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シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く コラム112 長野県と岐阜県・富山県を結んだ古道と明治の新道
―地形・災害・社会条件から読み解く―

1.はじめに

国土交通省 北陸地方整備局 松本砂防事務所は、「梓川・高瀬川流域大規模土砂災害史」(119ページ)という冊子を作成し、令和8年(2026)6月26日に記者発表しました。この冊子は、令和3年(2021)年3月に作成された「姫川流域大規模土砂災害史」(124ページ)とともに、松本砂防事務所のホームページで閲覧できます。

【姫川流域大規模土砂災害史URL】
【梓川・高瀬川流域大規模土砂災害史URL】

本コラムでは、【梓川・高瀬川流域大規模土砂災害史】の中から、「1.3 長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の道」をもとに新たに得られた知見を含めて紹介します。

高瀬川と梓川は北アルプスの槍ヶ岳(標高3180m)、乗鞍岳(標高3026m)などの急峻な飛騨山脈に隔てられており、明治期以前の長野県と岐阜県・富山県を結ぶ道は徒歩を主体とする峠越えの小道が数本あるのみでした。

信濃川上流域の水系網は、地形・地質条件を反映して非常に複雑です。槍ヶ岳で北と南に分かれた高瀬川と梓川(犀川)は、安曇野市押野崎で合流し、犀川となって北北東方向に流下して行きます。高瀬川は深成岩類(花崗岩類など)の山地部を流下し、大町市野口付近で平野部に出て、南南東方向に流下します。梓川は付加体の山地部を流下し、松本市島々付近で松本平に出て、北北東方向に流下します。

このため、この地域では(大規模)崩壊や土石流が発生しやすく、この間を横断する道は崩壊・地すべり・崩落・落石、土石流、雪崩などによって何度も被災し、ルート変更した区間もあります。この地域の地形・地質、冬場の積雪条件、これらの道路を必要とした社会条件を踏まえながら、4本のルートの特性について説明します。

本稿では、4本の道の歴史を紹介するだけでなく、道の位置と変遷を地形・地質・災害履歴との関係から読み解きます。

2.4本の道の全体像

図2は、長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の4本のルート「信越新道」「上高地道」「鎌倉街道」「野麦街道」を示しています。これらの道は4本のルートに限定されたものではなく、いくつもの枝道がありました。

図1
図1 犀川水系流域図(地理院地図「陰影起伏図」に加筆,松本砂防事務所,2026)
『梓川・高瀬川流域土砂災害史』では、梓川・高瀬川流域だけでなく、女鳥羽川、薄川流域も説明しています。
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図2
図2 長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の道(松本砂防事務所,2026)
(地理院地図「標準地図」「赤色立体図」をもとに編集,安曇野市小倉から穂高神社奥宮までの道を橙色で追記)
4ルートはいずれも北アルプスの峠・急峻な谷を横断しており、地形条件がルート選択を強く制約しています。
安曇野市小倉から穂高神社奥宮(⛩)へのルートを橙色線で示した。穂高神社は安曇野市穂高(⛩)にあります。
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表1は、長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の道の比較表です。

表1 長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の道の比較表
表1

3.「上高地道」と「鎌倉街道」

図3は、島々〜栃尾間の「上高地道」と「鎌倉街道」の拡大図で、福島・長沢(1986),服部(1994)をもとに、主な地名を追記しました。図4は、長野県/編(1909)の「浅間山噴火記録及焼岳踏査報告書」(長野県立図書館蔵,信州デジタルコモンズで閲覧,PUBLIC DOMAIN)に挿入されている図です。梓川周辺の河川と道が示されており、明治42年(1909)当時の梓川流域(島々から上流)の河川と道路の関係が良く分かります。白文字で主な地名を追記しました。

