6.北海道・新十津川村の位置と沿革
奈良県十津川村から移住した石狩川右岸の地域とは、被災民にとってどのような土地だったのでしょうか。
コラム85の図9、図10に示したように、新十津川村(町)は、道央空知地方のほぼ中央部、樺戸郡の北端にあり、石狩川の右岸に位置しています(新十津川町教育委員会,2019)。東西35km、南北30km、面積は495.47km²です。
東は石狩川を隔てて滝川市、砂川市及び空知郡奈井江町、南は樺戸郡浦臼町、西はピンネシリ山脈をもって石狩郡当別町、増毛山脈によって石狩市に接しています。北は尾白利加川により雨竜郡雨竜町と接しています。
この町の歴史は、十津川移民の開拓以前に遠く遡ることができます(新十津川町史編さん委員会,1991)。近世から近代初頭にかけて、この地域はアイヌ民族が先住者として生活していました。また、それよりももっと古い縄文時代には、「縄文文化人」「続縄文文化人」と呼ばれる人々が、この地域の先住民でした。町内にはこうした開拓以前の先住民族が主役を演じていた時代の遺物や遺跡があちこちから発見されています。
蝦夷地がどのような土地かと視察探検していた時代は、沿岸部に沿って調査が実施され、内陸部は放置されていました。特に内陸部の空知地方、上川地方ともなると、状況を視察するにも容易な場所ではありませんでした。
江戸幕府の直轄時代に入るころ、蝦夷地御用係を命ぜられた勘定吟味役三橋藤右衛門成方が寛政十年(1798)五月以降西蝦夷地を巡視し、宗谷からの帰途に、部下に天塩川、石狩川上流を視察させ、江戸に帰って報告しています。また、文化四年(1807)六月、近藤重蔵が蝦夷地探検の途中、石狩川を遡り、神居古潭まで至っています。
明治二年(1869)八月蝦夷地は北海道と改称され、行政区も定まりました。空知地方は石狩国に属し、夕張郡は高知藩、樺戸郡と雨竜郡は山口藩、空知郡は仙台藩によって分領管轄されましたが、この頃はまだ和人の移民はほとんどいませんでした。明治四年(1871)に各藩の分領から開拓使の直轄領となりました。明治5年(1872)11月9日、太陰暦を廃し、太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布されました。 1年を365日とし、それを12月に分け、4年毎に閏年をおくこと、1日を24時間とすること、旧暦の明治5年12月3日を新暦(グレゴリオ暦)の明治6年1月1日とすることが定められ、和暦と西暦は同じ太陽暦となりました。
明治12年(1879)7月には、石狩、厚田、浜益、上川、樺戸、雨竜、空知、夕張の8郡を管轄する郡役所が石狩郡船場町に設置されましたが、空知地方にはまだ「村」が設けられるまでには至りませんでした。
明治15年(1882)2月、開拓使が廃止され、3県が置かれ、空知郡は札幌県に属しました。表4は、石狩川流域の市町村の名称変遷と合併史(空知総合振興局管内)を示しています。
表4 石狩川流域の市町村の名称変遷と合併史(空知総合振興局管内)
明治14年(1881)に月形村、明治15年(1882)に市来知村、明治16年(1883)に幌内村、幌向村、明治17年(1884)に岩見沢村、明治22年(1889)に幾春別村が設置されました。
明治23年(1890)に、石狩川右岸のトック原野に奈良県十津川村の被災民は入植することになり、新十津川村が開村しました。また、同年に奈江村、沼貝村、滝川村(空知太が地名変更)、角田村、登川村が次々に設置されました。
明治25年(1892)に、栗沢村、由仁村、長沼村、雨竜村、深川村が設置されました。
明治29年(1896)、北海道庁官制改正により、従来の郡役所を廃止し、支庁が設置されました。
それ以降、村の分立や合併が行われ、次第に町や市となり、発展して行きました。
図11は年次別の鉄道の敷設状況と市町村分布を示しています。①は新十津川村が開村した明治23年(1890)、②は石狩川が大水害を起こした明治31年(1898)、③は日露戦争直後の明治38年(1905)、④は太平洋戦争中の昭和18年(1943)、⑤は現在の令和5年(2023)の市町村分布と鉄道の敷設状況を示しています。
