1.はじめに
2024年1月21日(日)に横浜情報文化センターで、丹沢大山自然再生委員会主催(神奈川県自然環境保全センター共催)の2023年度丹沢大山自然再生活動報告会が「関東大震災から100年〜歴史からみる丹沢〜」をテーマとして開催されました。
プログラムは以下のようになっています。
第1部 活動・研究報告
報告@ 丹沢大山自然再生のこれまでの道のり
丹沢大山自然再生委員会 勝山 輝男
報告A 丹沢中津川流域における崩壊地の46年間の推移
日本大学生物資源科学部 森林学科 園原 和夏
報告B 三ノ塔の震災復旧工事箇所の植樹活動
NPO 法人丹沢自然保護協会 中村 道也
第2部 シンポジウム
基調講演 関東大震災と土砂災害
一般財団法人砂防フロンティア整備推進機構 井上 公夫
話題提供@ 震災直後の相模大山の土石流とその復興−災害の記録−
伊勢原市教育委員会 諏訪間 伸
話題提供A 青根地区の伐木事業と関東大震災−大倉組伐木記念碑をめぐって−
相模原市立公文書館 井上 泰
総合討論
全体として「関東大震災から100年〜歴史からみる丹沢〜」がテーマであり、丹沢地域についての色々な観点からの話があって、大変勉強になりました。私は「関東大震災と土砂災害」と題して、神奈川県西部で発生した関東地震による土砂災害の分布とその特性について説明しました。
諏訪間様は「震災直後の相模大山の土石流とその復興−災害の記録−」と題して、阿夫利神社に至る門前町参道付近の土石流災害について、当時の写真などをもとに説明されました。私もこの時の土石流災害について興味を持っていましたので、諏訪間様にお願いし、3月15日(金)に相原延光様と一緒に現地調査を行いました。本コラムでは、丹沢山地東部地域と大山阿夫利神社参道付近の関東地震による土砂災害について報告します。現地調査の結果については、コラム94で説明します。
2.震災地応急測図による丹沢山地東部の土砂災害分布
図1は、(社)地盤工学会関東支部神奈川グループ編(2010)「大いなる神奈川の地盤―その生い立ちと街づくり―」の口絵-1 神奈川県周辺の地質図(森,2005)を転載したものです。この地質図の説明は、本書の中で詳しく説明されています。☐枠は図2の概略範囲、☐枠は図3,4の概略範囲を示しています。
図1 神奈川県周辺の地質図 (地盤工学会関東支部神奈川県グループ編,2010)
『大いなる神奈川の地盤―その生い立ちと街づくり―』,森(2005)による
青線は図2の範囲,
赤線は図3,4の範囲<
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図2は、神奈川県森林再生課所蔵の「神奈川県震災荒廃林野復旧事業図」の丹沢東部の拡大図です(井上編著,2013;井上,2017:コラム39)。作成年は不明ですが、関東地震から7年後の昭和4年度(1929)までの治山施工地を緑色で示しています。
日本で最初に作成された土砂移動分布図で、崩壊地や地すべり地の分布状況が良く分かります。墨で塗られた部分は御料林で、明治期にはかなり良好な天然林でした。その後、伐採事業が行われ、関東地震の頃にはかなり荒廃していたようです。関東地震による崩壊に関する当時の記録では、崩壊は、無立木地や幼齢林に多かったと記されています。
御料林が県有林になったのは、昭和6年(1931)で、現在の清川村、山北町のエリアです。かつての御料林の管理は、現在では林野庁と神奈川県が行っています。
図2 神奈川県荒廃林野復旧事業図(丹沢山地)の丹沢山地東部(井上編著,2013)
土砂災害地点(〇数字は地震直撃,●数字は2週間後の豪雨による土砂災害)
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山地の崩壊は、「関東震災荒廃林地復旧事業報告書」林務課編(神奈川県農政部林務課(1984)『神奈川県の林政史』所収)によれば、