図3
図3 島々〜栃尾間の「鎌倉街道(赤線)」と「上高地道(青線)」(松本砂防事務所,2026)
(地理院地図「標準地図」「赤色立体図」をもとに編集)
「上高地道」と「鎌倉街道」は近接しながらも異なる峠・谷を選択しており、交通路の変遷を比較できます。
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図4
図4 梓川上流の明治期の道(長野県立図書館蔵,松本砂防事務所,2026)
(長野県/編(1909):浅間山噴火記録及焼岳踏査報告書の焼岳附近絵図に地名を加筆)
梓川と支川・道との関係が良く分かります。梓川沿いに明治末期に通行した道は何度も梓川を渡っています。
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福島・長沢(1986)によれば、「鎌倉街道」と呼ばれる道は、松本から島々(しましま)、稲核(いねこき)、入山(にゅうやま)を通り、奈川の角ヶ平(つのがたいら)から祠峠(ほこらとうげ)(神祠峠)へ登りました。ここから峠沢(とうげさわ)を下って大野川へ至りました。その後、中平(なかひら)、花戸(はなと)、十半坂(じゅうはんさか)、桧峠(ひのきとうげ)(くろんぶら)を登って、牛道(うしみち)、沢渡(さわんど)へ下り、池尻(いけじり)(池(いで)の尻)を経てぼったりへ登りました。ここを下って、洗馬谷(せばたに)から夏小屋(なつこや)、障子ヶ瀬(しょうじがせ)、細池(ほそいけ)、小舟(こぶね)を通り、安房峠(あぼうとうげ)、に至るものでした。当時の安房峠は安房山(標高 2219.6m)の南側にあったとされています。梓川沿いに自動車道(国道158号)が建設され、現在では廃道区間も多くなっています。

「上高地」を通る道は島々から徳本峠(とくごうとうげ)を通っていました。上高地からは焼岳北側の中尾峠を越えて中尾、栃尾方向へ向かうルートもありましたが、焼岳の噴火活動により通行が困難・不能となる時期もありました。

長野県立歴史館・名誉研究員(土木・環境しなの技術支援センター)の山浦直人氏によれば、多くの絵図や史料を見ていくと、中尾峠には飛騨の中尾村と安曇野の小倉村(現安曇野市)を結んだ道があると教えて頂きました。4本の道とは別の道なので、図2に橙色線で示しました。大まかには、小倉村→鍋冠→大滝山→徳沢のルートと考えました。図2の大滝山→徳沢のルートは、長堀尾根経由を図示してあります。しかし、大滝小屋付近から急峻な山腹を降りて(長命水という湧水箇所があった)、徳沢沿いを通るルートもありました。国土地理院、1978年編集、1980年6月発行『槍、穂高』5万分1集成図には、長堀尾根経由のルートと徳沢沿いを通るルートが示されています。しかし、昭文社(2024)の山と高原地図40(2024年版)、『槍ヶ岳・穂高岳 上高地北アルプス』には、長堀尾根コースしか示されていません。

原山先生の話によれば、「最近の登山ガイドブックに大滝小屋から徳沢へ降りるルートが描かれていないのは、1990年台の大雨による道の崩落が生じ、修復されずに廃道となった経緯があります。もともと通行する人が少ないこともあって、修復する資金を投入しなかったのでしょう。当方(原山先生)は、地質図福「上高地」の調査で大滝小屋から徳沢へと谷沿いのルートを何回も通通過しましたが、良く整備された登山道でした。このルートが廃道になった経緯は、蝶ヶ岳・大滝小屋のオーナーもしくは徳沢ロッジの元支配人に確認されるとよろしいかと思います。」とのことでした。

安曇野の小倉村や烏川の西穂高村からは山を越えて上高地の徳沢へ降り、穂高神社の奥宮へ向かう道がありました。この道が延長されて焼岳北の中尾峠を越えて、飛騨の中尾村から栃尾村を結んだとの記述が複数の史料にあります。奥宮は明神池のほとりにあります。図4 梓川上流の明治期の道によれば、明神池は宮川池と書かれています。

