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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム88 関東大震災100年,丹沢山地の土砂災害と震生湖
1.震生湖誕生100周年記念式典
令和5年(2023)9月2日午前中に「震生湖誕生100周年記念式典」がクアーズテック秦野カルチャーホール(文化会館)において、秦野市主催で開催されました。式典の背景・目的は、「令和3年(2021)3月26日に国登録記念物に指定された震生湖は、大正12年9月1日に発生した関東大地震から100年目となる9月1日をもって誕生100年を迎えます。震生湖は関東大地震の規模の大きさを伝える貴重な地質遺産であり、震災遺構でもあることから、さらに100年後にも震災の記憶と教訓を伝え、自然豊かで、皆に愛される震生湖を後世に引き継いでいくことを再確認する節目として記念式典を開催します。」と記されています。
記念式典では、関東大震災の犠牲者に対する黙とう、高橋昌和秦野市長による主催者挨拶、来賓挨拶の後、文化庁文化財調査官の柴田伊廣氏による講演「震生湖の魅力と災害遺構のこれから」がありました。
秦野市教育委員会では、『震生湖誕生100周年記念誌』を発行し、記念式典参加者に配布されました。この冊子の目次は、以下のようになっています。
  震生湖誕生100周年にあたって       秦野市長 高橋昌和
1 はじめに1頁
2 「震生湖」とは3頁
3 震生湖 100年のあゆみ4頁
4 震生湖形成の地球科学的背景8頁
   箱根町企画課箱根ジオパーク推進室笠間友博
5 関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖15頁
   一般財団法人砂防フロンティア整備推進機構井上公夫
6 震生湖誕生100周年記念座談会―私たちと震生湖―28頁
7 震生湖 あの日あの時 ―写真集―36頁
8 震生湖関連文献目録52頁
この冊子の中から、丹沢山地の土砂災害と震生湖について、説明致します。
2.地震による土砂災害の概要
関東地方南部の山地や丘陵地、台地の縁辺部では、大正12年(1923)の関東地震の激震や2週間後の豪雨により、崩壊や地すべり、土石流による土砂災害が多発しました。図1は内務省社会局(1926)『大正震災誌』の巻末図で、関東地震による林野被害区域山崩れ地帯概況図を示しています。丹沢山地の秦野盆地に面した南斜面は山崩れ激甚地帯に区分され、山崩れが最も多く発生しました。丹沢山地から箱根火山地域は山崩れ多大地帯、関東山地から多摩丘陵、三浦半島、房総半島、伊豆半島は山崩れ軽微地帯となっています。
図1
図1 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点
井上(2013)に伊豆大島を追記,▲びゃくの地点を追記
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この図の上に、地震直撃()と2週間後の豪雨()による土砂災害地点を追記しました。さらに、今ではあまり使われていませんが、土砂災害を意味する「びゃく」()という土砂災害地点も追記しました。柳田(1942)によれば、ビャクとは崖の斜面のことで、ビャクガクムとは山が崩れること、ビャクガオスとは山ずりして土砂が押し出すことを意味します。神奈川県・東京都にも多くのビャクの事例があります(井上,2019,コラム41〜43)。
表1 関東地震による土砂災害(井上,2013)
表1
表1は、関東地震による土砂災害を示しています(井上,2013)。関東地方全域で、土砂災害箇所は170箇所、土砂災害による死者・行方不明者は1064人+139人にも達しました。神奈川県西部で37箇所、650人+74人、神奈川県東部で66箇所、295人+65人となりました。当時の横浜市内で27箇所、68人+60人となっていますが、火災の犠牲者(2万4646人)の中には、崖崩れで家が倒壊し、負傷して動けなくなり、その後の火災で死亡した人も含まれている可能性があります。
3.秦野市域の関東地震時の土砂災害
表2は、秦野市域(面積103.61k㎡)の関東地震時の町村別被害(諸井・武村,2004による)です。関東地震(1923)時の秦野市域は、秦野町・大根村・南秦野村・西秦野村・上秦野村・北秦野村・東秦野村に分かれており、町村別に全潰(戸)、全潰率(%)、焼失(戸)、埋没(戸)、死者(人)が示されています。
