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知取気亭主人の四方山話
 

『まだ見ぬ世界を見てみたい』

 

2023年7月5日

日本時間の6月19日、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。今から111年前(1912年).北大西洋で深海に沈没したタイタニック号、その船体を見学するツアーに向かっていた潜水艇「タイタン」が消息を絶った、という信じられないニュースだ。商業目的で深海に潜れる潜水艇があり、そのツアーが実際に行われていた事自体に、まず驚かされた。昔、グアム島でごく浅い海を潜る半潜水艇に乗ったことはあったが、深海とは恐れ入った。もっとも、研究目的以外で深海に潜る潜水艇が造られたことはこれまでなく、飛行機の型式証明に見られる様な“安全確保のための関門”は無いらしい。そのせいなのだろう、伝えられる情報によれば、「深海を潜るには構造的な欠陥がある」と指摘されていたにも拘らず潜航してしまった訳で、無茶と言うか無謀と言うか、とんでもないことをしてくれたものである。

乗っていたのは、パキスタンの実業家親子など4人と、ツアー会社のCEOを合わせた5人だったという。乗客は、万が一の事故が起きた場合の免責契約書にサインし、1人25万ドルもの大金を支払って参加していた、と報じられている。一時「定期的に叩く音が聞こえる」との情報もあったが、日本時間の29日、水圧に耐えられず無残にも圧壊した残骸の一部が引き上げられた。作業の過程で遺体も見つかったという。最悪の事態となってしまった。

恐らく、ツアー会社の説明を受けた乗客たちは、タイタニック号を目にする深海まで潜っても安全だ、と信じていたに違いない。ただ、不測の事態は避けられないから100%安全だとは言い切れない、だから免責契約書にサインして、こんな流れだったのだと思う。ある意味、多少なりとも絶命の危険がある事は承知の上でツアーに参加していた、と言える。それでも潜ったということは、「多少の危険性があってもタイタニック号の姿を見たい」の思いが不安より勝ったのだと思う。それは、宇宙飛行士に憧れる人たちにも通じる思考のような気がする。共通するのは、「まだ見ぬ世界を見てみたい」という強い願望だ。

そうした願望は、今回の5人に限らず、誰しもが持っているものだと思う。ただ、「危険が伴うのではないか?」と不安になると、足がすくみ一歩が踏み出せなくなる人が多い。ところが、冒険家と呼ばれる人たちは、「例え危険を冒してでも見てみたい」との願望がとりわけ強い。「冒険」という言葉そのものが「危険を冒す」と書くのだからもっともなのだが、日本人にもそういった人たちは結構多い。

この四方山話を書き始めて真っ先に浮かんだのは、「冒険中の事故で命を落としてしまった」との共通点がある、二人の著名な日本人冒険家だ。一人は、アラスカにある北米大陸最高峰のマッキンリー(現:デナリ)に冬季単独登頂に成功した後、下山中に遭難し行方不明(1984年)となった植村直己、そしてもう一人は、カムチャツカ半島でヒグマに襲われ亡くなった(1996年)冒険家で写真家の星野道夫である。二人ともそれぞれの分野で、世界的に名を成していた人たちだ。

その他にも、特に冒険家とは呼ばれてはいないものの、見知らぬ世界に対する不安よりもまだ見ぬ世界を見てみたいという願望の方が強い人は、巷にも結構いる。新5000円札に描かれる津田梅子など、明治維新の岩倉使節団に加わった人たちもそうだし、古くは遣隋使や遣唐使の使節団の一行もそうだと言えるだろう。遣唐使の留学僧として密教を学んできた空海なども、当時の留学が命がけだったことを考えると、冒険家と言えるのでないかと思っている。仏教絡みで言えば、100年以上も前に、仏教の原典研究のために当時鎖国状態だったチベットに日本人として初めて入国した河口慧海も、その旅の様子を著した「チベット旅行記」(講談社学術文庫 1978)を読むと、冒険家そのものだと言える。

そして今回、これらの人たちに負けず劣らず、凄い冒険をやってのけた日本人がいることを知った。『天路の旅人』(新潮社 2022年)で沢木耕太郎が取り上げた西川一三である。沢木は、自らの体験を描いた『深夜特急』(新潮文庫 1986 1992)で名をはせた作家だが、彼自身も「まだ見ぬ世界を見てみたい」という願望が強いのだろう、出版された書籍には見知らぬ土地へ旅行した紀行文が多い。その沢木をして、この人、西川一三のことはどうしても書きたい、と思わせるほどの波乱に満ちた旅を、西川は成し遂げている。

『天路の旅人』の帯には、「『深夜特急』の沢木耕太郎が激しく共鳴し描く、大型ノンフィクション」と書かれたキャッチコピーが目を引く。そして、同じ帯に赤字で書かれた、「第二次大戦末期、中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した日本人がいた」の一文が、緊張感漂う時代背景と地政学的背景、更には決して日本人と悟られまいとする緊張感を持ち続けなければならないなど、今の日本人には想像もつかない波乱万丈の旅を想起させる。

帯に書かれている様に、西川は、自らの事を「密偵」と呼んでいたらしい。その密偵の役目を完遂するために、ラマ教(チベット仏教)の蒙古人巡礼僧になりすまし、当時日本の勢力圏だった満州を出発し、情報収集のための旅に出る。日本人と分かれば、命の保証がない旅だ。中国内陸部を通り、チベットに入り、ヒマラヤ山脈を何度も超え、遂にはインドに入る。どれほどの距離だったのだろう。そのほとんどを徒歩で走破しているというから凄い。沢木が言う様に、本当に稀有な旅人だと思う。冒険小説がお好きな方には、一押しの一冊になること間違いなしだ。そして、読後には何となく勇気が貰える、不思議な本でもある。


【文責:知取気亭主人】


天路の旅人 「天路の旅人」

【著者】  沢木 耕太郎
【出版社】 新潮社
【発行年月】 2022/10/27
【ISBN】 9784103275237
【頁】 576ページ
【定価】 2,640円(税込)

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