江戸時代以前には徳本峠を越える道は確認されておらず、明治になってから開かれたと考えられます。

安房峠に相当するのが「信濃峠」ですが、これは「正保(1644〜1648)の国絵図」などに書かれており、これが古い峠とみることができます。飛騨からの道は「野麦峠」を通過する道も古くからありました。信州の史料や絵図では「鎌倉街道」と呼ぶ道はあまり出てこず、飛騨地方で呼ばれていたようです。むしろ、「野麦街道」が主であったと思われます。

長野県教育委員会(1978〜)「歴史の道調査報告書の長野県(全48冊)」には、野麦街道(9)はありますが、鎌倉街道はありません。

図5
図5 長野縣管轄信濃國安曇郡安曇村村絵図に加筆(松本砂防事務所,2026)
赤線は明治期の道(長野県立歴史館蔵)
明治期の道のルートが非常に詳しく読めます。島々から稲刻を通る野麦街道は太く描かれています。
前川渡から稲核までの道は、急傾斜な谷壁の地形条件を考慮して安曇岩・天狗岩付近で梓川を渡っています。
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図5は、旧安曇村(現松本市)の村絵図(長野県立歴史館蔵)です。明治21年(1888)、大野川から祠峠を通らずに梓川に沿って奈川渡へ出る道が作られました。この道は大野川から前川の橋を通り、峠の沢を渡った上の橋を通りました。その後、峠の沢を渡った上のお墓がある大曲がりの所から左へ分かれ、山の中腹の斜面を巻いて、シブナギ(大規模崩壊地,天明二年(1782)発生)の上を通りました。その後、水窪、ガンクラという大きな崩れの上を通り、梓川右岸の小日向に出ます。今の親子(滝)トンネル付近に「安曇岩」という大きな岩が梓川の中にあり、この岩に橋を架けて対岸のトバタに渡り、再び山の斜面を登りました。トバタ崩れは、宝暦七年(1757)に発生した大規模崩壊(コラム17参照)です。トバタを横切って、現在の奈川渡トンネルの上部付近を通り、大白川と梓川が合流する付近の「天狗岩」でまた梓川を橋で渡り、稲核に出ました。稲核から松本方面は現在の車道(国道158号)とほぼ同じ位置を通りました。

コラム17 豪雨(1757)による梓川上流・トバタ崩れと天然ダム
https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum17.asp

シブナギについては、コラム113で説明します。

福島・長沢(1986)は、「明治25年(1892)と明治26年の夏、ウォルター・ウェストンは平湯から安房峠を越え、桧峠、大野川を経て島々に下った。途中、前川渓谷に面したガンクラの悪場がある付近を通った。このコースは祠峠を通る道よりも登り下りが少なく距離的には近いのだが、急な斜面をトラバースする危険な道で、冬季は雪崩の危険があり、通れないこともしばしばあった。また、安曇岩を渡って梓川の左岸を行く道も、明治30年代には廃道になり、代わって前川の川端から梓川右岸の断崖の下を通る小道が作られた。その後、この道を拡幅して自動車道(奈川渡ダム、水力発電所工事用)が建設された。安曇岩の岩盤には、橋を架けるためにノミで彫った穴があいているのが見られた。」と記されています(ウェストン著・青木枝朗訳(1997)も参考にしました)。梓川沿いの道は昭和44年(1969)に完成した奈川渡ダムの梓湖によって水没し、現在は梓湖の上(梓川左岸)を国道158号が通っています。

4.野麦(のむぎ)街道

「旧野麦街道」は、昭和59年(1984)3月1日に長野県史跡に指定されました。現地にある説明看板(長野県教育委員会、松本市教育委員会)によれば、
「江戸時代に松本と飛騨高山を結ぶ道は信州側では一般にひだみちと呼ばれ、いくつかのルートがありました。松本藩が編纂した「信府統記(しんぷとうき)」には、「松本カラ飛騨高山ヘノ道程」として、松本から藪原〜寄合渡〜野麦峠を経て高山に至る道が本道として記されていますが、松本から入山、黒川渡、野麦峠を経るルートも利用されていました。後者の道が一般的に「野麦街道」と言われ、松本から野麦峠までの呼称となっていました。

