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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム87 関東大震災100年,根府川・白糸川を歩く
1.関東大震災100年に関する問い合せ
令和5年(2023)9月1日で、関東大震災から100年となります。いさぼうネットの「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」では、関東大震災による土砂災害について、以下のコラムで紹介してきました。
令和5年(2023)になってから、いさぼうネットの読者やマスコミ・学会などから、関東地震などについて、多くの問い合せがあり、以下のような対応を行ってきました。
5月9日(火)日本地すべり学会関東支部令和5年度シンポジウム 地震時の地すべり
井上公夫:関東地震(1923)による土砂災害の概要とPooleの逃避行ルート
5月20日(土) 日本災害食学会2023年度学術大会・横浜視察ツアー 関東大震災100 周年 井上公夫・相原延光:9月1日のプールの逃避行ルート見学会
7月8日(土) 日本学術会議 防災学術連携体:関東大震災100年と防災減災科学
井上公夫:社団法人砂防学会 関東地震(1923)直撃による土砂災害と2週間後の豪雨による土砂災害,p.10-11.
7月27日(木) 関東大震災 リレーシンポジウム in 神奈川 大震災から学ぶ これからの防災 井上公夫:関東地震による神奈川県内の土砂災害
8月9日(水) 東京都立大学 オープン授業ユニバーシティ2023年度夏期講座
科学が開く未来への扉 東京都立大学研究センター紹介講座(5回の内1回)
島嶼火山都市災害研究センター:東京をとりまく自然災害と防災
井上公夫:関東地方・伊豆諸島の「びゃく」と呼ばれる土砂災害(18:30〜20:00)
8月24日:地盤工学会災害調査論文報告集,1巻2号,特集『関東地震100 年地盤災害を振り返る』,井上公夫:関東地震(1923)による土砂災害の概要とO. M. Pooleの逃避行と復旧・復興に果たした神戸の役割,p.212-238.
9月2日(土)秦野市『震生湖誕生100周年記念式典』,クアーズテック秦野カルチャーホール(文化会館),文化庁文化財調査官柴田伊廣氏講演
秦野市教育委員会:震生湖誕生100周年記念誌;井上公夫:関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖,p.15-27.
9月19日(火) 日本技術士会 応用理学部会,機械振興会館(18:30〜20:30)
井上公夫:関東地震による土砂災害と「びゃく」と呼ばれる土砂災害
9月30日(土) 日本地質学会関東支部「関東地震100年関連のオンライン講演会」
井上公夫:関東大震災と土砂災害
10月6日(金) 日本応用地質学会(秋田大会)2023年度学術大会
特別セッション1 応用地質学から見た関東大震災100年と地域の地震災害
井上公夫:関東地震(1923)による土砂災害の概要と復旧・復興に果たした神戸の役割
11月『地図情報』167号(11月1日発行),特集「関東大震災100年」
 井上公夫:関東大震災による土砂災害と地形特性,4p.
