1.北海道の中央道路の開通と殖民地区画
コラム85、86で説明したように、明治22年(1889)8月の紀伊半島災害による奈良県十津川流域の被災民は、石狩川中流部の空知太(現滝川市)に到達し、翌年の春に石狩川を渡って新十津川村へ入殖しました。
愛別町史編集委員会(1969)によれば、さらに石狩川上流部(上川地区)の開発に熱意を傾けたのは、初代北海道長官の岩村通俊(明治19年1月〜明治21年5月在職)と2代長官の永山武四郎(明治21年6月〜明治23年6月在職)でした。長官と屯田兵本部長を兼任していた永山は、前長官についで測候所や水測所を設置し、北見道路を完成させました。また、市街地や殖民地の区画や駅逓の設置、屯田地の決定と開発促進に極めて大きな業績を残しました。
岩村長官時代に忠別太(旭川)まで仮道路ができていました。永山長官はこの道路を堅固な本道路にし、忠別太から北見海岸の網走までのいわゆる中央道路を貫通させ、開拓と警備の両面に備えることにしました。岩村長官と永山長官は、上川の大原野を探検視察しました。その後測量隊を派遣して、上川大平原の実測調査をさせました。明治22年(1889)6月に網走までの仮道路開削を起工し、空知監獄署の囚徒を使ってこの工事に着手しました。しかし、この道路の開削は上川(忠別太)までの道路に比べて一層困難を極め、囚徒のみでは遂行が困難となりました。このため、一部を民間に請負わせ、さらに釧路監獄署に網走側からの工事参加を命令しました。釧路監獄署では囚徒500人を網走に送って、1600名の囚徒を入れるための宿泊所・事務所など34棟の建築を始めました。これが、明治24年(1891)6月から網走分館(後の網走刑務所)となりました。準備ができるとさらに多数の囚徒を動員して道路の新設工事を行いました。
このようにして、明治24年(1891)末に中央道路を全通させました。道幅3間(5.4m)、勾配20分の1を極度とした道路でしたが、総工費8万1150円を要しました。上川道路と北見道路を合わせて中央道路と称し、今日の国道12号線(札幌−旭川)と39号線(旭川−北見間)となりました。この道路は囚人道路と揶揄され、北海道のいわゆる黒歴史となっています。
このようにして中央道路が開通すると、開拓経営を進めるため、殖民地調査が始められ、撰定が済んだ原野は、区画測定が行われました。
2.明治26年(1893)の和歌山県南部富田川流域の水害
明治22年(1889)8月の紀伊半島災害から4年後の明治26年(1893)8月18日、富田川流域は再び大水害に見舞われました。午前1時頃、富田川左支・生馬川に形成されていた天然ダムが決壊し、鉄砲水が流下して多数の家屋・田畑が流出しました。
図1は、明治22年(1889)紀伊半島災害時の富田川流域の氾濫範囲(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021;井上,2022)で、冨貴建男氏の資料をもとに、明治44年(1911)測図の国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用して、作成された図です。
図1 富田川流域の氾濫範囲(出典:冨貴建男氏の資料に追記,井上,2022)
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
(明治44年(1911)測図,国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用)
〇は、岩崎−保呂間の狭窄部