「震災に因り荒廃に導かれし林野の分布区域は、5郡36ヶ町村に亘り、其崩壊せる面積実に8600余町歩(86km²)に達せり。当時に於ける林野の直接損害は立木其他の林産物を合し521万円と称せられ、年林産額の約2倍半以上に相当し、此莫大なる被害は瞬時の間に惹起せるものにして、其被害たるや単に立木のみに止まらず、山地の崩壊に加ふるに多数の亀裂を山頂山腹の至る処に印し、他日の重大なる禍根を残せるものと言ふを得べし。即ち崩落土砂の多量を渓間に堆積せしめ、地表の亀裂は降雨毎に崩壊面積を拡大し、土砂を下流に押流し河床を高め、一朝水害に見舞はれんか其惨害の及ぶ所実に想像にあまりあるべく。
この8600余町歩は、当時の林野面積12万2000余町歩(1220km²)の約7%に相当する面積であった。このような状況の所に、9月14日から雨が降り始め、大雨となり、9月15日には大山地区で大規模な土石流が発生した。
これに続いて、大正13年(1924)1月15日5時51分、またもや丹沢附近を震央とする丹沢地震(相模地震とも呼ばれる)が発生した。マグニチュード7.2、最大深度Yという大きな地震であった。相模川・酒匂川流域の被害がひどく、死者13人、倒壊家屋6,300戸で、この地域に集中した。この地震と降雨により山地の荒廃はその度を増し、拡大したものと思われる。
神奈川の治山を語る時この災害をなくしては語れない。今なお山奥にはこの傷跡が残り、当時の惨害がしのばれる。それ以前、補助事業として細々と続けられていた治山事業の効果が一挙に吹き飛び無に帰すような重大事態となった。しかし、この大規模な崩壊地の復旧事業によって、その組織、予算、そして復旧事業拡充強化が図られ、神奈川は治山先進県として注目されるようになった。」と記されています。
図3は1/5万旧版地形図の「秦野」(1929年測図)「藤沢」(1945年修正測図)図幅で、関東地震直後の地形・土地利用状況を示しています。この図にも土砂災害地点(〇数字は地震直撃,●数字は2週間後の豪雨による土砂災害)を示しました。
図3 丹沢山地東部の旧版地形図による土砂災害地点(K,L,M,❶,❷,❺,❻,❼,❽,❾)
1/5万旧版地形図「秦野」(1929年測図),「藤沢」(1945年修正測図)に追記
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神奈川県企画部企画総務室(1987,88,89)では、5万分の1の@小田原・熱海・御殿場、A藤沢・平塚、B秦野・山中湖図幅について、土地分類基本調査を実施しています。この調査では、T地形分類図、U表層地質図、V土壌図、W土地利用現況図及び土地利用履歴図、X自然災害履歴図を作成しています。5万分の1の同一縮尺でこれらの図が作成されており、当該地域の自然的人文的特徴が把握しやすい貴重な図と解説書です。
図4は、「秦野・山中湖」「藤沢・平塚」図幅の「自然災害履歴図」で丹沢山地東部を示しています。この図では関東地震及びその直後の斜面崩壊の範囲をピンク色で示し、戦後の主な地滑り・土石流と斜面崩壊を黄色で示しています。大山・阿夫利神社付近にも関東地震による崩壊地が多くありますが、丹沢山地中央部の方が、崩壊発生密度が高く、崩壊規模も大きいようです。図には円グラフで当時の町村別家屋被害が示されています。円グラフの凡例を右下に入れました。秦野町(世帯数2053戸,人口10,075人)はこの地域では最も被害が大きく、全潰556戸(全壊率27.1%)、焼失271戸となっています(武村,2011)。
図4 丹沢山地東部の自然災害履歴図(「秦野・山中湖」「藤沢・平塚」図幅)
(神奈川県企画部企画総務室(1987):土地分類基本調査,80p.)
