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『命の重さ』

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2006年7月26

 24日までの活発な梅雨前線の影響で、長野県や福井県、京都府、島根県、九州南部など西日本を中心に大雨となり、各地で河川の氾濫や土砂災害などが多発した。被害の詳細はまだ見えてこないが、国土交通省の集計によれば25日(火曜日)8時30分の時点で、亡くなった人23人、行方不明3人にのぼる。このような梅雨末期の大雨による災害は、これまでも度々日本列島に悲惨な爪あとを残してきたが、残念ながら今年もまた惨事が繰り返されてしまった。
 梅雨前線が停滞して15日から強い雨に襲われた長野県では、天竜川上流域を中心として土砂災害が多発し、諏訪湖沿岸の岡谷市湊地区では大規模な土石流により6人が犠牲になった。必死の捜索が続けられているが、25日現在まだ1人が行方不明となったままだ。
 長野県などに強い雨を降らしたこの梅雨前線は、その後南下して九州から四国地方に停滞した。このため南九州を中心に大雨となり、宮崎県や鹿児島県など地域によっては18日の降り始めから23日の午前中までの総雨量が1200mmを超す猛烈な雨に見舞われ、河川の氾濫が相次いだ。泥水に浸かる市街地の映像は、昨年アメリカを襲ったハリケーン「カトリーナ」の映像と重なってしまうほどすさまじい。これから本格的な復旧活動が始まることと思われるが、被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、元の生活に一日も早く戻れるよう願って止まない。

 こういった大雨や地震などの自然災害は、日本列島の特殊な気象条件、列島を形造っている急峻な地形や脆弱な地質、さらには地震の多発地帯であることを反映して、毎年日本のどこかで発生し、後を絶つことがない。そして、その度に繰り返される懸命な救助活動を見ていると、最近軽んじられ始めた「命の重さ」を感じずにはいられない。
 自らの身に迫ってくる二次災害の危険性を顧みず必死に助け出そうとしている救助隊の姿は、新潟県中越地震の際、「崩壊した瓦礫の中から92時間ぶりに2歳の男児が奇跡的に救出されたニュース」で皆さんの脳裏に焼きついているはずだ。あのニュースを見た多くの日本人は心の中で大きな拍手を送り、助かった小さな命に勇気と希望をもらったことだろう。それが人の心というものだ。ところが、今回のこの大雨による災害が報道されているさなかに、これとは正反対の「“命の重さ”を全く感じさせない報道」が3つも続き、何ともやるせない気分にさせられている。

 一つは、パロマ製ガス湯沸かし器不正改造による死亡事故の報道だ。これまでに把握されているだけで、27件の一酸化炭素中毒が発生し、20人が死亡、36人が重軽傷を負っているという。日刊工業新聞(2006年7月20日 朝刊)によれば、パロマ工業が最初に事故を認識したのは1985年1月に札幌市で起きた死亡事故だ。ところが具体的な対策がとられないまま今日に至り、こともあろうに、同社の社長が「ことの重大性を認識した」のは最初の事故から実に21年も経った先々週の7月11日だという。しかも、会社内部からの情報ではなく、「経済産業省から実態を知らされて初めて気がついた」というおまけまで付いている。
 更に、自社製品で死亡事故が多発しているにも拘らず、再発防止の対策を講じなかったことも驚きだが、消費者に欠陥などを公表して回収や修理を行なう「リコールの届出基準」を設けていなかったというからビックリだ。届出の義務はないとはいうものの、まかり間違えば今回のように死亡事故に繋がることは素人にも分かる商品を販売しているのだ。如何にその場凌ぎの対応しかしてこなかったか良く分かる。「顧客の命の重さ」をガスほどにも感じていなかったとしか言いようがない。

 二つ目は、一人暮らしの身体障害者の男性が、今年の5月、ミイラ化した遺体で見つかったというニュースだ(2006年7月17日、朝日新聞朝刊)。死亡していた男性は、私より一つ年下の56歳(当時)。まだ若い。 北九州市の市営住宅に住んでいた男性は、家賃の督促に訪れた市住宅供給公社の職員によって、昨年の9月、脱水症状で衰弱しているところを見つかった。当時、電気とガス、さらには水道も止められていたという。市の職員は、水道局に「衰弱し、脱水状態にある」と連絡したが、その後も水は止められたままだったという。頼みの綱とした生活保護の申請も相談段階で断られていたという。経済大国を標榜するこの日本で餓死する人がいるとは、あまりにも残酷だ。非情大国に変えた方がよい。
 確かに生活保護を受けるには色々な基準もあるだろう。しかし、困窮し衰弱していることが見て取れる状態でもなお基準が優先されるとは……。

 三つ目も、生活保護に関するニュースだ。今年の2月に京都市の河川敷で本人の同意を得た上認知症の母(当時86歳)を絞殺した男性の公判があり、判決が言い渡された(2006年7月22日、朝日新聞朝刊)。被害者の母も男性も、私の母と私の歳に近いだけに他人事とは思えない。しかも母親が、殺されるのを承諾したというから痛ましい。
 「認知症の母への献身的な介護と両立できる職を探していたが、福祉事務所でも相談に乗ってもらえず、生活保護は受けることができず母をあやめるまで疲労困憊となった」と東尾裁判官は指摘したという。そして判決言い渡し後、「日本の生活保護行政のあり方が問われているといっても過言ではない」と述べたとある。そのとおりだ。

 生活保護行政も限りある予算で行っている以上、基準を設けどこかで歯止めを掛けるのは至極当然の話だが、相談者の話をよく聞き、血の通った判断をして欲しいものだ。基準を振りかざすだけの行政判断は、「命の重さ」を微塵も感じさせない。そしてそれを続ける限り、同じような悲劇が繰り返されることになる。それは、パロマと同じ構図だ。他人の命は、そんなにも軽いものなのだろうか?   

【文責:知取気亭主人】

     

災害現場ではこんなこともする
(測量中)

 

 

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