4月27日に放映されたNHKの能登半島地震特集番組(地域限定番組だったようだ)を見た。その中に気になるシーンがあった。仮設住宅の最終チェックをしている映像で、風呂の水の出具合を調べているシーンだ。一瞬のことでハッキリと確認したわけだはないが、備え付けられた風呂がビジネスホテルでよく使われているシステムバス、つまり浴槽とトイレが一緒になったやつだったように見えた。
洗い場のないシステムバスは、ビジネスホテルに良く泊まる私でも使いにくい。お年寄りには尚更だ。仮設住宅とはいえ、避難所生活から見れば大変有り難い住まいに違いない。しかし、1日の疲れを風呂で癒すことの多い日本人にとって、またお年寄りにとって、シャワーを中心とした風呂で疲れを癒すことがどの程度出来るのだろうか。そう考えると、一刻も早く「ゆっくりと湯船に浸かる生活」に戻れることを願って止まない。
ということで、今回の四方山はその風呂にまつわる話題を提供したい。
入浴時間の短いことを「烏(カラス)の行水」という。烏の水浴びがアッという間に終わることから言われているのだが、今の若い人に「行水」と言っても殆ど知らないだろう。風呂付の住宅が一般的になった現在では殆ど見られなくなったが、昭和30年代までは日本の各地で良くやられていた夏の風物詩だ(と記憶している)。
子供の頃、家に風呂がなかった我が家でも、夏の間2ヶ月間ほどは良くやっていた。家の外に置かれたタライに湯や水を張り、尻と足だけ浸かって、汗を掛け湯で流すのだ。金が掛かる銭湯に行くのは1週間に1度、後は全て行水だったと記憶している。さすがに中学に入る頃には恥しくてやらなくなったが、蚊に喰われながらの行水は正に「烏の行水」だった。
その「烏の行水」と比喩される「烏の水浴び」を幸運にも見たことがある。私が散歩コースとしている浅野川(金沢市)には、水鳥のカモに混じって烏がよく河原に下りている。そして、運が良いと、極々浅いところで水浴びをする烏を見ることができるのだ。長年歩いていて水浴びする烏を見たのは数えるしかないが、確かに水に浸かっている時間は短い。ほんの数秒だ。「烏の行水」とは良く言ったもので、日本語の表現の豊かさにはほとほと感心する。
ところで、「烏の行水」とは反対に、何時までも入っている長風呂のことは何というのだろうか。「ゆでガエル現象」という比喩は聞いたことはあるが、「烏の行水」に対する言葉を知らない。我が家で一番の長風呂記録(約1時間)を持っている娘に因んで何か良い表現はないかと考えてみたが、なかなか妙案は浮かばない。浴槽に浸かりながらそんなことを考えていたら、以前秘かに楽しんでいた風呂場における人間観察の記憶が甦ってきた。
2、3年前のことだが、温泉の大浴場に来る客を観察していて面白いことに気が付いた。風呂場に入ってから出るまでの手順が、結構バラバラなのだ。因みに私の手順はこうだ。
まず、湯船に入る前に湯船から湯を汲み、前と後ろの大事なところを流し洗いし、次いで体全体に2〜3杯の掛け湯をして浸かる。この手順が風呂に入る王道だと自負しているのだが、観察していると、皆この王道をいとも簡単に踏みにじってくれる。掛け湯もしないし大事なところも洗わないで入る人もいれば、先に体を石鹸できれいに洗ってから入る感心な人もいる。入り方一つを取ってみても千差万別なのだ。
これまでの多岐に渡る私の観察と偏見によれば、基本的には私と似たような手順で風呂を楽しむ人が比較的多い。ただ、入り方は似ていても烏の行水タイプの人もいれば、20分も30分も浸かっている人もいる。10分ばかりでのぼせてしまう私と違い「よくのぼせないものだ」と感心するのだが、傍から見ても羨ましい位気持ちよさそうにしている。「ゆでガエルにならなければいいが」と心配してしまうほどだ。
ところが、湯船に浸かっている時間の違いもさることながら、洗う順序がこれまた十人十色だ。私は、最初にアカこすりで体を洗う。左腕、右腕、首と肩、次いで胸から腹へと下がって足へと移り、背中の油をこすり落とした後は前後の大事なところを丹念に洗い、最後に足の裏と指の間を綺麗にする。見事な流れだ。首から上も同じように手順は決まっていて、まず髭を剃りタオルで顔を洗い、最後に頭の順番だ。全く無駄がない。
無駄のないこの手順が標準だろう思っていると、私はむしろ少数派で、ひげを最初に剃って、次に頭→顔→体の順に上から下がってくる人が意外と多い。これが多数派だ。どうやら、上から順番に綺麗にしていけば無駄がないと考えている節がある。確かに、私の手順だと一度洗った部位を再び汚す恐れもある。なるほど一理ある。私の手順に無駄があるのかもしれない。しかし、洗う順番を変えてみようと思っていても体に染み付いた癖はなかなか治らないもので、知らず知らずに自分の手順で洗っている。どうやら動物の摺り込みと一緒で、このまま最後までいく事になりそうだ。
ところで、日本人は古くからの文化や芸術、あるいはスポーツに「道」を付け、精神文化として発展させてきた。例えば、同じ湯でも「茶の湯」は、後ろに“道”が付き「茶道」となってしまったために、挨拶から始まって茶碗の持ち方や飲み方まで、結構細かな手順や動作が作法として決められている。その手順、プロセスに精神的価値を見出そうとしているのだ。では、仮に風呂の入り方に精神文化を見出そうとするとどうなるのだろうか。
細かな作法は「茶道」や「華道」に準ずると仮定すると、「風呂道」なるものができていたら、「裸の付き合い」と言われる温泉の大浴場や銭湯の様子も随分と違っていただろうと思う。私の大好きな混浴は言わずもがなだ。
例えば、「入る前は必ず掛け湯を2杯、体全体に掛け、次いで前後の大事なところを各々1杯ずつの掛け湯で洗うこと。湯船には、既に入っているお客様から50cm以上離れた所から音を立てないように左足から入り、ゆっくりと首まで浸かり……」などと「湯道の心得」を決められたらたまったものではない。
ヤッパリ、風呂は世俗を忘れてのんびりと入るに限る。王道もなしだ!
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