円グラフは当時の町村別家屋被害(凡例は図の右下に示す)
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3.関東地震時の崩壊面積率
図5は、関東地震による崩壊面積率(建設省土木研究所,1995)で、1/5万「自然災害履歴図」の@小田原・熱海・御殿場、A藤沢・平塚、B秦野・山中湖図幅をもとに、流域区分毎に崩壊面積率を計測して作成したものです。図5によれば、崩壊面積率は丹沢山地の中央部で高く20%を超える流域が多くあります。特に高いのは、丹沢山地南面の寄沢(1:48.0%)、水無川(2:41.1%)、四十八瀬川(3:38.3%)は、40%前後の崩壊面積率を示しています。丹沢山地全体(調査面積773km²)では崩壊面積率が13.7%となり、山口・川邊(1981)が求めた15.2%と似た数値となっています。丹沢山地での関東地震による生産土砂量は、崩壊面積が106km²ですので、平均崩壊深を1mと仮定すると、1億600万m³となります。
箱根火山地域では、狩川(4:18.6%)、須雲川右岸(5:17.4%)が大きくなっています。箱根火山全体(調査面積234km²)では、崩壊面積率は5.9%でした。同様に、箱根火山地域での生産土砂量は、崩壊地の面積が14km²ですので、平均崩壊深を1mと仮定すると、1400万m³となります。
丹沢山地と箱根火山地域を合わせた関東地震全体の生産土砂量は、崩壊地の面積が120km²ですので、1億2000万m³となります。
丹沢山地は、富士山を供給源とする新期ローム(武蔵野・立川ローム層)の分布軸に相当します。急斜面では新期ロームは侵食されてほとんど残されていませんが、尾根や緩斜面上には2〜3m程度のロームが堆積しています。また、宝永四年(1707)の富士山噴火による降下火砕物(宝永テフラ)が、箱根火山北部から丹沢山地南部にかけて分布します。噴火から300年以上経過しているため、急斜面部に堆積した宝永テフラはすでに大部分が流出(斜面下部に二次堆積物として存在)しています。
丹沢山地南部は例外的に富士山から噴出した降下火砕物に厚く覆われているため、箱根火山地域以上に崩壊面積率が大きくなった要因の一つと判断されます。
図5 丹沢山地・箱根火山地域の関東地震による流域別崩壊面積率
(建設省土木研究所,1995;井上編著,2013)
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4.関東地震による崩壊地推移のモデル
丹沢山地の相模川水系中津川流域のある地域で、関東地震後の崩壊地個数の推移を検討しました(井上,1995)。基礎データは、丹沢山地の中津川流域(流域面積33.1km²)で、4時期の航空写真(1947,1962,1977,1980年撮影)の判読により作成した1/5000の崩壊地分布図です。図6はこれらの時期の判読結果を用いて、崩壊地の個数を計測し、関東地震とそれ以降の崩壊個数の変化をグラフ化したものです。
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図6 写真判読による丹沢山地での崩壊地個数の変化
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図7 関東地震前後の崩壊地変化のモデル |
< 拡大表示> (井上,1995;井上編著,2013)
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昭和22年(1947)時の崩壊地は、4時期のうちでも最も多く、1649個(崩壊面積率4.2%)存在しました。これは関東地震後に発生した崩壊地の大部分がまだ残っていたと考えられます。しかし、昭和37年(1962)時の崩壊地は233個(崩壊面積率0.56%)で、昭和22年(1947)時と比較すると、7分の1に減少しました。このうち、昭和22年から引き続き認められる崩壊地は64個所で、残りの169個所は新規に発生した崩壊地でした。
昭和52年(1977)時の崩壊地は、108個所(崩壊面積率0.34%)とさらに減少しており、昭和37年時から引き続き認められる崩壊地は29個所で、残りの79個所は新規に発生した崩壊地でした。昭和55年(1980)時の崩壊地は80個所(崩壊面積率0.23%)とさらに減少しています。
図7は、以上の崩壊個数の変化をもとに、関東地震前後の崩壊地変化のモデルを考察したものです。関東地震以前は崩壊地がほとんどなくかなり安定した林地でした(明治以降かなり荒廃していたという情報もあります)。関東地震によって、山地部の風化部や表土層が緩み、多くの崩壊地が発生しました。これらの崩壊土砂は斜面下部から渓床部に堆積し、渓流を河道閉塞した場所も多くありました。
2週間後の9月12〜15日の集中豪雨(4日間連続雨量,200〜300mm)によって、これらの土砂は土石流となって一気に流下しました。4.5ヶ月後の1924年1月15日に発生した丹沢地震(M7.3)によって崩壊地が10%以上増加したと言われています。
