2013年10月9日
来月、ひとつの団体が解散する。今の若い人には馴染のない団体だ。日本には無数の各種団体が設立されていて、毎年幾つかの団体が増える一方で、また解散していく団体も多い。だから、通常なら団体がひとつ消えていくくらいで、感傷的になることも無い。しかし、私にとって、この団体は、その他大勢の団体とはちょっと違う。それは、今の我々が享受している日本の平和、その日本の平和に少なからず貢献してきた、と思うからだ。
また、解散する理由を聞いて、一抹の寂しさも感じている。一般的には「役目を終えた」という理由が表向き多いのだろうが、その団体の解散理由は、「会員の減少と高齢化」だという。確かに、今の日本に在っては、それも分かる。特に創立が古い団体は、時代背景の変化や少子高齢化の荒波を受け、会員が減っていくのも想像に難くない。我々が所属する、建設関連の学術的な学会もその傾向にある。しかし、その団体が他と違うところは、「最近新入会員が減ってきている」という生半可な理由ではなく、「随分前から全くない」というところだ。それは、違った視点で見ると国民にとってありがたいことではあるのだが…。
その団体の名前を「日本傷痍軍人会」という。恐らく、今の若い人は「傷痍軍人」という言葉も知らないだろう。ある意味知らない方が幸せではあるのだが、このニュースに接して以来、何故だか、知らない事の“危うさ”や“不安”も感じ始めている。
「傷痍」とは“傷”とか“怪我”という意味で、「傷痍軍人」は、その名の通り「負傷した軍人」という事になる。「日本傷痍軍人会」は、先の大戦で負傷や病気をした元兵士でつくる団体だ。創立は敗戦から7年経った昭和27年(1952年)で、今年が丁度60周年の記念の年になる。報道によれば、先日の10月3日に、創立60周年の“記念式典”と一緒に“解散式”も行われたという。
最も多い時で約35万人いた会員は、約5千人にまで減ったらしい。加えて、残った会員の平均年齢も92歳と高齢化が進んでいるというから、解散もやむを得ないことだ。来月11月末に解散する、と報道されている。
今年で戦後68年、当時戦争に駆り出されたのは、学生や働き盛りの青壮年だったのだから、半世紀以上時間が経てば、高齢化が進むのは致し方ないことだし、亡くなる方が増えていくのも自然の道理だと諦めるしかない。しかし、傷病で体を痛めた彼らが、敗戦直後に送らなければいけなかった焼け野原となった日本での生活、その苦労は如何ばかりだっただろうか。私の脳裏には、彼らの辛く厳しい生活の一端が、今も鮮明に焼き付いている。
私が小学校の頃だったと思う。年に1回ほどだっただろうか、母に連れられ、たまに浜松市に出掛ける事があった。昭和24年生まれの私が小学生だから、昭和31〜37年、西暦で言えば1956〜1962年だ。その頃、国鉄浜松駅の近くに百貨店があったのだが、その近くの歩道や地下道近くに行くと、どこからともなく哀愁を帯びた軍歌が聞こえてくる。どんな曲だったか定かな記憶はないが、そのメロディーが聞こえてくると、決まって母は歩みを早めていた。その先には、白い装束をまとった足や腕の無い男性が、歩道や地下通路の片隅で、空き缶を目の前に置いて座っている。頭を下げたままの彼らの横には、何か文言が書いてあったが、記憶にはない。しかし、子供にも、戦争で障害を負ったであろうことは、容易に想像がついた。それが、傷痍軍人だった。偽の傷痍軍人だという噂もあったらしいが、私は決してそんなことは無いと信じている。
母は、そんな彼らに足早に近づくと小銭を空き缶に入れ、また足早に立ち去っていた。そんな傷ついた男性の姿や軍歌を聞くのが辛いのか、怒ったような口調で何かつぶやいてもいた。今から思うと、満州から女一人で引揚げて来た時の、辛い記憶が蘇って来ていたのかもしれない。また、父が満州から帰ってきて若くして亡くなったのも戦争のせいだ、と思っていたのかもしれない。昭和30年代は、まだそんな戦争の記憶が鮮明に残っている時代だったのだ。
その当時の私は何も知らなかったが、シベリア抑留からの最後の引揚げ船「白山丸」が舞鶴港に帰港したのは、戦後13年も経った昭和33年9月7日だったのだから、記憶ばかりでなく、戦後の混乱がまだまだ続いていた時代だった、とも言える。今7年後のオリンピック招致に成功したと湧きたっているが、前回の東京オリンピックが開かれた昭和39年の僅か6年前まで引揚げ船があったとは、喜びに沸く若者達には、恐らく想像もできないだろう。
また、いまでこそ障害を持った人が働ける場も増えてきてはいるが、それでも、まだまだ満足のいく状況ではない。そう考えると、働く場そのものが今より遥かに少なく、障害を持った人を雇うという意識が乏しかった時代に、傷痍軍人が職を得るのは、極めて困難な事だったと思う。政府の支援が有ったとは言え、生活が楽である筈がない。したがって、同じ境遇の仲間が集まり、政府への働きかけをするようになったのも、自然の流れだったのだろう。加えて、傷痍軍人として、戦争の悲惨さを伝えなければ、という強い思いと使命感が会の設立に繋がった事も想像に難くない。
「今の日本はデフレだ、格差社会だ」とは言うが、全ての国民が平等に教育を受けることができ、餓死者が殆どでない国家が世界の中でどれほどあるかを考えた時、今の繁栄と平和の有難さが分かる。戦後の混乱期を皆が無我夢中で働いてきたからこそ今の日本があるのだが、そんな歴史の証人の役目を果たしてきた会が、来月には消えていく。時代の流れ、と言ってしまえばそれまでだが、人間の飽くなき欲望に対しブレーキを踏むには、苦しかった時代を思い出すことも必要だ。そういう意味では、こんな時代だからこそ、歴史の証人には残っていてほしかったのだが…。
【文責:知取気亭主人】
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キクイモ
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