表2 秦野市域の関東地震時の町村別被害(諸井・武村,2004に追記)
表2
図2は、秦野市内の主な河川,鉄道,道路と調査地点(武村,2011)を示しています。武村(2011)は、図2に示した10地区の供養塔・記念碑を調査しています。
① 河原町児童公園の供養塔(秦野町)
② 古峯神社(秦野町)
③ 龍法寺供養塔(大根村)
④ 玉伝寺供養碑いとこ地蔵(東秦野村)
⑤ 太岳院本堂再建寄付者芳名碑(南秦野村)
⑥ 震生湖畔寺田寅彦句碑(南秦野村)
⑦ 平沢埋没者供養塔(南秦野村)
⑧ 菩提復旧記念碑(北秦野村)
⑨ 戸川復興記念碑(北秦野村)
⑩ 堀之郷正八幡宮復旧記念碑(西秦野村)
図2
図2 秦野市内の主な河川,鉄道,道路と調査地点(武村,2011に追記)
4.神奈川県震災地荒廃林野復旧事業図と土砂災害地の分布
図3は、神奈川県震災荒廃林野復旧事業図(神奈川県環境農政局緑政部森林再生課蔵)で、丹沢山地の荒廃状況と昭和4年(1929)までに施工された荒廃林野復旧事業の施行箇所(緑色箇所)が描かれています。日本で最初に作成された土砂移動分布図で、崩壊地や地すべり地の分布状況が良く分かります。
図3
図3 神奈川県震災荒廃林野復旧事業図(神奈川県環境農政局緑政部森林再生課蔵)
(関東地震による土砂災害地点を追記;井上・伊藤,2006;井上,2013)
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墨で塗られた部分は御料林で、明治23年(1890)に御料林に編入された時点では、かなり良好な天然林でした。その後、伐採事業が行われ、関東地震の頃にはかなり荒廃していました。関東地震による激震と2週間後の台風による集中豪雨(9月12〜15日)、翌年の丹沢地震(M7.3,大正13年(1924)1月15日)の激震が重なり、崩壊や土石流が多発して、より荒廃した状況となりました。
黒丸数字は関東地震直撃による土砂災害、白抜き数字は震災から2週間後の豪雨による土砂災害地点を示し、緑色の崩壊地は関東地震から6年経って山腹工や植栽工などの治山工事が完了した地点を示しています。
⑫は南秦野村の震生湖で、関東ローム層がスランプ状の地すべり性崩壊を起こし、天然ダムを形成しました。決壊せず現存しており、国登録記念物に指定(2021年3月26日)され、市民公園となっています。
⑬は東秦野村蓑毛で、花水川・金目川上流域の大山・春岳沢・ヤビツ峠にかけて無数の崩壊(面積40ha以上)が発生し、谷間に多量の土砂が堆積しました。特に春岳沢の崩壊は激しく、土石が多くの地点で谷を埋め、金目川の流水を塞ぎました。2週間後の豪雨で3回の土石流が発生しました。3回目の土石流で家屋15戸が流出しました。幸い夕刻に蓑毛橋付近の家の女性や子供は高台に避難していて、死者の報告はありませんでした(武村,2011)。
写真1
写真1 玉伝寺のいとこ地蔵
(2013年5月井上撮影)
写真2
写真2 北秦野村菩提,震災後の水害
(はだの歴史博物館提供)
名古木の玉伝寺には、いとこ地蔵があります(図2の④,写真1)。東秦野村では震災前には東雲・田原・開進の3小学校がありましたが、尋常高等東小学校(現在の秦野市立東小学校)は統合のため解体工事中で、震災時には公会堂や玉伝寺の仮校舎で授業が行われていました。玉伝寺では地震発生時に外で遊んでいた児童2名が、東側の山が高さ50m、幅70mにわたって崩れ、土石流となって流下したため、行方不明となりました。村人や消防団が出て捜索しましたが、遺体は見つけられませんでした。後に地蔵尊が建立されましたが、2名がいとこ同士であったため、いとこ地蔵と呼ばれています。地すべりで埋まった場所は現在広場となっており、いとこ地蔵は地すべりを起こした山を背にして立っています。
⑭は北秦野村菩提で(図2の⑧)、9月1日の関東地震時に葛葉川上流の菩提から羽根あたりにかけての斜面で崩壊が多発し、谷間に多量の土砂が堆積しました。菩提会館がある菩提字横手には、明治22年(1889)に北秦野村が成立して以来、役場がありましたが、関東地震で倒壊しました。写真2に示したように、2週間後の豪雨で9月15日23時に土石流が発生し、菩提で23戸、羽根で2戸の家屋が流失し、菩提地区で5.5ha、羽根地区で2haの田畑が埋没・流失しました。