その後、神奈川県による砂防工事や治山工事が積極的に進められましたが、関東地震後10〜15年間は崩壊地や裸地斜面が多く、荒廃した状態が続いていました。また、昭和5年(1930)11月26日の北伊豆地震(M7.0)によっても、崩壊地は増加したと言われています。
さらに、昭和16年(1941)7月12〜13日の集中豪雨によって、相模川の支流の玉川流域(上流は日向川)で多くの土砂災害や洪水氾濫が発生しました。また、戦争中の混乱や戦争直後に襲ったいくつかの台風の襲来によって、関東山地は荒廃が進んだものと考えられます。したがって、ある程度の植生の回復があったとしても、米軍写真撮影時の昭和22年(1947)における関東山地の荒廃状態は、関東地震直後と大きくは変わらなかったと考えられます(神奈川県農政部森林課,1984)。
その後、砂防工事や治山工事の進捗によって次第に植生が回復し、崩壊地の数は急速に減少し、回復期に入ったと考えられます。この間に昭和33年(1958)の狩野川台風や昭和34年(1959)の伊勢湾台風の襲来など、多くの台風が襲来して崩壊が多発し、山地が荒廃したと言われていますが、新規崩壊の増加はせいぜい100個程度であり、戦後発生した台風襲来による影響は、関東地震時の10分の1以下程度であったことがわかります。
従来の砂防事業や治山事業は、主に豪雨による山地の荒廃や土砂流出を防止するために実施されてきたようです。しかしながら、図6に示したように、関東地震に起因した土砂災害は、その後の台風などの影響に比べてはるかに大きくなっています。このことは、今後南関東地域で発生が想定されている大規模地震時の土砂災害対策を早急に検討する必要性があることを示しています。
5.関東地震直撃による土砂災害
図2〜4に示した関東地震直撃による土砂災害の概要を説明します。
地点K 秦野市南の丘陵地・震生湖
秦野市南の渋沢丘陵では、市木沢の北斜面が馬蹄形に崩壊し、崩壊土砂が市木沢を堰き止めて、天然ダムが形成されました(寺田・宮部,1932;井上,コラム39,コラム88,秦野市教育委員会,2023)。天然ダムは、風化火山灰層が厚く堆積する渋沢丘陵北部の山林及び畑・家の一部が馬蹄形に崩壊し、市木沢を河道閉塞したものです。
秦野市の1/2500平面図「平沢2」をもとに計測すると、震生湖への集水(流入)面積はかなり狭く15.3万m²でした。地すべり地の面積は3.9万m²、堰き止め土砂量19.5万m³(平均深さ5mと仮定)と推定されます。現在の震生湖(湛水標高152.7m)は、秦野市史編纂室(1987)による「震生湖の水深図」をもとに計測すると、水深9m、湛水面積1.6万m²、湛水量6.0万m³と推定されます。
堰き止めを引き起こした地すべり地の滑落崖は明瞭に残っており、現在は太陽光発電所(以前はゴルフ練習場)となっています。震生湖の集水面積は15.3万m²と極めて狭く(天然ダムへの雨水の流入が少ない)、堰き止め土砂量が湛水量よりも多くなっています。このため、流入水は堰き止め土砂の内部を流入して流下し、越流することはなく、決壊せずに現在でも残っています。「震生湖」と名付けられ、秦野市の自然公園として憩いの場となっています。令和3年(2021)3月26日に震生湖は国登録記念物に指定されました。
地点L 秦野市(東秦野村)蓑毛,名古木の玉伝寺のいとこ地蔵
関東地震時に花水川・金目川上流域の大山・春岳沢・ヤビツ峠にかけて、無数の崩壊が発生し、東秦野村蓑毛付近では谷間に多量の土砂が堆積しました(西坂,1926;秦野市,1986)。特に、春岳沢両岸の崩壊は激しく、土砂が多くの地点で谷を埋め、金目川の流水を堰き止めました。2週間後の豪雨で、9月15日に3回の土石流が発生しました。3回目の土石流で家屋15戸の農家が流出しました。幸い夕刻に蓑毛付近の家の女性や子供は高台に避難していて死者の報告はありませんでした(武村,2011)。
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図8 秦野市名古木の玉伝寺 (地理院地図に追記) < 拡大表示>
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写真1 玉伝寺のいとこ地蔵 (2013年5月井上撮影) |
秦野市名古木の玉伝寺(図8)には、写真1に示した「いとこ地蔵」があります(秦野市,1992;武村,2011)。東秦野村では震災前小学校が3つに分かれていましたが、東小学校として統合するため、解体作業が始まっていました。震災時には玉伝寺や公会堂で授業が行われていました。地震発生時に玉伝寺東側の山が高さ50m、幅70mにわたって崩れ、いとこ同士の2人が生き埋めとなりました。村人や消防団が出て捜索しましたが見つけ出せなかったため、いとこ地蔵が建立されました。地すべり土塊で埋まった場所は現在広場となっており、いとこ地蔵は地すべりを起こした山を背にして立っています。
M 秦野市(北秦野村)菩提