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図2は、生馬川上流の篠原谷で発生した大規模な斜面崩壊と天然ダムを示しています(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。この天然ダムは、明治22年(1889)8月の台風による大雨によって形成され、4年間湛水していました。天然ダムが形成された地点に行くと、今でも角礫状の崩壊土砂の堆積を確認できます(写真1,2023年11月秋山晋二撮影)。
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写真1 篠原谷の崩壊地現況
崩壊堆積物(角礫状)が存在
2023年11月秋山晋二撮影
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図2 富田川左支・篠原谷の崩壊地と天然ダム (国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
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住民は4年前の大災害の教訓を活かし、高台などに避難したため、被害を逃れたことが生馬川下流の観音寺(図1の左下)に伝えられています。明治22年(1889)の大災害が極度に深刻であったため、4年後に引き続いて起こった明治26年(1893)の災害については、伝承や記録が少ないのですが、被害は相当なものでした。特に生馬川流域に関しては前回よりも大きな被害があったと言われています。生馬郷土史小学校百年史編集委員会(1980)には、その時の様子が記載されています。
「この水害で生馬谷の被害が大きかったのは、明治22年(1889)の大水害の時、上流の篠原谷で大崩壊があり、谷川を塞いで天然ダムを形成していたが、その天然ダムが決壊し、鉄砲水(土石流か洪水流)となって押し寄せたためだ。」
上富田町史編さん委員会(1998)によれば、上富田(鮎川、市ノ瀬、岩田、朝来、生馬)では、死者385人、家屋流出473戸、家屋全壊222戸の大被害となりました。
3.和歌山県南部の被災者の北海道・金富農場への移住
コラム90で説明したように、明治24年(1891)に目良謙吉など39家族が西永山兵村に入殖して、新しい生活を始めたことは、和歌山県南部・田辺地域の人々にとって大きな話題となりました(上富田町史編さん委員会,1998)。富田川流域の岩田村(コラム90の図2参照)の初代村長であった山本萬作(安政五年(1858)生まれ、当時は小倉姓)は、明治22年(1889)の紀伊半島水害で激甚な被害を蒙りながら、村の復旧に努力しました。1年後に岩田村の村長を退職し、明治25年(1892)4月から1年半ほど市ノ瀬村の村長を務め、その後西牟婁郡の土木工事技師になっていました。
明治26年(1893)8月18日、富田川流域は再び大水害に見舞われました。
明治27年(1894)当時36歳の山本萬作は北海道移住を志し、県庁の認可を取って実情視察のため、単身で札幌に行き道庁を訪ね、開拓の進捗状況や今後の見通しについて調べました。次いで、イギリス人宣教師ジョン・バチェラー(1854−1944)を訪問しました。バチェラーは明治10年(1877)に来日し、北海道に居住しており、アイヌの理解者(アイヌ語研究者)として知られていました。彼の紹介でアイヌ人数人を雇い、上川地方を視察しました。その結果、上川地方の開拓は有望であると感じ、入殖の決意を固めていったん和歌山に帰郷しました。