菩提会館前の広場には大イチョウがあり、その前に昭和5年(1930)9月1日建立の復旧記念碑があります。この碑文には「震泥山嶽亀裂崩落」や「荒廃地復旧」などの文字が刻まれています(図2の⑧,武村,2011)。
秦野市史編纂室(1985)によれば、菩提地区の住民の話として、「関東地震では山の3分の2が赤はだかになりました。大平台は禿山(はげやま)になり、萱場は半分位崩れてしまった。」と当時の様子が記載されています。
図3
図4 鳥屋・馬石 地震峠の地すべり地と
湛水域(井上,2017,2019)
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写真3
写真3 地震峠の慰霊碑
(2014年9月井上撮影)
⑮は相模原市緑区(旧津久井町)鳥屋・馬石で、串川右岸側の斜面が地すべり性崩壊(50万m³)を起こし、天然ダムを形成しました。埋没人家5戸、水没5戸、死者16名の被害となりました。上流500mまで水没しましたが、閉塞土砂を取り除いたため、二次災害は免れました。串川沿いの県道には、地震峠というバス停(現在は運行されていない)があり、その上に、写真3に示した「地震峠の慰霊碑」があります。津久井町教育委員会(1986)の関東大震災記録集によれば、佐藤森蔵氏(記録集当時88歳)は、「ふいをつかれたこともあり、当時16歳であったが、最初の震動では動くことはできなかった。たとえ話として紙の上で豆がころがっているようであった。・・・山津波(びゃく)が石や土のかたまりが、もくもくと山を下ってきたように見えた。その山津波に「さか」という家の娘が一人、40〜50m位流され、川にはまって浮いていた。」と述べています。
❶は伊勢原市(旧大山町)大山で、丹沢山地の最も南東に位置する大山(標高1252m)は雨乞いの山として大変信仰の厚い山です。南東側にある伊勢原市大山の集落は阿夫利神社の門前町として大変にぎわっています。住民の多くは狭い谷間の門前町で暮らしています。山間部では地盤が比較的固く、地震の揺れによる被害はわずかであり、人的被害はほとんどありませんでした。ところが、関東地震によって大山の山腹では無数の亀裂と多数の崩壊が発生し、多量の土砂が上流部の渓床に堆積しました。このため、多少の降雨でも崩壊が拡大し、土石流が発生しやすい状態となっていました。
写真4
写真4 伊勢原市大山町開山町の土石流被害(伊勢原市教育委員会蔵)
このため、2週間後の豪雨時に大規模な土石流(山津波・びゃく)が発生し、下流部の人家140戸を押し流しました。写真4は大山町開山町の土石流による被害状況を示しています。幸いなことに、地元の警察官の適切な指示により、地域住民は安全な場所に避難したため、死者1名のみで人的被害はほとんどありませんでした。しかし、土石流の通過した門前町は、阿夫利神社の社務所を含め、ほとんど倒壊・流失しました。
❺は西秦野村千村で、秦野盆地の南側に千村集落が存在します。関東地震時に多くの崩壊が発生し、9月14日〜15日の降雨で土石流が発生しました。渓流の下流側には人家がほとんどなく、被害はほとんどありませんでした。
❻は東秦野村蓑毛で前述の⑬,❼は北秦野村菩提で前述の⑭で説明しました。
❾は金目川水系水無沢の大倉地区で、9月17日夕方から大雨となり、「大ナルビャク来タリテ大倉集落大部分水中ニナル」と記されています。
内務省では、大正13年(1924)から直轄震災復旧砂防事業を新設し、10ヶ年計画を策定し、酒匂川流域など5河川において、内務省直轄砂防事業を実施しました。この砂防事業は昭和12年(1937)まで14年間実施されました。大正12年度の全国の直轄砂防事業費が25.1万円だったのに対し、大正13年度のそれは70.8万円と3倍にも達しました。それだけ、関東大震災後の対策が重要視されたことが分かります。
5.関東地震による震生湖周辺の土砂移動状況
図5は、大磯丘陵の震生湖付近の1/2.5万の旧版地形図「秦野」図幅で、左図は大正8年(1919)測図、右図は昭和4年(1929)修正測量図を示しています。左図で赤く塗色している箇所(A)は、関東大震災時に焼失した秦野町の範囲を示しています。秦野町では、関東地震によって倒潰した556戸のうち、半数近くの271戸が焼失しました。
図5
図5 震生湖周辺の旧版地形図(1/2.5万地形図「秦野」図幅)
