大正生まれの私の母がまだ娘だったころ、静岡の田舎から東京に出るのに東海道線を使いほぼ6時間を要したと聞いたことがあった。今なら新幹線を使い2時間でいける距離である。それでも以前に比べれば大変便利になったそうである。以前(昭和初期まで)の東海道線は、小田原や熱海、三島と言った今の新幹線と平行に走るルートではなく、現在の「御殿場線」と呼ばれるルートを通っていた。東京発の列車に乗ったとすれば、『小田原の手前「国府津(こうづ)駅」から箱根山を富士山側に回り込むように山手に入り、煙を吐きながら国府津→松田と進み、金太郎で有名な足柄峠を左に、富士山を右に仰ぎ見ながら御殿場→沼津へと峠をくだり今の東海道線と一緒になる』ルートである。そのころの御殿場線はまだ蒸気機関車の時代であるから、峠越えは大層難儀もしたし時間も掛かっていた。これを一気に解決したのが丹那トンネルの開通であった。
東海道新幹線に乗られた方は、熱海駅と三島駅の間に長いトンネルがあるのをご存知のことと思う。その新幹線のトンネル(新丹那トンネル)と平行に走っているのが、大正2年に測量開始、大正7年起工、そして起工から16年後の昭和9年に完成・開通した7,804mの丹那トンネルである。今回紹介する吉村昭の小説「闇を裂く道」(文春文庫)で扱っているトンネルである。
社内で、「丹那トンネルの工事中にトンネルを横切る丹那断層が動き地震(北伊豆地震)が起こったこと。その結果、切端がずれてしまったこと」を話す機会があった。情報源は「闇を裂く道」であったが、読んでからしばらくたっていたので移動量など記憶が定かでなかったこともあり確認の意味でもう一度読んでみたのであるが、実に面白い。地震の記述は勿論のことであるが、度重なる事故、異常出水、トンネルの真上にある丹那盆地の水枯れなど、トンネル掘削の進捗とともに展開される記述は、史実を基に克明に書かれているだけにぐいぐいと引き寄せられる。大正13年に発生した事故では閉じ込められた16名全員が天井まで充満した水のため水死するが、遺体の損傷描写のシーンでは壮絶な最後が脳裏に浮かび胸が痛む。
丹那トンネルの工事は水との戦いであったといっても過言ではないが、それを端的にあらわしている行がある。
「その水圧で抗夫たちは切端に近づけず、押し倒される者もいた。水圧をはかると、恐ろしい数字があらわれ、技師たちは顔色を変えた。消防ポンプのホースから放たれる水の力は2、30ポンドであるが、水圧計は300ポンド(約136キロ)という水圧を示していた。これは、・・・・・・」
消防ポンプの10倍とは恐ろしい水圧である。このような水との戦いは、工事関係者だけではなく地域住民にとっても重大な影響を及ぼすことになるが、それは読んでのお楽しみということにしよう。
この小説は、トンネル工事をテーマに扱っているが、大正から昭和初期にかけての市民生活を髣髴とさせてくれる記述もあり、歴史小説としてもおもしろい。特に「客を乗せた客車を2、3人の男が押していく人車鉄道」なる乗り物があったことや当時の電力事情などは、『事実は小説よりも奇なり』で大変興味深い。なお、小説の参考文献として挙げられている鉄道省熱海建設事務所編の「丹那トンネルの話」が1995年に復刻されている。興味のある方は、こちらも読まれることをお勧めする。 |