11月22日(水):地盤工学会関東支部 関東大震災100周年シンポジウム
井上公夫:関東地震(1923)による土砂災害の概要とO. M. Pooleの逃避行と復旧・復興に果たした神戸の役割
ある新聞社の現地取材要請を受け、7月21日(金)に小田原市根府川駅の地すべりと白糸川の土石流跡の現地調査を行いました。この時には、内田一正様の御子息の内田昭光様と光春様にも現地案内して頂きました。根府川・白糸川については、井上編著(2013)とコラム40でも説明しましたが、その後に判明したことを含めて説明します。
2.小田原−熱海間の交通網の発達
小田原−熱海間は、箱根火山の外輪山が相模湾に面して急峻な地形をなしています。この間の海岸線の美しさは、外国人向けの『旅行案内』に「日本の代表的な景観である」と紹介されています(加藤,1995)。明治14年(1881)に小田原−熱海間の県道は開通しましたが、人力車で5時間・料金1円50銭、駕籠で7時間・料金3円もかかりました。国鉄東海道線の横浜−国府津間は、明治20年(1887)7月に開通しました。外国人を含め、箱根温泉の湯治客が増加したため、「小田原馬車鉄道」が明治21年(1888)に国府津―小田原−箱根湯本間に建設されました。
図1
図1 1/2.5万旧版地形図「小田原」図幅(左:1916年修正、右:1933年修正)
(関東地震前後の小田原市石橋〜江ノ浦間の地形と土地利用の比較)
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図1は、1/2.5万旧版地形図「小田原」図幅(1896測図)で、米神から江之浦の海岸付近の地形図(左図は1916年修正、右図は1933年修正)です。小田原−熱海間については、豆相人車鉄道が鉄道建設の特許を明治23年(1890)に得て、明治28年(1895)7月に吉浜(現神奈川県真鶴町)−熱海間の10.4kmを、明治29年(1896)3月に早川南(現小田原市,現早川駅付近)−吉浜間の14.4kmを完成させました(図1の赤線)。明治33年(1900)に小田原馬車鉄道が電化されると、同年6月に人車鉄道は早川橋梁を完成させて520m延長し、早川口で小田原馬車鉄道と連結して、全線25.3km(現在のJR小田原−熱海間は20.7km)を完成させました。人車鉄道の軌間は2フィート(61cm)しかなく、客車の定員は上等車が4人、中等車が4〜5人、下等車が6人で、3〜4人の車丁と呼ばれる押し手が登りは押して運行するという極めて原始的なものでした。小田原から熱海まで4時間かかり、人車鉄道の料金は下等で50銭で、かなりの人気がありました。しかし、登り坂にかかると、下等の客は降りて押さなければならなかったし、ちょいちょい脱線するという、危なっかしい乗り物でした。
芥川龍之介の短編小説『トロッコ』(1922)は、この建設工事を舞台にトロッコに興味を持つ8歳の少年が主人公の物語です。青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で読むことができます。
写真1
写真1 小田原−熱海間の人車鉄道
写真2
写真2 ホテル星ヶ山で復元された人車鉄道
(内田一正(2000)『人生八十年の歩み』)(内田昭光氏提供)
写真1は小田原−熱海間の人車鉄道の写真(内田,2000)で、写真2は根府川駅付近の「離れのやど星ヶ山」のご主人・内田昭光氏(内田一正氏の御子息)がホテル内に復元した人車鉄道の客車です。
この人車鉄道が一番繁盛したのは、明治37,38年(1904,1905)の日露戦争の頃でした。多くの傷病兵を湯河原や熱海の温泉に療養させるために、一度に20台もの人車が長い列を作って運転されました。
しかし、人車鉄道は脱線・転覆事故が多く危険で輸送力がなく、車丁の人件費が高くなって採算が取れなくなりました。このため,豆相人車鉄道は、社名を熱海鉄道株式会社に変更し、軽便鉄道に切り替える工事が進められました。明治40年(1907)7月から軌道を2.6フィート(79cm)に広げる工事にかかり、同年12月22日に全線開通し、24日から軽便鉄道の運転を開始しました(人車鉄道と軽便鉄道の路線はほぼ同じ)。