山本萬作と前後して、経済力のある田辺町の有力者、近藤新十郎と岡本庄太郎は北海道開拓に深い関心を寄せ、明治27年(1894)5月北海道に行き、西永山兵村の近藤権吉を訪ねました。権吉は新十郎の従弟にあたり、目良謙吉らと共に西永山兵村に入殖していました。近藤新十郎と岡本庄太郎は権吉と一緒に、北海道の気候や土質を調査していると、愛別原野の区画貸付の告示がなされました。3人で現地視察をしたのち、道庁に行き、11月に未開地105万坪(350町歩,347万m²)の貸下げ出願許可を得て、近藤と岡本は田辺に帰りました。
こうして、2人共同で開拓費2万5000円を投資して、農場を拓くことになりました。近藤新十郎の屋号古金屋と岡本庄太郎家の屋号富田屋から1文字ずつとり、金富農場という名称に決め、農場経営の準備に着手しました。
明治27年(1894)7月に西富田村堅田の榎本菊松を農場主代理として雇いました。このときに郷里より7名の人夫を雇い、西永山兵村からも人夫を雇い、馬や農機具などを求めて、8月20日に金富農場に到着しました。当時の金富地区は萩やすすきが人の丈よりも高く、老樹大木が繁茂していました。あたりは狐や狸の棲家で、羆が寒空に叫びながら騒ぎまわり、鷲は空中を飛んでいました。和人の先住者は駅逓(駅舎と人馬を備えて宿泊と運送をはかるために設置)など2、3軒しかありませんでした。榎本は人夫を指導し、雨にも風にも負けずに、開拓に励み、80町歩を開墾し、農夫小屋を建てました。
榎本は11月に小作人を募集するために一度和歌山に戻り、八方手を尽くしましたが、いかに水害に痛めつけられたとはいえ、先祖伝来の土地は離れがたく、極寒の地である金富地区の移住に応ずるものはほとんどいませんでした。
榎本は明治28年(1895)3月に出発し、移住者の受け入れ態勢の準備をしました。小作人の募集は、西牟婁郡内の農業従事者、主として明治22年(1889)と明治26年(1893)水害の被災者を受け入れようとするもので、小作人になれば、1戸につき原野5町歩(5ha)が貸与され、開墾料が支給されることになっていました。
明治28年(1895)3月、西牟婁郡からの入殖希望者70戸393人(そのうち、富田川流域では、生馬村2戸11人、岩田村3戸18人、市ノ瀬村5戸24人、鮎川村7戸35人、計17戸88人)がまとまりました。4月に加藤陽三は入殖希望者を引率して北海道石狩国上川郡金富に向かいました。しかし、全員が金富農場に入殖したわけではないようです。本州の役場では、渡道してもすぐに移籍をしないで、何か月か経ち現地に定着したことを見極めた上で、移籍を受理したようです。加藤は明治30年(1897)1月には3代目の農場管理人となり、金富と和歌山を何度も往復しています。
前年に北海道上川地方を視察してきた岩田村の山本萬作は、この金富農場の募集に応じ、小作人として入殖することになりました。萬作は先陣として家族6人(うち子供2人)と下女を連れ、陸路青森を経て室蘭に上陸、本隊の一行が小樽に上陸して愛別に向かう途中で合流し、4月に金富農場に入りました。
愛別町史編集委員会(1969)に萬作の移住後開拓日記「諸要録」の抜粋が掲載されています。それによって、山本萬作の入殖当時の動静が分かります。旧暦の明治28年5月5日(新暦1895年4月23日)に、郷里の岩田村村長中島金蔵宛に、北海道石狩国上川郡鷹栖村字愛別原野金富農場に一家が移転した旨の届を出し、翌5月6日に農業に着手する旨の届を金富農場事務所に提出しています。
当初は開墾に苦闘しましたが、農作業に励む一方で、山本萬作は入殖後すぐに土地配分委員になり、以後もいろいろな役職について、農場住民の世話役として活躍しました。金富農場では、開墾後豆類、粟、麻、馬鈴薯、麦類などを主要作物としていましたが、明治末期には水田の開発が進み、水稲耕作も始まりました。
