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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム19: 天明三年(1783)の浅間山天明噴火と天明泥流
 

1.鎌原土石なだれから天明泥流への変化
 コラム18の図3に示しましたように、浅間山から高速で北麓を流下してきた鎌原土石なだれは、吾妻川右岸側の急斜面からなだれ落ちました。そして、そこにとどまることなく(天然ダムを形成せず)、すぐに天明泥流となって、吾妻川から利根川を流下し、千葉県の銚子で太平洋に達しました。一部は千葉県関宿付近から江戸川に流入し、江戸(東京湾)まで達しました。天明泥流に関する史料や絵図は非常に多く、克明な流下・堆積状況がわかってきました。また、群馬県埋蔵文化財調査事業団などは、群馬県下一円、特に八ツ場ダムの湛水予定地周辺の発掘調査を行い、天明噴火による降下火砕物と天明泥流の流下・堆積状況を明らかにしつつあります。
 コラム18の図1に示しましたように、鎌原土石なだれは鎌原村(死者477人)を襲っただけでなく、天明泥流となって吾妻川を流下しました。このため沿岸の集落を襲いながら、1000人以上の死者を出しました。表1は、関(2006a)をもとに天明泥流の流下時刻の記述について、一覧表としたものです。上流から順に、萩原(1985〜95,T〜X)が収集した史料の記載内容をもとに、天明泥流の流下・堆積時刻を整理しました。史料の解釈に当たっては,災害直後に書かれたもの、作者が住んでいた地域の情報は信憑性が高いと判断し,天明泥流の想定水位を推定しました。吾妻川を流れ下った天明泥流の目撃談は非常に多く残されています。川より高い段丘面にいた人々は見たこともない黒い流れが多くの火石(本質岩塊)や人家・流木,流死体などを含みながら流れていった様子を驚きの目で記録しています。

表1 天明泥流の流下時間の記述(関,2006b)に修正・追記(井上,2009)
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 上野国吾妻郡大笹村・無量院住職の『浅間山大変覚書』(U,p.49)は、鎌原村の人々の様子を詳しく記しています。鎌原土石なだれは、「・・・大方の様子は浅間湧出時山の根頻りにひっしほひっしほと鳴りわちわちと言より黒煙り一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙り一面立よふすしれかたし」と鎌原村へ押し流れました。鎌原土石なだれはコラム18の図3に⇒で示しましたように、3方向に分かれて吾妻川になだれ落ちました。上野国新田郡世良田村(現太田市)の毛呂義卿は、『砂降候以後之記録』(V,p.141-142)で、河原湯(浅間山山頂から29.8km)の不動院の話として、「夫(それ)より泥三筋分レ北西ノ方ヘ西窪ヲ押抜ケ、是より逆水(ぎゃくすい)テ大前高ウシ両村ヲ押抜ケ、中ノ筋ハ羽尾村へ押かけ、北東ノ方ハ小宿村ヲ推抜ク。羽尾小宿の間にて芦生田抜ル。高ウシハ七八軒抜ル由。夫(それ)より坪井村長野原村不残推抜ク。」と記しています。
 表2と図2は、史料や絵図、発掘調査などをもとに、天明泥流の到達時間や水位を整理したものです。番号1〜38の地点はコラム18の図1に示すように、天明泥流の発生地点である嬬恋村万座鹿沢口駅付近(10.2km)から伊勢崎市八斗島町(106.0km)に至るまでの96km区間です。
 泥流の到達範囲と流下断面からマニング則(土木学会水理委員会,1985)によって、想定水位・流量・流速・流下時間を計算しました(山田ほか,1994b,井上,2009)。
マニングの公式のよれば、
 流速 V=1/n×R2/3×I1/2(m/s)
 流量 Q=A×V(m3/s)
の関係があります(水深H、断面積A(川の流下断面から求めました)、潤辺L、粗度係数n=0.05、径深R=A/L)。粗度係数は河道の抵抗を示す係数で、河道の形状並びに河岸や河床の抵抗物によって左右されます。天明泥流流下時の粗度係数は、泥流が巨大な岩塊や流木・人家などを多く含んでいるため、かなり大きいと判断し、粗度の大きな自然河川で良く用いられるn=0.05と仮定しました。後述する八ツ場(断面No.9,山頂から31.4km)では、水深60〜70m程度の塞き上げ現象があったと想定して、流下断面を求めました。
 山頂から10〜23km区間では、ピーク時の水深40〜50m、流速16.8〜22.8km/s,流量14〜26.5万m3/sでした。特に、長野原(断面No.5,山頂から21.5km)では、想定水位55mにも達し、吾妻川沿いの段丘面に存在した長野原村は完全に天明泥流に覆われ200名にも達する人が流死しました。長野原には瑠璃光薬師堂があり、長野原城址への登り口で旧大手門に位置します。「薬師堂の階段の下から3段目まで泥流で埋まり、薬師堂だけが残った」と伝承されています。階段下の標高は632m、河床は575mですので、天明泥流の到達水位は57mにも達しました。