この軽便鉄道は小さな蒸気機関車が定員24人の客車1両を引いて走りました。小田原から熱海までの所要時間は2時間30分で、人車鉄道に比べて早くなりましたが、3等の料金は70銭と高くなりました。現在、軽便鉄道の小さな蒸気機関車は熱海駅前の広場に現物展示されています。
東海道線(現在の御殿場線で、明治22年(1889)開通)の交通量が増えるにつれて、急勾配が続く御殿場線のルート(最高点は御殿場駅付近の標高457m)では、大量輸送が困難となったため、丹那トンネル(全長7804m)を通るルートの建設が大正2年(1913)に決定されました。熱海線は国府津−小田原間が大正9年(1920),小田原―真鶴間が大正11年(1922)に開通しました(関東地震時は真鶴駅で折り返し運転)。このため、併走区間の軽便鉄道は廃止され、関東地震発生時(1923)には真鶴−熱海間の軽便鉄道が残っているだけとなりました。
3.関東地震発生による土砂災害
このような状況下で、大正12年(1923)9月1日に関東地震が発生しました。図2は1/5万の震災地応急測図「小田原」「松田総領」図幅で,関東地震による被災状況が克明に描かれています(歴史地震研究会編集,2008;井上編著,2013;井上,2017)。
本図は、参謀本部陸地測量部が震災直後の9月6日〜15日という短期間に延べ94人もの要員を配置して,現地調査し作成した「震災地応急測図」63枚のうちの一部です(日本地図センターで購入可能)。「小田原」図幅(1896年測図,1916年修正測図,1921年鉄道補入)と「松田総領(現秦野)」図幅(1888年測図,1896年修正測図)の地域は、関東地震による激甚被災地域で、調査隊員が調査した事項を赤字で多く書き込んであります。「小田原」図幅で2枚、「松田総領」図幅で3枚の応急測図が作成されました。国鉄東海道線(現JR御殿場線)や国道1号線(東海道)、小田原−熱海までの県道(現国道135号線,含む鉄道)に分かれて調査隊員が現地調査しました。調査ルートの集落毎の被害状況や鉄道・道路の被害状況、復旧工事の必要日数などが詳細に記載されています。小田原から伊豆半島の東海岸に向かっては、箱根地区(東海道)とは別の調査隊員が調査し、応急測図を作成しています。図2はこれらの図を編集して、1枚の図としたものです。
図2
図2 震災地応急測図1/5万地形図「小田原「松田総領」図幅」
(歴史地震研究会編集,2008;井上編著,2013;井上,2017)
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写真3
写真3 震災前の根府川集落と建設中の白糸川橋梁(大震災写真帖,1927)
(戸主の名前などは内田2000で追記),⑫⑰以下は人家埋没,⑲は埋没せず
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写真4
写真4 根府川集落を埋没させた土石流(大震災写真帖,1927),91戸中72戸埋没
(Bが内田哲雄氏宅)
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図3は、関東地震当時10歳だった内田一正氏が約50年後の1975年に、平面図・縦断面図・横断面図に関東地震時の大規模土砂移動の状況を描いた図(神奈川県立公文書館蔵)です。白糸川上流の大洞(おおぼら)の大規模崩壊(深層崩壊)から白糸川を高速で流下した土石流(岩屑なだれ・山津波)の流下範囲と根府川駅の地すべりの状況が示されています。横断面図には白糸川の屈曲した河谷を流下した土石流の流下状況(ボブスレーのように左カーブでは左に、右カーブでは右に大きく振れています)が描かれています。写真3は震災前の根府川集落と建設中の国鉄白糸川鉄橋、写真4は根府川集落を埋没させた土石流の流下・堆積状況を示しています(神奈川県,1927,復刻,1983)。この土石流で根府川集落91戸のうち,72戸が埋没しました。人家の名前は内田氏が当時の戸主の名前を思い出して追記したものです。赤字で示した⑫内田一正氏や⑰廣井美夫氏などの家は、土石流の流下・堆積範囲となりましたが、⑲内田哲雄氏から上の人家や寺山神社は被害を受けませんでした。生き残った人たちは、すぐ上の秋葉山に駆け上がり、大勢の人が集まって、共同生活が始まりました。
