いさぼうネット
賛助会員一覧
こんにちはゲストさん

登録情報変更(パスワード再発行)

  • rss配信いさぼうネット更新情報はこちら
 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム94 大山阿夫利(おおやまあふり)神社周辺の関東地震(1923)による土砂災害地点を歩く
1.はじめに
2024 年3月15 日(金)に伊勢原市教育委員会の諏訪間伸様に案内して頂き、井上と相原延光様で関東地震(1923)によって激甚な土砂災害を受けた大山阿夫利神社参道周辺の寺院や民家と河川地形の状況を現地調査しました。関東地震後に内務省は直轄砂防事業として、金目川水系鈴川源流部の南沢と不動沢(大山ケーブル駅附近)に3個所の重力式練積堰堤(元滝堰堤、八段堰堤、袋町堰堤)を昭和3年〜5年(1928〜1930)に建設しました。これらの砂防堰堤は水通しの角の丸みに特徴があります。これらの施設は神奈川県に移管され、平成16年(2004)7月23日に国登録有形文化財に指定されました。
諏訪間様に大山・阿夫利神社や参道付近にある神社・仏閣や建物の歴史を教えて頂きましたので、伊勢原市付近の関東地震による被災状況を説明します。
2.阿夫利(あふり)神社
奥野(2004)『丹沢今昔』によれば、丹沢大山国定公園の東南のはずれにある大山は関東の名山として知られ、標高1252mのピラミッド形をした美しい山容の山です。天平勝宝四年(752)、良弁(ろうべん)僧正により開かれ、昔から霊山として信仰され、畏敬されてきました。
『新編相模風土記稿』に、「山路最も険阻にして、頂上は常に雲起り、忽ち雨を降す。雨降山の名は是に因か」とあり、地元では雲がかかると雨が降ると言われています。その中腹に祀られているのが阿夫利神社下社です。追分からケーブルカーもありますが、時間が許すなら歩いて登りたい道です(図2参照)。男坂女坂があり、女坂の途中には不動堂があります。大山七不思議などを訪ねながら、すり減った石段を登ると、長い歴史を感じさせてくれます。
男坂と女坂の合わさる辺りは、江戸時代の末頃まで立派な仁王門があり、十二坊の建物が並んでいましたが、安政三年(1856)の大火で焼失したといわれています。その上は広場になっていて茶店が並んでいました。現在は左下にケーブル駅があります。拝殿の背後は天然記念物のモミの原生林の森ですが、最近立ち枯れが目立って問題になっている所です。祭神は大山祗神(おおやまつみのかみ)雷神(いかづちのかみ)(たかおかみのかみ)の三神、拝殿は昭和52年(1977)に鉄筋コンクリート造りになりましたが、それまでは、杉板ぶきの木造でした。毎年5月と8月の例祭には倭舞(やまとまい)巫女舞(みこまい)の神楽舞と大山能が奉納されます。
幕末のイギリスの外交官アーネスト・サトウが明治6年(1873)、現伊勢原市の駒屋に泊まって大山に登っています。その息子で植物学者の武田久吉は明治38年(1905)、塔ノ岳に登頂しました。親子で丹沢開拓期の登山にかかわっています。
かつて、大山(1252m)山頂の阿夫利神社本社への登拝が許されたのは、旧暦の六月二十七日から七月十七日までの例祭の時だけでした。女人禁制で、元服以上の男子という制限もありました。下社から登るのが表参道で、下社から左手へ行くと、学童の像があります。これは太平洋戦争の戦時中に川崎市の子供たちが大山の御師の家などに疎開していたことを示す記念碑です。
半開きの門をくぐり、急な石段を登ると、自然のままの山道となっています。見上げるような夫婦杉、十五丁目の天狗鼻突岩は天狗でも鼻を突いたという急坂から名付けられました。展望台では表参道から富士山の眺めが素晴らしくなっています。二十七丁目でやっと奥社の鳥居が見えてきます。