図3は北海道大学附属図書館北方資料データベースから転載した上川郡愛別村全図(1898年頃)で、右下は下愛別付近の拡大図を示しています。右下図は石狩川と愛別川の合流点付近で、金富農場の位置を示します。開拓前、この地は石狩川と愛別川に挟まれた合流点付近の沖積地で、老樹大木が繁茂し、狐や狸などの棲み家となっていた土地でした。先住者はほとんどおらず、駅逓その他3〜4軒があるにすぎませんでした。
図4は、図3の上川郡愛別町全図(当時は鷹栖村)などをもとに、1/5万旧版地形図『伊香牛』(1898年製版)と『愛別』(図幅名変更,1910年改版)や愛別町史編集委員会(1969)などの資料をもとに下愛別の金富農場の範囲を推定して、地理院地図上に示した図(笠原亮一作成)です。石狩川と愛別川に挟まれた沖積低地が金富農場の範囲となりました。
図4 上川郡愛別町、下愛別の金富農場の範囲(地理院地図に追記,笠原亮一作成)
上川郡愛別町全図(当時は鷹栖村)や1/5万旧版地形図『伊香牛』(1898年製版)
と『愛別』(図幅名変更,1910年改版)などをもとに作成
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明治28年(1895)下愛別の金富農場に70戸の入殖者があったため、北一号線路(北見道路)沿いに村役場(当時は鷹栖村)・村医住宅その他2〜3の飲食店も建設されました。しかし、明治31年(1898)9月豪雨での全道的大洪水にあい、石狩川と愛別川は大氾濫しました。村役場は、流失寸前の大きな被害となりました。このため、石狩川の増水による水害を恐れ、将来の発展を考えて役場をはじめとして、逐次現在地(当時は番外地)に移転する者が多くなりました。
明治42年(1909)には、下愛別は金富農場を含め、160戸800余人となりました。学校、郵便局、巡査駐在所、営林区派出所、神社、寺院、村医住宅、官設駅逓、その他商店、旅館などが建ち並び、一大市街地を形成しました。
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写真3 金富農場跡の石碑
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写真4 昭和13年(1938)に建立された頌徳碑
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(2023年11月,笠原亮一撮影)
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写真2は金富農場(北海道大学附属図書館 北方資料データベース,明治大正期北海道写真目録編)から転載した写真です。
写真3は金富農場跡の石碑、写真4は昭和13年(1938)に建立された頌徳碑の写真です(2023年11月,笠原亮一撮影)。
4.金富農場設置主意書(上田,1988)より転載
我西牟婁郡ノ地タル廣表東西凡20里(80km)南北7里(28km)餘其ノ間到ル処峯巒起伏シテ全面積ノ大部分を占メ、其ノ田野ト称スベキハ渓間拳大ノ地ニシテ之ヲ積算スレバ、僅ニ6316町歩余ニ過ズ、而メ戸数1万6036戸、人口8万7211人(明治26年(1893)調査)アリ、其内商工業等ニ従事スルモノヲ控除セバ農家ハ実ニ戸数1万765戸、人口5万3589人ノ多キニアリ、又租税等ノ全負担額ハ12万2319円余ニシテ其ノ1戸前ハ正ニ7円50銭ノ平均ナリトス、然ルニ明治22年(1889)以来頻年ノ水害ニ遭ヒテ2568町余歩(耕地面積の40.7%)ハ荒地トナリ、餘ス所ハ只3748町余歩ノミ、仍テ又之ヲ全戸数ニ平均スル時ハ1戸前生地3反4畝歩余ト荒廃地2反3畝余歩トス、其難民ノ生計ニ困難ナルコト想フベキナリ、今又本郡ノ人口調査表ヲ見ルニ明治21年(1888)ノ人口ハ8万5480人ナリシモ明治26年(1893)ニ至リテハ8万7211人トナレリ、明治22年ノ水災ニ罹リ溺死セル者千有余人アルニモ不拘1731人ノ増殖ヲ見ル、之を平均スレハ則チ毎年288人ヅツノ増加ナリトス、夫レ農地ハ彼ガ如クニシテ人口増殖モ亦彼ガシ乃今ニシテ之ガ救済ノ策ヲ講セサレハ他日一層ノ困難ヲ来ス事誠ニ明ケシ、然ラハ則之ヲ為スコト如何北海道移民法是ナリ、抑モ北海道ハ原野