      左:1919年測図  右:1929年修正測図(井上ほか,2015)
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大磯丘陵の谷壁斜面が大規模地すべり(B)を起こし、市木沢(下流で藤沢川)を河道閉塞し、塞き止め湖が形成されました。右図では震生池と記載されていますが、後に震生湖と呼ばれるようになり、秦野市の自然公園となりました。近くの丸山(C)には、大震災埋没者供養塔(写真5)が建立されています。関東地震が起こった12時頃、小学校(D,現秦野市立南小学校)から自宅のある小原(E)に帰る途中で、平沢峰(丸山)付近の北斜面の山道が崩壊し、2人の少女が生き埋めとなったという惨事が伝えられています。
写真5
写真5 大震災埋没者慰霊塔
写真6
写真6 寺田寅彦の句碑(2022年9月建立)
(2023年6月井上撮影)       「穂芒(ほすすき)や 地震(ない)に裂けたる 山の腹」
小原(E)に向かう峰坂は、斜面を切割って作られた幅1mほどの山道でした。雨の時には山道が流路になることもありました。谷形の深いところは5〜6mあり、崩れやすかったようです。旧道の一部は現在も農作業道として使われていますが、崩壊痕跡は残っていません。村の消防団・青年団の人達が数日間発掘作業にあたりましたが、少女たちの遺体や所持品は何一つ見つかりませんでした。
6.現存する貴重な震生湖
地震や豪雨、火山噴火によって谷壁で崩壊や地すべりが発生すると、河道閉塞が起り、堰止湖(天然ダム)が形成されることがあります。図6は、日本の天然ダム一覧図(田畑ほか,2002;水山ほか,2011)で、発生誘因により、地震()、降雨()、火山噴火()で区別してあります。人為的に建設されたダムと異なり、不安定な土砂によって堰止められているため、満水になってオーバーフローすると決壊することが多く、決壊洪水が流下して、下流域に甚大な被害を与えることがあります。堰止湖の寿命は短く、数時間から数年で決壊して消滅することが多く、現存している事例は多くありません。平成16年(2004)の新潟県中越地震、平成23年(2011)の紀伊半島豪雨などを契機として、多くの堰止湖(天然ダム)が形成されましたが、様々な対策が実施されるようになりました。
図6
図6 日本の天然ダム一覧図(水山ほか,2011)
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降雨による堰止湖は、人工開削を含め消滅することが多くなっています。火山噴火による堰止湖は磐梯山噴火(1888)の檜原湖、焼岳噴火(1915)の大正池のように現存しているものがあります。地震によって形成された堰止湖も消滅しているものが多く、現存しているのは、善光寺地震(1847)による柳久保池、関東地震(1923)による震生湖、長野県西部地震(1984)の堰止湖の3ヶ所が知られています。震生湖は国登録記念物に指定(2021年3月26日登録)された貴重な自然遺産です。
写真7 写真8
登録記念物 震生湖の石碑(令和3年(2021)3月26日登録),2023年6月井上撮影
左:秦野市設置
右:中井町設置
図7
図7 秦野町付近の地形図(寺田・宮部,1932) は震生湖
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図7は、秦野盆地周辺の1/5万の旧版地形図「秦野」図幅(1922年修正)で、寺田・宮部(1932)によれば、この地域(大磯丘陵)には篠窪、窪之庭、中之窪、池窪という窪地を示す地名があります。このことは、震生湖(地点)と同様の崩れと河道閉塞が発生した可能性を示唆しています。
写真7
写真7 震生湖周辺の米軍撮影写真
(1946年8月15日撮影, R227, 56, 57)
写真8
写真8 震生湖周辺の国土地理院写真
(1977年12月28日撮影, CKT-77-1, C14A-18, 19)
写真7は、米軍が昭和21年(1946)8月15日に撮影した白黒写真、写真8は国土地理院が昭和52年(1977)12月28日に撮影したカラー航空写真を立体視できるように加工したものです。米軍の写真は震災から23年後の写真で、震生湖地すべり地の頭部の滑落崖の状況がほぼそのままの状況で残っていたことがわかります。1977年の写真では、地すべり地の中にゴルフの練習場が開設され、滑落崖方向にゴルフボールを打ち出すようになっていました。当時は植生があまり繁茂しておらず、滑落崖の状況がよくわかりました。現在、ゴルフ場は解体され、太陽光発電施設が建設されています。
