2012年9月12日
ロンドンで開催されていた障害者スポーツの祭典、第14回夏季パラリンピックが9日、12日間に亘る熱戦の幕を閉じた。日本選手団はというと、金メダル5個、銀5、銅6を獲得し、前回の北京大会からメダル総数では大きく減らしたものの、その健闘ぶりは見事だった。
以前にも書いたが、パラリンピックは、本当に感動させられる大会だ。観る度に、選手達のアスリートとしての凄さに驚かされる。今回もまた、各国選手達の躍動感あふれる活躍ぶりを見ることが出来、改めて感動と勇気を貰った。そして、「一流選手は凄いな!」、「スポーツは良いな!」と感じさせてくれた大会であった。
パラリンピックは、障害者のスポーツ大会である。したがって参加しているのは何かしらハンディキャップを持っている選手達なのだが、彼らの想像を遥かに超えるスピーディーでパワフルなその動きには、どんな競技を見ても圧倒されてしまう。中には、オリンピックでは見られない補助具や器具、或いは補助者を必要とする競技もある。しかし、パラリンピックに出て来る選手になると、そういった補助具等を最早体の一部と同じように操ってしまう。それはもう、「見事!」と言うしかない。
そして、そんな活躍ぶりを見ながら、厳しいであろう環境の中で一流アスリートになるためにしてきた激しいトレーニングや節制を想像して、健常者でありながら自分に甘い我が身が恥ずかしくなってしまう。選手達が競技する姿を見ていると、「諦めちゃいけない!」、「やれば出来る!」を改めて思い起こさせてくれる。パラリンピックは、そんな凄い力を持ったスポーツの祭典なのだ。それは、彼らが、ハンディキャップを持っている事を見る者に忘れさせてしまう程、凄いアスリートだからに他ならない。
それに比べると、見た目は健常であるにも拘らず、思考回路に障害があるのではないか、言い換えると、心のどこかにとても大きなハンディキャップを負っているのではないか、と思わせるような事件が相次いでいて心を痛めている。その典型が、大津市で起こった自殺に関し、学校や教育委員会が執った対応の拙さだ。
滋賀県大津市で、虐めを苦に中学2年の男子生徒が自殺した。そして、その事件に対する学校や教育委員会の対応が不適切だった、と全国的に物議をかもしている。尚且つ、あろうことか責任者の教育委員会委員長が暴漢に襲われ、重傷を負う事件にまで発展してしまった。こういったこれまでの経緯はテレビや新聞にお任せするが、どう考えても、学校や教育委員会(以降、学校側と記す)が執った対応は頂けない。
護るべきものが、“虐められた生徒”なのか、そうではなく“虐めた側の生徒”なのか、それとも“広く生徒達全て”なのか、或いは“学校という組織”なのか、もっと広げれば“先生と教育委員会という聖域”なのか、生徒も第三者も分かっているのに、学校側の大人だけが分かっていないように見える。素直に判断すれば、誰でも分かりそうなものである。ところが学校側は、自分達の所に火の粉が降りかからないように事を収めた、と思われるような対応をしてしまった。では、そう判断した心理的な背景は、一体何だったのだろうか。私は、学校という特殊な組織が大人の思考回路を狂わせているのではないか、と見ている。
表現が適切でないのかもしれないが、思考回路を狂わしている障害を「心のハンディキャップ」と呼べば、その一つは、「学校や教育委員会という閉ざされた社会の中で生活の殆どの時間を過ごすため、身を置く組織の特殊性に気が付かない」という事であり、今一つは、「会社と違い、お客は常に自分達より年齢の低い生徒達であって、新人であっても直ちに“先生”と呼ばれ、クラスのトップに座りこれを運営していかなければならない」という事である。一般の会社ではありえない事を求められるのだ。更には、「常に“聖職”という、形のない、無言の、しかも職場を離れても求められる国民的な理想像を、どんな時も演じなければならない」というハードルも「心のハンディキャップ」と言えるだろう。こういった事が複合的に作用して、「まずもって自分達の組織を守る」という思考にしかならなくなってしまったのではないか、と思っている。
勿論、こんなハンディキャップをものともせず、生徒たちのことを真っ先に考え、結果、生徒達から慕われている先生も沢山いるし、学校もある。ただ、大津の事件が刑事事件に発展してからというもの、虐めた側を訴える報道が堰を切ったように増えている。そんな報道に接すると、多くの学校では、まだまだ虐めへの対応が上手く行っていない事が窺える。
私自身も決して偉そうなことは言えない。しかし、パラリンピックに出場した選手達の輝いている姿を見ていると、学校側の大人が抱えるハンディキャップなど取るに足らない事だと思えてしまう。そして、“聖職”や“聖域”といった勘違いの考え方を取っ払ってしまう事が、単純で最も効果的なハンディキャップ克服方法だと思う。少し違う表現をすれば、「我々はもう限界です。家庭でもっとしっかり躾をしてください。そうしないと虐めは無くなりませんよ!」と本心をさらけ出すことも必要な事かもしれない。尤も、“教育委員会”の存在そのものが、教育現場にとってのハンディキャップの最たるものなのかもしれないのだが……。
【文責:知取気亭主人】
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オケラ(めっきり見なくなった)
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