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今年も"お盆"がやってきた。連日うだるような日が続いているが、どんなに暑くなっても、有難い事に毎年忘れずにやってくる。一年に一回、亡くなった愛しい人や先祖に思いを馳せ、心静かに供養する大切なときだ。地方によって新盆、旧盆の違いこそあれ、この時期になると、仏教に然程信心深くない人でもお墓参りをする。そして、多くの人がご無沙汰していた非礼を詫び、近況報告等をするものだ。私もそうだ。
しかし、先の大戦を体験した世代にとっての"お盆"は、同じ言葉を使っていても、戦後生まれの我々と違いもっと特別な意味を持っているのに違いない。特に、激しい戦いで肉親や戦友を失った人達にとっては、8月15日は忘れようとしても忘れられない日の筈だ。折しも、泥沼の大戦へのめり込んで行く引き金となった事件が幾度となく勃発した中国で、丁度このお盆の時期に、北京オリンピックが開かれている。
そして、8日に始まった大会も残り僅かとなった。今もフィナーレに向けた"平和な戦い"が繰り広げられており、地元中国では大変な盛り上がりを見せている。しかし、"オリンピックが飛び交う砲弾のない平和な戦い"であることは確かだが、大戦によって悲しみと苦しみを味わった人達にとっては、お盆の期間、特に15日に関しては、繰り広げられる祭典への感心は殆ど無かった、と言っても過言ではないだろう。それほど、心に負った傷は大きく深いものだったに違いない。63年経っても当時の悲しみが甦ってくることは、想像に難くない。
終戦関連の記事を大きく扱った16日の朝刊を読みながら、何となくそんな人達の心情に思いを巡らしていた。しかし、ある記事に目が留まり、読み進むうちに、悲しみどころか戦後63年も経ったというのに未だに戦っている兵隊達がいることを知った。8月16日朝日新聞朝刊の「戦後を生きる」と題したシリーズの記事だ。
記事の右肩に喪章のように書かれた「蟻の兵隊」の白抜き文字が、「読んでくれ!」と訴えかけているようで、思わず飲みかけていた湯飲みを置き、夢中になって読んだ。「事実は小説よりも奇なり」と良く言われるが、其処に書かれている内容は、とても信じられないものだった。
1945年にポツダム宣言を受諾して終戦となった後も中国に残り、国民党系の軍閥・閻錫山の軍隊に加わって3年半以上も中国共産党軍と戦った兵隊が居た、というのだ。そんなことがあったとは、全く知らなかった。多分、戦後に生まれた日本人の多くは、私と同じだろう。2年前に「蟻の兵隊」(監督:池谷薫)と題するドキュメンタリー映画が公開され、やっと埋もれていた驚愕の戦後が世に知られるようになったという。
新聞に書かれていたのは、映画で証言した元兵士の生々しい声だ。細かな内容は記事に譲るが、閻錫山の軍隊に加わった北支那方面軍第一軍の約2,600人のうち約550人が死亡、約700人が捕虜になった、とある。そして、彼らは上官の命令で、つまり軍の命令で、中国に残留した筈なのに、1956年(昭和31年)釈放され日本へ帰国する船の中で、新聞記者から「あなたは現地除隊して、自ら残留を希望した事になっている」と告げられたという。何ということだろう。そんな理不尽な事が本当に行なわれていたのだろうか。
これは調べてみなければ、とインターネットで「蟻の兵隊」について検索してみた。すると、市販されている本が幾つかあることを知った。早速、映画を監督した池谷薫氏の「蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相」(新潮社)を買い求め、読んでみた。「このままでは死んでも死にきれない!」と帯に書かれた文字に引き寄せられ、序章を読み始めた。読み進むうちに、もしこれが真実だとしたら、都合の良い証言だけを採用することにより、国を挙げて軍部の汚点を闇に葬り去ろうとしているのではないか、と思えてきた。そしてそれは、これまでの公害訴訟に見られるように、国の責任をなかなか認めようとしない最近までの日本の姿と見事に重なってしまう。今は違う、と強く信じたいのだが……。
北京市と天津市を囲むように広がっている河北省の西側に、「蟻の兵隊」の舞台となった山西省がある。省都は太原である。この山西省に駐屯していたのが、北支那方面軍隷下の北支派遣第一軍の総兵力5万9000人だ。この全ての兵隊達は、1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾し連合国側に無条件降伏した時点で、武装解除され祖国日本に帰国できる筈だった。ポツダム宣言の第九条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラレルベシ」とあるからだ。ところが、第一軍首脳が考えていた敗戦後の日本の将来への備えと、中国共産党軍(八路軍)と戦う勇敢な軍隊を必要とした閻錫山の思惑が一致したことで、最終的に2600人が残留日本軍として残されてしまう。勿論彼らは、軍命として捉えていたのだが……。
共産党軍が勝利し、1949年に中華人民共和国が樹立され、やっと彼らの戦争が終わったのだった。ところが、帰国してみると、軍籍は現地除隊として既に抜かれ、「残留軍として戦ったのは自らの意思であなた方は民間人だ」と厚生省の役人に言われたという。今風に言えばさしずめ傭兵ということになる。したがって、傭兵期間は恩給の対象にならないし、傭兵期間に戦死した遺族には通常支給される公務扶助料や遺族年金は勿論支給されていない。その上、抑留生活を送った者には「中共帰り」のレッテルが貼られ、私服の公安刑事に毎日のように付きまとわれたという。2600人もの兵隊が戦ったのは、いったい誰のための、何の為の戦いだったのだろう。厚生省援護局が1964年(昭和39年)にまとめた資料によれば、1945年(昭和20年)8月15日以降、満州を除く中国全土で戦死した日本軍将兵は5万人に達しているという。
2001年5月、13人が原告となり、軍人恩給の支給を求めて国を提訴したが、一審では国側の主張が全面的に認められ敗訴となった。その後、最高裁に上告したが、最高裁は2005年9月、一度も審理を開くことなく上告を棄却したという。原告団は高齢のため、裁判の途中で亡くなった人も多く、このとき上告人は僅か5人となっていた。
本書の「あとがき」によれば、残された「蟻の兵隊」はもう一度裁判をやり直す覚悟だという。彼らは今でも戦い続けているのだ。彼らが一日千秋の思いで帰りたかった祖国を相手に。
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