1.はじめに
千葉県南部は、関東地震による激震地域ですが、土砂災害はあまり知られていません。参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)は、震災直後の9月6日〜15日に延べ94名の要員を配して徒歩で現地調査を行い、「震災地応急測図」(1/20万帝国図(地勢図)2枚,1/5万地形図28枚,1/5万秘図7枚,1/2万地形図7枚,1/1万地形図19枚,計63枚)を作成しました。
震災地応急測図は国土地理院古地図コレクションで利用申し込みすると、無料で閲覧可能です(
https://kochizu.gsi.go.jp/item-categories/18)。
震災地応急測図については、歴史地震研究会編集・日本地図センター発行(2008)『地図にみる関東大震災―関東大震災の真実―』に詳しく説明されています。私は、
第T部第3章 震災地応急測図と土砂災害,p.18-39.
第U部解説編 震災地応急測図と土砂災害,p.50-61. を分担執筆しました。
図1は1/20万帝国図(地勢図)の震災地応急測図で、伊豆半島や房総半島南部の安房地域の関東地震による被災状況が示されています。この図は、1/5万地形図「玖須美(伊東)」「稲取村(稲取)」「北條(館山)」「那古」の調査結果を1/20万帝国図(地勢図)「横須賀」にまとめたもので、相模湾に面した伊豆半島・湘南・三浦半島・房総半島の交通網(鉄道・道路)の概要がわかります。
2.1/5万秘図地域「木更津」「鹿野山(富津)」「那古」の震災地応急測図
関東地震直前に1/5万地形図「茂原」(1903年測図)、「鹿野山(富津)」(同上)、「姉崎」(1903年測図,1921年鉄道挿入)、「那古」(同上)、「大多喜」(同上)、「北條」(同上)、「木更津」(1903年測図,1921年修正)が修正測図されていました。しかし、これらの地形図は首都防衛のため、関東地震当時「秘図」扱いになっていて、陸地測量部の調査隊員でも地形図を持ち出せませんでした。このため、調査隊員は海岸線・鉄道・集落名をトレースした図を作成し、現地調査時に利用しました。
図2は、秘図地域の「木更津」(南側の一部)「鹿野山(富津)」「那古」(北側の一部)の写図・震災応急測図です(歴史地震研究会編集,日本地図センター発行,2008)。木更津町(木更津市)から勝山町(鋸南町)間の国鉄北條線(現JR内房線)や県道(現国道127号)の被災状況が示されています。また、関東地震による町村別の死者・負傷者・全壊・半壊数も示されています。
関東地震(1923)当時北條線は蘇我から木更津・安房北條(現館山)を経て、江見まで開通していました。太海―安房鴨川間にある嶺岡隧道(延長772m)は建設中でしたが、かなりの被害が発生しました(復興局,1927の図95,96,写真427〜431)。江見−太海間は大正13年(1924)7月、太海−安房鴨川間は大正14年(1925)7月に開通しました。安房鴨川から東側の房総線が全線開通したのは昭和4年(1929)4月です。
内田(2012)によれば、関東大震災では房総半島南部は最も大きく揺れた地域の一つで、安房北條駅では震度Z相当の激しい揺れとなりました。地震発生時に蘇我〜江見間では旅客列車3本、貨物列車2本が運行されていました。その中で、安房北條〜九重間で旅客列車の機関車が脱線、安房勝山〜岩井間で貨物列車の貨車8両が脱線または転覆しました。路盤の沈下被害は8.4kmに及び、東海道本線の次に多大でした。木更津以南では路盤の被害は大きかったものの、列車本数が東海道本線よりずっと少ないこともあって、運行中の列車で負傷者を出すような大きな事故は起きませんでした。
安房北條駅では、機関車庫内と留置線にあった機関車5両が激しい揺れにより横転しました。その形式は5500形2機、5900形1機、6760形2機でした。5500形は明治31年(1898)のイギリス製、5900形は明治30年(1897)のアメリカ製、6760形は大正4,5年(1915,1916)の川崎重工製でした。これらは動輪が2軸のB形機関車で動輪直径が小さく、東海道線で旅客列車を牽引していたC形機関車に比べると、明らかにスピードが劣っていました。北條線は線路規格(レールの重さや路盤の状況)が低く、運行速度は東海道本線よりも遅かったため、被害が少なかったと推察されます。