新十津川村が開村した①明治23年(1890)頃までに12の村が設置されましたが、鉄道は小樽(手宮)から炭鉱のあった市来知までしか開通していませんでした。その後、石狩川流域の開発が進みましたが、②明治31年(1898)に石狩川の大氾濫があり、激甚な被害を受けました。その後、③明治38年(1905)の日露戦争直後までに、石狩川流域の開発は進みました。④昭和18年(1943)の太平洋戦争中は、炭鉱が最も栄えた時期で産炭地であった空知地方では、鉄道の敷設も進みました(村から町・市へと発展しました)。⑤令和5年(2023)の現在では、石炭産業などの衰退から、鉄道網の減少が進みました。現在村はなくなり、かつての町はほとんど市となりました。
⑥に示したように、札沼線は新十津川村(町)を通る石狩川右岸の路線ですが、太平洋戦争の影響をもろに受けて、変遷の激しい路線でした。札沼北線、札沼南線として、昭和6年(1931)から建設が進められ、昭和10年(1935)に全線開通しました。北竜町、雨竜町、新十津川町、浦臼町、月形町、当別町という石狩川右岸の穀倉地帯を貫いて札幌に至る路線であり、ときには災害で不通となった函館本線の代替ルートとしての役回りを務めることもありました。しかし、太平洋戦争が激化すると、「近接して並行路線(函館本線)があり代替輸送が可能」という理由で昭和18年(1943)10月〜昭和19年(1944)7月にかけて石狩当別駅 - 石狩沼田駅間が順次不要不急線として、休止・撤去され、線路の鉄材は南樺太(明治38年(1905)日露戦争後日本領となり、40万人の日本人が移住していた)の路線に使用されました。
戦後は昭和21年(1946)12月の石狩当別駅 - 浦臼駅間を皮切りに、昭和31年(1956)11月までに全線で運行を再開しました。しかし、この時期から石狩川への架橋によって道路整備が進み、札沼線は凋落が目立つようになりました。新十津川駅 - 石狩沼田駅間は「赤字83線」として昭和47年(1972)6月に廃止され、国鉄分割民営化後にはJR北海道により北海道医療大学駅−新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされ、令和2年(2020)5月付で廃止されました。
現存するのは桑園駅−北海道医療大学駅間のみです。
7.川村たかし(1977)『新十津川物語』と新十津川物語記念館
川村たかし(1931〜2010)は奈良県五條市出身の児童文学作家で、奈良県立五條高校、奈良学芸大学(現奈良教育大学)卒業後、五條市の小学校・中学校・高校教諭、奈良教育大学、梅花女子大学教授を長く勤められました。
昭和43年(1968)に『川にたつ城』を実業之日本社から出版し、創作活動を開始しました。
昭和53年(1978)に『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞、野間文芸賞を受賞し、昭和55年(1980)に『北へ行く旅人たち―新十津川物語―』で、路傍の石文学賞を受賞されました。
その後、新十津川物語はNHKでテレビドラマ化(主演:斎藤由貴)されました。
昭和56年(1981)に短編集『昼と夜のあいだ−夜間高校生』で日本児童文学者協会賞を受賞するなど多くの賞を受賞され、創作長編・短編・ノンフィクション・評論など、多くの著書があります。
平成6年(1994)に北海道新十津川町に『新十津川物語記念館』が設立され、川村氏は名誉館長となり、平成10年(1998)には第3代日本児童文学家協会長に就任されました。平成14年(2002)に紫綬褒章、平成22年(2010)には従五位旭日小綬章、五條市名誉市民の称号を授与されています。
『新十津川物語』(児童書,全10巻,偕成社刊)は、南十津川村那知合に住んでいた主人公・津田フキが明治22年(1889)の大災害を9歳で受け、両親を失ってから、北海道に移住し、新十津川村で開拓を行い、80歳になるまでの本人や子・孫・曾孫の物語です。市町村の図書館や小・中学校の図書室などで借りられると思いますので、ぜひお読み下さい。
第1巻 北へ行く旅人たち,255p. 昭和52年(1977)12月
第2巻 広野の旅人たち,253p. 昭和53年(1978)10月
第3巻 石狩に立つ虹,245p. 昭和55年(1980)1月
第4巻 北風にゆれる村,261p. 昭和56年(1981)3月
第5巻 朝焼けのピンネシリ,261p. 昭和56(1981)年6月
第6巻 雪虫の飛ぶ日,277p. 昭和59年(1984)12月
第7巻 吹雪く大地,287p. 昭和60年(1985)12月