漠地味膏腴ナルガ故ニ肥料ヲ施サザルモ穀物能ク生実シ蔬菜能ク生育シ蚕業牧畜ハ勿論、果樹ノ栽培一トシテ適セザル事ナク、而シテ大抵5月頃ニ種ヲ下サハ8・9月ノ交ニハ収穫ヲ見ル、即チ其模様ヲ調査セシニ大麦小麦裸麦ハ1反歩ニ付キ大約200内外、粟稲黍ナラバ4石内外ヲ得、馬鈴薯ニ至リテハ痩地ニテモ猶17・18石許ノ多キニ上リ、林檎・葡萄ノ産モ亦夥シ、其他大麻ノ如キハ1反歩ニ付160貫目アリ、之ヲ製スレハ16・17貫目代金トシテ25・26円ヲ得、而シテ此麻綿ヲ製スルハ主トシテ各自ノ業ニ充ツルトシ実ニ是我帝国一大富源ノ地ト謂フヘシ、然レバ今若シ衆多ノ人之ニ移住シ相共ニ力ヲ勤セテ開発ニ従事セハ将来各自資財ノ余裕ヲ生シテ衣食ノ安キヲ得ルコト、又今日ノ日ニ営々トシテ家ニ余資ナク一朝不幸ニモ遭遇スルトキハ忽チ饉餓ニ瀕スルカ如キノ比ニアラサルナリ、予等此ニ感スル所アリ乃チ今春北海道ニ渡航シテ実地ノ形勢ヲ視察セニ其ノ見ル所ハ曾て聞ク所ニ勝リテ頗ル好適地ナルコトヲ認メ、愈々移民ノ必要ヲ感シタルヲ以テ此ニ金富農場ト云フヲ起シ彼地ニ移住ヲ希望スルモノニシテ其志強固着実ナル者ヲ撰抜シ開墾農作ニ従事セシメントス。
是レハ国家ノ為ニ拓殖ヲ努メ、一ハ我同胞ガ生活ノ困難ニ追ラントスル者ヲ救済セントスル志望ニ外ナラズ、郡其事業実施方法ノ詳細ニ至リテハ別紙設許及規約書ニアリ。
組合、金富農場規約御認可願
今般北海道石狩国上川郡愛別原野ニ於テ金富農場開設致度就テハ別紙規約御認可被下度此度奉願候也。
和歌山縣西牟婁郡田辺町大字今福町十三番地
近 藤 新 十 郎
仝 縣 仝 郡 同 町大字江川三番地
岡 本 庄 太 郎
明治二十七年六月二十五日
和歌山縣知事 沖 守 固 殿
土 地 貸 下 願
石狩国上川郡字愛別
一、原野地 壱百五萬坪 畑ノ見込
右北海道土地拂下規則並同施行手續ヲ遵主シ別紙起業方法書之通リ之無相違
成功可致間該地積御貸下相成度此段奉願候也
明治二十七年六月
和歌山縣西牟婁郡田辺町大字今福町十三番地
平民 近 藤 新 十 郎
仝 縣 仝 郡 同 町大字江川三番地
平民 岡 本 庄 太 郎
北海道庁長官 北 垣 国 造 殿
頌徳碑全文(昭和13年(1938)建立,写真4参照)
金富農場ハ和歌山県田辺町ノ人、近藤新十郎・岡本庄太郎両人ノ開キシ処ナリ、明治27年(1894)北門開拓ノ聖旨ヲ奉戴スルヤ、両氏ハ其ノ翌28年5月地ヲ此ノ愛別村ニ相シ屯墾ノ法ヲ立テ広ク佃戸ヲ招キ榛芥ヲ
□ヲ儘シ並ニ産業ノ興起ニ盡力シ諸端ノ経営ニ巨費ヲ惜マズ、又或ハ愛別神社ニ境址ヲ献シテ敬神崇祖ノ大義ヲ賛シ或ハ下愛別小学校ニ用地ヲ寄セテ新進教育ノ振作ニ資ス、故ニ衆皆土着安居シ斯業ノ日ニ就ルヲ楽シム。
大正2年(1913)初メテ溝渠ヲ穿チ洽ク灌漑ヲ通シ水□ヲ便ニスルヤ沃壌ノ美田頓ニ開ケ村況更ニ殷富ヲ加エ創業頭初ノ佃戸72戸ナリシモノ累計シテ150余ヲ有シ、所拓ノ反別653町余歩トナリ、制度ノ整備、機関の充実セル、当時斯業界模範ト称セラル
シ佃者ノ堅忍不抜40余年来ノ辛苦ニ由リテ成ル所ナルモ亦場主の誘掖提撕産業報国ノ大道ヲ先進奉行セルノ結果ト謂フヘシ、近年我国農界ハ時勢ノ進運ニ従ヒ自作農ノ創設各自敦業厚生スルノ風ヲ尚ヒ、地方官庁モ亦タ之ヲ以テ国策上尤先ノ要務ト為シ此ノ場主佃者間ノ間ニ勧説シ其遂行ヲ庶幾スル所アリ、現場主近藤米太郎・岡本幸助両氏ハ其先考ノ遺績ニ離ルルヲ難セラレシモ敢テ私ヲ減シテ公ニ徇ヒ昭和11年(1936)農場解放ニ同意シ管理人稗田只太郎氏ヲシテ譲渡事務ニ当テ竟ニ円満ナル完結を告ケタリ。是ニ於テ昨ノ佃者ハ今各々地主トナリ及ヒ、祭教巳備ノ境ヲ享有ス、鋤ヲ荷フ者ノ先竟ノ宿望、此ニ達シ額手欣賀ノ余転タ場主カ終始一貫覆育ノ深キヲ顧ヒ相謀リテ茲ニ碑ヲ建テテ其徳ヲ頌シ併セテ不屈不撓ノ農道精神ヲ顕揚シ以テ累世子孫ニ伝ヘテ永ク