野麦峠を越える道は、江戸時代天領であり、代官所があった飛騨高山と松本・江戸を結ぶ道として利用されました。信濃からは米、清酒などが、飛騨からは鰤(ぶり)(飛騨鰤と呼ばれた)、塩などの海産物や曲物(まげもの)、白木(しらき)などがこの道を通り運ばれました。

明治4年(1871)〜 明治9年(1876)に飛騨3郡と中・南信4郡が一緒になって筑摩県が置かれると、本庁のある松本と支庁のある高山とを結ぶ連絡道路として、この道は重要視されました。

図6に示したように、野麦峠を越える道は原型が比較的よく残っている野麦峠からワサビ沢までの約1300mが「旧野麦街道」として県史跡に指定されました。川浦〜野麦峠間は歩行困難な急斜面を登って行きます。積雪・豪雪期で通行が困難な時期には、写真1に示した自然石で作られた石室(いしむろ)で、旅人は一時的に避難しました。

「野麦街道」が重要となったのは明治初期からで、製糸業という強い社会的要請から、積雪期の厳しい自然条件のなかでも交通を継続させました。2月も半ば過ぎると信州の岡谷に行く娘たちが高山に集まってきました。そして、若い娘の大群が数mも積雪が残る暗い夜道を通って、野麦峠を越え岡谷に向かいました。山本(1968)『あゝ野麦峠』の主人公・政井みねは、明治35年(1902)から明治42年(1909)まで7年間(14歳から21歳まで)、生家のある岐阜県吉城郡河合村角川から岡谷の製糸工場まで往復しました。

図6
図6 旧野麦街道(部分)概念図
長野県教育委員会の説明看板の地図
写真1
写真1 豪雪時に旅人が避難した自然石の石室
(2024年6月酒井利啓撮影)

図7の緑線は「野麦街道」のルートで、緑の破線は角川〜高山、波田〜岡谷のルートです。明治43年(1910)10月に藪原駅まで中央線が延伸されると、岡谷から藪原まで列車で行き、藪原から寄合渡(点線で示した)経由に変更されました。昭和9年(1934)10月に高山線が全通すると、女工たちが野麦峠を徒歩で通うことは終了しました。

図8は角川〜岡谷ルートの縦断面です。全行程140.8km(35.2里,実際の歩行距離はもっと長い)、7つの峠を越えて10日間ほどかけて、岡谷の製糸工場に着きました。

図7
図7 飛騨と信州を結ぶ「野麦峠」(松本砂防事務所,2026に範囲を拡大追記)
緑実線と破線は『あゝ野麦峠』の主人公・政井みねが角川(生家)から岡谷まで通った道です。
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図8
図8 政井みねの実家(角川)から岡谷の製糸工場までのコースの縦断面図(酒井利啓作成)
みねは、140.8km(35.2里,7つの峠を通る)の道を10日間かけて岡谷の製糸工場に通いました。
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山本(1968)によれば、山国の飛騨では春の蒔きつけが終了した2月頃、女工達は信州のキカヤ(製糸工場)へ行きました。前渡金という雇用契約(途中で逃げ帰ったり、他の工場に移ることはできず、親は高額の違約金を課せられた)があり、家計にとって重要な現金収入でした。女工たちは高山の旅館に集合し、親と娘の別れが吹雪の中で行われました。泣いて娘に詫びる親もいました。

図9は「野麦街道」で最も急峻なコースである寺坂峠〜野麦峠〜寄合渡間の大正元年(1912)測図の1/5万旧版地形図です。急傾斜な谷を通るこの区間は、無雪期には通行可能でしたが、積雪期には通行条件が著しく悪化しました。積雪が堅い氷の刃(やいば)となり、通行が非常に困難で工女たちの中には険しい谷へ落ちることもありました。

