7月の上旬、妻の実家で法事があった。宗教は仏教、宗派は親鸞が宗祖の浄土真宗である。浄土真宗は織田信長との戦いなどで知られており、司馬遼太郎の「尻啖え孫市」(講談社文庫)にも登場する。因みに、我が家は禅宗の曹洞宗である。
家での法要を終えると墓参りと寺の本堂(本尊)へお参りに行くのだが、過去に経験した何回かのお参りに比べると今年はなにやら有難みが増したような気分になった。きっかけは他愛も無いことなのだが、寺の本堂に下げてあるA3の用紙に印刷されていた内容が、日増しに容量が少なくなっていく私の興味メモリーのスイッチを入れたためである。「真宗大谷派岡崎教区社会教科小委員会」の手による「真宗用語シリーズ」と称するその紙には、『ご存知ですか?
本来の意味』のキャッチコピーと共に、良く見たり聞いたりする言葉とその本来の意味が書かれていた。例えば、他力本願や唯我独尊と言った言葉である。「頭の中で理解していた言葉の意味」と「仏教由来の本来の意味」が如何に懸け離れたものであるかがよく分かり、浅学非才を再認識させられる。
では、早速皆さんにお聞きしよう。次の言葉の本来の意味は何でしょう?
(1)
他力本願
(2) 唯我独尊
(3) 往生
(4) 引導
(5) 凡夫
まずは、「真宗用語シリーズ」に書かれている「本来の意味ではない(我々が良く使っている)使われ方」を紹介しよう。
他力本願は、
・
他人の力を当てにすること
・
のぞみがかなうよう頼むこと
私もこんな使い方をしているが、どちらも本来の意味ではないそうだ。
では、続いて唯我独尊は
・
自分だけが偉いと思い込むこと
・
わがままで他人に迷惑をかけること
この使い方も本来の意味ではない。
「往生際が悪い」と言うような使い方をしている往生は、
・
困り果てること、閉口すること
・
人が亡くなること
どちらも違う。
「引導を渡す」と言うが、
・
最後通告をして諦めさせること
・
死者を迷わさず渡すこと
これもダメ。
では、最後に凡夫、
・
自分を卑下する時に使う言葉
・
普通の人・凡人を表す言葉
どちらも合っていると思うのだが……。
意外と本来の意味を知らずに使っていることに気付かれたのではないだろうか。
広辞苑などを調べてみると、「本来の意味から転じて○○○のように使われている」と説明されている言葉もあるから、今の使われ方が即間違いだと言う訳ではないが、先祖を供養しながら本来の意味を知ることもたまには良いのではないだろうか。
と言うことで、愈愈「真宗用語シリーズ」に書かれている本来の意味を紹介しよう。なお、用語シリーズには解説も付いているが、ここでは省略する。
他力本願:仏さまの願いは人知を越えているということ
唯我独尊:人は誰でもみな一人一人が尊い存在であること
往 生:信心を賜ること、つまり目覚めて生きること
引 導:人々を仏道に導くこと
凡 夫:仏法に照らされ自己の愚かさを自覚した言葉
如何だっただろう、あなたの興味メモリーのスイッチはONになっただろうか?
なお、写真撮影など静岡県小笠郡大須賀町の林正寺ご住職には大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
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