表2 マニング式で計算した天明泥流の想定水位・流量・流速・流下時間 (嬬恋村万座鹿沢口〜伊勢崎八斗島町)
(山田ほか,1993b,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)
*1 断面1〜15については5mきざみ、16以降は1mきざみの値を用いた。 
*2 そのため泥流の達した標高は地形図から読みとった実測値ではなく、GHに設定水位を加えた概算値となる
*3 断面34から下流の断面では周囲の標高差がほとんどなく、水位の設定が困難なためマニング式での検討ができない
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図2 吾妻川と利根川の河床縦断面と天明泥流の地下水位(嬬恋村万座鹿沢口〜伊勢崎八斗島町)(山田ほか,1993b,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)
図2 吾妻川と利根川の河床縦断面と天明泥流の地下水位(嬬恋村万座鹿沢口〜伊勢崎八斗島町)
(山田ほか,1993b,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)

2.吾妻川沿いの天明泥流と土砂災害
 図3は、群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書や現地調査の結果をもとに、長野原から吾妻渓谷間で天明泥流に覆われた遺跡と泥流の到達範囲を示しています(井上,2009)。

No.5 新井村の共同墓地(山頂から21.5km, 14分後)
 吾妻川に注ぐ熊川沿いにあった新井村(長野原町与喜屋)は、村のほとんどが天明泥流に埋まりました(関,2006a,2007b)。昭和55年(1980)のグランド造成工事中に生活用具などの一部が発見されていますが、新井村については詳しい記録がありませんでした。高台に残された共同墓地に「逆水寛浣信女 天明三年七月八日」と刻む墓標があり、犠牲者の戒名として逆水の現象が刻まれています。付近では北流する熊川に沿って、吾妻川との合流点から500mほど上流右岸の養蚕神社に、幹の途中まで泥流に埋まっても臥竜のようになって、明治末期まで開花していた天明桜が存在していました。写真や伝承によって、標高650m(吾妻川の現河床から50m)の高さまで泥流が堆積した地形を現在でも確認できます。
図3 天明泥流に覆われた遺跡と泥流の到達範囲(長野原から吾妻渓谷)
群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書などをもとに作成(井上,2009)
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No.6 長野原・琴橋(山頂から23.0km, 15分後)
 上野国吾妻郡草津村・山口魚柵の『浅間焼出山津波大変記』(U,p.109)は、長野原の状況を詳しく記しています。長野原では2.4〜3.0mも泥流で埋まり、9〜16mもある浅間石(火石)の多くが燃え上がっていました。このため、高温の川となり、羽根がなければ渡ることができませんでした。琴橋(山頂から23.3km)と須川橋(同23.4km、須川(白砂川)に架かる)は、江戸幕府が建設・修繕を担う主要街道の橋ですが、2つの橋とも流失しました。このため、矢に手紙を結んで連絡を取りましたが、川幅が広いため対岸まで届きませんでした。竹で筏を作り、矢文を取りにいったと記されています。

No.8 川原湯・不動院(山頂から29.8km, 21分後)
 前述の毛呂義卿は、『砂降候以降之記録』(V,p.142)で不動院の話として、「・・・不動院助り候様子ハ八日ノ四ツ半前(8月5日11時頃)泥押シ来り候、是より前昼夜山ノひびき甚敷して大分気色悪ク少シ眠り候処不動院ハ近所人家も無ク吾妻川ノ端テ北二反斗竹林アリテ後ハ川也。寺の北に阿闍梨渕ト云渕アリ其の脇二王岩と云大岩アリ。泥石ノ渕へ落入火石流□□所ノ大木石当り候音夥敷故目覚候ハ寺モ動クゆえ本尊ヲ拝せんと衣着裏ノ障子明見候へは竹藪渕へ落入候て引込ム様ニ見へ候間直懸ケ出シ候とひとしく寺倒候。寺より一町(100m)斗南山有寺ト山トノ間観音堂吾妻郡坂東ノ札所也。観音堂ヲ通り過ルト堂倒ル。山取付石垣アリ長さ15間(27m)も有、ツイヂテ其下ハ藪ナリ。不動院意、此ツヰチ崩モスルヤと思ひて漸クツヰチヲカケ抜候ト泥水ツヰチ打懸ル音致シ候間、ふりかへり見候へは二間(3.6m)斗近く泥押上ケ候由。只単物一ツテ死ヲ遁レ候由。河原(湯)温泉□□高キ所て無難之由。原町より東ノ方ハ不動院ハ不存候。不動院ノ寺地モ泥四尺(1.2m)斗候由申候。・・・」と逃げ延びた様子をリアルに表現しています。
 この地点では天明泥流は上流から襲ってきたのではなく、下の阿闍梨ヶ渕から人間が何とか逃げ延びることが出来る程度の速度で徐々に上昇してきたごとがわかります。現在の上湯原の不動堂(不動院の別院として後に建立)の石段(標高552m)の下に不動院が埋もれています。その上の石段を登って行くと観音堂があり、不動院の和尚は逃げ延びていった場所です(写真1,2)。