上総湊〜浜金谷間の湊川橋梁は、大正4年(1915)完成の全長300mの単線橋梁ですが、橋脚17基のうち13基が水平に切断され、上下で最大1m近くのずれを生じました。九重〜千倉間の第一瀬戸川橋梁は、全長40mで橋桁が2連墜落しました。上総湊以南の橋梁は、多くの橋脚が水平に切断されました。橋梁付近の線路は、川の堤防へと高度を上げるために築堤を築きますが、ほとんどの箇所に沈下などの被害が見られました。那古船形駅付近の線路築堤では、延長300mにわたり最大4m陥没しました。
3.千葉県南部の土砂災害一覧
図3は関東地震による千葉県南部の土砂災害分布図(井上,2013)で、表1は千葉県南部の土砂災害一覧表(井上・伊藤,2006;井上編著,2013)です。これらの図・表は地質調査所(1925a,b)や市町村史などの被災記録をもとに整理し、被害地点をプロットしたものです(井上編著,2013)。2024年1月27日(土)に相原延光、井上公夫、井口隆、千田敬二の4人で千葉県南部の現地調査(
は調査地点)を行いました。
図3 関東大震災による千葉県南部の土砂災害分布図(井上編著,2013)
基図は1/20万地勢図「東京」「千葉」「横須賀」「大多喜」を使用
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表1.1 千葉県南部の土砂災害一覧表(井上・伊藤,2006;井上編著,2013)
表1.2 千葉県南部の土砂災害一覧表(井上・伊藤,2006;井上編著,2013)
4.安房地域の地形・地質状況と主な土砂災害地点の特徴
図4は地質調査所(1925a)による安房地域の地質図で、表1に示した土砂災害地点のNo.1〜22を赤字で追記しました。
図4 関東地震後調査による房総地域の地質図と土砂災害分布図(井上,2013)
(地質調査所(1925a)に土砂災害地点を赤字で追記)
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国道127号は房総半島の西海岸を南北に縦貫する南北55km余りの路線です。江戸時代、房総半島西海岸を江戸から北條(館山)まで至る房総往還がありましたが、海岸沿いの道は「関東の親不知」と呼ばれる難所でした。江戸や千葉から北條(館山)に行くには、東京湾を船で航海する方が多かったようです。
明治初期、房総往還は房総西街道となりましたが、君津市以南は地形・地質条件が厳しく、道路の改良はほとんど進みませんでした。当時の輸送の主役は沿岸を通る海運や舟運でした。図5に示したように、明治19年(1886)に木ノ根隧道が完成し、緑線で示した高崎から丹生を通って館山市船形に至る県道の通行が可能となりました(隧道完成前は木ノ根峠を通る山道がありました)。明治21年(1888)に難工事の末、鋸山の沿岸を通る明鐘街道が開削され、千葉から館山まで馬車通行が可能となりました。明治28年(1895)に「要塞要部条例」によって、木更津から半島南端までの西海岸一帯は対岸の三浦半島とともに終戦まで東京湾要塞地帯に指定されました。明治30年(1897)に南無谷崎に新道が拓かれ、県道はそれまでの木ノ根隧道を通る街道から海岸沿いに移りました。
大正8年(1919)に国鉄南無谷隧道(延長736m)が完成して、国鉄北條線(現JR内房線)が北條(現館山)まで開通し、陸上輸送の主役が鉄道に移りました。大正9年(1920)に旧道路法が施行され、海岸沿いの街道は県道6号千葉北條線となりました。
大正12年(1923)の関東大震災によって、国鉄南無谷隧道は大きく被災し、3ヶ月不通となりました(後述)。南無谷隧道の被災状況が大きかったため、ルート変更し、図5に示した岩富トンネルが3年後に完成しました。県道6号千葉北條線も被災し、しばらく通行不能となりました。
昭和18年(1943)木更津〜富崎(館山市布良)間72kmが「特37号国道」に指定され、“房総国道”と称されました。路線番号が“特”で始まる路線は、正式には特別国道と呼ばれ、軍事上重要な地点を結ぶ軍事路線でした。軍事工事として隧道が数本完成しましたが、敗戦で工事は中止されました。図5に示したように、終戦後工事は再開され、昭和25年(1950)までにすべての隧道が完成しました。昭和28年(1953)に道路法が施行され、2級国道127号館山千葉線に指定されました。昭和40年(1965)に道路法が改正され、一般国道127号となりました。
写真1、2は2024年1月27日の現地調査の際、明治30年(1897)頃に完成した旧南無谷隧道の北坑口と南坑口です。
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写真1 県道6号千葉北條線旧南無谷隧道北口