図3
図3 白糸川流域(根府川集落と根府川駅)の土砂災害状況図(内田(1975)原図)
(神奈川県立公文書館所蔵;井上編著,2013;井上,2017でレイアウト編集)
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写真4右上の①は落橋した熱海線の白糸川鉄橋です。昭光様によれば、手前に開削した箇所にトロッコのレールがありますが,豆相人車鉄道のレールではなく,被災者(写真3の㉑宮本芳男宅)が土石流堆積物を掘り起こし、家財を搬出するために敷設したレールとのことでした。
図4は、1/5万震災地応急測図の「熱海」図幅の伊豆半島の東海岸部分を示したものです(歴史地震研究会,2008;井上,2022)。元図は明治19年(1886)測図,大正5年(1916)修正測図の「熱海」図幅で、関東大震災直前の土地利用と鉄道・道路の敷設状況が分かります。図3の右側の写真は、関東地震時に発生した津波による静岡県宇佐美村(現伊東市)の市街地の津波被害と市街地まで到達した漁船を示しています。図4には,武村ほか(2015)で示された慰霊碑(S-1)の位置を追記しました。赤色で示された地域は,家屋倒潰・流失地区を示します。湯河原・伊豆山・熱海・宇佐美などの市街地はほとんどの地域で被災し、火災で消失しました。海岸線に近い地区は、津波による激甚な被害を受けました。震災当時熱海町は戸数1600戸でしたが、約600戸が流失・全壊及び半壊で、海嘯(津波)の被害を受けました。湯河原−伊豆山間の県道と軽便鉄道が通行不能となったため、湯河原−熱海間は十国峠から熱海峠付近を通る山道を徒歩で通行していたことが記されています。
図4
図4 1/5万震災地応急測図「熱海」図幅(歴史地震研究会編集,2008;井上,2022)
(関東地震時の土砂災害地点,武村ほか(2015)の解読文を追記)
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写真5 写真5
写真5 熱海町稲村の関東大震災の慰霊塔と剥離した表の文字(2021年5月29日井上撮影)
写真5は熱海町稲村「万霊塔・関東大震災惨死者の慰霊碑」で、静岡県熱海町(現熱海市)の北部・稲村付近の現国道135号(旧道)の通る断崖近くの海側に建立されています。内田(2012)によれば,軽便鉄道(小田原−熱海間の人車鉄道)の道路工夫,静岡県道路工夫など7人の名前が刻まれています。2013年5月の現地調査時に地元の方から聞き込みをして教えて頂き,稲村集落の熱海側の国道沿いに,慰霊碑を見つけ写真撮影しました。残念ながら,慰霊塔の表の碑文は下の「塔」の一字のみ残っているだけで、上半分は節理面に沿って剥がれ落ち,慰霊碑の横に置かれています。裏の碑文には,大正12年(1923)9月1日の関東地震時の犠牲者と寄附者の名前が記されています(武村ほか,2015,コラム74)。
4.根府川駅地すべり周辺を内田昭光様と歩く
7月21日(金)に小田原市根府川駅の地すべりと白糸川の土石流跡の現地調査を行いました。この時には、内田一正様(大正2年(1913)〜平成10年(1998))の御子息の内田昭光様と弟の光春様にも現地案内して頂き、色々と教えて頂きました。
写真6 写真7
写真6 関東大震災殉難碑
写真7 箱根ジオパーク小田原エリアの説明看板
