2022年6月1日
手元に昭和53年(1978年)発行の古い地図帳がある。帝国書院編集部編の『新詳高等地図(初訂版)』(帝国書院、1978)である。その地図帳の「@東海地方主部」と書かれたページに、目的の施設は描かれている。今大規模な漏水問題で世間を騒がしている明治用水である。この問題、我々遠方にいる人間にとっては興味深い話題の一つぐらいで済む。だが、当事者である西三河地域一帯の農家の方々にとっては、稲作など今が一番水を必要とする時期だけに、突然降って湧いた災難に頭を抱えている状態ではないかと思う。
明治用水は、豊臣秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃に蜂須賀小六と出会ったとされる「矢作橋(やはぎばし)」が掛かっていた川、矢作川、その矢作川のほぼ中流から取水して、西三河地域を広く潤して三河湾(細かく言えば知多湾)に注いでいる。その取水施設が、問題の「明治用水頭首工(とうしゅこう)」で、豊田市に位置している。ネット地図で見ると、近くにはトヨタ自動車の本社工場がある。支流の巴川(上記地図帳では足助川(あすけがわ)と書かれている)との合流地点よりやや上流で矢作川から水を取り、中流部では岡崎市や安城市などを、下流部では高浜市や西尾市などを潤している。
中学だったか高校だったか忘れたが、この明治用水によってもたらされた豊かな水の恩恵を受け、先進的な農業地域となった安城市を中心とする一帯は「日本のデンマーク」と呼ばれる様になった、と学んだことがある。50年以上も前のことだ。それから月日が経ち、東名高速道路を走る度に“安城”と書かれた標識を見つけると、「ここがあの安城か!」と記憶が蘇ってきたものだった。それ程明治用水の効果は強烈な記憶として残っていて、今でも今回の事故の報道を聞いた時、直ぐに日本のデンマーク地域の農業が気になった。
そうした明治用水と地域農業の発展の歴史は、東海農政局のホームページに、「明治用水の歴史」(https://www.maff.go.jp/tokai/noson/yaso2/history.html)と題して詳しく書かれている。それを読むと、明治用水の目的が、当初は工業用ではなくあくまでも農業用であったことが良く分かる。計画が江戸末期、そして完成(通水)が明治13年(1880年)とあるから、さもありなんである。時代背景的には、西洋に早く追いつけの掛け声の下、食料の生産性向上に躍起になっていた時代で、工業化の槌音は、遠くに聞こえ始めていた程度だったのだろうと思う。
ただ、問題の施設「明治用水頭首工」は、工業化の槌音が俄然大きくなってきた戦後、昭和33年(1958年)に完成している。ネットで調べても判然としないが、その頭首工が完成した時から工業用水も取水するようになったのだと思う。それ以来、明治用水は、農業にも工業にも大切な水を供給する施設となった。その恩恵を受け、今では、一帯は農業地帯であるとともに、すっかり日本を代表する工業地帯にもなっている。
その取水施設である「明治用水頭首工」で小さな漏水が見つかったのが5月の15日(日)、17日(火)には大規模な漏水に拡大しその後取水できなくなった、と報じられている(中日新聞WEB版:https://www.chunichi.co.jp/article/472858)。この頃、全国ニュースとして知った読者も多いだろう。かく言う僕もそうだ。「あの明治用水が漏水?」と、聞いた時には本当にびっくりした。取水できない程の大規模な漏水など、門外漢の僕にとっては原因が見当つかず、「どういう事?」と「?」が頭を駆け巡っていた。
ところが、頭を駆け巡っていた「?」は、最初は一つだけだったのに、暫くすると更にもう一つ増えた。大規模漏水から2日後の19日(木)、「明治用水頭首工」を所管する東海農政局が、何と「工業用水を優先して確保する」と発表したからだ。中日新聞19日のWEB版によれば、優先した理由として、「工業用水の方が農業用水よりも需給が逼迫する」との見立てがあったらしい(https://www.chunichi.co.jp/article/473191)。必要水量は工業用水が毎秒3立米、農業用水が同じく毎秒5立米で、両方の水量を確保するにはポンプの数が圧倒的に足りず、今のポンプの数だと工業用水は賄える、と踏んだ節もある。
しかし、前半で長々と書いた様に、この用水の当初の目的は農業振興であった筈である。しかも、所管は農業政策の本家本元とも言える農政局だ。なのに、「工業用水を優先して確保する」と発表した。思わず、「エッ、何かおかしくない?」と、小さく叫んでしまった。穿った見方だが、工業用水を管理するのが愛知県、用水を管理するのが明治用水土地改良区、という立場の力関係もあったのではないか、と勘繰ってしまう。時代と共に当初の目的が合わなくなってくることは良くある。しかし、明治用水に頼っている農家はまだまだ多い。地元新聞の中日新聞WEB版を読むと、恨み節ともとれる農家の苦闘が伝わってくる。
工業用水優先の判断には、税収の多寡が頭をよぎったのかもしれない。しかし、農業政策の本家本元であるならば、農家を守る為の行動が必要だったのではないだろうか。今と同じ結果になるにせよ、「農業にとって今が一番必要な時だから、せめて最低限の農業用水は確保したい」と表明すべきだったと思う。これって偏屈爺の戯言なのかなぁ…。
最後に、いつものジョンズ・ホプキンス大学による感染状況の集計結果を記載しておく。日本時間5月31日17時の時点で、世界全体の感染者数は5億2937万人を超え、亡くなった人は629万人に迫っている(NHK 特設サイト 新型コロナウイルス:※1)。
(※1:https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/world-data/)
【文責:知取気亭主人】
カルミヤ(アメリカシャクナゲ)
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