図9
図9 野麦峠付近の急峻な地区の1/5万旧版地形図(1912年測図)と赤色立体図の重ね合せ図
(寺坂峠(1383m)〜野麦(1336m)〜野麦峠(1668m)〜川浦(1243m)〜寄合渡(1109m)間),酒井利啓作成
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写真2
写真2 現在のお助け茶屋(奥に展示場がある)
写真3
写真3 兄辰二郎に背負われたみね
(2024年6月酒井利啓撮影)

峠の上には「お助け茶屋」(写真2)があり、工女たちはしばしの休息をとりました。その近くには、昭和54年(1979)から上映された映画『あゝ野麦峠』を記念して、兄・政井辰二郎(31歳)に背負われた妹・みねの像(21歳,写真3)が建立されています。

政井みね(1888〜1909)は、14歳になった時から岡谷の製糸工場に働きに行き始めました。糸取りの成績は非常に良く、優良工女として数年後に「百円工女」に選ばれました。毎年の暮れに多額の労賃を持って帰り、両親を喜ばせました。

しかし、21歳になった明治42年(1909)11月に岡谷の工場で重い病気となり、「ミネビョウキスグヒキトレ」という電報が角川の家に届きました。兄辰二郎(31歳)は電報を読むとすぐに出発しました。家から岡谷まで35.2里(140.8km)の険しい山道を休みなしに歩き通して、たった2日で山一林組の工場に着きました。

辰二郎は病室へ入ると、はっとしました。美人と騒がれ「百円工女」にもなった妹みねの面影はどこにもなく、重体でした。工場では辰二郎を事務所に呼んで、みねを早くここから連れ出してくれとせきたてました。工場から死人を出したくないからでした。

辰二郎は背板に座ふとんを敷き、妹を後ろ向きに座らせ、工場からしょい出しました。「早く飛騨へ帰りたい」というみねの気持ちを知って、辰二郎は幾日も歩き続け、11月20日に野麦峠の頂上にたどり着きました。その間みねは何も食べずにいました。

峠の茶屋でみねは「アー飛騨が見える!」と声を出し、まもなく力なくくずれました。「みね、どうした! しっかりしろ!」と辰二郎が驚いて抱きおこした時には、すでに亡くなっていました。辰二郎は亡骸(なきがら)をしょって夜道を歩き通し、9日後に実家に帰り着きました。

5.長野県と富山県を結ぶ「信越新道」

「信越新道」をご存じですか。

現大町市野口から現富山市原まで、針ノ木峠2541mとザラ峠2348mを越え、牛・馬による荷駄輸送を可能とする有料道路を構築しようとした計画道路です。

明治の初めに石川県士族と信州大町の資産家たちが協力して、富山と大町の間に飛騨山脈を横断する有料道路を築こうとする動きがありました。このことは、市立大町山岳博物館の常設展示で説明されており、大日向(1981)、小林(2019)、若林(2003)にも詳しく説明されています。

この道は、富山から北アルプス(飛騨山脈)を横断して信州大町に至る道で、「信越新道(越信新道)」または、「信越(越信)連帯新道・針ノ木新道・立山新道・越中新道」などと呼ばれていました。信州側からは旧村役人階層の資産家たちが、越中側からは石川県(金沢)の士族がこの道路の建設工事を推進しました。

図10は、「越信新道細見図」(富山県立図書館中島文庫蔵 中島正文写)です。立山新道の道筋、里程などが詳しく記載されており、休憩所、旅泊・問屋の位置がわかり、旅人に販売されていた案内図だと思われます。

図の右上に主な地点間の距離が示されていたので、表2の一覧表にしました。

1里=36丁(町)=3928mとして計算してあります。

図10
図10 『越信新道細見図』(富山県立図書館中島文庫蔵 中島正文写)
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表2 「越信新道細見図」による富山−大町間の距離
表2