第8巻 吠える海山,311p. 昭和62年(1987)5月
第9巻 星の見える家,295p. 昭和62年(1987)12月
第10巻 マンサクの花,303p. 昭和63(1988)12月
また、成人向けには昭和62年(1987)11月に北海道新聞社(道新選書)から『十津川出国記』がノンフィクションとして出版されています。
NHKでは、ドラマ『新十津川物語』を平成3年〜4年(1991〜92)に放映しました。明治編は平成3年(1991)10月5・12日(土)、大正編は平成4年(1992)5月2・9日(土)、昭和編は平成4年(1992)9月19・26日(土)に総合テレビで放映されました(NHKサービスセンター,1993)。
令和5年(2023)5月に新十津川物語記念館にお伺いした時に、記念館の展示を見せて頂くとともに、多くの資料を頂きました。また、NHKのドラマ『新十津川物語』の総集編(40分)を視聴させて頂きました。
写真5 奈良県十津川村役場前にある 津田フキ(9歳)の像
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写真6 北海道新十津川町ふるさと公園にある 津田フキ(17歳)の像
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9歳のフキは北海道新十津川町に向き、17歳のフキは母村の十津川村に向いています
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奈良県十津川村役場の駐車場には、9歳の津田フキの像(写真5)があり、北海道新十津川村(町)のふるさと公園には、17歳の津田フキの像(写真6)があります。これらの像は札幌市在住の彫刻家小野寺紀子制作のブロンズ像で、新十津川開基百年記念として建立されました。9歳のフキは北海道新十津川村(町)の方向を向き、17歳のフキは母村の奈良県十津川村の方向を向いています。
8.市来知から空知太までのつらい徒歩行進
市来知から空知太までの50km余は、移住民たちにとって長くつらい徒歩行進でした(川村,1987)。
明治22年(1889)11月、折から北海道は雪となり、11月5日になって雪はさらに厚くなっていました。その中を移住民の一行はぞろぞろと行進しました。前夜渡されたツマゴと呼ぶ雪靴は暖かかったのですが、そのうち雪が踏み固められてできた道が融け始めました。何しろ森林の中の切り分けただけの道だったため、真中に盛り上げた泥がぬかるみだすと、老人や子供はなかなか進めませんでした。相前後して大勢の囚人たちが移住民の荷物を担いで後に続きました。家具、農機具、米、味噌などの6500個の荷物は一個平均16貫(60kg)もあるので二分して軽くしました。それでも30kgの荷物を担ぎ泥濘の中を行進するのは、鎖でつながれた囚人たちにとっても大変なことでした
疲労が重なると移住民は次第に無口になりました。子どもはべそをかきながら必死に親に従いました。置いてきぼりになれば、あたりには熊か赤鬼のような囚人(逃亡防止のため、赤い服を着せられていた)しかいません。その囚人たちが所々で火を焚き、湯を沸かして待っていました。やっと日暮れになって奈井江の外れの仮小屋に着きましたが、もう口を利く者はいませんでした。
後に滝川屯田に入植するようになった風穴カン(当時3歳)の回想によれば、
「船で小樽に来て、そこから市来知まで汽車で行きました。そこで泊って、そこから私とおばあさんは、囚人のカゴに乗って空知太に向かいました。笹薮の中を通ったのでしょうか、カゴの底がザーザーと鳴りました。空知川を船で渡ると、囚人の仮監がありました。それは、屯田兵の兵屋を造るためのもので、そこに泊まりました。」と述べています。
老婆の膝の間に3歳の幼児は身をすくめていたと思われます。長い徒歩旅行も最後の夜となる11月5日はとてもひどい夜でした。割板の小屋なので、隙間風が吹き込むばかりか、床も凹凸の板の上にむしろを敷いただけでした。土間の焚火は何の役にも立ちませんでした。壁に凭れればぴしゃりと吸い寄せられるように寒気がしみこみ、ふとんもなく横になれば床が痛く、ほとんどの人は着のみ着のまま膝を抱いて朝を迎えました。明るくなると、朝食もそこそこに歩きだし、道が凍っている間にちょっとでも先へ進もうとしました。今朝は雪も少なく、3里余(12km)の道路も堅く、ほどなく空知太に着きました。