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写真2 旧南無谷隧道南口(1897年頃完成) |
2024年1月27日井上撮影
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図5 房総西街道(国道127号)と国鉄北條線の隧道の変遷(南房総市高崎〜船形間)
1/25,000地形図「那古」図幅(令和4年(2022)調製)に追記
(緑線は明治19年(1886)〜明治30年(1897)の県道)
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5.関東地震による主な土砂災害地点
主な地点の土砂災害の状況を説明します。
地点5 富浦村(現南房総市)国鉄南無谷隧道
(南坑口:北緯35.070,東経139.894,標高34.0m)
国鉄北條線(現JR内房線)の岩井−富浦間にあった南無谷隧道(全長736m)は大正7年(1918)に新第三紀層の泥岩を掘削して開通しました。復興局(1927)によれば、関東地震時に北口と南口で大崩落があり、隧道は不通となりました。復興局(1927)の附図第九十三図(図6),九十四図,九十五図や写真335〜345に隧道の被災状況、応急工事の様子が示されています。この隧道の被害は千葉県内の鉄道で最大でした。隧道内で発生した崩壊のため、トンネル中央部240mが土砂で埋まりました。国鉄では隧道の補修を行い、地震から3ヶ月後の大正12年(1923)11月28日に応急復旧しました。しかし、隧道の状況が良くなかったため、西側に新ルートが計画され、大正15年(1926)11月岩富トンネルが建設されました。南無谷隧道は現在も廃止隧道として残っていますが、隧道は現在半分ほど水没しています。
南無谷隧道で検索すると、JRの南無谷隧道(現岩富トンネル)と国道127号の南無谷隧道について多くのブログが公開されているので、写真や説明を閲覧して下さい。水没した廃止隧道をボートで736m通過した動画像もYou Tubeで公開されています。
図6 國有鐡道北條線南無谷隧道全般圖(附図第九十三)(復興局,1926)
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地点19 那古町(現館山市)那古山
(北緯35.026,東経139.858,標高20.1m)
那古山では、高さ40m,幅30mの崖が崩落し、県道筋の住家2戸と10戸の大半を埋没させ、即死者3名の被害がありました。翌2日正午の地震、26日17時頃の余震時にも、崖の一部が崩落しました。那古山の亀裂は那古観音への上り口東側より起こり、山の南側中腹に沿って約600m東方に連続しました。亀裂の幅は90cm以下でしたが、山の斜面に沿って落下したようでした。この亀裂は新第三紀層の砂岩と表土との境界面に生じたもので、境界面に沿って薄い粘土層がありました。砂岩層は層理が発達し、かつこれに垂直な方向に剥離する性質がありました。
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写真3 那古観音と下部斜面の急崖部(県道筋の人家12戸が全壊)
(2013年6月井上撮影)
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地点19-2 船形町(現館山市)大福寺の崖の観音
(北緯35.031,東経139.840,標高35.7m)
館山市船形町の背後の斜面には、普門院船形山大福寺があります。境内の船形山に浮かぶ朱塗りの観音堂は「崖の観音」と呼ばれて親しまれています。この観音堂の本尊は、養老元年(717)に行基(668-749)が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一面観音を彫刻しました。その後、慈党大師(794-863)が当地に来錫した折に堂宇を建立したと伝わっています。江戸時代になり、承応二年(1653)二月に観音堂が火災にあい、朱印・什宝・伝記等すべてを失いました。正徳五年(1715)に観音堂は再建され、朱印も再開されました。明治43年(1910)の大豪雨により土砂崩れにあい、本堂・庭園とも倒壊しました。さらに、大正12年(1923)の関東地震で観音堂・本堂は倒壊しました。現在の観音堂は、2年後の大正14年(1925)、本堂は昭和元年(1926)に再建されました。
その北隣の中腹に建設された東京市養育園安房分院の院舎数棟も全潰して、収容中の院児10名と職員1名が死亡しました。