レサラント欲シ乃チ予ニ嘱シテ其記ヲ作ラシム。予斯ク業ニ関係アリ両々有終ノ美ヲ済ルヲ歓ヒ肯テ辞セサル所以ナリ
北海道庁長官正四位勲三等
石 黒 英 彦 篆額
上川郡外四郡農会
技手 水 野 良 一識
5.愛別神社
愛別神社は、明治28年(1895)5月25日に金富農場に和歌山県から入殖してきた人たちが農場内に建立した祠で、熊野権現を安置しました。当時は重労働が続いたことから、毎月1日と15日は休日と定められました。
明治31年(1898)9月の豪雨によって石狩川が氾濫したため、大きな被害を受けました。このため、明治42年(1909)に愛別村の産土神としてより安全な現在地(地蓬菜山,図4参照)に社殿を建立し、熊野神社と称しました。大正4年(1915)、和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市)の県社「
鬪神社」から御分霊を頂きました。昭和5年(1930)村社に列格され、昭和6年(1931)神饌幣帛料供神社に指定されました。昭和28年(1953)に宗教法人愛別神社となりました。昭和49年(1974)には御社殿3道を改修し、昭和63年(1988)御社殿玉垣を建設し、境内を整備しました。平成3年(1991)御大典記念事業として社務所を新築し、平成5年(1993)皇太子殿下御成婚記念として第一鳥居を建立しました。
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写真5 愛別神社 |
写真6 拓魂の碑 |
(2023年11月,笠原亮一撮影) |
6.アイペップト 故郷ものがたり
愛別町教育委員会に、コラム90,91の内容について、修正すべき点を問い合わせたところ、愛別町郷土史研究会の大西眞一会長から電話を頂き、色々話をお聞きしました。その後、大西様から愛別町教育委員会が平成3年(1991)に発行した『アイペップト 故郷ものがたり 町制施行30周年記念』が送付されてきました。「漢字さえ読めれば、小学生にも理解できるように」と配慮された内容で、非常に分かりやすく、関係者にpdfを配布し一気に読み終わりました。図5はこの本の表紙で、柳橋尚寿様が描かれた絵で「ふるさとの幻影」と題されています。
愛別町史(p.93-94)によれば、『町名はアイヌ語「アイ・ペッ」(矢・川、またはイラクサ川)の意味』とあります。「プト」が「川の入り口」の意味で、2つの川の合流地点という意味もあるので、石狩川と愛別川の合流地点を示すのは「プト」になります。
すなわち、アイ(矢)・ペッ(川)・プト(合流点)です。アイペップトとは、石狩川と愛別川の合流点のことだそうです。
図5 『アイペップト 故郷(ふるさと)ものがたり 町制施行30周年記念』の表紙
柳橋尚寿作「ふるさとの幻影」
本書の内容を詳しくは説明しませんが、以下に目次の概要を示します。
- 目 次
- 第一話 小春から
- 1
- 第二話 和歌山大水害から金富農場移住まで
- 19
- 第三話 開拓あれこれ
- 65
- 第四話 生活の移り変わり
- 93
- 第五話 アンタロマはひとつ
- 131
- 第六話 愛別川のほとり
- 165
明治26年(1893)災害の被災民が愛別町の金富農場に移住した経緯と、艱難辛苦のもと100年に渡る子孫の方々の暮らしの様子が分かりやすく、記載されています。読み進めていくと、p.59〜64に和歌山県南部地域から金富農場に入殖された子孫の出身地の市町村名が77戸分(当初入村したのは70戸)記載されていました。不明の方もおられると思いますが、77戸はほぼ全数に近いと思います。