砂川には5、6軒のちゃんとした家がありましたが、空知太には笹小屋がちらほら見えるだけでした。一行は原生林の中を進みました。空知川には雑木の丸太で橋がかかっていました。コラム85の5項で説明した森秀太郎は、「笹小屋が4、5軒ある。吾々移住者のため、囚徒が大急ぎで橋を架けたとのこと。全部雑木の丸太ばかり、板は少しも使わず仕上りたり。」と記しています。風穴カンさんは船で渡ったと記しています。
明治19年(1886)、三浦米蔵が上川仮道路の空知川に私設渡船を開業しました。川幅は75間(135m)で、運賃大人5銭・小人3銭・馬7銭でした(道庁統計書)。結氷中は休業していましたが、明治22年(1889)11月の奈良県十津川村からの移民入地のため、仮橋が架けられました。明治25年(1892)には空知太橋が架けられましたがまもなく流失し、
明治28年(1895)木橋で再架設されましが、明治31年(1898)の水害で一部流失し、渡船となりました。
滝川(空知太から名称変更)に人が住みついたのは、3年前の明治19年(1886)のことです(滝川村は明治23年(1890)開村)。その後、上川盆地(旭川)までの道が開かれると、滝川村は奥地への中継点となりました。しかし、明治22年(1889)の頃は、まだ土工と囚人が小屋を建てているばかりで、民間人はほとんど定住していませんでした。段丘の上では大勢の男たちが大木を板に引き割っており、あちこちで切り倒した木を焼く煙が上がり、熊などは寄り付きませんでした。
第一陣が安着したことが分かると、それからは毎日200人ずつが空知太へとたどり着きました。11月6日に小樽に上陸した最後の第三陣は、12日に汽車に乗車しました。この頃になると、雪は連日降りましたが、まだ根雪にはなってはいませんでした。
十津川からの移住民は、11月6日から18日までに全員が到着しましたが、屯田兵屋はまだ150戸しかできていませんでした。このため、一つの兵屋に4家族が同居することになりました。兵屋の広さは17.5坪(58m²)、6畳が2間に4畳半が一つ、畳のあるのは2部屋で、6畳の一つが板の間になっていました。ここにいろりがあり、後は土間と台所になっていました。朝起きてみると、襟元は息で凍って、ふとんが板のようになっており、隙間から吹き込んだ粉雪が白い筋になって延びていました。天井がないため、煙出しからも雪が吹き込んできました。当時の戸籍簿によれば、明治22年(1889)11月から23年7月までに96人(移住者の3.6%)が亡くなりました。紀伊半島災害で死亡した十津川村の住民は168人,村民の1.3%)でしたので、この年の厳冬期の生活が極めて困難で、老人や病弱者の多くが犠牲となったことが分かります。
ふとんは1家族2枚ずつ配られましたが、ふとんに入れない若者はむしろを巻いてごろ寝しました。兵屋には20人を超す人数が詰め込まれたため、けんか口争いが多くなりました。しかし、荷物が着くころになると、移住民もなんとなく落ち着いてきました。本願寺やキリスト教関係から届いた見舞い品が分けられました。米、塩、味噌なども支給されるようになりました。
着いた当時はあまりの寒さと大原生林に足がすくんで、母村の十津川村を思い出しては枕を濡らした人々も、所帯道具が届き、米や金品まで配られるようになり、次第に落ち着いてきました。
9.新十津川村での開拓の始まり
全員が到着して間もない明治22年(1889)11月21日には、兵屋の一棟に仮事務所が開設され、23日には新村の規約や組織が定められました。
5戸に伍長、10戸に什長、50戸に50組長をおいて、連絡通達をするようになりました。大事な協議は組長会議で決めることとし、代表として新十津川村に戸長が置かれました。初代戸長には、花園十津川村長だった更谷喜延、用係に松実漏器、野崎良馬の2人が選ばれました。
道庁では十津川難民の移住地を石狩川右岸側の樺戸郡トックと内定していました。石狩川沿いには肥沃な土地が多いが、特にトックは谷地、泥炭地が少なく、集団で入植するには最適地であると見ていました。これに比べて、石狩川左岸側の空知太付近は谷地や泥炭地が多く、屯田地となっている段丘面の上を除くと、段丘崖の下は低湿地となっていました。
トックはアイヌ語で突起するという意味であり、石狩川が氾濫することはまずない高地であるということでした。トックは始め徳久と表しましたが、翌明治23年(1890)10月頃から徳富と改められました。新しい村の名前は新十津川村と決まりました。
