2019年6月19日
今から78年前の1941年(昭和16年)夏、首相官邸で、ある内閣から重要な閣議報告がなされた。日米開戦の僅か三か月前のことである。その少し前の4月1日、内閣直属機関として「内閣総力戦研究所」といういかめしい名前の研究所が、ひっそりと発足した。重要な閣議報告とは、そこの研究生たちが組織した模擬内閣が、当時の第三次近衛内閣と対峙して説明した研究報告(模擬内閣の閣議報告)である。模擬内閣で閣僚となった研究生たちは、日本銀行、日本郵船を始めとする民間人6名を含む、軍人や文官など所属先から推薦された、総勢36名の逸材である。平均年齢は33歳という若さだった。
研究生たちは、日米開戦に向け「武力戦」、「経済戦」、「思想戦」を学び、模擬内閣を組閣して日米戦をあらゆる角度からシミュレイトするわけだが、その結果は内閣の期待に反して日本必敗であった。その為か、研究生たちの模擬内閣が必死に訴えた閣議報告は、「都合の悪い情報」として蓋をされ、日の目を見ることも、日米開戦回避に役立てられることもなかった。そして、閣議報告をした同じ年の12月8日、とうとう日米開戦の日を迎えることになってしまう。詳細は、これを発掘し表舞台に立たせた、猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」(文春文庫、1986)を読んでいただくとして、最近、何やらそれと同じ類の話を耳にしなかっただろうか。そう、年金に関連した金融庁の報告書問題だ。
新聞やテレビなどが報道しない日がないくらい、今はこの報告書の話題で持ち切りだ。金融庁が委嘱した有識者会議「金融審議会」、その会議でまとめられた報告書「高齢社会における資産形成・管理」が、事実上の撤回に追い込まれた。前代未聞の事だ。麻生太郎金融相が、突然「正式な報告書として受け取らない」と表明したからだ。「65歳で退職して95歳まで生きるとすると、夫婦の年金だけでは足りず、老後の金融資産が約2000万円必要だ」との内容が気に食わなかったとされているが、唐突感は否めないものの、また2000万円の金額が妥当かどうかは別にして、殆どの国民が老後に不安を持っているのは論を俟たないのに、いまさら何を言っているのだろう。日本の国民は、老後に強い不安を持っているからこそ、世界に類を見ない程タンス預金をしているのだ。
報道によれば、内閣や与党議員から漏れ聞こえてくるのは、この報告書を認めたら直ぐそこに控えている夏の参院選挙に悪影響を及ぼす、との声だという。恐らく、それが本音だと思う。だとすれば、模擬とは言え何のために組織され、何のために閣議報告をしたのか意味不明だった先の“影の内閣”と同じ様に、今回の“有識者会議”も、何のために委嘱され、何のために報告書としてまとめたのか分からなくなってしまう。恐らく、「不安をあおった」と叱られた有識者会議の面々も、憤りを覚えているのではないだろうか。
「自分たちに都合の悪い情報だから蓋をした」のが事実だとすれば、先の影の内閣の時と同じ轍を踏むことになる。厳しい言い方をすれば、不都合な真実の隠蔽だ。しかも、「都合が悪い」と思っているのは政権側にいる国会議員であって、庶民はちっともそんな事を思っていない。「エッ、そんな貯えは無いよ!」とか、「身の丈に合った生活をすれば何とかならないのかな?」、あるいは「何とかしなければ!」と焦るぐらいで、むしろ不都合であっても真実を知りたいと思っている。それでなくても、一番貧乏くじを引くことになるのは庶民だからだ。隠すのではなく素直に明らかにして、「もしそうだとすればどんな対策を打てばよいのか」、そうした本質的なところを議論してもらいたい。
そういう意味では、野党の対応も重要だ。「これまで政府が言ってきた『年金100年安心プラン』は嘘だったのか」との怒号が聞えてくるが、ネットを見れば、随分前から「年金だけでは老後破綻する」と警鐘を鳴らす情報が溢れていて、退職前からしっかりと生活設計しないと安穏な老後は送れないことに、言い換えれば年金だけで生活するのは厳しいことに、皆とっくに気付いている。それなのに、何を今更、だ。舌鋒鋭い批判は庶民側に立っているように聞こえるが、良く考えれば、現実が分かっていないのではないか、と疑いたくなってしまう。そういう意味では、与野党とも、これまで庶民の生活のどこを見ていたのだろう。
今回のこうした与野党の動きを見ていると、まず考えるのは次の選挙で当選することで庶民の生活は二の次、そんな国民不在の茶番劇を見ているような気がしてならない。「選挙で勝つためには、耳障りな情報は極力聞かせないように、そして出来る限り心地良い情報だけ流して、真実はなるべく触れないでおこう」、そんな意図が見え隠れするのだ。「国家・国民のために身を粉にして働こう」、中にはそう考える立派な議員もいる筈なのに、十把一絡げに思えてしまうのは、誠に残念なことだ。
ともあれ、我々庶民は、国会のドタバタ劇を尻目に、「ドッコイ、我々を甘く見るな!」と見返してやりたいものである。ところで、「昭和16年夏の敗戦」では、日米開戦当時の首相であった東条英機が模擬内閣の報告内容を熟知していたとされているのだが、さて今回の騒動ではどうなのだろう。
【文責:知取気亭主人】
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「昭和16年夏の敗戦」
【著者】 猪瀬 直樹
【出版社】 文藝春秋
【発行年月】 1986/08
【ISBN】 978-4167431013
【頁】 262ページ
【定価】 408円 + 税
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