図6は、愛別町金富農場付近の地形図『石狩國上川郡愛別原野區晝図 第貮』で、北海道立図書館北方資料デジタルライブラリーより転載させて頂きました。
図7は、和歌山県南部から愛別町金富農場に移住した被災民の出身町村別の戸数(黒文字村区分:明治27年(1894),赤文字市町村:令和5年(2023))を示しています。
図7 和歌山県南部から愛別町金富農場に移住した被災民の出身町村別の戸数
(黒文字村区分:明治27年(1894),赤文字市町村:令和5年(2023))
コラム90の図9は、明治22年(1889)紀伊半島災害の2年後に和歌山県から西永山兵村に移住した被災民の元の居住地を示しています。明治22年(1889)災害では和歌山県全域から西永山兵村に移住したのですが、明治26年(1893)災害は、会津川・富田川流域に被害が集中していました。金富農場に入殖したのは、ほぼ両河川流域に限られていました。
愛別町郷土史研究会の大西様に拙著『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』,そのU,Vを贈呈したところ、以下のような手紙を頂きました。その内容を転載させて頂きます。
「今年の猛暑から秋を経ないで冬の季節となりました。
十二月の十六日午前中にヤマト便で立派というか素晴しい研究論文と言うか、学術論文とコピーした文献をお送りいただき感銘いたしました。
腰をすえ時間をかけて拝読させていただきます。私は愛別や道内の市町村史に出てこないそこに住む人の生活の消え去るようなことを古老などから聞きとり、小学校三・四年生以上の児童・生徒・町民に理解できるよう平易に意を用いて来ました。
北海道の開拓は本州にない独特なものがあります。海では場所請制度、道路工事はカンゴク部屋労働、鉄道ではタコ部屋、ロシアを意識した屯田兵制度など、アイヌの酷使も。
私は戦前生まれの古い人間ですので、公に出す文書はパソコンで打ちますが、一般的には手書きにしていますので読みにくいでしょうがご了承下さい。
最後になりましたが、これからも精一杯ご活躍の程お祈り致しております。
令和五年十二月十七日
大西 眞一」
来年の春には、旭川市西永山兵村と愛別町金富農場跡地にお伺いし、大西様にも面会したいと思います。
引用・参考文献
愛別町郷土史研究会(1991):アイペップト 故郷ものがたり,町政施行30周年記念,愛別町教育委員会,208p.
愛別町史編集委員会(1969):愛別町史,1130p.
生馬郷土史小学校百年史編集委員会(1980):生馬郷土史 小学校百年史,生馬小学校百年祭実行委員会発行,857p.
井上公夫(2022):コラム77 和歌山現地学習会・歴史から学ぶ防災2021,―命と文化遺産とを守る―,田辺市・上富田町での現地学習会,20p.
上田萬一(1988):富田川明治水害難民物語北海開拓秘話 金富農場の由来,田邊文化財,31号,p.46-62.
遠藤由紀子(2006):屯田兵村における神社の由縁とその類型,―石狩川上〜中流域の場合―,歴史地理学,48巻5号,p.1-18.
大西真一(1988):和歌山大水害から金富移住まで,田邊文化財,31号,p.30-46.
上富田町史編さん委員会(1998):上富田町史 通史編,1034p.
桑原康宏(1980):明治二十二年の大水害と屯田兵応募について,―目良謙吉入地紀行の周辺―,紀南文化財研究会,くちくまの,44号,p.1-24.
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