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2010年5月12日
5月の第二日曜日、9日は母の日だ。ウッカリ忘れていても、商店に行けばコンビニでもスーパーでも、至る所でカーネーションの模様が入ったパッケージや色鮮やかな花々が飾られており、母の日であることを否が応にも思い出させてくれる。何時になっても幾つになっても、母親に対する思いは格別のものがある。そこに行くと父親はどうも分が悪い。
自分のお腹を痛めた子に対する愛情の深さは、良く海の深さに例えられるが、「自分を犠牲にしてまで子供を守ろうとする愛情はどんなに深い海であっても例えようがない」というのが正直なところだろう。そんな母親に対する感謝の念を表すのが母の日だが、今年の母の日は悲しい母の日になってしまった。
前話で「検査入院している」と書いた義母が、母の日を目の前のした8日の2時21分、一か月余りの闘病生活の末、静かに息を引き取った。膵臓癌だった。実は、前話を書いていた時点で病名は既に分かっていた。ただ、難病だとは理解していても「完治」の二文字を聞きたくて、敢えて伏せていたのだ。しかし……。
病名を知らされて、直ぐに家族全員で調べてみた。担当医や知り合いの看護師、あるいはインターネットを使って調べた処によれば、膵臓にできる癌は発見された段階で既に手遅れになっている場合が多いらしい。膵臓は胃の裏側に位置しているため、超音波検診などでも病変が極めて見つかりにくく、見つかった時点でかなり進行している事が多いという。義母もその通りだった。
今年75歳になった義母は、膝の痛みを除いて年齢の割には健康で、入院する直前まで家業の織り屋を手伝っていたのだが、3月に入り急に体の不調を訴えるようになった。掛かり付けの医院で血液検査を受けたところ、肝機能が低下している事が分かり総合病院での精密検査を勧められた。勧めに従い直ぐに精密検査を受け、14日その結果説明を受けたのだが、膵臓癌である事、そして肝臓にまで転移している事を告げられた。しかも、何の前触れもなく本人を前にして宣告されたのだ。もう少し配慮してくれてもいいのに、と思うのだが後の祭りだ。同席していた義弟がショックを受けたのは勿論だが、33年前に連れ合いを癌で亡くしている義母が受けた動揺と不安は計り知れない。それを思うと、本当に心が痛む。
しかし、物事に対して前向きな義母は、希望を捨てたわけではなく、娘である妻の薦めに従い、静岡から金沢に転院して治療を受けることになった。4月8日、金沢大学付属病院に入院し、再度検査を受けた。その結果、膵臓癌のマーカーが健康な人の凡そ2,500倍もの数値になっている事が分かり、家族はそのあまりの悪さに愕然とした。そして、悲しい余命宣告を受けた。
その後、科学療法による治療を受けたのだが、既に体力が落ちていたこともあり、残念ながら抗がん剤投与を受けられたのは1回だけで、それ以上続けることはできなかった。残された治療は、襲い来る激しい痛みを和らげる事だけであった。
膵臓癌は、癌の中でもかなり痛めるのだという。しかも義母の場合は、尿の出が極端に悪くなった事や腹水が溜まり始めた事、また色々な臓器が炎症を起こして腫れていたのか、お腹がパンパンに膨れ、激しい痛みのほかに苦しさも訴えていた。しかし、主治医と麻酔医等によるケアチームのお陰で、痛みを感じている時間が極めて短かったのは、看護をしていた妻や子供達、義弟にとってせめてもの救いだった。苦痛に歪む母の姿を見るのは、とても辛かった。しかし、妻も子供達も気丈に看病してくれた。その献身的な姿には、ただただ頭が下がる。
義母は、孫が我が家にしかいなかったこともあり、子供達をとても可愛がってくれた。その大切な人が余命いくばくもないと宣告されたのだ。宣告を聞いた時の子供達の驚きと悲しみは、例えようがない。伝えた私も、涙が止まらなかった。愛する人を失うということがこんなにも辛く悲しいものだとは……。
お義母さん、沢山の愛をありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。(合掌)
【文責:知取気亭主人】 |