓流 (2018年災害直後に撮影された航空写真で判読) < 拡大表示> |

写真1 似島・米軍1947年11月8日撮影立体視写真
(M539-1-78,79 縮尺1/43,791)
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6.軍事施設としての似島の歴史
図2に示したように、似島は広島市南区に属し、西に宮島、南に江田島が存在し、宇品港の沖に浮かぶ小離島です。江戸時代は荷継ぎの港として栄えたことから「荷の島」と呼ばれていました。広島湾が遠浅で大型船が入港出来なかったため、一旦似島で荷を降ろし、小舟で広島本土に運んでいたことから名付けられた名称であるとされています。「二の島」「見の島」「似の嶋」「箕の島」の表記も見られますが、「富士山に似た山のある島」から「似島」(写真2)の名が定着したようです。
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写真2 宇品港から見た似島・安芸小富士
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写真3 似島観光看板「菓子伝説の地・似島」 |
(2022年12月 秋山晋二撮影)
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明治27年(1894)6月、山陽鉄道が開通し、東京〜広島が鉄道で結ばれました。そして、8月に広島駅〜宇品港の5.9kmが軍用鉄道として完成したため、大型船の運用ができる宇品港を擁する広島市内に広島大本営が置かれ、宇品港が出征兵士や輸送物資のための兵站基地となりました。明治28〜29年(1895〜1896)の日清戦争では、コレラや腸チフスなどの伝染病が戦地で流行しました。日清戦争末期から終戦後にかけて、兵士や軍用馬が凱旋帰国すると、広島県内でも伝染病が蔓延し始めました。このため、広島では陸軍による市街地の徹底消毒や近代上下水道の敷設などの対策がとられました。宇品には広島軍用水道も敷設される一方で、帰還兵や軍用馬に対する伝染病の検疫・消毒のため、似島の東岸に明治28年(1895)に、大日本帝國陸軍により似島検疫所が開設されました。似島がその地に選ばれたのは、宇品港のすぐ沖に位置していたからでした。似島検疫所は当時、世界最大級の検疫施設で、海外からも高い評価を受けた施設でした。
図5に示したように、その後多くの軍事施設が作られました。明治37年(1904)10月に第二陸軍検疫所(現、広島市似島臨海少年自然の家)が設置されました。明治37〜38年(1904〜1905)の日露戦争では、日清戦争以上の傷病兵が出たことから、海軍・陸軍とも似島で検疫をすることになりました。明治38年(1905)1月には捕虜収容所(現、似島学園)が設置され、ロシア兵捕虜2391人が収容されました。
明治39年(1906)には宇品にある陸軍運輸本部(通称・暁部隊)の管轄となりました。暁部隊は、大小問わず内航船を軒並み船員ごと徴用して行くので、瀬戸内海の船主から恐れられていました。
大正3年(1914)7月に第一次世界大戦が始まりました。大正6年(1917)2月にドイツ人捕虜が大阪俘虜収容所から第二陸軍検疫所に送られてきました(写真4)。大正7年(1918)11月に第一次世界大戦が終了し、ドイツ人捕虜も解放されることになりました。その後、大正9年(1920)4月に収容所は閉鎖されました。
明治28年(1895)の人家戸数は108戸、人口は673名(芸備日日新聞)でした。
昭和6年(1931)9月18日に満州事変が起り、日中15年戦争が始まりました。
昭和14年(1939)9月に第二次世界大戦が始まりました。
昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争が始まりました。
昭和20年(1945)8月6日に広島に原子爆弾が投下されました。被爆当時の似島の世帯数は409戸、人口1751人でした。
昭和20年(1945)8月15日に第二次世界大戦は終わり、日本は敗戦しました。
似島は爆心地から北端で8.3km、南端で11.5km離れていたため、窓ガラスが割れ、小破した家があった程度で、大きな被害は免れました。広島市内の病院が壊滅したため、似島検疫所などは被爆者救済のために重要な役割を果たしました。検疫所に運び込まれた被爆者は、8月6日から25日までの20日間で1万人ともいわれています。似島は遺体があふれ返って火葬が追いつかず、防空壕に入れたり空き地に埋葬されたりした遺体も多くありました。