測量隊が道庁からやってきて、1戸当たり百間(180m)×百五十間(270m)の区切りをするために、まず6戸分三百間(540m)四方を一区画として測り、周囲に8間(14.4m)幅の道路を配置し、その地割りが出来た場所から小屋が建設されました。石狩川右岸の樺戸郡トックの入植地は、出身村・大字別に第一次の抽選を行い、その後に各戸向けの抽選が行われました。6月16日〜20日に屯田兵以外の537戸2230人が家族を引き連れ、滝川の兵屋を引き払って石狩川を渡り、各自の当選地へ入植しました。道庁が建設した移住家屋は、丸太組の掘立小屋で3間(約5.5m)×4間(約7.3m)の12坪(約40m²)しかなく、隙間風が入り、大変寒かったようです。入植した当時は、一面の原生林で、森林伐開・抜根、耕作地の造成は大変な難作業でした。また冷害や虫害に加えて、石狩川の氾濫も度々発生し、そのたびに大変な被害を受けました。
図12は、新十津川村の徳富に入植後3年の明治25年(1892)に測図された1/20万地勢図「増毛」図幅で、函館本線は明治25年2月に空知川南岸の空知太駅まで開通しています。しかし、石狩川右岸側に新十津川村の地名は見られず、石狩川などの河川が、自由に蛇行しながら流下しています。アイヌの地名でしょうか、片仮名の地名が多く見られます。1892年測図となっていますが、直線状の函館本線と道路のみが追記され、地勢の状況はより以前の測量・測図結果で、入植前の状況を示しています。
図12 旧版地形図1/20万「増毛」図幅 明治25年(1892)測図(地名は井上追記)
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図13は旧版地形図1/5万「滝川」図幅で、明治30年(1897)に測図したものです。明治23年(1890)に奈良県十津川村の被災民が新十津川村に入植してから7年後の状況を示しています。函館本線は空知太駅まで開通し、空知川を渡って北に延びる建設中の鉄道予定路線(函館本線の空知太駅〜旭川駅開通は明治31(1898)年7月)に沿って、屯田兵村が形成されています。石狩川は北から南に大きく蛇行しながら流下していますが、その右岸側(西側)には、新十津川村の入植地が広がっています。300間(540m)間隔の四角い道路網が建設されています。この四角枠の中に、100間(180m)×150間(270m)で6軒の被災民が入植しました(●は森秀太郎の入植地)。
図13 旧版地形図1/5万「滝川」図幅 明治30年(1897)測図(地名は井上追記)
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図13の旧版地形図には表示されていませんが、玉置神社の位置を入れました。新十津川町史編さん委員会(1991)によれば,明治23年(1890)9月に「母村」の十津川村にある玉置神社の分社を建立することになりました。明治24年(1891)1月に2人が十津川郷に戻り、玉置神社の祭神5柱の分霊を譲り受けました。徳富川畔に玉置神社の仮殿が設けられました。明治27年(1894)6月24日上徳富シスン島に完成した社殿に遷座しました。しかし、明治31年(1898)の石狩川大氾濫により社殿は流されました。明治32年(1899)9月に第四区の高台(図13の位置)に遷座し、明治33年(1900)9月に新しい社殿が建てられました。大正12年(1923)12月に村社、昭和5年(1930)8月に郷社、昭和18年(1943)1月に県社に昇格しました。昭和43年(1968)に「玉置神社」から「新十津川神社」へと改称されました。平成2年(1990)6月21日に神社の鎮座百年奉祝祭が執り行われました。
図14は、森秀太郎(1984)が入植した新十津川村上徳富一区の入植当時の区画図です。森秀太郎の入植地は赤の四角枠で示したように、増毛道路に面した山一線上三号線地区です。
図14 新十津川村上徳富一区入植当時区画図(森秀太郎,1984)
森秀太郎の入植地は増毛道路に面した山一線上三号線地区
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図15 新十津川町字区域図(新十津川町史編纂委員会(1991)『新十津川百年史』)
の図を地理院地図に重ね合わせ(酒井利啓作成)
