いさぼうネット
賛助会員一覧
こんにちはゲストさん

登録情報変更(パスワード再発行)

  • rss配信いさぼうネット更新情報はこちら
 

『諦めと執念』

戻る

   2004年 9月 03日

 日本中に睡眠不足症候群を蔓延させていたアテネオリンピックが幕を閉じた。前半の日本人選手の見事な活躍もあって、サッカーの日韓共催ワールドカップ以来の盛り上がりとなった。テレビの前にかじりつき日本人選手の活躍に一喜一憂する家族を見ていると、「やはり日本人だな」と思うと同時に、東西冷戦時代に国威高揚のために旧ソ連や東ドイツが採っていたスポーツ振興政策もよく理解できる。愛国心を育て、世界に自国をアピールできる4年に一度の機会と考えれば、オリンピックの存在意義も広がるというものだろう。日本政府もその辺のところは重々承知していたようで、メダル獲得増大に向け、2001年に科学的なトレーニングの拠点として国立スポーツ科学センターを開所している。アテネでのメダル獲得数大躍進も、選手個々人の努力の賜物であることは勿論のこと、各協会の熱心で地道な育成活動や選手が所属する企業の努力も見逃せないが、このセンターを活用したことが大きい、と報道されている。また、メダル獲得選手への報奨金もすっかり定着した感がある。以前のアマチュア精神・根性主義だけでは、世界のスポーツ大国や狩猟民族の優れた体躯のDNAを持つ外国選手と互角以上の戦いが出来ないことを、理解し始めたようだ。
 また、プロリーグのない競技で活躍する選手のテレビコマーシャル出演許可も大きい。オリンピック期間中の報道によれば、メダルを取った選手が所属する企業の株が上がったり、業績が上がったりと、半プロ化した企業選手を抱える企業ではそのメリットを大いに享受できたようだ。勿論すべての企業選手が半プロ化しているとは思えないが、不遜な言い方を承知で言わせてもらえば、選手が活躍すればするほど広告塔としての価値が上がるわけで、その意味では企業選手の契約のあり方を考える時期に来ているのかもしれない。契約に代理人が普通に登場する日もそう遠くないだろう。
 いずれにしても、大会を通じての日本選手の活躍はめざましく、まさに「感動と勇気をありがとう」のオリンピックであった。最後になって、男子マラソンでの前代未聞の妨害行為もあるにはあったが、被害者であるブラジル選手の立派な立ち居振る舞いとIOCの粋な計らいでそう大事にならなかったのは、アテネオリンピックの成功を世界に印象づけた象徴的な出来事だったような気がする。

 印象づけたと言えば、今回のオリンピックで私に強烈な印象を与えた試合があった。先人の教え「物事は、結果が出る瞬間まで決して諦めてはいけない。最期の一瞬まで希望を捨ててはいけない」を、ものの見事に体現した「女子柔道52キロ級の準決勝、日本の横沢選手対キューバのサボン選手の試合」である。柔道は、私も高校時代に多少かじっていたこともあり、今回のオリンピックでも注目していた競技である。しかも、柔道競技最初の階級で、男女とも危なげない試合内容で金メダルを取っていたこともあり、日本選手の活躍を期待して見ていた。
 2階級目に登場した横沢選手は、優勝候補の呼び声が高かったサボン選手を相手に良く戦ってはいたが、終盤までの劣勢は誰の目にも明らかだった。残り10秒を切った段階で、私は横沢選手の敗退を予想した。多分、この試合を見ていた人誰もが私と同じ心境だったと思う。ところがである。残り2秒、横沢選手の“袖釣り込み腰”が見事に決まり、逆転の一本勝ちを納めたのだ。決まった瞬間の残り時間は、神様が与えてくれたとしか思えない“たった1秒”である。残り2秒となったとき、誰がこの結末を予想し得たであろうか。勿論、当の横沢選手も信じられなかったのではないだろうか。
 一方、信じられない結果の対照的な試合として、男子100キロ級の井上選手のまさかの敗戦がある。1本負けを喫した試合の、しかも残り時間僅かなところしか見ていないが、敵に向かうその姿勢を見たとき、私は思わず「いつもの井上と違う」と口走った。いつもの自信ありげな姿勢の良い戦い方と違い、無防備で向かっていくその後ろ姿には、「諦め」が感じ取れた。敗退のニュースを知った上で見た映像だからなのかもしれないが、横沢選手が敵に向かっていった残り数秒の時の表情と、明らかな違いがあったように思えたのは、私の思い過ごしだったのだろうか。
 最終的に横沢選手は金メダルを取れなかったが、私の中では今大会一番記憶に残る選手となった。彼女が示した「執念」は、忘れかけていた“がむしゃらな気持ち”が大切なことを思い出させてくれた「私にとっては大変貴重な出来事」となった。

 「執念」といえば、皆さんに報告することがある。以前、第60話「鳩の災難」で紹介した“尾翼の取れた鳩”が、再び元気な姿を見せてくれている。尾翼がないため近くで見ると違う種類の鳥に見えるが、元気な様子に罪の意識が少し薄らいでいる。さらに、クチナシの木からいなくなっていたアゲハチョウの幼虫も、秋の気配とともに戻ってきた。やはり、彼らの「生への執念、子孫を残すことへの執念」は、並大抵でないことがよく分かる。「諦め」は、彼らにとって「死、あるいは自分の子孫の絶滅」を意味している。
 やはり、「物事をやり遂げる執念」は、成功するために必要な最後の砦なのだ。      

     
【文責:知取気亭主人】

 


    
サンゴシトウの花は情熱(執念)の赤
 

 

戻る

 

Copyright(C) 2002-2025 ISABOU.NET All rights reserved.