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知取気亭主人の四方山話
 

『五畿・七道』

 

2013年6月5日

理科年表で調べ事をしていて、懐かしい表現を見つけた。高校時代の日本史で習った表題の単語で、久しぶりの出会いだ。 “高校時代のうろ覚え”を確かめようと、私が持っている三冊の地図帳をめくり調べてみた。今から45年以上も前に使っていた古い地図帳には掲載されているものと思っていたが、意外や、三冊の中で一番新しい地図帳(2006年版)にだけ、「畿内」という表記があった。この「畿内」が、探していた表題の「五畿」に当たるのだ。

「五畿」とは、「五畿内」の略で、山城・大和・河内・和泉・摂津という奈良時代や飛鳥時代など、律令制下の五つの地方行政区画、いわゆる「○○の国」と呼ばれる地域をさしている。今の地名で言うと、おおよそ、「山城」が京都市近辺、「大和」は言わずと知れた奈良で、残りの「河内」・「和泉」・「摂津」は大阪府全域と兵庫県の東の一部に当たる。それこそ、“近畿地方”の人達にとっては慣れ親しんだ地域名だろう。何れも古代に都があった近辺に位置しているのだが、電子辞書に収められている「スーパー大辞林」によれば、元々「畿」という漢字には「都からわずかしか離れていない領地」とか「天使の直轄地」という意味があるそうだ。そう聞けば、「五畿内」というこの言い表し方は、「なるほど」と納得がいく。

一方の「七道」だが、同じく「スーパー大辞林」では、「東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を言い、本来は街道名だが付近一帯の諸国も指していて、また日本全国の意味にも用いる」と説明されている。例えば、東海道は、伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の十五国を指す(下の地図参照)とともに、それらの国を通る幹線道路を指していたのだ。今の我々が良く口にする「東海道」とは、随分イメージが違う。下の地図にみられるように、今の四国や九州が「南海道」や「西海道」と呼ばれていたとあるのも、現代とは違う。
 



「五畿」にせよ「七道」にせよ、どちらも当時の都を中心にして物事を捉えている。そして、「七道」は、小さな国を大きな纏まりにして、“東の海”だの“東の山”、あるいは“南の海”など、どちらの方向の何に面しているかを示した表現になっている。至極自然な考え方だ。では、上の地図には表されていないが、「東海」や「西海」と同じようにこの時代に既に呼ばれていたという「関東」と「関西」は、一体どこを基準としていたのだろうか。

NHKラジオからの情報によれば、それは「関」、即ち「関所」を境にしていたという。そして、その関所は一か所だけでなく三カ所あった、というのだ。東海道の「鈴鹿関」、東山道の「不破関」、そして最後が北陸道の「愛発(あらち)関」、以上の三つである。これらを合わせて「三関」と呼んでいたらしい。高校時代に使っていた地図帳を見てみると、三つとも遺跡として記されている。
 



「鈴鹿関」は三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿峠から三重県側に入ったところに、「不破関」は岐阜県のJR関ヶ原駅のすぐ近くに、三つ目となる「愛発関」は福井県敦賀市の南南東方向に行った滋賀県との県境近くに、遺跡として記されてされている。これら三つの関所を結んだ線の東側を、「関所の東側」という意味で「関東」と呼んでいたのだという。「関西」は言わずもがな、である

今、我々が何気なく使っている「関東」・「関西」とは違い、当時は「東日本」・「西日本」の意味で使われていたらしく、随分と広い範囲を指し示していたことになる。ただ、「スーパー大辞林」にはこれらの三関は789年に廃止されたとあり、それ以降の時の権力集中地の移動、例えば鎌倉時代や室町時代など時代の移り変わりとともに、「関東」・「関西」が指し示す地域も変遷して行ったらしい。さしずめ、今ならば「箱根」や「碓氷峠」などが関所に当たるのだろう。それにしても、今から千年以上も前の事なのに、結構理に適った命名の仕方をしている。これから活発に議論されるであろう「道州制」の命名に、こういった昔の地域名を復活させてくれないかな、と思うのだが…。

【文責:知取気亭主人】
 

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