富山から大町間は糸魚川経由で149.3km(38.0里)もあり、「越信新道」が完成すれば、81.7km(20.8里)で60km(15里)も短くなり、富山−大町(松本)間の交易に有利となります。富山−多枝原間45.1km(11.3里)は立山温泉までの道(一部は有料となっていた)が利用でき、「越信新道(塩の道)」として新たに新設しなければならない区間は、多枝原−山神間28.7km(7.2里)だけでした。ザラ峠、黒部川・平ノ渡、針ノ木峠を越える急峻な道であっても、糸魚川経由よりも有利だと判断されたためです。

明治8年(1875)年から工事は開始され、既存の登山道などを利用して工事は進み、明治12年(1879)7月1日に牛・馬による荷駄通行が全線でできるようになりました。しかし、8月7日までの38日間の利用記録しか残されていません。その後は豪雨による崩壊・崩落・落石や冬季間の積雪・雪崩も加わって、すぐに全線通行は不能となりました(一部区間は通行していた)。維持管理費の増大、想定を下回る交通需要(通行料金)、資金不足などが複合して事業継続が困難となりました。このため、明治13年(1880)11月には営業停止が決まり、以後復活することありませんでした。この道路は明治15年(1882)10月に廃道届が提出されました。

技術と資本によって北アルプスを恒常的に横断する交通路(牛・馬のよる荷駄運搬)を構築しようとしましたが、当時の技術、維持管理能力、交通需要(通行料金)では、そのシステムを維持できませんでした。

図11は「信越新道」の推定ルートの鳥瞰図(大町市野口〜富山市原)です。図12は「信越新道」の里程と標高を示した断面図です。黒部川の峡谷を挟み、極めて高低差が大きく、険しい針ノ木峠(標高2541m)とザラ峠(同2348m)の2箇所の峠越えの道でした。

図11
図11 「信越新道」推定ルートの鳥瞰図(大町市野口〜富山市原)
(国土地理院「基盤地図情報」をもとに作成),(松本砂防事務所,2026)
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図12
図12 信越連帯新道縦断面(大町市野口〜富山市原)(松本砂防事務所,2026)
「信越新道」は2つの2000m以上の峠を通るため、牛・馬の荷駄輸送路としては維持管理が困難です。
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この道路は野口などの山麓の集落から山奥に至るまでは、主に既存の山道を利用し、部分的に拡幅工事が行われました。標高の高い稜線部は猟師や林業従事者が利用していた山道を利用(一部は補強工事)しました。

山岳部の飛騨山脈を横断する道路のかなりの部分は夏季の登山路です。登山路としては特に険しいルートではありませんが、牛・馬による荷駄輸送を可能とする道として開設するには、あまりに障害が多過ぎました。この道の起点である大町市野口は標高765mで、写真4の針ノ木峠(標高2541m)へと登ります。そこから黒部川の急傾斜な右岸斜面を下り、黒部川を平ノ渡という地点にある橋を渡りました。

写真4
写真4 針ノ木峠(標高2541m,2025年9月市立大町山岳博物館 関悟志学芸員撮影)
写真5
写真5 黒部川・平ノ渡,2017年撮影
写真6
写真6 ザラ峠(標高2348m),2018年撮影
(松本砂防事務所,2026)

