いさぼうネット
賛助会員一覧
こんにちはゲストさん

登録情報変更(パスワード再発行)

  • rss配信いさぼうネット更新情報はこちら
知取気亭主人の四方山話
 

『お寺で落語』

 

2023年6月21日

先月の第1030話『文化財修繕工事報告会に参加して』で紹介した圓通山松山寺(以下、松山寺)から、2ヶ月ほど前に、「おてらくご 金澤2023」開催の案内をもらった。「おてらくご」とは、「お寺」と「落語」を掛け合わせた造語で、お寺で御坊さんの“説法”とプロの落語家による“落語”を聴こう、という会だ。ネット情報によれば、宗派を超えた実行委員会が2016年から毎年主催していて、今年は3年振りの開催だという。僕自身が案内をいただいたのは、檀家となって以来今回で2回目と記憶している。参加も2回目となった。案内によれば、金沢市内12のお寺が参加していて、今回は、「立川志らら」と「立川らく次」という二人の落語家が16日から18日の3日間かけて回るスケジュールになっている。松山寺は、その「立川らく次」さん最後の公演だ。

コロナ禍前に参加した前回の参加者は確か30人もいたかどうかと記憶しているが、今回は、9人の子どもを含め老若男女50人ほどが参加し、賑わった。前回の事が頭に有ったので、意外と多い参加者にビックリしてしまった。東京や大阪などと違い、鈴本演芸場などいわゆる常設の施設がない金沢の人にとって、落語を生で楽しむ機会は少ない。新聞社などが主催する落語会が無い訳ではないが、たくさん客を入れたいためなのだろう、意外と大きなホールを使うことが多く、必然的に落語家と客席の距離が遠い。下手をすると、遠すぎて落語家の細かな表情が観づらい場合もある。

そこにいくと、「おてらくご」は、最後尾の観客でも、演者との距離は畳数畳分程度しか離れていない。したがって、細かな表情まで余すところなく楽しめる。息遣いも聞こえるほどだ。尚且つ、木戸銭が1,000円と安く、懐にも優しい。そうしたこともあってか、前に座った方々から聞こえて来た『場所が分からなかったからタクシーで来た』の会話からすると、松山寺の檀家ではなく、純粋に落語目当ての人も参加しているらしい。

そんな中、子供たちの反応の良さに驚いてしまった。落語は説法と違って完全な笑い話ということもあってか、子供たちは屈託なく大きな声を上げて笑う。それに誘われる様に大人も笑う。大人は、見知らぬ他人がいると何となく遠慮してしまうものだが、子供たちのお蔭だろう、他人を気にする様子もない笑い声があちらこちらから聞こえる。お寺でこれだけの人数が声を上げて笑うということは、滅多にないことだと思う。お寺と言えば、どうしても葬儀や法事の時にお世話になるだけ、というイメージが強いからだ。

ところがふと、そうとばかりは言えないな、という映像を思い出した。今は亡き瀬戸内寂聴さんが、京都市にある寂庵で開いていた法話の会の様子である。勿論、真剣な眼差しで寂聴さんの法話に聞き入ってはいるが、明るい笑いに溢れていたように思う。「おてらくご」の時間が過ぎるにつれ、映像で見た寂庵の様子と同じだ、と妙に嬉しくなってきた。

元々宗教は、今を生きる人たちの心の拠り所として誕生した筈である。仏教と共に世界三大宗教と言われるキリスト教もイスラム教も、恐らく“今を生きる人たちと共にある”を意識して布教に努めているのだと思う。しかし仏教、とりわけ日本の仏教は、“葬式仏教”と揶揄される様に、葬儀や法事などではお世話になるが、「今を生きる人たちのために」というイメージは薄い。

現代の仏教に対する僕の正直なイメージを言えば、「極楽浄土に行ける」とか、「地獄に落ちる」とか、果ては「三途の川を渡るには銭が必要だ」など、.死後の世界のあり様を恐ろし気に語り、「だから、悪い事をしてはいけない」と、戒めてばかりいるような気がしてならない。「地獄に落ちないためには、あれをやってはいけない、これをしてはダメだ」など、子供への躾の一環として聞かされた後ろ向きの教えばかりが記憶に残っているからだ。どう思い出しても、「こうしたら幸せになれる」とか、「こうしたら気持ちが楽になる」など前向きな教えは、浮かんでこない。本来はある筈なのに…。

それでも、僕らが子どもの頃はまだお寺との距離が近く、和尚さんの法話を聴く機会は、多少はあった。ところが、現代はめっきり疎遠になってしまっていて、大人でさえそんな機会は殆ど無い。あっても葬儀や法事の時ぐらいのものだ。これでは、葬式仏教と揶揄されても仕方が無い。このままでは、心の拠り所として仏教に救いを求める人は居なくなってしまうのではないか、と思っている。しかしその一方で、闇バイトに手を染める若者が後を絶たない現状からも分かる様に、悩みを抱え、拠り所を求めている人たちは多い。仏教はそうした人達の精神的な支えになることはできないもの、なのだろうか。

寂聴さんがそうしていたように、それはできると思う。仏陀が悟りを開き布教した教義も、基本は「どうしたら幸せになれるか」とか、「どう考えたら気持ちが楽になるか」などだと思うからだ。抱えている悩みに即した仏陀の教えを説法すれば、寂庵がそうであったように、拠り所を求める人たちが集う場所となる筈である。そう考えると、集うきっかけとなった「おてらくご」は面白い試みだと思う。しかし、寂庵のようになるためには、まだまだ仕掛けも必要だし、苦労もすると思う。しかし、意図してかせずかは詳らかではないが、キリスト教を布教したという12使徒と奇しくも同じ12人の住職たちにエールを送り、本来そうであったように、仏教が再び拠り所と頼られる日が来ることを期待したい。


【文責:知取気亭主人】


説法と落語

Copyright(C) 2002- ISABOU.NET All rights reserved.