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折角ノーベル賞大量受賞に日本中が沸いたと思っていたのに、米国発の金融危機に触発されたのか、暗いニュースばかりが駆け巡っている。女子中学生の無免許ひき逃げ事件が起こったばかりと思っていたら、今度は大阪のど真ん中で、男性を約3qも引きずったまま逃走し死亡させるという痛ましい事件が起きた。28日現在、必死の捜査にも拘わらず、にっくき犯人はまだ捕まっていない。目撃証言から、どうやら故意ではないかと見られているようだが、恐ろしい世の中になったものだ。恐ろしいと言えば、2億円の高額宝くじに当たった女性を殺害した容疑で、男性が逮捕された。まるで、推理小説の世界だ。
気分を滅入らせているのは、そんな殺人事件ばかりではない。世界同時株安、円高、世界同時不況、果ては世界恐慌の始まりだとか、末恐ろしい言葉が世界の人々を不安に陥れている。だから……、というわけではないが、今回は身の毛もよだつ恐ろしい話をしたい。
男は、書き終えたメールをもう一度読み返し、お粗末な間違いがないか入念にチェックをし始めた。何しろメールの相手は大事な取引先だ。不愉快な気分にさせてはいけないと、いつも以上に細心の注意を払っているのだ。変換ミスも、気になるような表現もないことを確認すると、「送信」のボタンをクリックして、ホッと一息入れた。時計を見ると、もう夕方の6時を過ぎている。7時に約束があることを思い出し、男はパソコンの電源を落とすと、急いで帰り支度を始めた。
名刺入れ、手帳、そして眼鏡と電子辞書、大事なビジネスツールを慣れた手つきで愛用の鞄に入れ、椅子の上に置いた。そして、いつもの癖で机の上を一瞥した。一応整理されていることと忘れ物がないことを確認すると、「ヨシッ」と小さく呟いて、荷物を取って部屋の明かりを消した。忘れ物が増え始めた暫く前から、小さく呟く「ヨシッ」が男の最終チェックとなっているのだ。
廊下に出ると、階段から漏れてくる明かりでほんのり照らされてはいるが、外はもう既に薄暗くなっていることに気が付いた。階段を降りると、3階はまだこうこうと明かりがついている。部屋の入り口近くの仲間と二言三言言葉を交わすと、ドアが開いていた小部屋に入り、中にいた仲間と懸案業務の話をし始めた。しかし、10分も立たないうちに再び約束を思い出し、話もそこそこに「それじゃ、お先に!」と部屋を出ようとした。その瞬間、男は得も言われぬ違和感を覚え、立ち止まった。
「何かが違う!」
宙を見ながら、何がいつもと違うのか、アレコレと思いを巡らせた。そして、「ウソッ!」と小さく呟き、我が身を疑った。信じられない事が起こったのだ。踵を返し小部屋を見回したがダメだ。いつも通りの手順で行動できないのだ。男は、先ほど下った階段を急ぎ足で上りながら、「こんな事が起こるなんて、俺はもうおしまいだ」と何度も心の中で呟いた。そう、それはあまりにも早い危機の訪れだった。
とまあ、推理小説風に書くとこんな感じになるのだが、男とは、何を隠そうこの私のことだ。そして、何が起こったのかかいつまんで説明すると、こうなる。
私はいつも、3つの荷物を持って部屋を出る。ひとつはノートパソコン等ビジネスツールの入った鞄、もうひとつは弁当とポットの入ったA4サイズほどの布袋、そして新聞2紙だ。この数年間、殆どこのスタイルは変わらない。しかも、たまに布袋を忘れたり新聞を忘れたりすることはあっても、大事な鞄を忘れたことはこれまで一度もない。外出先で酩酊したときでさえ、である。しかるに、あろうことか、その大事な鞄を持たずに、そしてなんの違和感もなく帰ろうとしてしまったのだ。携帯や財布、或いは名刺入れなど、鞄に入れる小物を忘れた事はこれまでにも何度もあった。しかしである。凡そ45p×40p×15p、重さ3s程にもなる大きな鞄を忘れるなんて……。ショックだ!
言葉や人の名前がすぐに出てこない症状は5年程前から顕著になり、体力の衰えとともに着実に押し寄せている老化の現実を受け止めてはいるのだが、越えてはいけない一線というものがある。「そこまでボケてないぜ!」と見栄を張るための拠りどころとしているものだ。私にとってのそれが、「決して鞄だけは忘れない!」だったのだ。その一線をあっさりと越えてしまった。かなりアッサリと……!
以前の四方山話で、老化の尺度を
老化度1 名前を忘れる
老化度2 顔を忘れる
老化度3 ジッパーを上げ忘れる
老化度4 ジッパーを下げ忘れる
と書いたが、老化度3をマスターしないまま、老化度4が見えてきたのかも知れない。恐ろしい事だ。
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