葛葉川上流の北秦野村菩提から羽根にかけては崩壊が多発し、谷間に多量の土砂が堆積しました(秦野市,1986)。秦野市菩提字横手には、明治22年(1889)に北秦野村が成立して以来村役場がありましたが、関東地震で倒潰しました。現在は菩提会館となっています。会館前の広場には大イチョウがあり、その前に昭和5年(1930)9月1日建立の復旧記念碑があります。この碑文には「震泥山嶽亀裂崩落」や「荒廃地復旧」などの文字が刻まれています(武村,2011)。
秦野市史編纂室(1985)によれば、菩提地区の住民の話として、「関東大震災では山の3分の2が赤はだかになった。大平台は禿山になり、茅場は半分位崩れてしまった。」と当時の様子が記載されています。大平台は葛葉川上流の丹沢山系の山で、記念碑のある場所からも良く見えました(現在は新東名高速道路の高架橋で見えません)。
秦野市(1992)によれば、「地震により、葛葉川上流の大沢、大音沢、滝の沢の両岸が数十個所にわたって大きく崩壊した。土石が谷川を堰き止め、小規模な天然ダムが形成された。このため、河川の水量が地震前より少なくなった。」と書かれています。2週間後の豪雨で、9月15日午後11時に洪水が発生し、菩提地区28戸、羽根地区2戸の家屋が流出し、菩提地区5町5反、羽根地区2町歩の田畑が土砂埋没、流失しました。住民は高台に避難しており、死者はでませんでした。菩提地区では土石流の名残として、今でも大転石が点在しています。写真2は菩提の水害後の写真(はだの歴史博物館提供)、写真3は菩提会館前の復旧記念碑と大イチョウ(背後は新東名高速道路)です。
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写真2 北秦野村菩提,震災後の水害 (はだの歴史博物館提供)
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写真3 菩提の復旧記念碑と大イチョウ (2023年6月井上撮影,背後は新東名高速) |
6.地震発生2週間後の豪雨で発生した土砂災害
井上編著(2013)やコラム39,88でも説明しましたが、関東地震から2週間後の9月12〜15日の台風襲来による豪雨によって、丹沢・箱根地域で多くの土砂災害が発生しました(図2〜4に●数字で示す)。
以下に丹沢山地東部地区で発生した土砂災害について説明します。
地点❶ 伊勢原市(大山町)大山の土石流
この地区については7項とコラム94で詳述します。
地点❷ 伊勢原市(高部屋村)日向の土石流
9月1日の関東地震により、日向川流域全体で80町歩の崩壊が発生しました。9月15日の豪雨で大規模な土石流が発生し、浄発願寺・石雲寺・宝城坊などが大破しました。民家7、8戸が押し流され、死者4名の被害となりました。
地点❺ 秦野市(西秦野村)千村
秦野盆地の南側に千村集落は存在します。関東地震時に多くの崩壊が発生し、9月14日〜15日の豪雨で土石流が発生しました。渓流の下流側には人家がほとんどなく、被害はほとんどありませんでした。
地点❻ 秦野市(東秦野村)蓑毛
秦野盆地の北東側に蓑毛集落は存在します。地点Lでも説明しましたが、関東地震時に多くの崩壊が発生しました。9月15日に3回の土石流が発生し、家屋15戸が流失しました。
地点❼ 秦野市(北秦野村)菩提
秦野盆地の北側に菩提集落は存在します。地点Mでも説明しましたが、関東地震時に多くの崩壊が発生しました。9月15日23時に土石流が発生し、菩提で28戸、羽根で2戸の家屋が流失しました。菩提で5.5ha、羽根で2haの田畑が埋没・流失しました。
地点❽ 清川村(煤ヶ谷村)札掛
秦野盆地からヤビツ峠を越えた中津川の最上流部に札掛の集落は存在します。関東地震時に多くの崩壊が発生しました。さらに9月15日の豪雨で大規模な土石流が発生し、土石流が札掛集落を襲いました。39戸中32戸が埋没・流失しました。住民は避難していたため、人的被害はありませんでした。
NPO法人丹沢自然保護協会の中村道也様からのメールによれば、「既にお手持ちと思いますが、大正10年測量、昭和4年修正地図の地図を見ると、藤熊川と境沢(タライゴヤ沢)合流点付近が現在の札掛です。少なくも私が産まれたころはそうでした。ただ、古い地図を見ると札掛は合流点より約1`下流に記してあります。以前、書きましたように、震災で山津波があり、生き残った人達が石一つ落ちなかった今の地に移り住んだ・・と、子どもの頃に聞きました。」と教えて頂きました。
地点❾ 秦野市(西秦野村)大倉
❾は金目川水系水無沢の大倉地区で、秦野市(1992)によれば、9月17日夕方から大雨となり、「大ナルビャク来タリテ大倉集落大部分水中ニナル」と記されています。
7.大山・阿夫利神社付近の地形変化を航空写真でみる
大山・阿夫利神社参道付近の地形変化を数時期の立体視航空写真で見てみます。
写真4 1946年2月15日米軍撮影(USA M46-A5VT1-12〜14元縮尺S=1/39,948)
