|
とうとう先生も走る月になってしまった。いつも『廊下は走るな!』と言っている教師や先生と呼ばれる特別な人たちが汗だくで走っている姿は、滅多に見られるものではない。同じ先生でも最近メディアを賑わしている破廉恥教師や国会議員の先生方が警察の厄介になっているみっともない姿はこれ以上見たくはないが、目をつむって、白衣の医師が聴診器を片手に走り出し音楽や美術の先生が楽器やパレットを持って走っている姿を想像すると、お堅いイメージも“借り物競走”をしているようで親近感が湧いてくる。親近感は湧いてくるが、除夜の鐘が迫ってくる気ぜわしい年の瀬の心模様が変わるわけではない。なぜ12月の声を聞くと、とたんに忙しくなるのだろう。「今月で何とかしなければ年が越せない!」といった切迫感か、「こんなに悪い一年はとっとと過ぎ去ってもらい、早く新しい年を迎え最初からやり直そう」という諦めと期待感か、それとも「これでまた歳をとってしまう。少しでも遅いほうが良い」といった加齢への無駄な抵抗か、あるいは「クリスマスイブや忘年会の掛け持ちで忙しくて!」というヨン様ばりのモテモテなのか、いずれにしても「師走」には一種独特の響きがある。
「師走」の師は、師匠の師だとか師法(坊さん)の師だとか、はたまた師団の師だとか諸説があるようだが、いずれにしても忙しく動き回るということに変わりない。とにかく一年納めの月で、先生も坊さんも兵隊さんも忙しいのだ。理由はよくわからない。
年の初めには、「今年こそ腕組みをしてドッシリと構え、12月は左団扇(うちわ)でいられる一年にするぞ!」と思いも新たにスタートしたはずなのに、一年経ってみたら昨年と同じように“貧乏暇無し”をダラダラと11ヶ月も続け、挙句の果てに帳尻合わせの年末があっと言う間に来てしまった。それでも、なんだかんだいって帳尻が合えば良いのだが、最近の身の回りの出来事を改めて振り返ってみると、残念ながらどれもこれも帳尻を合わすことは難しく思えてきた。私の頭の回転速度も確かに遅くなってきてはいるが、一年経つのがあまりにも速いのだ。帳尻を合わせる前に新しい年になってしまう。なにやら、ど忘れした言葉を必死に思い出そうとしていて、思い出したときにはもうすでにその会話は終わってしまっていた状態によく似ている。走るスピードは確実に落ち、忘れるスピードは確実に上がっている。その上、一年が毎年速くなっていくのだ。「一年の長さは年齢分の一だ」と以前四方山話(第33話「一年の長さ」)で書いたが、まことに遺憾ながら今年もその説の正しさを実感している。
ところで、「師」と呼ばれる人物はどんな風体をしているのだろうか。私の想像では、「師」と仰がれる方はかなりのご高齢のはずだ。その師が歩くのではなく走るのであるから、かなり壮健であることは間違いない。また、4月のウサギ(卯月)を差し置いて走る代表に祭り上げられている以上、相当の健脚の持ち主である。高齢でしかも健脚となれば、マラソン大会で話題となる老マラソンランナーが浮かんでくる。
服装はどうであろうか。スーツをピシッと決めて走っている姿は、陰暦の用語には馴染まない。羽織袴も静かに歩くのには良いが、走るには不向きだ。かといって走るのに向いているジーパンは、松田勇作のジーパン刑事とダブっていけない。しかもあまりにも現代的すぎる。やはり、袈裟のような服装が師には似合いそうだ。
体型は、やはり腰が少し曲がっているのだろうか。いやいや、歳はとっていても姿勢はいいはずだ。しかも、いくら袈裟のような服をまとっていると言っても、布袋さんのような体型では走られない。やはり短距離より長距離が得意な体型が私のイメージには合う。したがって、痩せてはいるが病気には縁のない雰囲気をきっと持っている。人生の達観者であるから杖を持っているのかもしれない。髭もありかな。
こうして整理してみると普段の師は導師のように沈着冷静で道理をわきまえた姿を想像させるが、そのイメージと12月になって突然焦り走り出す姿がどうしても結びつかない。なにやらドジな仙人が雲に乗る術を忘れてしまい、右往左往している姿がピッタリくる。勝手な想像で申し訳ないが、想像の世界だけでも明るくするために、私の中の「師」は「ドジな仙人」ということにしておこう。 |