本社は、江戸時代は石尊神社とよばれ、鳩岩楠船(とりのいわくすぶねの)神」が祀られています。『新編相模風土記稿』には、「神躰秘して開闢せず」とあります。創建は崇神天皇(記紀で第10代の天皇)の時代と伝えられています。山頂からは縄文式土器や須恵器が発掘されたとも言われ、古代から信仰があったのでしょう。
本社は石段脇に雨降木(うこうぼく)と呼ばれるブナの大木がありました。丹沢のブナの枯死はこのご神体にも及び、姿を消してしまいました。今はすこし東に寄ったブナが、2代目「雨降木」となっています。表参道を登る時にはケーブルカーを利用する人が多くなっています。ケーブルカーは昭和3年(1928)、大山鋼索鉄道会社として設立され、昭和6年(1931)に開業しています。ケーブルカーの歴史は古いのですが、昭和19年(1944)に一度廃止されています。戦争のため、レールを提供させられたためです。6年後に復活免許を取得、営業が再開されたのは昭和40年(1965)でした。
3.伊勢原市域の関東地震による被災状況
伊勢原市史編集委員会(2015)によれば、大正12年(1923)9月1日11時58分に異様な轟音とともに大震動が起こり、伊勢原地域では地面は亀裂し、かなりの家屋が倒壊しました。路上にいた者は立っていることができなくなり、家にいた者は外に投げ飛ばされるほど激しく揺れました。
当時、中郡高部屋村立高部屋尋常小学校(現伊勢原市立高部屋小学校)の校長であった田中歌吉は、「正に天柱折れ地軸裂けて此の世の破滅にやと思ふの外は非ざりき」と述べています(大正大震災記念録,1923.10.29)。
大地震が発生した後も強い余震が続き、被害の全貌が見え出したのは、9月1日の午後6時頃になってからです。各町村役場や伊勢原警察分署の調査結果によれば、現伊勢原市域(当時は成瀬村、大田村、岡崎村、伊勢原町、高部屋村、大山町、比々多村)の死者は128人、負傷129人、全壊1615戸、半壊894戸、破損488戸でした。家屋全焼は伊勢原町4戸、高部屋村1戸、比々多村4戸で、東京、横浜、秦野などの都市部に比べると少なくなっています。これは農村部では昼食の時間が早く、地震発生時にはすでに昼食が済んでいた家が多かったためと想定されます。
大地震は家屋の倒壊だけでなく、農地にも大きな被害をもたらしました。玉川(現金目川水系渋田川)堤防の破損によって用水排水路が破壊されたため、一面泥土と化し、境界も分からなくなりました。沖積低地では液状化と思われる被害も多く発生しました。さらに2週間後の豪雨による被害も加わって、耕地は荒廃し、水稲耕作は不能に近くなり、人々は一時呆然自失の状態となりました。現伊勢原市域では養蚕が盛んで桑園が多くありましたが、地割れや山崩れが各地で発生し、蚕室も数多く倒壊しました。
大山阿夫利神社と参道のある大山町は、現伊勢原市域の中では地盤が比較的良かったため、他の地域に比べると、全壊・半壊の家屋は少ない状態でした。しかし、コラム93の図2、図4に示したように、大地震によって大山山腹の山肌には無数の地割れや崩壊が発生しました。雨も降り続いていたので、各所で小規模な山津波(土石流)が発生しました。9月3日に発生した山津波では、4戸が流出しました。
図1は、伊勢原市大山周辺で2週間後に発生した土石流の被害分布(建設省砂防部,1995;井上編著,2013;井上)を示しています。赤色は関東地震直撃によって発生したと想定される崩壊地です。ピンク色は2週間後の土石流の流下区域、緑色は土石流の堆積区域を示しています。@〜O地点は関東大震災当時の写真(伊勢原市教育委員会所蔵)の撮影位置(3項参照)を示しています。❶〜❸地点は神奈川県が震災後に昭和3年〜5年(1928〜1930)に設置した砂防堰堤の3箇所の位置で、阿夫利神社参道の商店街を守ってきました。これらの砂防堰堤は、重力式コンクリート造りで平成16年(2004)7月23日に国登録有形文化財に指定されました。