根府川駅は現在無人駅となっていますが、改札口の手前に写真6の関東大震災殉難碑があります。この碑は震災50年忌として、昭和48年(1973)9月1日に国鉄職員を中心として設置されたものです。
駅前広場には、写真7の箱根ジオパーク小田原エリアの説明看板が設置されています。根府川(片浦海岸)の地形・地質の概要や、大正関東地震による被害を物語る釈迦堂や石橋山古戦場・根府川関所・根府川石などの説明が書かれています。
大正12年(1923)9月1日、根府川駅には正午前、下り東京発真鶴行き普通109列車が到着し、上り真鶴発東京行き普通116列車が白糸川橋梁の手前の寒の目隧道を出るところで、関東大震災の激震に遭遇しました。この時の状況については、内田宗治(2012,ちくま文庫2023)の『関東大震災と鉄道』に詳しく記されています。
写真8 写真9
写真8 根府川駅構内で説明する内田昭光氏
写真9 線路際の殃死者菩薩供養塔
根府川駅を出て、国道135号を北側に少し行き、JRの線路下を通ると、線路際に写真9の殃死者菩薩供養塔があります。根府川駅地すべりで乗っていた列車もろとも海まで押し出されて亡くなった妻と娘を悼み、駿河銀行創業者の岡野喜太郎が建立したものです。9月1日は駿河銀行真鶴支店開業の日で、夜は湯河原の旅館で披露宴が行われる予定でした。喜太郎は妻と娘を湯河原温泉の旅館に誘い、二人は沼津の自宅から国府津経由で真鶴駅に向かっており、根府川駅に到着しました。喜太郎は次の列車で行く予定でした。
写真10 写真11
写真10 根府川駅地すべり上部から駅構内と
海岸線付近を望む
写真11 根府川駅地すべり後に南側の地区に造成して
建設された片浦小学校(昭和10年(1935)移設)
写真10は、根府川地すべり地の上部から駅構内と海岸線付近を望んだ写真です。写真11は、根府川地すべり地頭部の南側に造成して建設された片浦小学校です。片浦小学校の歴史は非常に古く複雑です。小田原市立片浦小学校(2015)と片浦小学校HP(2017)の沿革史によれば、明治6年(1873)8月に石橋・米神・根府川・江の浦の4ヶ村はそれぞれ寺院を仮校舎として小学校を開校しました。明治38年頃(1905)、石橋・米神の2ヶ村が合同して尋常志喜小学校を、根府川・江之浦の二ヶ村が合同して、尋常根府川小学校を設置しました。大正2年(1913)4月に石橋、米神、根府川、江之浦の4ヶ村が合併して片浦村(役場は米神に設置)が誕生し、根府川小学校を本校として、尋常高等根府川小学校と改称し、尋常志喜小学校は分校となりました。大正4年(1915)10月に2つの小学校を統合して尋常高等片浦小学校と改称されました。大正5年(1916)4月に根府川マキヤ(根府川地すべり地より少し北側)に新校舎が完成しました。大正11年(1922)5月に片浦小学校の校舎が焼失したため、神社・寺院を仮の学び舎としました。大正12年(1923)7月に新校舎が落成しました。
大正12年(1923)9月1日に関東大震災により、根府川駅地すべりが発生しました(釜井,1991,2023)。小学校の校舎は倒壊し、理科室から出火し、再度の火災で校舎は焼失しました。根府川・米神地区は寺院で、学校が再開されました。
大正13年(1924)8月に片浦尋常高等小学校は本校を石橋文蔵堂に、分校を根府川下長久保に建設しました。両校同じ構造で木造亜鉛葺き平屋建てで、教室4・職員室1でした。昭和10年(1935)7月に片浦尋常高等小学校は、片浦村の根府川字千ヶ尾に新校舎を落成させました(写真11の現在位置)。
昭和22年(1947)4月に6・3制の新学制が発足し、足柄下郡片浦村片浦小学校となりました。6・3制による新制中学校が発足し、足柄下郡片浦村片浦中学校が開設されました(最初中学校の校舎は小学校を間借りした)。昭和26年(1951)に片浦中学校は、新校舎が落成し移転しました。平成22年(2010)に閉校となり、小田原市立城山中学校に統合されました。学校法人国際学園が旧片浦中学校の校舎や敷地を利用して、平成30年(2018)に星槎小田原キャンパスを開校しました。