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写真4 大福寺の境内案内看板
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写真5 大福寺の駐車場からみた崖 (2013年6月井上撮影) |
地点23 戸田村(現市原市)上原
(北緯35.422,東経140.130,標高42.5m)
養老川右岸に位置する浅間山(88m)の南断崖が崩壊しました。この崩壊は表土のロームのみならず,下部の新第三紀層にまで及びました。そして、長さ200m、幅40mにわたり養老川を塞き止めました。ただちに人工開削が行われ、河道の南側20mの地区に疏水できるようになり、洪水を免れました(地質調査所,1925b)。
2024年1月27日に現地調査しましたが,旧河道付近は植生が繁茂し、良い写真は撮れませんでした(写真4)。養老川は南側に移設・河川改修されており、浅間山の下の旧養老川は旧河道が残っているだけで流水はなく、崩壊が拡大することはなくなりました。
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図7 浅間山(88m)の斜面崩壊壊(地点23) 地質調査所(1925a) < 拡大表示>
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写真6 旧養老川南側からみた浅間山 2024年1月井上撮影 |
地点26 中川村(現袖ヶ浦市)富川橋
(北緯35.380,東経140.025,標高10.7m)
小櫃川北岸百目木より横田、山中に至る300mの間、小櫃川に並行して東西の亀裂が生じて階段状を形成し、川に押し出しました。亀裂は川を挟む両岸60mの間に5〜6mの間隔で十数本あり、概ね幅0.3m、深さ2m内外で、地震当時は亀裂中より噴水しました(地質調査所,1925b)。この地すべりにより田地は荒廃し、小櫃川に近い小路、宅地に亀裂が発生、あるいは、亀裂より噴水し、家屋を倒壊傾斜させました。小坪渡舟付近(図8のAB線付近)では、小櫃川は幅20〜25mで西流し、北岸にあった竹藪が南方河道へ移動し、中洲のようになりました。北岸にあった水車は20m押し出され、南岸に達し、渡船小屋は20m押し流され、洲の中に倒れました。一ノ榎は12m南方に押し出され、現在では北岸に臨んでいます。その東方の富川橋に至る区間は、田地に数段の階段状の亀裂を作って南方に移動し小櫃川を閉塞しました。富川橋の東側の北岸では、階段状の落差は2mに及びました。全体に液状化現象が生じたものと判断されます。
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図8 小櫃川富川橋の地すべり(地点26) 地質調査所(1925b) < 拡大表示>
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図9 小櫃川北岸の百目木〜横田・山中の地形 地理院地図より作成
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地点27 周西村(現君津市)人見
(北緯35.337,東経138.867,標高62.5m)
小糸川右岸に位置する人見の妙見山(妙見神社:君津市史には人見山とある)では、小糸川に面する絶壁の上部が崩壊(長さ80m,高さ4〜50m,6万m³以上)しました。このため、小糸川を高さ12m、幅70m、長さ70mにわたり塞き止め、小規模な天然ダムが形成されました。翌日より、塞き止めた土塊を取り除き、同日夕刻、わずかに疏水するに至り、9月18日に復旧することができました(地質調査所,1925b)。
地震直後の調査時は,崩壊地頭部は長さ30m,幅6mにわたって、北北西の亀裂が多く発生し、さらに崩落寸前でした。崩落した部分は、ローム及び新第三紀の荒い砂岩で、その下の地層はわずかに崩壊したに過ぎませんでした。頂上の妙見神社の拝殿は南方に、籠堂は西方に倒壊し、観世音堂は南方に傾き、本堂のみ倒れませんでした。
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図10 小糸川右岸妙見山の斜面崩壊(地点27) 地質調査所(1925b) < 拡大表示>
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写真7 小糸川対岸からみた妙見山 2024年1月井上撮影 |