図8
図8 中郡南秦野村市木大崩落全図(南秦野町,1928)
秦野市(1987):秦野の自然V―震生湖の自然―
図8は、中郡南秦野村市木大崩落全図(南秦野村,1928)で、秦野市(1987)『秦野の自然V―震生湖の自然―』に再録されています。震生湖と比べて地すべり地はかなり大きく、市木沢が河道閉塞され震生湖は細長く湛水していることがわかります。地すべり地の中心横断線によれば、(イ)(ロ)(ハ)の地形が(い)(ろ)(は)へ移動したと記載されています。どのような地すべり変動があったのでしょうか。
図9
図9 震生湖の崩壊地の実測平面図
(▲は平板測量の実測平面図)
図10
図10 図9におけるP-Qの断面図
(一点鎖線は地震前の谷のプロファイルを示す)
(図9,図10とも寺田・宮部,1932)
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図9は寺田・宮部(1932)による震生湖地すべり地の実測平面図です。図10は震生湖地すべりの断面図(断面位置は図9のP-Q測線)で、西側(現在は一つの湖面となっており、人道橋が建設されている)の震生湖の湖面水位を基準(0m)として描かれています。一点鎖線は関東地震前の地形を示しています。
図11
図11 震生湖周辺の平面図(秦野市1/2500平面図「平沢2」,井上ほか,2015)
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図11は秦野市の1/2500平面図「平沢2」で、これをもとに震生湖周辺の地形情報を計測しました。震生湖への流入面積はかなり狭く、15.3万m²しかありません。震生湖地すべり地は面積3.9万m²、平均崩壊深を5mと仮定すると、全移動土砂量は19.5万m³と推定されます。現在の震生湖(湛水標高152.7m)は、秦野市史編纂室(1987)による「震生湖の水深図」をもとに計測すると、湛水面積1.6万m²、水深9m、湛水量 6.0万m³となります。湛水量は地すべり移動土塊量の1/3程度であるため、震生湖への雨水の流入量と地すべり土塊への浸透水のバランスが取れ(地すべり末端の市木沢で湧出している,写真9,10)、現在まで決壊せず、湖水は残っているものと判断されます。
写真9
写真9 市木沢の現地調査時の調査団員
            (2014年8月井上撮影)
写真10
写真10 震生湖からの排水パイプ
周辺から湧水が見られる
しかしながら、地すべり土塊は軟弱な関東ローム層からなるため、震生湖が満水となり、オーバーフローすると、一気に決壊する可能性があります。3m水位が上昇し満水位の12mになると,湛水量は11.8万m³となります。蒸発散量を無視すると、490mmの連続雨量で満水となります。
写真11
写真11 2023年6月2日に震生湖の石段
で見ると40cm水位が上昇していた
写真12
写真12 震生湖の湖畔
植生のない所まで水位は上昇した
2023年6月3日12時現在の神奈川県アメダス合計降水量の相模原中央の48時間降水量で273mmの降雨(雨量強度は20mm程度)があり、震生湖の水位は40cm上昇しました(写真11,12)。非常に多くの降水量が予想される場合には、震生湖の水位は急激に上昇し、満水になる可能性があります。
満水になると、震生湖の湖水は地すべり土塊の上を流下しますので、決壊洪水が中井町の市木沢から藤沢川・中村川を流下する可能性があります。地球が温暖化していると言われるなか、このような豪雨が震生湖周辺に起こる可能性が考えられます。
市木沢を下流から登って行くと、河道閉塞した地すべり地の末端の河床付近で湧水していました。しかし、震生湖には洪水時の洪水吐がなく、写真10に示したように、細い塩ビパイプが差し込まれ、排水機能としています。洪水時の震生湖への流入量を考えると、排水施設の流下断面が不足していると思われます。
7.むすび
2023年6月16日(金)に秦野市の職員の方達と現地調査しました。ゴルフの練習場跡地には太陽光発電施設が建設されていました。敷地の中には調整池が設置され、かなり太い塩ビ管で排水される施設がありました。しかし、震生湖に集中豪雨があって満水になった場合の対応策にはなっていません。震生湖が国の登録記念物に指定(2021年3月26日)されたので、雨量計(秦野市域にはアメダス観測点はありません)や震生湖の水位計を設置するなど、十分な対応策を検討する必要があると思います。
