16日間に亘りトリノで開かれていた冬季オリンピックが、2月26日、無事閉幕した。終盤まで、一つもメダルが取れないのではないかと日本中をヤキモキさせていたが、最後の最後になって、フィギアスケートの荒川選手が見事に金メダルを獲得してくれた。いくら試合そのものを楽しんでいたとはいえ、やはり日本人選手が表彰台に上らないのは寂しいもので、彼女の活躍でやっと溜飲を下げることが出来た。しかも願ってもない金メダルだ。お陰で、それまでの鬱憤を晴らすかのように、これでもかこれでもかと、金メダルを獲得した華麗な演技が連日放映されている。
しかし、「大山鳴動して鼠一匹」ではないけれど、選手、役員など総勢240人の大選手団を送り込んだ割には、「獲得したメダルがたった一つ」という残念な結果に終わってしまった。予想通り、「期待が大きすぎた」だとか、「世界レベルにない選手まで連れて行った」だとか、JOC(日本オリンピック委員会)のやり方に批判的な報道が花盛りだ。確かに見直さなければならない点も多々ある。しかし、有名タレントを使って「○○選手はメダル確実」といった具合に、大々的に喧伝してきた報道各社のあり方も大いに反省すべきだ。「国民を扇動しすぎました。申し訳ありませんでした」と反省すべきなのに、自浄能力がないのか反省の弁はあまり聞こえてこない。「ヤッパリな!」と変なところで納得してしまってはいるものの、嘆かわしい限りだ。もうそろそろ話題取りに明け暮れている報道姿勢を考え直す時期に来ていることに、早く気が付いてほしいものだ。例えば、次のような話題をたまには扱っても良いのではないだろうか。
強いだけではなく心美しいアスリートたちがいることを伝えるのも、報道としての役目の一つだろう。第139話で書いたウォザースプーンのことを調べていて、スピードスケート男子500メートルの金メダルリスト、アメリカのジョーイ・チーク選手が色々な支援活動を積極的に行なっているということを知った。今回も、金1つ、銀1つで得た報奨金計4万ドル(約470万円)を全額寄付し、難民となって苦しむ子どもたちを支援するという(2006年2月27日、YOMIURI ONLINE)。
彼の心の師となっているのは、「リレハンメル大会」でスピードスケートの3冠を制したノルウェーのヨハンオラフ・コスなのだそうだ。氷上を離れても、災害や戦争で苦しむ子どもたちを支援するNGO活動を積極的にやっているコスの姿が、チーク選手の心に焼き付いているという(2006年2月14日、YOMIURI ONLINE)。スポーツばかりではなく、人間としても一流の爽やかなスポーツマンがそこにはいる。
このチーク選手のことを知り、「素晴らしい選手がいるものだな」と感心していたが、どうやら心美しいアスリートは彼だけではないようだ。紛争地域の子供たちを支援する基金「ライト・トウ・プレイ(遊ぶ権利)」へ賛同する動きが、トリノオリンピック出場選手の中に広がっているという。スピードスケート女子5千メートルで金メダルに輝いたカナダのクララ・ヒューズ選手もそのうちの一人だ。イギリスと同様にカナダには報奨金制度がないため、ヒューズ選手は自費で1万カナダドル(約102万円)の寄付を申し出たという(2006年2月27日、YOMIURI ONLINE)。こんな心温まる美しい話題をもっと報道すべきなのだ。
もう一つ、今度は心温まる話ではなく、逆に“やり切れない気持ち”にさせられてしまうこんな話題も報道してもらいたものだ。熱戦が続いたトリノの地で、3月10日(日本時間11日未明)からパラリンピックが開催される。メダルが期待される大日向選手を始め、日本の選手団総勢90名も既に選手村に到着し、開会式を待っている。
そのパラリンピックに選手団を送り込んでいるのは「財団法人日本障害者スポーツ協会(以下、協会と表す)」(http://www.jsad.or.jp/)だが、日本政府の管轄はどこの省庁か皆さんご存知だろうか。先日閉幕したオリンピックは文部科学省なのに、パラリンピックは厚生労働省だという。私も今回初めて知った。障害者のスポーツがリハビリからスタートしたと考えれば、「そうなのかな」とは思うが、それでもやはり同じスポーツなのに管轄が違うということに違和感を禁じ得ない。
2000年に開催されたシドニーパラリンピックの競泳で、金メダル6個、銀メダル1個を獲得したスーパーウーマン成田真由美選手によれば、オリンピックでは支払われる報奨金もパラリンピックの選手にはないのだという。(http://www.sanseido-publ.co.jp/sports/sports_just2001_10-11.html)
長野大会を見た方はご存知だと思うが、パラリンピックがリハビリの延長などと言っては選手に失礼だ。そのスピードやテクニックは、健常者に勝るとも劣らず素晴らしいものだ。なのに差があるのはどういうことだろうか。パラリンピックの選手が活躍しても国威発揚にはならないということなのだろうか。
パラリンピックは元々「下半身麻痺」を表す“Paraplegia”と“Olympic”の造語であったものが、最近では「同様な」という意味の“Parallel”との造語として用いられ、「もうひとつのオリンピック」という意味があるという。この「もうひとつの」という言葉が付いているだけで、協会のホームページ(http://www.jsad.or.jp/)には、「え!」と思うようなコンテンツがある。JOC
(http://www.joc.or.jp/torino/index.asp)には必要なさそうな「ご支援のお願い」のコーナーだ。そんな環境とも戦い、選手はメダルを目指している。
「ライト・トウ・プレイ(遊ぶ権利)」基金の話題も、これから始まるパラリンピックの話題も、どちらも華やかさは無いが、荒川選手の金メダルに勝るとも劣らない「もうひとつの金メダル」と言っていいのではないだろうか。日本の報道関係者も、こういった「もうひとつの……」にも目を向けて欲しいものだ。 |