6.千葉県南部の地震・津波自然災害伝承碑
自然災害伝承碑は、地震、津波、洪水、噴火といった大規模な自然災害の状況や教訓を後世に伝え残すために作られた災害碑、慰霊碑、記念碑等の碑やモニュメントです。国土地理院では、平成30年(2018)の広島災害を契機として、平成31年(2019)3月に自然災害伝承碑の地図記号を制定して、ウェブ版の「地理院地図」や紙版の2万5千分1地形図への掲載を進めています。地理院地図には令和6年(2024)1月25日時点で、47都道府県596市区町村2,081基の自然災害伝承碑が公開されました。
千葉県では40基の自然災害伝承碑が地理院地図に公開されています。図11は、千葉県南部の関東地震(1923)・元禄地震(1703)・東北地方太平洋沖地震(2011)の自然災害伝承碑で、図12は安房地域の拡大図です。表2は千葉県南部の関東地震による自然災害伝承碑一覧表、表3は元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害伝承碑一覧表です。2024年1月27日の現地調査では、自然災害伝承碑の箇所を回りたかったのですが、数か所しか行けませんでした。
図13は地理院地図に掲載された関東地震による自然災害伝承碑(15基)、図14は元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害伝承碑(20基)を示しています。
まだ、地理院地図に登録されていない自然災害伝承碑も多くあると思いますので、その伝承碑の所在と写真、災害の状況などをご存じの方は教えて下さい。
日を改めて、自然災害伝承碑を訪ねて行きたいと思います。
図11 千葉県南部津波地震災害伝承碑(地理院地図より)
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図12 安房地区津波地震災害伝承碑(地理院地図より)
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表3 元禄地震と東日本太平洋沖地震災害伝承碑一覧表
図13.1 地理院地図に掲載された関東地震による自然災害伝承碑(1,3,4,5)
図13.2 地理院地図に掲載された関東地震による自然災害伝承碑(6,7,8,9)
図13.3 地理院地図に掲載された関東地震による自然災害伝承碑(10,11,12,13)
図13.4 地理院地図に掲載された関東地震による自然災害伝承碑(14,15,16)
図14.1 元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害(2,17,18,19)
図14.2 元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害(20,21,22,23)
図14.3 元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害(24,25,26,27)
図14.4 元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害(28,29,30,31)
図14.5 元禄地震と東北地方太平洋沖地震による自然災害(32,33,34,35)
引用・参考文献
安房郡国府村(1924):安房郡国府村震災誌,36p.
安房郡龍田村(1924):安房郡龍田村震災誌,20p.
安房郡船形村(1923):安房郡船形村震災誌,70p.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文226p.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩く,U,丸源書店,306p.
コラム43 神奈川県・静岡県・千葉県の土砂災害を示す「びゃく」,p.162-175.
井上公夫(2020):歴史的大規模土砂災害地点を歩く,V,丸源書店,268p.
コラム62 南関東の「びゃく」という地名の由来について,p.165-177.
井上公夫(2024):関東大震災による土砂災害とその分布特性,防災科学技術研究所研究資料「2023年度土砂災害予測に関する研究集会プロシーディング」,発行日未定
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会1923関東大震災報告書,第1編,p.50-79.