写真4は、針ノ木峠(標高2541m)を見下ろす写真(下部中央は針ノ木小屋)で、2025年9月に市立大町山岳博物館の関悟志学芸員が撮影したものです。

写真5は黒部川・平ノ渡付近(2017年)、写真6はザラ峠(2018年)を撮影したものです(松本砂防事務所,2026)。

現在この付近は、黒部第四ダムの貯水池(黒部湖)となっており、写真5の平ノ渡(平ノ小屋)を船で渡ることができます。

平ノ小屋からは黒部川の左岸側を写真6のザラ峠(標高2348m)まで登ります。ザラ峠からは立山温泉(同1300m)を経て、富山市原(同480m)に達します。

いずれにしても、このルートは地形的にも気候の面からも極めて厳しい条件下にあり、年間を通じて牛・馬の荷駄通行できる期間は夏場に限られていました。

明治四年三月(1871年4月)、大日向(1981)、小林(2019)は「道程表」や「人費勘定帳」などの資料をもとに、工事の計画と実施に焦点を当て、開鑿工事の実情を説明しています。

平野村野口の飯島善造によって、松本藩御役所に「新道開鑿御窺書」が提出されました。明治8年(1875)頃から修開工事は開始され、石工・杣・木挽・大工などの職人を含め、延べ4.4万人の工夫をつぎ込むことが見込まれました。道路修開費の見積額は1万982円と巨額の工事費となりました。難工事が続き、工事の進捗はかなり遅れました。明治11年(1878)には「御扶助金拝借願い」が出されています。

写真7
写真7 宿札(左)と新道利用券(右),市立大町山岳博物館展示・個人蔵

明治12年(1879)7月1日に全線通行できるようになり、写真7の「新道利用券」が発行されました。明治12年7月1日〜8月7日(38日間)の利用者は、越中への出入人404人(荷駄25駄程)、信州への入込数555人(荷駄50駄程)でした。

しかし、「信越新道」は道路の維持管理が厳しく、まもなく通行不能となりました。

明治期の有料道路は、民費で新道を建設し、計画した期間通行者などから、道銭を徴収して、建設と維持費を回収する方式でした。しかし、通行者が少なく、維持費が嵩んでしまい、災害を受けた後、復旧できずに通行不能となりました。そして、明治15年(1882)10月に廃道届が提出されました。

6.むすび

以上、長野県と富山県・岐阜県を結ぶ4本の道の概要を紹介しました。

  1. 1.北アルプス(飛騨山脈)は、信州と飛騨・越中を隔てる巨大な地形障壁でした。
  2. 2.徒歩による古道は、峠・谷・斜面などの自然地形に適応しながら成立しました。しかしながら、豪雨や地震による崩壊・地すべり・崩落・落石、冬季の積雪・雪崩により、しばしば通行不能となりました。火山噴火や大規模崩壊や地すべりが発生した場合、ルート変更したこともありました。
  3. 3.明治初期に牛・馬による物資輸送を可能とする「信越新道」が建設され、明治12年(1879)7月1日から有料道路として開通しました。しかし、通行できたのは、38日間のみでした。地形・地質、気象条件が厳しく、信越新道は通行不能となりました。そして、明治13年(1880)11月に営業停止となり、明治15年(1882)10月には廃道届が提出されました。
  4. 4.明治期の製糸業の発達により、飛騨地方から多くの若い女工が野麦街道を通って徒歩で岡谷の製糸工場に通いました。特に、行きは冬季の最も積雪が多く通行困難な2月の豪雪時期、帰りは正月前の12月末に通いました。政井みねのように不治の病となり、飛騨の実家に帰れない女工もいました。
  5. 5.道は社会的必要性から生まれます。しかし、どこでも通れる訳ではありません。北アルプス(飛騨山脈)を横断した明治期の道の歴史は、人々が急峻な地形・地質条件、火山活動、豪雨、(大規模)崩壊、地すべり、豪雪・雪崩などと折り合いながら、ルートを選び、道を維持し、時にはそのルートを放棄し、別ルートを建設してきた歴史でもあります。道の歴史は単なる交通史ではなく、人々が地形・地質や災害とどのように向き合ってきたかを示す記録でもあります。旧道の位置とその変遷を地形や災害履歴と重ねて読み解くことは、現在の山岳道路の防災や維持管理を考える上でも重要な示唆を与えます。
  6. 6.道は人間が自然地形の上に刻んだ線です。しかし、その線は人間の意志だけで決まるものではありません。豪雨、崩壊、地すべり、雪崩、火山活動などによって繰り返しルート変更されてきました。旧道の位置とその変遷を読み解くことは、その地域の災害履歴や、人間が自然環境にどのように適応して来たかを読み解く鍵ともなります。
  7. 7.以上の考察をもとに、現在の山岳道路の防災、維持管理の問題が浮かび上がってきます。このことにより、道の歴史問題で終わらず、過去の交通路の問題から現在の防災に活かすヒントが得られます。