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明治22年(1889)紀伊半島水害の後、奈良県十津川流域の住民は土砂災害が継続して、悲惨な生活が続いていました。このため、吉野郡(十津川流域)の住民で、北海道移住を希望するものが多くいました。
明治37年(1904)4月の日露戦争が始まった頃、奈良県の加名生村、四郷村、国樔村、吉野村、小川村の704人が徳富川の上流に入植してきました。ひろく吉野郡から集まってきたので、吉野団体と呼ばれ、地名は吉野となりました。その年の冬に小学校が出来、「西徳富特別教育所」と呼ばれ、やがて「吉野尋常小学校」と改称されました。
『新十津川物語』,4巻の『北風にゆれる村』では、津田フキの娘・あやは高等小学校を卒業し、明治45年(1912)に代用教員として採用され、吉野で生活するようになったと記されています。
10.奈良県十津川村と北海道新十津川村の人口変化
明治22年(1889)の激甚な災害後、奈良県十津川村の被災民641戸、2667人(新十津川町史編さん委員会(1991)によれば、被災民600戸2691人)は翌年の春、北海道の石狩川右岸の原野に移住し、開拓が始まりました。開拓地周辺は、入植当初から『十津川村』と呼ぶことになりましたが、行政的には明治35年(1902)4月に二級町村制の新十津川村、明治40年(1907)4月に一級町村制の新十津川村、昭和32年(1957)1月に『新十津川町』となりました。
十津川村と新十津川村(町)は、その後も相互訪問を行うなど、深い関係が現在も続いています。平成23年(2011)の紀伊半島災害では、母村の十津川村は激甚な災害を受けました。新十津川町では緊急支援会議を開催して、義援金の募集や職員の派遣などの支援活動を行いました。
図16は、十津川村(1961)『十津川』、新十津川町史編さん委員会(1991)『新十津川百年史』や各役場の資料をもとに作成した明治22年(1889)から平成27年(2015)までの人口変化を示したものです(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。明治22年の災害後、北十津川村・十津川花園村・中十津川村・西十津川村・南十津川村・東十津川村は、明治23年(1890)6月18日に合
併して、十津川村となりました。
図16 奈良県十津川村と北海道新十津川村(町)の人口変化(1889〜2015)
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
表5 新十津川町(村)の災害譜(新十津川町史編纂室(2021)の災害譜をもとに整理)
十津川村は、明治22年紀伊半島災害による死者と北海道移住によって、3000人近く人口が減少しましたが、20年後の明治43年(1910)頃には人口は元に戻りました。しかし、大正9年(1920)頃からの冷害や不景気、満州への移住などにより、2000人以上も人口が減りました。昭和20年(1945)の太平洋戦争後、人口は少し増えました。昭和34年(1959)頃から、水力発電のためのダム建設により、ピーク時には1万5588人にも達しました。しかし、ダムや発電所の建設工事が終了すると、人口流出が激しくなりました。平成23年(2011)の紀伊半島災害で十津川流域など、紀伊半島は激甚な被害を受けました。平成27年(2015)の人口は、3615人とピーク時の23.2%まで減少しています。さらに、令和4年(2022)3月31日の住民基本台帳の人口は2993人と減少しました。
北海道の新十津川村(町)では、明治23年(1890)の開村以降、原野の開拓に取り組みました。表5は新十津川町(村)の災害譜(新十津川町史編纂室(2021)の災害譜をもとに整理)です。開村後も非常に多くの水害・冷害・病虫害・山火事などが連続して発生し、開拓民は多くの被害を受けました。しかし、新たな開拓民も加わって、新十津川村の人口は少しずつ増え続け、大正3年(1914)には1万6686人にもなりました。しかし、その後も続く冷害・水害・病虫害・山火事や不景気、樺太・満州への移住、戦争の影響などにより、人口は大きく変動しました。さらに、昭和20年(1945)の太平洋戦争後、人口は3000人も増大し、昭和30年(1955)には1万6199人にもなりました。しかし、それ以降人口は少しずつ減少し、平成27年(2015)には6871人となりました。