図1
図1 伊勢原市大山・阿夫利神社参道周辺で2週間後に発生した土石流の被害分布
(建設省砂防部,1995;井上編著,2013;井上,2017)
@〜O 地点は関東大震災当時の写真(伊勢原市教育委員会所蔵)❶〜❹ 地点は砂防堰堤
拡大表示
読売新聞の2023年9月1日の記事では、「大山駐在26年!地域を守った巡査の教訓、今に受け継ぐ 関東大震災世紀の教訓C」があります。伊勢原警察署のHP(Copilot,2024年3月17日確認)にも同様の記事があります。
佐藤巡査大山町民を救う
佐藤幾之助巡査(当時の大山駐在所,第16代勤務員)は、大山地区を守るために尽力した警察官です。彼の行動は地域の安全と人々の命を守るために重要な役割を果たしました。関東地震で大山山麓の山肌には各所に無数の地割れができ、2週間後の9月12〜15日にかなりの豪雨がありました。佐藤巡査は、このような状況を把握し、町民に避難準備を警告し、万全の警戒態勢をとりました。佐藤巡査は一本道を偵察に行くと、濁流の勢いは予想以上の激しさで、山津波(土石流)の危険が迫っていることを想定しました。
このため、佐藤巡査は大声で連呼しつつ、大山町全員の避難を命じ、最後の避難者と急ぎ町を下りました。佐藤巡査の避難命令により、ほとんどの町民が避難できました。豪雨災害による死者は1名のみで、他は全員無事でした。
彼の教訓と知識は後輩たちにしっかり伝えられており、彼は最後まで駐在所で勤務することを誓っていました。大山地区の安全を守るために、彼の存在は不可欠です。
佐藤巡査の行動は、地域社会に深い感銘を与え、今後の防災活動に生かされています。
4.阿夫利神社の参道付近の被災写真(伊勢原市教育委員会蔵)
伊勢原市教育委員会所蔵の被災写真とその撮影位置を紹介します。
図2
図2 相洲大山景観絵図と関東大震災時の被災写真の位置(大山観光振興会の上流絵図に追記)
拡大表示
写真1 写真2
写真1 B下社裏
写真2 C大山男坂八丁目付近大崩壊
伊勢原市教育委員会提供
写真3
写真3 H大山阿夫利神社奥社
倒壊ノ實況
大正12年9月1日関東大震災
3500尺(標高1252m)の山頂
写真4
写真4 G大山阿夫利神社本社
ノ前社倒壊
大正12年9月1日大震災
3500尺山頂ノ大惨状
山頂ヨリ大崩壊
写真5
写真5 F大山町不動尊境内
宝経塔
図3
図3 相洲大山景観絵図と関東大震災時の被災写真の位置
(大山観光振興会の上流絵図に追記)
拡大表示
写真6
写真6 @大山町別所伊豆屋
及び駒屋旅館跡
写真7
写真7 E大山町伊豆屋
狗屋大惨害
写真8
写真8 M大山町伊豆屋
狗屋流失跡
大正12年9月15日
写真9
写真9 D大山町坂本町大惨事
大正12年9月15日夜半
写真10
写真10 N大正八年坂本町
大正12年(1923)?
写真11
写真11 K大山町稲荷町
千代見橋附近
写真12
写真12 J大山町開山町
惨状全景
写真13
写真13 O良弁橋附近
写真14
写真14 I大山町愛宕瀧附近
写真15
写真15 A大山町福永町全景
写真16
写真16 L大山町福永町
流失大惨害
大正12年9月15日夜半
5.現地調査時の写真
3月15日(土)に伊勢原市教育委員会の諏訪間伸様に案内して頂いた時の主な写真を以下に示します。当日大山ケーブルカーは運休していたため、下社から上には行けませんでした。4年ほど前には、ケーブルカーに乗り、阿夫利神社下社から大山山頂(上社・奥の院)まで登っていますが、パソコンで写真データが残っていません。下社から大山山頂までの景観は、図2をご覧ください。
写真17 写真18
写真17 鈴川(大山川・左側)とこま参道入口
写真18 鈴川(大山川)の千代見橋

