今年も8月15日がやってきた。この日を“敗戦記念日”と呼ぶか“終戦記念日”と呼ぶかは熱い議論のあるところだが、数え切れないくらい沢山の犠牲者を出した太平洋戦争が終結してから、今年で61回目の8月15日を迎えた。激しかったあの戦争を体験した多くの人達にとっては、辛く悲しい記憶と共に「悲惨な戦争を二度と繰り返してはいけない」との感慨が深いのではないだろうか。私の母も、当時のことを聞くと、最初のうちは記憶を辿りながらも話してくれるのだが、暫く話しているうちに涙ぐみ、『戦争はもうイヤだ。思い出したくもない』と言う。やはり二度と体験したくない記憶が甦ってくるのだろう。
私は、未だ還暦を迎えていないから、勿論戦争体験はない。したがって、思い出す辛い記憶もないのだが、最近この日が近づくと、何だか落ち着かなくなる。イヤ、落ち着かなくなるというよりは、妙にセンチになるのだ。原因はどうやら父親にある。
父親は、私が4歳の時、36歳の若さで亡くなった。病床に伏せていた上、私が幼かったこともあり、顔も覚えていない。勿論、一緒に遊んだ記憶もない。私が生まれたのは昭和24年、戦後の混乱期で日本中が貧しかった時代だ。しかも、静岡県の田舎で暮らしていたこともあってカメラなどというハイカラなものがあるはずもなく、記憶を辿る際に大切な手がかりとなる写真がない。唯一、軍服姿の父の写真があるだけで、私が幼かった頃の写真は一枚もない。勿論、父や母と私、あるいは姉も含めた家族一緒に写った写真など在ろうはずもない。したがって、私自身の中に父親との思い出もないし、残っているであろうかすかな記憶を辿る手立てもない。
だからといって、子供時代も、結婚して自分の子供ができてからも、そのことを嫌だとも辛いとも思ったことがなかった。一緒に暮らした記憶がないのだから、家族の中に居ないのが当然と思っていた。ところが、子供が一人、二人と成人し、結婚の声がグッと現実味を帯びてきた数年前から、8月15日の話題が新聞やテレビで放映される時期になってくると、父親のことが妙に気になるようになってきた。自分のことなのに何故なのか良く分からない。しかし、本当にそうなのかどうかは別にして、自分なりに納得している説明がある。
結婚するまでは自分のことで精一杯であったし、子供が巣立つまでは後ろを振り返ることなく前ばかり見ていた。しかも、4人もの子供に脛(スネ)をかじられてばかりいたから、常に頼られていることが実感できていた。しかし、結婚という言葉が身近に感じられるようになると、スネをかじられる回数が減り、頼られる実感が消え失せて一抹の寂しさを感じるようになってきた。と同時に、やっと後を振り返る余裕も出てきた。
ところが、ふと振り返ってみると、母が高齢になったこともあり、自らのアイデンティティーがいかにも頼りないことに気が付いた。もう少し具体的に言えば、「自分の原点がどこにあるのか、父とはどんな人だったのか、父は私をどんな風に愛してくれたのだろうか」を知りたいという衝動に駆られるのだ。その衝動と、8月15日がどのように関係するかといえば、両親が満州からの引揚者であるということに尽きる。
当時父は満鉄に勤務しており、新京、今の中国は長春に住んでいた。母の話によれば、満鉄に努めていたお陰で、戦時中でありながら満州での生活は比較的恵まれていたようだ。しかし、ソ連の参戦によって事情は激変し、当時満州に在住していた多くの日本人と同様に、母一人、着の身着のままでの逃避行を余儀なくされることになる。
満州からの逃避行がどれほど苦難に満ちていたのか、父や母の軌跡を少しでも辿ることが出来ればと、なかにし礼の「赤い月」(新潮社)や藤原ていの「流れる星は生きている」(中公文庫)を読んでみた。私の原点がそこにあるような気がしたからだ。
乳児を含む幼子3人を連れての凄まじい逃避行を描いた「流れる星は生きている」ほどではないにしても、追われる恐怖感と蔓延する悪い噂で、母も生きた心地がしなかったという。そして、母が帰国して1年後の1946年(昭和21年)9月、痩せ衰えた父が帰ってきた。「満鉄の残務整理だ」と母には言っていたようだが、悲惨な捕虜生活をしていたことは想像に難くない。「流れる星は生きている」の「あとがき」で著者が書いているのと同じように、帰国した父も何があったのか多くを語らなかったという。多分、その満州での1年余りの惨めな体験が「もう鉄道には関わりたくない」と思わせたのだろう。あの就職難の時代に、誘いの有った国鉄(当時)への就職を断っていたという。
私の父が藤原ていのご主人(新田次郎)のように作家になったわけでもないが、「あとがき」に書かれた文章に父親の姿を重ねて読むと、不思議なことに悲しくも懐かしい気持ちにさせられて、今でも父親の影を慕っていることに気付かされる。もうすぐ還暦だというのに驚きである。しかも、今は自分の原点を探し当てたような奇妙な安堵感に浸っている。
8月15日は、日本にとっても勿論、極東アジアの諸国にとっても太平洋戦争が終わった記念すべき日であると同時に、私にとっても私の原点を思い出させてくれる大切な日でもある。
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