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写真4は昭和21年(1946)2月15日に米軍が撮影した写真(USA M46-A5VT1-12〜14,元縮尺S=1/39,948)です。大山周辺にはかなり多くの崩壊地が残っており、大部分が関東地震時に発生したものと考えられます(4項参照)。
写真5 1977年9月20日地理院撮影(CKT77-2 C-4-20〜22,元縮尺S=1/15,000)
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写真5は昭和52年(1977)9月20日に国土地理院が撮影した写真(CKT77-2 C-4-20〜22,元縮尺S=1/15,000)で、阿夫利神社上社(大山山頂)から下社付近が立体視できます。大山周辺にはかなり大きな崩壊地が認められます。
写真6 1977年9月20日地理院撮影(CKT77-2 C-5-19〜21,元縮尺S=1/15,000)
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写真6は昭和52年(1977)9月20日に国土地理院が撮影した写真(CKT77-2 C-5-19〜21,元縮尺S=1/15,000)で、阿夫利神社下社からケーブルカーと参道付近が立体視できます。参道付近には多くの寺社や土産物店が並んでいることが判ります。
写真7 2019年10月11日地理院撮影(CKT2019-6 C8-14〜16,元縮尺S=1/10.000)
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写真7は令和元年(2019)10月11日に国土地理院が撮影した写真(CKT2019-6 C8-14〜16,元縮尺S=1/10.000)で、阿夫利神社下社からケーブルカー・参道付近が立体視できます。現地調査時にはこの写真をもって位置の確認を行いました。大山山頂付近の航空写真も入手してありますが、ほとんど崩壊地はなくなっています。
引用・参考文献
伊勢原市史編集委員会(2015):伊勢原市史,近現代,673p.
井上公夫(1995):関東大地震と土砂災害,砂防と治水,104号,p.14-20.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,226p.
井上公夫(2017):いさぼうネット歴史的大規模土砂災害地点を歩く,コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖周辺の土砂災害地点を歩く―,15p.
井上公夫(2023a):関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖,秦野市教育委員会:震生湖誕生100周年記念誌,p.15-27.
井上公夫(2023b):いさぼうネット歴史的大規模土砂災害地点を歩く,コラム88,17p.
井上公夫(2024a):基調講演 関東大震災と土砂災害,2023年度丹沢大山自然再生活動報告会要旨集,p.8-9.
井上公夫(2024b):関東大震災による土砂災害とその分布特性,防災科学技術研究所報告,投稿中
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会,1923年関東大震災報告書,第1編,p.50-79.
宇佐美龍夫(1987):新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,434p.
宇佐美龍夫・石井寿・今村隆正・武村雅之・松浦律子(2013):日本被害地震総覧599-2012,東京大学出版会,694p.
荏本孝久(2010):序章 大いなる地盤,地盤工学会関東支部神奈川グループ編:大いなる神奈川の地盤,―その生い立ちと街づくり―,技報堂出版,p.1-10.
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神奈川県農政部林務課(1984):神奈川県の林政史,東邦印刷,口絵,8p.,本文,965p.
神奈川県林務課:神奈川県震災荒廃林野復旧事業図,丹沢山地,箱根山,神奈川県農政局緑政部森林再生課蔵
神奈川県企画部企画総務室(1990):土地分類基本調査「秦野・山中湖」図幅,80p.,@地形分類図,A表層地質図,B土壌図,C土地利用現況図,D土地利用履歴図,E自然災害履歴図
神奈川の自然をたずねて編集委員会(2003):神奈川の自然をたずねて,[新訂版],日曜の地学20,築地書館,270p.
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清川村教育委員会(2018):清川村史通史編,587p.
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諏訪間 伸(2024):震災直後の相模大山の土石流とその復興 ―災害の記録―,2023年度丹沢大山自然再生活動報告会要旨集,p.10-11.
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