2012年3月21日
パパやママ、ジージやバーバなど簡単な単語を覚え始めたばかりの幼児が、まるで大人が使うような言葉を突然発して、周りを驚かす事がある。聞いた大人は、「こんなちっちゃな子がそんなことを言うの?」とドッキリさせられるか、余りのタイミングの良さに大笑いすることになる。四等身ほどのその姿やヨチヨチ歩きの動きそのものが愛らしいこともあるが、未だぎこちない幼児特有の発音が醸し出す雰囲気と、大人びた言葉のギャップが何とも言えず可笑しいのだ。最近、もう直ぐ1歳半になる孫が来ると、そんな話題で笑わせてもらっている。
歩き自体も未だ覚束ないのだが、ひと月ほど前から、何かにつまずき転びそうになったり、手に持っているものを落としそうになったりすると、「オットット」とその状態にピッタリ当てはまる言葉を発して、愛嬌を振りまいている。家族に聞くとどうやら家内が言ったことを真似しているらしいのだが、その仕草の可愛らしさと、若者でさえあまり使わない――年寄言葉の部類ではないかとさえ私は思っている――「オットット」とのギャップというかアンバラスさが受けて、我が家では大人気の「孫言葉」となっている。しかし、1歳半の幼児が、「オットット」という言葉をどんな状態の時に使えばよいのか、その用法をマスターしているとは、正直驚きである。
また、先の日曜日には、「オットット」以外でも大いに笑わせてもらった。私が抱っこしながら「♪雪やこんこん あられやこんこん……♪」と歌ってやると、最近は、小さな声で「ユキ」と声を発するようになってきた。ただ、まだ歌がなければ「ユキ」だとは判断できない位の滑舌しかない。そんな彼女が大人同士の会話を聞いていて、すこぶる滑舌良く、そして全く違和感もなく、その場にぴったりの合いの手を入れたのだ。それも時を経ずして2回もあったものだから、どんな時に使えば良い言葉なのか既に理解しているのではないか、と思ってしまう。「まさか!」とは思うのだが……。
1回目は、家内と長男が電話で話をしていた時だ。職場から直接自分の家に帰った長男から家内に電話が掛り、家内が「ママも○○ちゃんもこっちにいるからこっちで一緒に食べたら」と誘った瞬間、近くでそれを聞いていた孫が、さも嬉しそうな口調で「エーッ!」と言ったのだ。本当にタイミング良く、それもハッキリとした口調で。
周りにいた大人達は、あまりのタイミングの良さに皆ビックリだ。特に女性陣には大受けだった。ただ、「私は」というと、偶然にしてはこれ以上ないタイミングで発したな、と偶然のなせる業程度にしか思っていなかった。ところが、である。それから数分もしない間に、またも同じ言葉を、またもすこぶる良いタイミングで喋ったのだ。
2回目は、長男と嫁が孫のお茶について話をしていた時だ。嫁が「家に○○ちゃんのお茶のカップを忘れてきたから持ってきて」と話した瞬間、嫁に抱かれながらそれを聞いていた孫が、今度はさも驚いた口調で「エーッ!」と言ったのだ。こうなると、もう偶然では説明がつかない。多分、彼女は「エーッ!」の使い方を、既にマスターしているのだ。まだ単語しか喋れないちっちゃな幼児が、である。
心理学をやっている長女の話だと、大人の脳の80パーセントまでが3歳ぐらいまでに発達するのだという。生まれて間もない幼児の間にヒトとして生きていくために必要な能力を身につけてしまう、という動物として受け継がれてきた生き残るための術なのだろう。
そうすると、3歳までの幼児には、受け入れられる情報量が目覚ましい勢いで増えていくことになる。身体以外のヒトとしての成長は大人を模倣することによって育まれるから、幼児の間に脳に入ってきた大人からの情報は、模倣すべき良い情報として、しっかりと脳に刻み込まれることになる。その結果、模倣された当の大人がビックリするような言葉を喋ったり、思わぬ行動を見せたりして、「この子は天才ではないか」と驚かされることになる。つまり、どんなに小さな幼児でも、大人がとった行動はお見通しなのだ。それだけ、しっかりと大人を観察している、ということになる。
それを考えると、大阪市のワンルームマンションで、母親に放置され、1歳と3歳の幼い姉弟が餓死した事件は、可哀そうでいたたまれない。幼い姉弟の目には、何が写っていたのだろうか。置き去りにしていく母の行動を、粘着テープが貼られたというドアを、どんな気持ちで見ていたのだろうか。そして、どんな記憶が残されようとしていたのだろうか。楽しかった記憶が少しでもあってほしい、と祈るばかりである。
我が家の幼い孫娘を見ていると、幼児の時の接し方がいかに大事か教えられる。ジーッと見つめる瞳からは、「しっかり見ているよ!」の無言の声が聞こえてきそうだ。そんな声に恥じないように、大切に育てていきたいものである。
【文責:知取気亭主人】
こんなに差があっても脳はさほどでない?
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