5.糸川流域を内田昭光様、光春様と歩く
写真12
写真12 白糸川左岸から撮影したJR東海道線の白糸川橋梁と東海道新幹線の白糸川橋梁
写真13 写真14
写真13 白糸川河口に堆積した土石流堆積物と
落橋した白糸川橋梁
写真14 寒の目隧道と土石流で被災した
116列車の機関車
(真鶴町松本農園所有の写真を井上編著(2013)時に許可を得て掲載)
写真12は、白糸川左岸から撮影したJR東海道線の白糸川橋梁と東海道新幹線の白糸川橋梁です。白糸川橋梁は写真3に示したように、大正11年(1922)に建設された長さ197m、高さ20mの3連のアンダートラストの複線鉄橋として建設されました。関東大震災時の白糸川上流4kmの大洞での大規模深層崩壊(推定土砂量100万m3)が発生し、その土砂の半分程度は大洞直下に残り、小尾根を形成しました。半分の土砂は土石流(岩屑なだれ・山津波)となって5分(速度50km/時程度)で白糸川を流下し、白糸川橋梁の橋脚を破壊し、落橋させました。白糸川橋梁の右岸側は橋梁の高さまで流出土砂が流下し、寒の目隧道坑口まで到達し、隧道付近で停止していた上り116列車の機関車を埋没させ、乗務員2名が殉職しました。写真13,14は真鶴町松本農園所有の写真で、白糸川河口に堆積した土石流堆積物と落橋した白糸川橋梁、寒の目隧道と土石流で被災した116列車の機関車です。
写真15 写真16
写真15 白糸川河口近くの釈迦堂
写真16 掘り出された釈迦如来像
白糸川橋梁の下付近の白糸川沿いには、写真15の釈迦堂があり、15段の階段を降りて行くと写真16の釈迦如来像があります。根府川の旧家広井家の古文書によると、広井家二十二世広井長十郎重友の代に、群発地震が続きました。特に寛永九年一月二十一日(1632年3月1日)と正保四年九月十四日(1647年10月11日)、慶安元年四月二十二日(1648年6月14日)の地震は、死者と民家の倒壊多く、津波も襲来し、世相は不安にみちていました(内田,2000)。長十郎重友は村内世相の安泰のため、岩泉寺境内の岩磐に釈迦像を像立して、世相の安泰を祈りました。
お姿の右側に『寛文九年七月十二日(1669年8月8日)、元喜道祐庵主』と刻まれています。これは像立した長十郎長友の命日と戒名ですので、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。台座に刻まれている『大工権助策』『石匠寅佐代』によって、明暦二年(1656)に像立したものと分かります。
万治二年(1659)に大洪水があり、岩船寺は現在の高台に引き移りましたが、お釈迦様は岩盤に刻まれていますので、引き移すことが出来ず、現在のところに残りました。
関東大震災によって、関東一円は有史以来の大惨事となりました。大洞からの土石流(山津波)によって、白糸川橋梁は落ち、お釈迦様は土砂で埋没してしまいました。お釈迦様は目の高さよりも上に拝むように刻まれていましたが、土砂に埋もれてしまったので、現在は釈迦堂の地下1.5m(15段した)の洞の中にいらっしゃいます。
お釈迦様を掘り出した人々が落ちた鉄橋と土砂の中から、指1本損しないお姿を見て、釈迦如来のあらたかさに驚嘆したとのことでした。以来信者も多く、片浦村内始め、神奈川県西部地方の人々の信仰厚く、4月8日のお釈迦様の誕生日には、身体健康、家運隆盛、その他諸願に霊験ありと善男善女の参拝者が多く、賑わっています。
写真17 写真18
写真17 高台に移転した岩泉寺
写真18 大震災殃死者慰霊碑
釈迦堂にお参りしてから、高台に移転した岩泉寺(写真17)に行き、関東大震災の慰霊碑をお参りしました。内田(2000)によれば、
  根府川地区の全戸数   159戸
  白糸川を流下した土石流による全半埋没戸数  78戸
  (内根府川駅地すべりによる全半壊戸数 11戸)
  白糸川土石流による死亡者          289人
  根府川駅地すべりによる死亡者        131人