令和5年(2023)3月の住民基本台帳の人口は6338人でした。
11.新十津川村の田・畑面積の変遷と稲作の進展
図17は、新十津川村の年次別の田・畑の耕地面積(農業基本調査・農業センサス)で、新十津川町史編さん委員会(1991)『新十津川百年史』をもとに作成しました。新十津川村の開拓史は、災害との闘いの歳月でした。原生林の伐開作業が始まりましたが、入植後2年間は食糧が支給されましたので、新十津川村の入植者は、単独で原野に入った人たちと比べて、少し恵まれていました。開墾に専念できたからです。初めにまきつけたのは、ソバが中心で、馬鈴薯、カボチャ、大根などを植えました。
図17 新十津川村年次別の耕地面積調(農業基本調査・農業センサス)
新十津川町史編さん委員会(1991):新十津川百年史 をもとに作成
入村した明治23年(1890)には畑の耕作面積が220haとなりましたが、雪解け水は低地にたまってしまい、長い間排水できませんでした。このため、泥炭地を引き当てた者は当選地を放棄して、少しずつ隣接地を譲り受けました。
明治24年(1891)は畑の耕地面積は460haとなりました。2年目になると、麦、粟、玉蜀黍、イナキビなどもまきました。道庁では技術指導員(農業師と呼ばれた)を村に常駐させ、不慣れな農業指導に当たらせました。刈り取った熊笹を焼いて、その跡に粟、黍、蕎麦をまきました。この「削りまき」をすると、2年後には笹の根が枯れるので、プラオで耕すことを農業師は勧めました。4年も経つと、半数の家が馬を手に入れ、洋式農具が普及し始めました。母村の十津川村には牛はいても馬はいませんでした。村人たちは小型だが力の強い道産子馬を使いました。馬の導入によって、洋式農具が普及しました。
しかし、明治24年(1891)には野ネズミの害がひどく、組長会議で協議しましたが、妙案がありませんでした。さしあたって1戸につき土穴5個以上掘ることにしました。その結果、落とし穴で6000匹も捕獲したといいます。ネズミのために大豆は大被害を受けましたが、小豆やウズラ豆、冬まき小麦、馬鈴薯はかなりの収穫がありました。
翌明治25年(1892)の正月元旦は前夜からの大雨で、石狩川はもとより徳富川、尾白利加川なども氾濫しました。雪の中の大雨となったために、浸水した家はひどい元日となりました。ネズミを心配して、大豆、小豆、トウキビなどを減らしましたが、なぜかネズミは現れませんでした。畑は955haとなりましたが、夏には日照りが続きました。このため、玉置神社に雨乞い祈願をしたところ、大雨になって被害がでました。この年、奈良県の母村(十津川村)でも5月下旬に暴風雨に見舞われ、野尻対岸の峰栃山が大崩落し、十津川を堰き止め、9戸流失、13人が亡くなっています。新村は10円の見舞金を送りました。
明治26年(1893)は畑1200haとなり、気候不順といわれながらも、小豆、裸麦、粟、玉蜀黍など換金作物が増えました。
ホーレス・ケプロン(1804-1885,アメリカ合衆国の軍人,お雇い外国人の一人)などのアメリカ技術者たちは、気候風土から見て北海道での稲作を否定し、道庁もこれを支持して麦作を奨励しました。「屯田兵の中にはひそかに水稲実験をして見つかり、営倉に入れられた者もいました」(「開拓」毎日新聞社)。しかし、開拓民の米に対する愛着は強く、田を作り水稲耕作を行う者もいました。
酒匂常明(1861−1909)は、明治25年(1892)12月に北海道庁財務長に就任し、北海道庁の施策として米作りを推奨しました。明治26年(1893)に稲作試験場や模範水田を作り、北海道での稲作が可能なことを証明しました。酒匂は北海道の気候に適った直播法を勧めました。苗代を作らず、もみを直接水田におろしました。
明治27年(1894)は畑1450haとなり、田3haと少しずつ水稲耕作も始まりました。夏に長雨が続き、アブラ虫が湧きました。米は水稲、陸稲ともすこぶる好調で、大豆、小豆、玉蜀黍、粟、黍類は平作、煙草は上作でした。
明治28年(1895)は畑1660ha、田5haで、7月3日に大雨が降ったものの、たいしたことはありませんでした。霜は例年より早くきました。
明治29年(1896)は畑1910ha、田9haで、換金作物として亜麻の栽培が増えました。役場の近くに北海道製麻株式会社の製麻工場が建設されました。しかし、7月の雨で架橋中の徳富橋が流されました。尾白利加橋も流失し、下徳富では家々の床下まで水がきました。