このような状況のなかで、前述した昭和20年(1945)9月17日の枕崎台風襲来を受け、広島湾岸地域は激甚な被害を受けました。宮島対岸の佐伯郡大野村にあった広島陸軍病院大野分院では、大規模な土石流が病舎を襲い、被爆者や京都大学研究班を含む156人がなくなりました。呉市内の土石流災害も激甚でした。
昭和21年(1946)9月に戦災児教育所似島学園が開設されました。
昭和22年(1947)10月に防空壕などに埋葬されていた遺骨を集め、似島供養塔(千人塚)が建てられました。
昭和33年(1958)に似島検疫所は施設の老朽化もあって完全閉鎖され、敷地の一部が広島県戦災児教育所似島学園(現、似島学園)となったほか、平和養老館、広島市似島臨海少年自然の家、広島市立似島小学校、似島中学校となりました。

図5 似島にあった軍事施設と似島陸軍第二検疫所配置図
(ふるさと似島編集委員会,再編集改訂版,2003)
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昭和41年(1966)3月の広島市南区役所の人口統計では、世帯数712戸、男1573人、女1380人、計2953人で、戦後最高の人口となりました。
平成9年(1997)3月の広島市南区役所の人口統計では、世帯数725戸、男670人、女789人、計1459人でした。
7.似島での捕虜生活
第一次世界大戦によって捕虜となったドイツ人の大阪俘虜収容所は手狭となったことから、大正6年(1917)2月に似島に移設することになりました。2月18日の朝、捕虜たち540名は大阪俘虜収容所を出て、徒歩で大阪梅田駅に向かいました。梅田駅から捕虜たちを乗せた列車は、翌19日の早朝に広島駅に着くと、宇品線(5.9km明治27年(1894)完成)に乗り換えて宇品駅に到着しました。そこで、連絡船に乗り換えて似島に向かいました。まだ、光が差す前のひっそりとした海面を船は進みました。薄霧の中に表れてくる島々の景色は、カールの生まれ故郷のライン川の流れに似ていました。
似島収容所には宿舎のほか、厨房やパン工場、ふろ場、テニスコート、運動場がありました。ここにも、大阪と同じように、捕虜には自由な時間がありました。しかし、何時解放されるかは分かりませんでした。収容所の山側は鉄条網で囲まれ、海側は高い黒板塀で囲まれて目隠しされていました。似島の周辺には、海軍兵学校のある江田島、海軍の呉港があったためです。
似島での捕虜生活が1年半を過ぎ、ユーハイムの精神はじわじわと追い込まれました。さらにスペイン風邪が世界中で猛威を振るい、死者は5000万人にも達したと言われています。これは第一次世界大戦の戦死者1000万人をはるかに上回る数です。当時の世界人口が18億人ほどですから、想像を絶する死者数です。「エリーゼは無事なのか。小さなカールフランツが感染したらどうしたらいいのか。」徐々に口数の減ったカールは、酒保にも姿を見せず、宿舎に引きこもりました。
大正7年(1918)11月11日にドイツは休戦協定を結び、敗戦を認めました。似島収容所新聞を見て、カールは「戦争が終わった・・・エリーゼに会える。」と思いましたが、捕虜がすぐに解放されることはありませんでした。戦争が終わって、国と国との間で正式に取り決めが交わされて、本当の終戦となります。しかし、ここから確実に収容所には自由な風が吹き始めました。
大正8年(1919)1月には、広島高等師範学校(現、広島大学)のグランドで日本最初のサッカーの国際親善試合が行われました。ドイツ人捕虜チームと地元の学生チームとの試合でしたが、ドイツチームの圧勝でした。大正8年(1919)6月28日にベルサイユ宮殿で平和条約の調印が終わりました。
捕虜の中には、食肉加工職人や家具職人、ビール醸造職人など様々な技術者がいましたので、その高度な技術を日本人に披露することになりました。場所は広島県物産陳列館で、大正4年(1915)4月5日に建設された4階建てのモダンな建物でした。