   (列車 109名,家とホーム 22名)
写真17は、高台に移転した岩泉寺の入口で、写真18は大震災殃死者慰霊碑で、大正14年(1925)8月12日に建立されています。
写真19 写真20
写真19 白糸川付近の根府川関所跡
写真20 白糸川を流下してきた震災石
白糸川沿いには、写真19の根府川関所跡の看板がありました。東海道の脇街道として熱海や伊豆に通じる根府川道の関門として、この地に設置されました。新編相模風土記稿などによると、根府川関所は江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設置され、明治二年(1869に廃止されるまでの約250年間にわたり、明六つ(6時)の開門から暮六つ(18時)の閉門まで厳しい掟により通行が制限されていました。小田原藩には箱根関所の外、仙石原、川村、谷ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数も多く、要衝として重要視されていたことが分かります。根府川関所は白糸川の南側にありましたが、震災により礎石は埋没し、その後の新幹線工事により白糸川の形も変わってしまいました。関所跡の横には写真20の震災石があり、白糸川の土石流によって運ばれてきたものとされています。
6.内田昭光様の話と崩壊の源頭部・大洞を歩く
根府川関所跡を案内して頂いた後、内田昭光様が経営されている「離れのやど星ヶ山」に行き、昼食をご馳走になるとともに、根府川・白糸川について色々と話して頂きました。その後、別室で昭光様が所蔵している地図や写真などを見せて頂きました。
図5は、大正12年(1923)関東大地震根府川地区全戸敷地地図で、昭光様からお聞きした地名などを追記しました。緑色の範囲は白糸川の土石流の流下・堆積地域、白色の地域は土砂堆積を免れた範囲を示しています。根府川駅の付近は、根府川地すべりの範囲で多くの人家、根府川駅、列車が相模湾まですべり落ちてしまいました。地すべり地頭部は図5ではほとんど人家がなく、空地となっています(図1の左図(1933年修正)では崩壊地形が示されています)。現在はプールや数軒の人家が建設されています。
図5
図5 大正12年(1923)関東大地震根府川地区全戸敷地地図(内田(2000)の図に地名を追記)
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内田一正氏の自宅(写真3の⑫)は白糸川橋梁のすぐ下にありました。内田(2000)によれば、一正氏は4年生2学期の始まりで、学校は皆午前で帰り、昼食を済ませると、広井喜七郎(写真3の⑰)さんの家の戸棚の中で、ローソクを付けて自製の幻灯を写していました。その時ドスンと物凄い地響き、ガタガタと上下に揺れるので、はいずりながら戸棚から座敷に出て、縁側の近くにいました。地震が治まったので、大急ぎで家に帰りました。径4尺(約1.2m)の土管が割れて水が流れ出し、水びたしになった庭で3歳の弟の量は小田原に行こうと泣いていました。丁度おじいさんも部落の集会から引き返してきました(父は5年前に他界)。家族が皆揃ったその時、最初の地震と同じ位と思われる地響きがして、2回目の地震がありました。
ようやく治まったその時、「山が来た。山が来た。」とのかすかな叫びがありました。「寒根山が来た逃げろ」のおじいさんの声とともに、北側にある矢子一郎さん(写真4の②)の桑畑約30mのところまで逃げ、ふりかえって見ると今まで1分か2分前までありました私の家、地区のほとんどの家が赤土の中に消えてしまいました。
あまりの恐ろしさに誰となく「南無妙法蓮華経」と唱えると、そこに居った皆も声高く唱えました。余震が来ると「マンザ、マンザ」と唱えながら、地震が治まることを祈っておりました。
