2024年5月22日
19日の日曜日、その日に予定していた孫と次男の嫁の誕生日会、加えて一緒にやろうとしていた「母の日」のお祝いができなくなり、それではと急遽金沢在住の子供たちが妻へのプレゼントを持ってきてくれた。当然、プレゼントは妻へのみと思っていた。ところが、『今回は夫婦御揃いの物を贈ろうということになり、父の日のプレゼントも一緒に買い揃えたから持って来たよ』と言って、二人に色違いの布袋を手渡してくれた。特に教えた訳でもないし、ましてやプレゼントをせがんだわけでもないのに、こうして事ある毎に(前話で紹介した歌ではないが)親思う心を示してくれる。上手く育ってくれたものである。と、親バカをご披露したところで、今回の本題に入ろうと思う。前話は吉田松陰の歌を引き合いに出し、親心について話題を提供した。今回は親繋がりで、“親の教え”についてお話ししたい。
「親の意見と茄子(なすび)の花は 千に一つもむだはない」という諺がある。「茄子にはむだ花がなく、咲いた花全てが実になることから、親が子にする意見には決してむだがない」という意味で使われてきた。しかし、最近の幼い我が子への虐待や軽い気持ちで凶悪犯罪に手を染める若者が増えている現状を考えると、どうやら我々人間界では、この諺も大分色褪せてきているのではないかと思えてしまう。
それに比べると、常に生死の危険と隣り合わせで暮らしている動物の世界では、この諺は厳然と活きている様に思う。「親の意見」を「親の教え」と言い換えれば、動物たちが子育て中に見せる愛情深くも厳しい躾は、生き残っていく為の術を教えているとも言える。弱肉強食の世界では常にそうした教えが、親から子へ、子から孫へと受け継がれてきた。いや、彼らの会話を理解できない身としては、ずっとそうだと信じてきた。ところがつい先日、ある友人と話をしていて、どうやらそうした教えも環境の変化によって教えなくなってきている、との意見がある事を知った。山で農業を営んでいる従兄の話や、時折流れる獣害のニュースを聞いていると、そんな意見もストンと腑に落ちる。
友人の話はこうだ。『熊が最近よく人里に出てきて、人に危害を加えたり建物に立てこもったりしてニュースになるが、あれは親熊が子熊に対して“人間は危険な相手だ”というのを教えなくなったからだ』というのだ。成る程、である。最近、(春だからかも知れないのだが)ヒグマやツキノワグマが人里に出てきて人間と鉢合わせをするなんて騒動が、結構頻繁に報じられている。そうしたニュースは、以前に比べると格段に増えている様に思う。過疎化によって人間はどんどん山から減って来ているのに、である。熊に限らず、保護によって動物、中でも獣が増えて来ているという話を聞く。それに加えて友人が言う様に、もし親による「人間は怖いもの」という教えがない、言い換えると教える必要性がないと動物たちが悟ってしまっているとしたら、えらいことである。日本の行く末は、「猿の惑星」になってしまうのかもしれない。それは荒唐無稽な話だと信じて、ではなぜそうなってしまったのだろう。非難を覚悟で言わせてもらえば、過度な保護に依るものではないかと思っている。
日本には、「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」(以下、「鳥獣保護法」)という長い名前の法律がある。野生の哺乳類や鳥類の保護や飼養の規制、或いはそうした動物が生育していく為の環境の保護、個体数の調整、狩猟に関する制度などを定めた法律で、許可を持たない人がむやみに鳥獣を殺傷することを禁止している。この法律の後ろ盾があるため、例え人間に危害を加えたり、人間が育てている作物を食い荒らしたりしても、むやみやたらに駆除することはできないのだという。
鳥獣保護法は、以前にあった法律を全面改廃して、2002年(平成14年)に成立・交付されている。従兄の口癖では、『爺さんの頃には庭に出てきたイノシシやニホンジカなどは、畑や作物を荒らせば断りなく駆除できたのに、この新しい法律のせいで今は荒らされても駆除できずに指をくわえて見ているしかない』と悔しがる。イノシシによる農作物の被害や笹ユリなど自生しているユリの被害は甚大で、従兄が住む地域のユリはほぼ全滅してしまったらしい。そのイノシシ以上に手に負えないのがニホンジカだ、と声を大きくする。
ニホンジカは、山で暮らす農家の大敵で、イノシシ除けの柵などは軽く飛び越えてしまい、お茶の新芽、生姜の葉、椎茸、植林した苗木の芽や樹皮、接ぎ木をすれば接ぎ木した箇所の樹皮など、殆どの樹皮や葉っぱを食べてしまうと嘆く。仕方なく、更に高い柵を巡らすのだが、まるで人間がおりの中で生活していてそれを見ているシカが笑っている様で本当に悔しい、と電話の度にこぼす。そして、法律を作る人たちに1年ほどここに来て生活し現実を知ってほしい、このままだと過疎化に拍車を掛ける法律になりかねない、と鋭いとこを点く。更には、怖いもの知らずとはこういうことを言うのだろうけど今では自宅前の道路をまるで散歩する様に集団で歩く姿をチョクチョク見掛ける、と諦め口調で笑う。
確かに、動物にとって最も恐ろしい筈の人間が恐ろしくなくなったとすればやりたい放題できる訳で、「人間=最も恐ろしい敵」という“親の教え”も最早必要ない、ということになってしまう。嘆かわしいことである。人間と動物が共存していく為には、どちらにとっても、“親の教え”はいつまでも有難いものであってほしいものである。
【文責:知取気亭主人】
クレマチス
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