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『感性を蘇らせろ、そしてイメージせよ』

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2006年10月18

 最近、悩んでいることがある。日増しに増える抜け毛のことでも、前話で打ち明けた「長命病」を患っている悩みでもない。私としては珍しく、至極真面目なことで悩んでいる。長い年月をかけて学んできた熟年のノウハウ、それが仕事であったり人生そのものであったりするわけだが、「そのノウハウをどのようにして若い人達に伝えていくか」という、これまでの私からは想像も出来ないようなことで真剣に悩んでいるのだ。もっとも、「伝えていく価値のあるノウハウを持ち合わせているのか?」という根本的なところでは悩んでいないから不思議なのだが……。

 「そもそも悩むようになった切っ掛けは?」というと、数年前から私の周りで退職する友人が増え、悔しいけれどももう若くないことを実感し、“人並みに”と言おうか“突然に”と言おうか「次の世代に何を残してきただろうか?」と考え始めてしまったことにある。考えてみると、殆ど何も伝えてない。
 同じ様なことを世間では「2007年問題」と称して、早くから話題にしているが、問題が顕在化するまでに残された時間は後僅かだ。ベビーブーマーの先頭を走る昭和22年(1947年)生まれが2007年に60歳を迎え、多くの人達が定年という形で第一線を退いていく。この2007年を皮切りに2008年、2009年と我々団塊の世代の大量退社が続き、多くの産業の足元を脆弱化させていくのだ。そして、「老後の生活の目処が立たない」という自分自身の問題と、「ベテラン社員の技術やノウハウが伝承されないで会社の競争力が低下する」という会社にとっての問題が、大きくクローズアップされることになる。
 そんな中、会社で息子のような年代の若い人達と話をしていて、仕事への取り組み方や考え方にどこかしら我々熟年世代と違う点があることに気が付いた。彼らがこれから経験を積み育っていく過程であることを考慮に入れても、将来の自分の姿や自分が関わっている業務の完成した姿が、ハッキリとイメージされていないようなのだ。仕事の経験が足りないというスグに解決できない課題も確かにあるのだが、そればかりではないような気がしてならない。

 人は乳児の時からいつも自分の周りにいる親兄弟等を観察し、彼らの真似をすることによって言葉や行動を覚え成長していく。要するに物真似をするのだ。そして褒められたり怒られたり、あるいは周りの人達の喜怒哀楽に接して人としての幅、別な言葉で言えば思考・行動の規範を作り上げていく。その思考・行動の規範が、判断基準と言われるものだ。この判断基準を普通の人よりも沢山持っている人は、「出来る人」と言われ、「問題発見能力」や「問題解決能力」、あるいは「問題設定能力」等に優れている。色々な状況に即して適切に問題を解決していくことが出来るのだ。
 この「問題を解決しよう」とする思考は、“対象となる事態”を自分の持つ判断基準に照らし合わせて対処していかなければならない。つまり、「出来る人」と言われるためには、色々な状況に対応できるだけの沢山の判断基準、言い換えると人としての沢山の知識を身に付けていることが必要となる。知識としては、本やインターネットから得られる情報などもその一つだが、経験に勝るものはない。中でも、失敗は極めて貴重な経験である。失敗をしてそれを注意してもらい、二度と繰り返さないようにすることは、何事にも代えがたい経験であり、深く記憶される知識となる。そしてもう一つ大事なことは、小さなことでもいいから成功体験を積み重ねることだ。車の両輪に例えられるこの“失敗と成功の経験”、これこそが確信を持って“自分の知識だ”と言えるものとなり、揺るぎ無い判断基準となる。

 揺るぎ無い判断基準が身につくと、「判断したあとの結果をイメージ」をすることが出来るようになる。例えば、身近なところで料理を題材にして考えてみる。
 カレーライスを知っている人は、フレンチレストランやイタリアンレストランには食べに行かない。行ってもメニューにないことが分かっている、つまりイメージできるからだ。もちろん寿司屋にも行かないだろう。ところが知らない人は、イメージできないため可能性があると思えば焼肉屋にも入ってしまう。
 また、料理を作ったことのある人であれば、「この材料でカレーライスを作ってくれ」と言われれば、大概の人は完成した姿をイメージできる。そしてそのイメージに合わせ、料理を作り上げていく。ところが経験のない人ではそれができない。「どんなものができるかお楽しみ」となってしまい、「結局食べられるような料理にならなかった」ということにもなりかねない。

 我々が携わっている仕事も同じだ。例えば、「幼児と保護者が安心して遊べる公園」の設計をするとしよう。幼児を持ち一緒に遊んだ経験がなければ、どんな点に注意する必要がありどんな施設を充実させたら幼児も保護者も喜ぶか、教科書からは学べても頭の中ではイメージが湧いてこないはずだ。
 また、歩行者用の道路横断施設のバリアフリー化業務を行なうとしよう。体の動きが緩慢な老人や身体障害者でなければ、あるいは健常者でも老人や障害者を疑似体験した人でなければ、今ある施設のどこが危険で不親切なのかイメージできないだろう。やはり経験の差だ。しかもこれらは仕事上の経験ではない。
 あるいは、砂、シルト、粘土、言葉は知っていても、それぞれを手でこねた経験がなければ、どんな肌触りか、こねたらどんな形になるのか分からない。ましてや泥んこ遊びした経験がなければ、水を含んだときとそうでないときの性状の変化は分からないし、液状化の現象もイメージできない。
 つまり、必殺仕事人として「出来る!」と言わしめるためには、知識としての経験を沢山積み重ね、判断した後の結果をイメージできるようにすることだ。そのためには、なんにでも興味を持ち体験していくことが大事だ。「私にはそんなこと無理だ」と言う人がいるかも知れないが、乳児の時は誰でも、目に入るあらゆる物事に関心を示し、細部に渡り観察し、そして手に触れ、口に入れ、生活に必要な知識を吸収していったはずだ。したがって、みんな持っていたものだ。「その頃に戻れ」とは言わないが、全ての人に備わっていたこの豊かな感性を蘇らせることが知識を増やすためには必要不可欠だ。そして次ぎになすべきことは、出来上がった姿や結果をイメージすることだ。イメージできなければ、まだ経験が足りないということだ。

 では、冒頭の悩みに戻って、我々熟年は何を伝えていったらいいのだろう。一説によれば、「俺の後ろ姿から学び取れ方式」はもう古いのだそうだ。若い人達にとって何より刺激を受けることは、先輩達の豊富な失敗経験とそれをどのように乗り越えていったか、あるいは壁にぶつかったとき悩んだこと、そういったことを膝を交えて話していくことなのだそうだ。そこで彼ら若手は、仕事のノウハウ、所謂勘所を学び取っていくことになる。     

【文責:知取気亭主人】

     

椎の実

 

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