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知取気亭主人の四方山話
 

『世界との差』

 

2014年2月26日

ソチオリンピックが終わった。まだパラリンピックを残してはいるが、今回の冬季オリンピックの第一幕は大成功の裡に幕を下ろした、と言って良いだろう。時差もあって全ての競技を観戦したわけではないが、各国代表選手の素晴らしいパフォーマンスを、大いに楽しませてもらった。また、日本選手も活躍してくれた。日本は、金メダルこそフィギュアスケート男子個人の羽生選手の1個のみであったが、銀メダルはスノーボード・男子ハーフパイプとスノーボード・女子パラレル大回転、ノルディック複合ノーマルヒル、そしてジャンプ・ラージヒルの都合4個、また銅メダルはスノーボード・男子ハーフパイプとジャンプ団体にフリースタイルスキー・女子ハーフパイプを加えた3個の合計8個を獲得して、長野大会の10個に次いで2番目に多い大会となった。また、メダル獲得数では、地元ロシアを始めとする冬のスポーツ大国の北欧や北米の強豪国には遠く及ばなかったものの、ジャンプ女子の高梨選手やモーグル女子の上村選手など、後一歩メダルに届かない選手も沢山いて、「日本選手団は、世界の中で埋もれることなく躍動していた」と言って良いのではないだろうか。

ただ、メダルが有望視されていたのに惜しくも獲得できなかった選手の中には、普段の実力を発揮できずに表彰台を逃した選手もいて、大舞台で持てる力を発揮することの難しさを改めて感じさせた大会でもあった。元々日本は、冬のスポーツ大国と比べると、上位の成績を期待できる種目が限られているだけに、どうしても数少ない有望選手に大きな期待を寄せてしまう。

オリンピックが近づくと、日本の報道メディアは、そんな有望選手を大々的に取り上げ、メダルへの期待を大きく喧伝する。そうした報道に接していると、見ている我々は知らず知らずのうちに大きな期待を寄せてしまうし、世界での戦いに慣れ活躍してきた選手も、いやがおうにも我々の期待を敏感に感じ取ってしまう。それが繰り返されると、やがて選手の心を使命感が蔽い、重圧を感じるようになってしまうのだろう。分かったようなことを書いたが、テレビの解説者がよく使っていた「オリンピックの魔物」とは、きっとそういった事なのだろう。メディアも、世間を煽る期待報道ばかりでなく、「オリンピックを楽しんで!」の余裕報道が加わっていれば、もう少し重圧が軽くなったのかもしれないのだが…。

しかし、スポーツは本当に良いものである。人種も肌の色も宗教も、ましてやイデオロギーも関係なく、純粋に技とスピードを競い合っている姿は、清々しくて気持ちが良い。競技が終われば、取って置きの笑顔を見せるし、嬉し涙も悔し涙もある。しかし、どの顔を見ても感動的である。例え負けても、ライバルたちとハグし合い、相手を称える姿は、世界各地で燻り続ける紛争やいがみ合う姿とは大きな違いだ。

いがみ合う姿は、スポーツの世界には似合わない。どうして似合わないのだろう。私見だが、それは多分、最近のスポーツが遊びからスタートしているからなのだろう。遊ぶには心に余裕がないといけない。そして、余裕がないと面白い遊びにはならない。真面目一方では、豊かな発想が出来ないし、スポーツまでに発展させることは難しい。ましてや、ライバルだからといって敵対心を露わにしたりズルをしたりしては、遊びではなく喧嘩になってしまう。また、競う相手をリスペクトしなければ、楽しく遊べない。例え遊べても、面白味は途中で萎えて、長続きしないのは明らかだ。ライバルがいてこその遊びであるし、スポーツだからである。

最近の冬のオリンピックを観ていると、そんな「スポーツは遊びの延長にある」を改めて実感させられる。理由は、今回の新種目、小野塚彩那選手が銅メダルに輝いたフリースタイルスキー女子ハーフパイプに見られるように、最近の大会で新たに加わる競技が結構多いからだ。しかも、そのどれもが面白い。日本がメダルを獲得した6種目の競技の中で、金のフィギュアスケートと銀のノルディック複合、そして銀と銅のジャンプを除いた3種目、つまり、半分が長野大会以前には無かった種目だ。しかも、長野大会以降に新種目となった競技は、冬のスポーツが苦手の私でも、どれもこれも面白い。よくもまあこんなにスリリングで面白い競技を思いついたものだ、と感心してしまう。

きっと、遊びの天才たちが考案したのだろう。冬は炬燵に入って一杯、が大好きな私には及びも付かない競技ばかりだ。遊び心をスポーツに、しかもオリンピックの競技種目にしてしまうのだから、発想もその行動力も凄い。多分、それらの競技の発祥地は、日本以外の地域であろう。

日本発祥のオリンピック種目と言えば柔道だが、精神性や形を重んじていて、競技しながらも楽しむという遊びの要素は無い。英語の単語“play”には「遊ぶ」の意味もあれば「競技をする」の意味もあるのだが、日本では、“遊び”と“スポーツ”の間に目に見えない線を引いているような気がしてならない。「オリンピック種目になっていればスポーツ、そうでなければ単なる遊び」といった具合だ。しかも、“遊び”はとかく日陰者になりがちである。子供が成長するにも、大人が生き生きと生活するのにも必要欠くべからざるものなのに、である。その辺りの所が、日本がスポーツ大国になれない最大の理由の様な気がする。また、スポーツ大国との差、そして世界との差なのかもしれない。

尤も、「あの子、大事な時には必ず転ぶんですよね…」とか「(米国代表として)オリンピックに出る実力がなかったから、帰化させて日本の選手団として出している…」など、森喜朗元首相の発言が波紋を呼んでいるが、東京五輪・パラリンピック組織委員会の最高責任者である会長がこういった不用意な発言をする事こそ、世界との差、なのかもしれない。

【文責:知取気亭主人】

  
馬酔木の蕾(春は近い)

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