写真19 写真20
写真19 大山川には流路工が整備されている
写真20 ポットホール状の窪地

写真21 写真22
写真21 こま参道の稲荷神社
写真22 茶湯寺

写真231 写真24
写真23 大山貮号床固工 神奈川県土木部
昭和57年(1982)12月完成
写真24 鈴川(大山川)には流路工・床固工が
整備されている。

写真25 写真26
写真25 こま参道のかんき楼
写真26 元滝旅館

写真27 写真28
写真27 元滝堰提 昭和5年(1930)完成
堤長25m,堤高4.3m
写真28 登録有形文化財に指定
登録日:平成16年(2004)

写真29 写真30
写真29 八段堰提 昭和3年(1928)完成
堤長37m,堤高11m
写真30 八段堰提 上流側から望む
水通しの角が丸みに特色がある

写真31 写真32
写真31 袋町堰提 昭和4年(1929)完成
堤長24m,堤高6m
写真32 女坂と男坂の分岐点

写真33 写真34
写真33 八意思兼神社
写真34 男坂

写真35 写真36
写真35 良弁橋
写真36 開山堂(良辯堂)

写真37 写真38
写真37 愛宕橋
写真38 愛宕滝

写真39 写真40
写真39 大山阿夫利神社社務局
写真40 坂東三獅子
写真41
写真41 大山阿夫利神社社務局の説明看板

写真42 写真43
写真42 加寿橋
写真43 おかめ桜の並木道

写真44 写真45
写真44 日向林道終点
写真45 この地点の広場から堰堤の資材を運んだ
写真46
写真46 阿夫利ダム(透過型の格子形鋼製砂防ダム),平成12年(2000)完成,
堰堤高14.5m,堰堤長54.0m(神奈川県県土整備局河川下水道部砂防課提供)
日向林道の終点の先には平成12年(2000)完成の阿夫利ダム(❹地点,透過型の鋼製砂防ダム,堰堤高14.5m,堰堤長54.0m)がある筈ですが、植生が繁茂し鋼製ダムは見えませんでした。写真45の左側にある鋼製の構造物は、砂防ダム建設時の索道だと思われます。写真46は、神奈川県県土整備局河川下水道部砂防課から提供を受けました。
引用・参考文献
伊勢原市史編集委員会(2015):伊勢原市史,近現代,673p.
井上公夫(1995):関東大地震と土砂災害,砂防と治水,104号,p.14-20.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,226p.
井上公夫(2017):いさぼうネット歴史的大規模土砂災害地点を歩く,コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖周辺の土砂災害地点を歩く―,15p.
井上公夫(2023a):関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖,秦野市教育委員会:震生湖誕生100周年記念誌,p.15-27.
井上公夫(2023b):いさぼうネット歴史的大規模土砂災害地点を歩く,コラム88 関東大震災100年,丹沢山地の土砂災害と震生湖,17p.
井上公夫(2024a):基調講演 関東大震災と土砂災害,2023 年度丹沢大山自然再生活動報告会要旨集,p.8-9.
井上公夫(2024b):関東大震災による土砂災害とその分布特性,防災科学技術研究所報告,投稿中
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会,1923年関東大震災報告書,第1編,p.50-79.
荏本孝久(2010):序章 大いなる地盤,地盤工学会関東支部神奈川グループ編:大いなる神奈川の地盤,―その生い立ちと街づくり―,技報堂出版,口絵-1,2,p.1-10.
大山町観光振興会:相州大山景観絵図,協力:伊勢原市都市部都市政策課
奥野幸道(2004):丹沢今昔,―山と沢に魅せられて―,有隣堂,172p.
21 阿夫利神社下社 「霊山」の重み伝える,p.50-51.
22 阿夫利神社本社 ご神木も枯れ,2代目に,p.52-53.
神奈川県企画部企画総務室(1990):土地分類基本調査「秦野・山中湖」図幅,80p.,@地形分類図,A表層地質図,B土壌図,C土地利用現況図,D土地利用履歴図,E自然災害履歴図
神奈川県農政局緑政部森林再生課蔵:神奈川県震災荒廃林野復旧事業図,丹沢山地,箱根山
神奈川県農林部森林課(1930):神奈川県震災荒廃林野復旧事業図,昭和四年度迄,縮尺五萬分之壹,神奈川県環境農政局水・緑部森林再生課蔵
神奈川県農政部林務課(1984):神奈川県の林政史,東邦印刷,口絵,8p.,本文,965p.
清川村教育委員会(2016):清川村史資料編,449p.
清川村教育委員会(2018):清川村史通史編,587p.
建設省河川局砂防部(1995):地震と土砂災害,企画/編集 砂防・地すべり技術センター.61p.
建設省土木研究所(1995):平成6年度地震時の土砂移動防止技術に関する調査業務報告書(その3),―地震による土砂生産,災害及び対策の検討―,第2編,108p.
地盤工学会関東支部神奈川県グループ(2010):大いなる神奈川の地盤,―その生い立ちと街づくり―,技報堂出版,215p.
諏訪間 伸(2024):震災直後の相模大山の土石流とその復興 ―災害の記録―,2023年度丹沢大山自然再生活動報告会要旨集,p.10-11.
武村雅之(2011):神奈川県秦野市での関東大震災の跡―様々な被害の記憶,歴史地震,26号,p.1-13.
武村雅之・都築充雄・虎谷健司(2014):神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構(その1県中部編),名古屋大学減災連携研究センター,101p.
丹沢大山再生委員会(2024):2023年度丹沢大山自然再生活動報告会要旨集,18p.
寺田寅彦・宮部直巳(1932):秦野に於ける山崩れ,地震研究所彙報,10巻,p.192-199.
西坂勝人(1926):神奈川県下の大震災と警察,警有社,496p.
秦野市(1986):秦野市史,第5巻,近代史料,窪島貞次(手記)
秦野市(1992):秦野市史通史編,3近代,806p.,第五章三節 関東大震災,p.457-481.
秦野市教育委員会(2023):震生湖誕生100周年記念誌,54p.
秦野市史編纂室(1987):秦野の自然,V震生湖の自然,秦野市自然調査報告,3,155p.
ハンス・シュトルテ(1983):丹沢夜話,有隣堂,225p.;大山の神木,p.176-179.;大山の天狗杉,p.191-193.
森慎一(2005):大地をめぐる石の旅,―海から山・そして海へ―,平塚市博物館,64p.
山口伊三夫・川邊洋(1982):地震による山地災害の特性,砂防学会誌(新砂防),35巻2号,p.3-15.
読売新聞(2023.9.1):大山駐在26年!地域を守った巡査の教訓、今に受け継ぐ 関東大震災 世紀の教訓C
Copyright(C) 2002- ISABOU.NET All rights reserved.