大正8年(1919)3月4日〜13日に作品展覧会は開催される予定で、捕虜たちは工夫をこらし、準備を始めました。カールもバウムクーヘンを焼くことになり、四国の坂東収容所で作られたバターを手配してもらい、竹を心棒にして炭火で菓子材料を焼くことにしました。カールは3月4日に物産陳列館に行き、バウムクーヘンを焼き上げ、販売しました。物産陳列館には色々な作品が並べられ、大変な賑わいでした。菓子即売所でバウムクーヘンは大変な人気で、良く売れました。13日までの入場者は18万人にも達し、日本に初めて登場したバウムクーヘンは大好評で、受け入れられました。
物産陳列館はのちに産業奨励館と名前を変えますが、昭和20年(1945)8月6日にこの建物の上で原子爆弾がさく裂しました。この建物が今日私たちの知る“原爆ドーム”です。
 写真5 広島中心部・米軍1945年7月25日撮影 USA 5M335-9504,9514(元縮尺S=1/14,000)
 写真6 広島中心部・米軍1945年8月8日撮影 SM220-113-114(縮尺 1/9,500)
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写真5は、米軍が原爆投下の準備のため、昭和20年(1945)7月25日に撮影した写真を立体視できるように加工したもので、〇で示した建物が産業奨励館です。
写真6は、米軍が8月6日の原爆投下直後の8月8日に撮影した写真を立体視できるように加工したもので、〇で示した建物が原爆ドームです。広島市内のほとんどの建物は燃え尽きてしまいました。
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写真7 広島県産業奨励館の説明看板
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写真8 ほぼ同じ位置から撮影した原爆ドーム |
(2022年12月 秋山晋二撮影)
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写真7は2022年12月に秋山晋二氏が撮影した旧太田川(元安川)の川岸にある広島産業奨励館の説明看板、写真8はほぼ同じ位置から撮影した原爆ドームです。
ドイツ捕虜の釈放・送還方法が決定したのは、大正8年(1919)11月になってからでした。行先未定のままでいたカール・ユーハイムは、スペイン風邪のことから青島に帰ることだけは断念し、日本の菓子店で働くことにしました。妻エリーゼは結婚前話していたように、アメリカに行くべきだと手紙で書いてきました。
カール・ユーハイムが日本に残る決心をしたのは非戦闘員だったからでした。彼は菓子職人としての自信を深め、捕虜から解放されたらエリーゼと子供を青島から呼び寄せ、日本で生活する決意を固めました。ドイツ・クルップ社の前日本総支配人ランド・グラーツは釈放された捕虜のうち、非戦闘員の200余名には特別な配慮を当局に強く陳情していました。特別な技術を持つ非戦闘員だった技術者の多くは日本で働くことが決まりました。ランド・グラーツの運動に強く賛同した磯野長蔵(横浜に本店を持つ食料品店明治屋の社長)は、東京・銀座に洋風喫茶店を開くことにしました。製菓部の主任にカール・ユーハイムを3年契約で採用し、他に2人のドイツ人捕虜も採用され、東京の銀座に「カフェー・ユーロップ」が開店しました。
エリーゼは長男・カールフランツと一緒に大正9年(1920)1月20日に青島を出発、25日朝に神戸に着くことを電報で知らせてきました。船は800トンと小さかったが、東シナ海から玄界灘、瀬戸内海を通り、25日朝7時に神戸に着きました。日本の陸影が見えるようになると、目にしみるような樹木に覆われていました。エリーゼは故郷を離れてから初めて見る濃い緑でした。「さあ!パパがお迎えに来ていて下さるよ。」 新婚早々に引き裂かれ、5年目に会える夫でした。しかし、港には夫はいませんでした。カールは東京からの夜行列車(3等車)で神戸に遅れて昼頃着きました。朝神戸に着く夜行列車は1,2等車しかなく、運賃が高く乗れませんでした。「どうしたのかな!パパは。」 途方にくれていると、4歳6ヶ月のフランツが走りだしました。「パパ!」といって、急ぎ足で来る背の高い男に抱き着きました。それは間違いなく、カール・ユーハイムでした。フランツはママから毎日パパの写真を見せてもらっているだけでした。父親もフランツを抱きしめ、美しい妻・エリーゼと落ち合うことができました。
引用・参考文献
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