内田宗治(2012):関東大震災と鉄道,新潮社,239p.,ちくま文庫(2023),302p.
鈴木英之(1991):房州方言,165p.
鈴木守・吉田善亮・竹林亜夫(1974):千葉県鴨川市嶺岡隧道の地質と膨張性地圧について,応用地質,15巻1号,p.1-13.
鈴木尉元・小玉喜三郎・三梨ミ(1990):那古地域の地質,地域地質調査報告,5万分の1地質図幅,東京(8)第94号,地質調査所,49p.
武村雅之(2019,2020,2021):東京都における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構,名古屋大学減災連携研究センター,(そのT 墨田・江東区),163p.,(そのU 台東区・荒川区・中央区・港区・千代田区・文京区),233p.,(そのV 郊外各区と移転先寺院),215p.
武村雅之・都築充雄・虎谷健司(2014,2015,2016):神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構,名古屋大学減災連携研究センター,(その1 県中部編),101p.,(その2 県西部編(熱海・伊東も含む)),148p.,(その3 県東部編),210p.
館山市立博物館(1985〜1992):地区展図録たてやまの歴史と文化財,@那古・舟形,A西岬,B神戸・富崎,C九重,D館山,E館野,F豊房,G北条.
地質調査所(1925a):千葉県安房郡地震調査報文,関東地震調査特別報告,第1号,p.8-13.
地質調査所(1925b):千葉県上総下総地震調査報文,関東地震調査特別報告,第1号,p.55-173.
千田敬二・西村智博・下村博之(2024):関東地震の土砂災害に係る災害伝承碑について,防災科学技術研究所関東地震の土砂災害に係る災害伝承碑について,防災科学技術研究所研究資料「2023年度土砂災害予測に関する研究集会プロシーディング」,発行日未定
千葉県安房郡役所(1926):安房震災誌,写真・図,21葉,本文,356p.
千葉県環境財団(2008):防災誌 元禄地震,―語り継ごう 津波被災と防災―,千葉県総務部消防防災課,40p.
千葉県環境財団(2009):防災誌 関東地震,―千葉県の被害地震から学ぶ震災の備え―,千葉県総務部消防防災課,30p.
千葉県郷土史研究連絡協議会編(1984):郷土研叢書W 房総災害史,―元禄の大地震と津波を中心に―,千秋社,312p.
千葉県土木部(1955):房総地辷り地帯の調査報告,70p.
千葉県罹災救護会(1993):大正大震災の回顧と其の復興,上巻,990p.,下巻,1506p.
千葉県立安房博物館(2003):平成15年度企画展,地震と津波,展示解説図録,111p.
鉄道省(1927a):大正十二年鉄道震災調査書,鉄道省大臣官房研究所,p.1-85,図表写真
鉄道省(1927b):大正十二年鉄道震災調査書補追,鉄道省大臣官房研究所,p.1-147,図表写真
鉄道省編(2011):関東大震災・国有鉄道震災日誌,解題:老川慶喜,2901p.
復興局(1927):大正十二年関東大地震調査報告,第二巻 鉄道及び軌道の部,p.1-85.,表,1-36,写真,1-279,附図,1-117.(土木学会(1984)より同名の復刻版の第二巻刊行)
船形尋常小学校編纂(2012):大正十二年癸亥年九月一日安房郡船形町震災誌・改訂版,59p.
村山由佳(2005):楽園のしっぽ,文芸春秋,276p.,(2009):文春文庫,320p.
山田恵一編著(1994):房州地方に残る言葉「いへじょ」,(付)房州地方に伝わるりげん(俚諺)&禁忌,111p.
歴史地震研究会編集(2008):地図に見る関東大震災,―関東大震災の真実―,日本地図センター発行−,68p.
井上執筆分:第T編3章 震災地応急測図と土砂災害,p.18-39.
第U編解説編 震災地応急測図と土砂災害,p.50-61.