9月1日は、防災の日である。防災の日は、今から80年前の1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に発生した「関東大震災」の甚大な被害(※1)を教訓にし、地震を始めとする自然災害への啓蒙と被害の極小化を進めようと、伊勢湾台風(※2)の翌年1960年(昭和35年)に制定された。
※1 マグニチュードM7.9、 死者・行方不明者14万2千人余、
家屋全半壊25万4千余、 焼失44万7千余、 津波の波高、熱海で12m
※2 昭和34年9月に上陸し、伊勢湾沿岸を中心として甚大な被害を発生させた。
死者・行方不明者5,098人、 負傷者38,921人、 船舶沈没・流失・破損7,576隻
住家の全・半壊・破損833,965棟、 床上・床下浸水363,611棟
耕地流失・埋没・冠水210,859ha
(※1,2とも理科年表より抜粋)
「災害は忘れた頃にやって来る」とよく言われるが、実は日本全国をみた場合毎年どこかで自然災害が発生している。たまたま同じ場所で繰り返し起こっていないだけで、忘れない程度の間隔で災害に遭う可能性は、地震の無い国に比べ格段に高い。只、有り難いことに(?)、5年、10年と長い間災害に遭遇しないと、記憶は自然と風化してしまう。「忘れる」こと自体は、脳のメカニズムとして必要とされているらしいのだが……。
忘れると言えば、8年前に発生した阪神淡路大震災の記憶も、被害に遭われた方々や関係者を除けば徐々に風化が進んでいるのではなかろうか。震災直後毎日長時間に渡りテレビの前で釘付けにされた衝撃的な映像、被災者の悲惨な状況やボランティアの活動の様子など繰り返し放映された映像によって脳裏に焼き付けた筈なのにである。「絵や図など画像としての記憶は、その容量も風化耐力も文字情報に比べ格段に優れている」と言われているにも拘らず、僅か8年で多くの人々の記憶から消え去ろうとしている。ましてや外国からの援助となればなおのことである。
防災の日の記念日となった80年前の関東大震災の時にも、アメリカを始めイギリス、フランス、中国、ソ連、など世界の多くの国々から援助の手が差し伸べられた。特にアメリカからの援助は迅速で、義捐金も驚くべき額にのぼっている。世界が軍拡に向かっていた時代にこのようなことが行われたとは驚きであるが、こう言ったことも今の世代には殆ど伝えられていない。正に日本人の記憶から消え去ったかにみえる。この忘れ去られようとしている外国、特にアメリカからの援助に光を当てたのが波多野勝と飯森明子による「関東大震災と日米外交」(草思社)である。
作者達は「あとがき」の中で、「この本を書くきっかけとなったのは、阪神・淡路大震災の時、外国から差し伸べられた緊急援助への対応に疑問を持ったからだ。地震災害の歴史の教訓があったとすれば、それは関東大震災しかない」と言った意味のことを述べている。それだけ阪神・淡路大震災の被害は甚大であった。仮に関東大震災が歴史の教訓として生かされていたとすれば、当時(8年前)盛んに言われた日本の危機管理の危うさは話題にも上らなかっただろう。やはり、70年余という歳月は記憶を風化させるには十二分な時間だったのだろうか、それとも風化させるのは「水に流す」と言う言葉に代表されるように日本人の特質なのだろうか、或いは日本人には歴史を教訓とする資質が無いのだろうか。
関東大震災当時の世界は、軍事力を背景にした力の外交が列強によって繰り広げられていた時代で、1914年に勃発した第1次世界大戦が震災4年前の1919年になってやっと終戦になったところであった。特に日米の関係は軍縮条約のこともあり微妙な関係にあった。このような時代背景の中で発生した二つの大地震、「サンフランシスコ大地震」(1906年、明治39年)と「関東大震災」に対し日本や各国が行った救援を、本書では力の外交ではなく「援助外交」と捉え検証している。
何時の時代にも、救援を必要としている人達が世界のどかにいる。我々日本人も80年前、8年前に救援の手を差し伸べられた事実を記憶に留め、力の外交ではなく援助外交で世界平和に貢献することができたらどんなにすばらしいことだろう。 |