2024年4月3日
桜の便りと時を同じくして、日米のプロ野球が開幕した。ただ、米国の大リーグは少し変則日程で実施され、米国本土での30球団一斉の開幕戦に先立ち、大谷翔平選手が所属するドジャースとダルビッシュ有選手が所属するパドレスとの開幕試合が3月20日、韓国で行われた。この韓国での2試合を戦った後、日本時間の29日に日米ともに開幕し、これでやっと長い冬が終わり、カーンという心地よい音が響き渡る本格的野球シーズンの到来となった。必然的に試合結果も報じられる様になり、新聞のスポーツ欄やテレビニュースのスポーツコーナーも、俄然賑やかになってきた。
そんな中、韓国での開幕戦に合わせたかの様に、「大谷選手の通訳を務めていた水原一平氏がドジャースを解雇された」という衝撃ニュースが世界を駆け巡り、未だ詳細が明らかにされていないこともあって、大谷ファンには気がかりなスタートとなってしまった。しかも犯罪絡みだというから、この一件でどこまで大谷選手本人に影響が及ぶのか、嫌疑は晴れたにせよ精神的なダメージが打撃成績に影を落とすのではないか、と心配している。何せ、大谷選手にとっての水原氏は、事件発覚前まではただ単なる通訳という枠を超え深い絆で結ばれていた様に見えたのに、それを完全に裏切る形になったからだ。大谷選手のショックはいかばかりかと心配になる。
大活躍の大谷選手とそれを陰で支える水原氏という二人の姿に、米国のメディアは、水原氏の立場を紹介する際、「通訳」に加えて「confidant」という単語を使い始めていたという。手元にある英和辞典によれば、日本語に訳すと“親友”とか“腹心の友”という意味になる。我々が抱いていたイメージと同じ様な表現だ。よく使われる「親友」に比べると、「腹心」は何やら時代掛かった言葉に聞こえるが、新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店 2008)によると、「どんな秘事でも打ち明けて相談することができる者。心から信頼できる者。」と説明されていて、はた目からすると、二人の関係を表すのにこれ以上の言葉はなかったように思う。勿論、今となっては皮肉に聞こえてしまうのだが…。
どんなに仲が良くても「腹心」と呼べる友を持つことは、なかなか難しい。脛が傷だらけの小生に限らず、多くの人には、「あの事だけには触れられないな!」という事が多少なりともあるものだと思う。「心の闇」とでも言おうか。相手をおもんぱかると尚更そうだ。しかし、「腹心」は、そうした心の闇さえ打ち明けることができる友だという。人は、それほどまでに信頼を寄せられる関係を構築できるものなのだろうか?もしできたとしたら、それは素晴らしいことだ。実はつい最近、その「腹心」と呼ぶに相応しい二人の関係を扱った、感動の時代小説を読んだ。村木嵐著『まいまいつぶろ』(幻冬舎 2023)である。読みながら、「大谷選手と水原氏の関係も同じ様に見えたのに…」と思わずにはいられなかった。
腹心の友たる主人公は、江戸時代の9代将軍徳川家重と、その家臣大岡忠光である。聞き慣れない「まいまいつぶろ」とは、カタツムリのことを指す。家重は生まれながらに障害を持ち、歩いた後に尿をひきずった跡が残るため、「まるでまいまいつぶろの様だ」と蔑まれていたというのだ。そうした障害を持った主君とそれを側近として支え心を通わせた家来を扱った、当該本の書評をたまたま新聞で読んだ。書評を読んで直ぐに思い出したのは、西田敏行が演じたNHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」の中で、その子家重を演じた歌舞伎俳優中村梅雀の迫真の演技である。その演技の巧さが深く記憶に刻まれていて、それを思い出したのだ。そして、あの演技は史実に基づいていたんだと気付かされるとともに、俄然興味が湧いて来た。そして、先々週、やっと手に入れたという次第である。
読み終わった後、登場人物を調べてみると、何れも歴史上の人物ばかりで、教科書に登場する人物も多い。したがって、心模様や発する言葉は著者の創作だとは思うが、時代背景や家重に影響を及ぼした大きな出来事は、恐らく史実だと思う。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べると、この本で初めて知った大岡忠光という人物についての記述にも、「不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため信頼があつく、その側近として異例の出世を遂げた」とあって、当該本の内容と一致する。恐らく、太い幹は史実通りに描き、心の機微は、こうであって欲しいという著者の願いのようなものが込められていたのではないかと思う。著者の狙い通り、何度泣かされた事か。
上下関係が絶対であった封建時代のあの江戸時代に、ここまで信頼しあえる主従がいたとしたら、本当に凄い事だ。家重の言葉を唯一理解できたという特殊な事情があったにせよ、二人の関係が最後まで破綻しなかったのは、驚愕に値する。お互いがお互いを、信頼に足る人物だと信じて疑わなかったのだ。そして、二人の関係を見て、「例えまいまいつぶろと蔑まれても彼がいてくれるなら将軍として任を果たせる」と判断し9代将軍に据えた吉宗の、何と度量の広い事か。将軍として必要なのは“見てくれ”ではなく“何なのか”を、しっかりとわきまえている。さすが名君と呼ばれる所以である。
水原氏にも、国民に対し秘事ばかりが目立つお偉い議員の先生方にも、是非読んでもらいたい一冊である。
【文責:知取気亭主人】
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「まいまいつぶろ」
【著者】 村木 嵐
【出版社】 幻冬舎
【発行年月】 2023/5/24
【ISBN】 9784344041165
【頁】 336ページ
【定価】 1,980円(税込)
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