明治30年(1897)は畑2380ha、田13haと順調でしたが、6月下旬から夜盗虫が異常発生しました。この虫は昼間隠れて姿を見せず、夜になると現れて青いものをもりもり食べます。農家では昼寝をしておいて、夜になると畑へ出て虫をつぶしました。新十津川村では、亜麻を380ha、大麻を297ha栽培していましたが、特に亜麻に被害が集中しました。
7月初め頃にはどの家でも夕方から畑で火を焚いて焼き殺していましたが、効果はなく、7月中旬には亜麻を食い尽くして、他の作物にも取り付き出しました。茶色い蛾が湧き出し、天を覆いました。
焼いても効果がないとみた役場はこの虫を買い取ることにしました。以前十津川郷でやっていた「虫送り」が行われました。鉦と太鼓ではやしながら村々を巡りました。大地を埋めた虫の大群も、7月末には死にはじめ、8月4、5日になると1匹も見えなくなり一段落しましたが、地上の作物はほとんど全滅しました。
明治31年(1898)は畑2655ha、田19haとなり作柄は順調でした。しかし、9月6日の朝から雨が降り始め、7日は豪雨が降り続き、8日の朝にはおさまりましたが、北海道の河川は各地で氾濫しました。中でも石狩川の増水は激しく、大氾濫となりました。空知支庁管内では、死者104人、流出損壊1500戸、浸水家屋1万1000戸に達しました。新十津川村では耕地の半ばが水没して、2年連続して大きな被害となりました。収穫の無かった農家は多くの借金を背負うことになりました。
しかし、開拓民は努力を重ね、畑と田を開墾して行きました。
明治38年(1905)の日露戦争の頃には、畑5550ha、田430haにもなりました。
大正2年(1913)は畑5700ha、田2200haとなりましたが、全北海道が冷害に見舞われ、大凶作となりました。新十津川村の玉置直次は、たった1、2本だけ結実して垂れている穂を見つけ出し、この穂を守りながら毎年増やしていきました。気温が低く、凶作の中でもこの稲だけは結実しました。この稲は「玉置早稲」と呼ばれ、新十津川村だけでなく、村外にも広がりました。冷害に強く、収量も多く味も良いので人気を集め、田の面積は増えて行きました。
昭和3年(1928)には、畑3353ha、田3943haと稲作(田)が畑よりも多くなりました。
昭和5年(1930)には、畑2871ha、田4458haとなりましたが、異常に暑くイモチ病が広がって、空知地方の水稲はほとんど倒伏しました。しかし、「玉置早稲」だけは茎が強く、倒れるのは少ない状況でした。さらに翌年からの大冷害にも、「玉置早稲」は強く、栽培面積は増えていきました。
12.むすび
コラム85と86で、奈良県十津川村と北海道新十津川村の歴史を説明しました。
明治22年(1889)の紀伊半島災害後、奈良県十津川村から北海道新十津川村に約2600名の被災者が移住しましたが、どちらの地域の歴史も、戦争や社会情勢の変化に振り回され、災害(水害・冷害・病虫害・山火事)と戦いながら、発展を遂げてきました。今回改めて、川村たかし『新十津川物語』全10巻をほぼ読み終わりました。
昭和59年(1984)12月21日に「新十津川町開町記念日に関する条例」が公布され、新十津川町の開町記念日は6月20日とすることが定められました。明治23年(1890)6月15日に移民団全員が決意を新たにして、滝川屯田兵屋の仮居住地から石狩川を渡って、各自の当籤地の新十津川の大地に全員が6月20日に移り終えました。大きく一歩を踏み出した「6月20日を開町記念日」とすることになりました。開基95周年の昭和60年(1985)から「開町記念式」と「招魂祭」は6月20日(それ以前の昭和32年(1957)〜59年(1984)は7月30日)に実施されるようになりました。
十津川村と新十津川村(町)が130年以上にわたって、現在も交流が続いていることに敬意を表します。
本コラムの原稿執筆にあたっては、奈良県十津川村役場、十津川村歴史民俗資料館、北海道新十津川町役場、新十津川町開拓記念館、新十津川物語記念館、国土交通省近畿地方整備局紀伊山系砂防事務所、大規模土砂災害対策技術センターから多くの文献を提供して頂き、引用させて頂きました。
関係各位に厚く御礼申し上げます。
コラム86の引用・参考文献はコラム85をご覧ください。