矢子一郎さんの家の上にある広井森雄さんの家の側に大きな欅の木がありまして、その下に10名ばかり居るのが分かりましたので、そこに合流しました。しばらくすると、秋葉山に集まって居ることが分かりましたので、すぐ上の秋葉山に駆け上がると、大勢の人が居りまして、気を強くしました。「ここが最後の場所だ。死ぬ時は一緒だ。」と励ましてくれました。
9月2日(2日目)になると余震も少なくなってきました。昼頃になると家のある人は米がありますので、ご飯を炊いて頂き、むすびなどを食べ始めました。24時間腹の空いたことなど感じませんでしたが、急に空腹を覚えました。母はこの姿を見て4人の子供を引き寄せ、「死んでしまったほうが良かった」と泣きくずれました。着物1枚着たまま、一粒の米もないこのままでは、飢え死にさせてしまう。それならばあの土の下で一気に死んでしまった方が良かったと思ったのでしょう。
こうした光景を見た地区の役員の方々がすぐに役員会を開いて、各家にある米、みそ、あらゆる食料、畠の作物等はすべて地区のものとして個人が取ってはいけないときついお達しがありました。このことを聞いた岩泉寺の片岡戒庵和尚が月末で檀家から集まった米を全部出してくれたので、感激しました。
こうしたことがあって、その日の夕方小さいむすびが全員に配給されまして、家のある人、家のない人も地区内の食料を持って生き延びることができました。
これらの話を聞いた後、昭光様と弟の光春様と一緒に、崩壊の源頭部・大洞の現地調査に行きました。10年前は小田原カントリークラブの前から大洞の崩壊地の状況は良く見えたのですが、現在は木が繁茂して見えなくなりました。
写真21 写真22
写真21 大洞の崩壊源頭部
写真22 大洞の立体視写真(国土地理院1962年11月13日撮影)
(2005年2月,井上撮影)MKT-62-3X, C6-10, 11(井上編著,2013)
写真23 写真24
写真23 大洞崩壊地の崖直下より撮った崖面
(2013年4月13日,茅野撮影)
写真24 小尾根にある板状節理の発達した転石
(2012年12月15日,茅野撮影)
写真21は2005年2月に撮影した大洞の崩壊源頭部の写真です。写真22は国土地理院が1962年11月13日に撮影した立体視写真(井上編著,2013)です。その後、光春様の案内で大洞の崩壊地下部の小尾根部に登り、板状節理の発達した転石を観察しました。大洞の地形地質状況については、井上編著(2013)やいさぼうネットのコラム40の茅野光廣氏の記事や釜井(2023)をご覧ください。
写真25
写真25 大洞付近のドローン撮影の立体視画
(防災科学技術研究所佐藤昌人2022年4月2日撮影)
写真25は、防災科学技術研究所の佐藤昌人様が2022年4月2日にドローン(UAV)で撮影した大洞の立体視写真です。YouTubeで大洞付近の動画像を閲覧できるようにしました。大洞の崩壊・土砂移動の状況が分かると思います。
写真26
写真26 熱海白糸川の断層(大洞崩壊地と崩壊地下部の流れ山(小丘)の地形(復興局,1927)
写真27
写真27 大洞崩壊地下部の流れ山地形(2012年12月15日相原延光撮影)
写真26は、復興局(1927)の貴重な写真で「熱海白糸川の断層(大洞崩壊地と崩壊地下部の流れ山(小丘)の地形」と記されています。白糸川鉄橋が落橋したことを受けて、国鉄職員がこの地点まで登り撮影したものです。東海道線(現御殿場線)の輸送力増強のため、小田原−熱海−三島ルートに変更するため、大正7年(1918)3月から丹那トンネルを掘削していました。このため、当時の国鉄職員は大洞の崩壊と土石流の流下・堆積現象を重要視していたことが判ります。
写真12に示したように、JR東海道線の白糸川橋梁と比べて、東海道新幹線の白糸川橋梁はかなり低いルートを通っています。白糸川を大規模な土石流が流下すれば、新幹線は被災する可能性があります。もう少し山側にルートを追い込んで、白糸川の区間は橋梁ではなくトンネル(白糸川を上に通す)とした方がよかったように思います。
引用・参考文献
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