2014年3月5日
先日、私のヒーローがこの世を去った。彼と直接顔を合わせたことは唯の一度も無かったのだが、その驚くほど逞しい生命力に憧れと尊敬の念を抱き、1年程前から密かに私のヒーローとさせてもらっていた。会ったことも無いのだから私が憧れていたなどとは彼の方は知る由もなく、「先月の14日、静かに息を引き取った」との情報は、インターネットのニュースで知った。確かに、信じられないほどの生命力を持っていた。しかし、その生き様を知るにつけ、「こんな日が何れは訪れるだろう」とある程度覚悟はしていた。したがって、彼の死を意外と冷静に受け止めている。「遂にその時が来たか!」の残念な思いがあるにはあるが、今は彼のこれまでの“苦悩”に思いを馳せている。そのヒーローとは、三重県の鳥羽水族館で飼育されていた、深海生物のダイオウグソクムシである。
ダイオウグソクムシは、丁度1年前の四方山話「絶食」(第503話)にも登場してもらった、驚きの絶食生物である。絶食は6年目に入っていたというのだが――1年前は7年目とも報道されていたのだが(?)――、何とも凄まじい生命力である。解剖の結果、胃の中は予想通り空だったらしいが、死因は“餓死”と特定された訳ではなく、インターネットのニュースに依れば「死因は不明」だというから面白い。素人考えでは、6年も絶食していて胃の中も空っぽであれば、餓死が直様思い浮かぶ。しかし、「死因は不明」となっているところを見ると、そう単純な判断は出来ないらしい。難しいものである。そんな“気になる死因”は兎も角として、彼は――因みに今回亡くなったダイオウグソクムシは雄――何でそんなに長い間絶食していたのだろう。また、出来たのだろう。
ダイオウグソクムシは、水深約100m〜2,000mの深海底に生息する生物で、私達の身の回りでよく見かける、あのダンゴムシの仲間だという。体長20p〜40p、体重1sを上回るものもあるというその姿は、ダンゴムシの仲間では世界最大らしい。想像を超える長期絶食に耐えられる逞しい生命力に加え、その大きさも私のヒーローたる所以である。
彼はメキシコ湾で捕獲され、平成19年9月から鳥羽水族館で飼育されていた。特別な愛称で呼ばれていたという情報はなく、味気ないが、個体識別として「No.1」と名付けられていたらしい。鳥羽水族館にはこの「No.1」以降に10匹が仲間入りしたのだが、「No.1」だけを残して全て死んだという。餌を食べないことが原因と見られている。
インターネットでの情報に依れば、「No.1」も平成21年1月に約50グラムのアジを食べたのが最後だという。こうした「No.1」の驚くべき長期絶食や10匹の仲間の推定死因を聞くと、「ダイオウグソクムシは総じて絶食好きなのではないか」と思ってしまう。しかし、草食系男子が増えて来たと言われる日本人より遥かに子孫を残すことに全力を注ぐ野生生物が、好き好んで自らを死に至らしめるほどの絶食をするとは到底思えない。絶食の理由は、人間が行うダイエットとは根本的に違う筈である。私が思うに、「No.1」達の絶食はストレスが原因とみている。
そんな思いを抱いたのは、手元にある「生物から見た世界」(ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳 岩波書店)という本に依るところが大きい。この本、初版が1934年というからかなり古い本だが、内容は私にとって目から鱗の話ばかりである。最初の邦訳本は1942年に出版されているが、手元にあるのは、2005年に第1刷が出版された新訳本である。それだけ根強い人気があるという事なのだろう。
タイトルが示す様に生物主役の本で、ミツバチやハエなど身近な生物を例に挙げながら、「生物は生育している周りの状況・景色をどのように見ているか」を、スケッチを使って分かり易く解説している。「成程!」と感嘆することしきりだが、この周りの状況・景色を「環境世界」ではなく「環世界」と訳しているのは、まことに妙訳である。また、「…見えているか」ではなく「…見ているか」というのも、彼らが主導的に採餌している事を考えれば、すんなりと腑に落ちる。
特に、序章のマダニの話は、採餌の為に身に付けた能力を如何なく発揮する生物の驚きの世界を垣間見せてくれていて、思わず話に引き込まれてしまう。目も無く、耳も聞こえないこの生物がどのようにして哺乳類の血を吸うのかは本を読んでのお楽しみだが、少しだけ情報を提供すれば、哺乳類の皮膚線から漂い出る酪酸という物質が採餌の重要な役割を果たしているらしい…。
話を私のヒーローに戻そう。普段彼らが生息している水深約100m〜2,000mの水圧は、凡そ10〜200気圧にもなる。そして光も殆ど届かない。それが、ダイオウグソクムシが何時も見馴れていた、そして感じていた「環世界」である。翻って、飼育されていた水族館はどうだろうか。多分、水圧は2気圧も無いだろうし、展示をしている以上闇の世界で飼育し続ける事は不可能だ。彼らが飼育されていた環境は、それまで慣れ親しんだ「環世界」、もっと端的に言えば、生存の為に適応した「環世界」とは余りにかけ離れていた、と考えられる。加えて、彼らを興味深そうに見入る人間は、見た事の無い恐ろしい天敵に見えたのではないだろうか。これではストレスを感じない筈がない。
我々人間は、武器や火がなければ、肉食動物が生息する草原や森林でたった一夜を過ごすことでさえ極度のストレスを感じる。それを思えば、ダイオウグソクムシが極度のストレスを感じたのも想像に難くない。極度のストレスを感じ続けた結果、食べたくても食べられない状況になってしまったのではないだろうか。もしかしたら、人間以外の生物にも拒食症が有り得る、という事例なのかもしれない。
【文責:知取気亭主人】
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生物から見た世界
【著者】ユクスキュル/クリサート
【訳】日高敏隆・羽田節子
【出版社】 岩波書店
【発行年月】 2005年6月
【ISBN】 978-4-00-339431-1
【サイズ】 縦15cm
【頁】 166P
【本体価格】 \693(税込)
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