本コラムを編集するにあたり、多くの絵図・写真の掲載を許可して頂いた富山県立図書館、長野県立歴史館、長野県立図書館、市立大町山岳博物館に御礼申し上げます。

長野県立歴史館名誉研究員(土木・環境しなの技術支援センター)の山浦直人氏には多くの絵図や史料を見せて頂き、安曇野市小倉から山を越えて上高地へ降り、穂高神社の奥宮へ行く道を教えて頂きました。信州大学学術研究員(理学系)教授で、信州大学山岳科学研究所副所長(地形・地質部門長)の原山智先生には、コラムの原稿を読んで頂き、貴重なコメントを頂きました。

中部山岳国立公園上高地連絡協議会・上高地河床上昇対策検討部会有識者委員(松本市上高地アドバイザー)、東北大学災害科学国際研究所特任教授の原口 強様には、コラム112の原稿をご確認いただき、専門的見地から建設的な助言を頂きました。

松本砂防事務所は、冊子『梓川・高瀬川流域大規模土砂災害史』の中から、「1.3 長野県と岐阜県・富山県を結ぶ明治期の道」について、いさぼうネット『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』のコラム112に転用することを許可して頂きました。

以上の関係各位に御礼申し上げます。

引用・参考文献

  • 井上公夫(2016):コラム17 豪雨(1757)による梓川上流・トバタ崩れと天然ダム
  • ウェストン著(1910):スイスと日本における私の登山歴(英文),『山岳』5号
  • ウェストン著・青木枝朗訳(1997):日本アルプスの登山と探検,岩波文庫,383p.
  • 大日向健(1981):果しえなかった信州−越中の捷路公路“塩の道”,仁科路,市史編纂だより,
     20号,p.2-6.,21号,p.2-8.
  • 国土交通省北陸地方整備局 松本砂防事務所(2021):姫川流域大規模土砂災害史,124p.
  • 国土交通省北陸地方整備局 松本砂防事務所(2026):梓川・高瀬川流域大規模土砂災害史,
     119p. 本文中では、松本砂防事務所(2026)と表記しました
  • 国土地理院(1978年編集、1980年6月発行):『槍、穂高』5万分1集成図
  • 小林茂喜(2019):信越新道「修開」事業の実情,市立大町山岳博物館研究紀要,4号,p.43-61.
  • 長野県/編(1909):浅間山噴火記録及焼岳踏査報告書,15p.(信州デジタルコモンズで閲覧,
     PUBLIC DOMAIN)
  • 服部英雄(1994):鎌倉街道・再発見,日本史の研究,469号,p.1-26.,山川出版社,
     九州大学学術情報リポジトリより閲覧
  • 福島達吉口述/長沢武編著(1986):北アルプス乗鞍物語,ほおずき書籍,247p.
  • 三宅岳(2024):山と高原地図40(2024年版)『槍ヶ岳・穂高岳 上高地北アルプス』,
     1:50,000,昭文社,説明書,45p.
  • 山本茂美(1968):あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史―,朝日新聞社;(1977)角川文庫,419p.
  • 山本茂美原作・山本薩夫監督(1979):映画「あゝ野麦峠」,DVD
  • 若林秀幸(2003):明治初年における富山−長野間の進路に関する研究,―開通社関連資料を中心に―,
     富山史壇,140号,p.20-38.

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