引用・参考文献
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵16p.本文226p.
井上公夫(2017):秦野周辺の土砂災害とその対応―富士山宝永噴火(1707)と関東大震災―,秦野市桜土手古墳展示館,ミュージアムさくら塾講演資料.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩く,そのU,丸源書店,
コラム39 関東大震災による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖の土砂災害地点を歩く―,p.105-119.
コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,p.134-147.
コラム42 東京都と山梨県の土砂災害を示す「びゃく」,p.148-161.
コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「びゃく」,p.162-175.
井上公夫(2023):関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖,秦野市教育委員会:震生湖誕生100周年記念誌,p.15-27.
井上公夫・相原延光・笠間友博(2015):関東大震災・現地見学会 秦野駅から震生湖周辺を歩く,地理,60巻2号,口絵p.6-7,本文p.68-76.
井上・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会,1923関東地震報告書,第1編,p.50-79.
笠間友博(2023):震生湖形成の地球科学的背景,秦野市教育委員会:震生湖誕生100周年記念誌,p.8-14.
武村雅之(2011):神奈川県秦野市での関東大震災の跡−様々な被害の記憶,歴史地震,26号,p.1-13.
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,口絵8p.,206p.
千木良雅弘・笠間友博・鈴木毅彦・古木宏和(2017):1923年関東地震による震生湖地すべりの地質構造とその意義,京都大学防災研究所年報,60号B,p.417-430.
津久井町教育委員会(1986):つくい町関東大震災体験記録集,64p.
寺田寅彦・宮部直巳(1932):秦野に於ける山崩れ,地震研彙報,10号,p.192-199.
秦野市教育委員会(2023):震生湖誕生100周年記念誌,54p.
秦野市政策部広報広聴課(2021.4.1):広報はだの 特集震生湖,p.1-2.
秦野市政策部広報広聴課(2023.9.1):広報はだの 特集関東大震災から100年 いつか来る大災害に備えて,p.1-3.
秦野市史編纂室(1987):秦野の自然V,震生湖の自然,秦野市自然調査報告,3,155p.
秦野市役所くらし安全部防災課(2023):関東大震災から100年 あの日を忘れずに その日にそなえる,9p.
はだの歴史博物館(2023):震生湖 保存と活用の歩み 震生湖誕生100周年記念事業 はだの歴史博物館企画展,令和5年7月15日(土)〜9月24日(日),4p.
はだの歴史博物館(2023):関東大震災 その時 秦野では。はだの歴史博物館企画展,令和5年8月5日(土)〜10月15日(日),4p.
藤井伸(2013):しまことば集―伊豆大島方言―,藤井晴子,伊豆大島文化伝承の会,362p.
水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,口絵4p.,187p.
諸井孝文・武村雅之(2004):関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定,日本地震工学会論文集,4巻4号,p.21-45.
柳田国男編(初版1942,1977):伊豆大島方言集,国書刊行会,全国方言資料集成,87p.
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