写真1 不動院跡地 写真2 観音堂跡地
写真1 不動院跡地 写真2 観音堂跡地
写真3 吾妻渓谷 鹿飛橋 長さ15.5m,高さ22m(水面まで) 写真4 鹿飛橋から見た吾妻渓谷上流部
写真3 吾妻渓谷 鹿飛橋
長さ15.5m,高さ22m(水面まで)
写真4 鹿飛橋から見た吾妻渓谷上流部
2012年8月井上撮影

No.9 長野原横屋・猿橋(山頂から31.4km, 22分後)
 根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見聞覚書』(U,p.338)は、長野原町横屋(谷)の項で、「高百三十石余 横屋(谷)村 内九拾八石泥砂火石入荒 人別百三拾四人内九人流死 家数三拾五軒内弐拾四軒流失 馬弐拾疋内拾弐疋流死 此村方川通泥押の砌(みぎり)田畑家居は勿論其外諸書物共不残流失。右村より隣村川原畑村迄道法壱里(4km)程の峠て、中段道切開通路致来候処、右村左右高く川幅狭キ故、拾丈(30m)余も高く泥火石押上ケ候付、有来道筋欠落、通路不相成付、村人歩を掛漸峯通又は山中領漸道幅壱尺(30cm)位切開壱人立て通路を致候得共、馬駕籠往来難成。殊信州えの往来故米穀附通り候道筋右体難所相成候付、信州よりの米穀通路無之故村々致難儀候旨村役人共申之候。」と記しています。この地点は関東の耶馬溪とも呼ばれる吾妻渓谷で、国道145号(標高505m)は吾妻川の河床(標高445〜460m)より高さ45〜60mの地点を通過しています。鹿飛橋(猿橋,現河床より30m上)は国道より10m下にあります。したがって、この地点での塞き止め高さは60〜70m程度と考えられます(写真3,4)。


 この地点は現在工事中の八ツ場ダムの直下流の渓谷で、著しく曲流しており、長野原町と東吾妻町との境界をなす尾根部が天明泥流の流れを遮るように存在します。このため、泥流内にあった巨大な岩塊や流木の噛み合わせによって、次々と塞き上げられました。表2と図2に示しましたように、湛水高60〜70mの天然ダムが形成されたと考えられます。不動院住職が泥流の流下する音に気が付き、観音堂より上に逃げられたのも水位が徐々に上昇したためでした。群馬県埋蔵文化財調査事業団(1997〜2007)の発掘調査によれば(図3)、八ツ場ダムの湛水域とほぼ同じ範囲で天明泥流に覆われた遺跡が数多く発掘されています。
 表2では、No.9(山頂から31.4km)で天明泥流の到達高さを70mと推定して流量や湛水量の計算をしています。その結果、流速19.5m/s、流量16万m3/sにも達しました。1/5000地形図をもとに、湛水量を求めると5050万m3となりました。狭窄部直下のNo.10(山頂から36.0km)での流量は4.2万m3/sとなっていますので、11.8万m3/sが上流部に溜まっていき、満水となるのに9分(515秒)かかったと考えられます。

No.19 中之条盆地―原町・金井(山頂から46〜49km, 53分後)
 中之条盆地付近では、天明泥流の流下状況を直接目撃した人の伝聞による多くの史料や絵図が残されています。大浦(2002,06,08)は、吾妻川の北側と南側の災害絵図などをもとに詳細な現地調査を行い、天明泥流のによる被害範囲を明らかにしました。絵図には道路や神社などのランドマークが描かれており、場所を特定することが可能です。図4は多くの史料や絵図を用いて作成した中之条盆地周辺の天明泥流の流下範囲を復原したものです(国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)。左の絵図は『天明三年七月浅間押荒地を示す絵図』(東吾妻町教育委員会提供)、右上の絵図は『中之条町浅間荒被害絵図』(中之条町歴史民俗資料館蔵)、右下の絵図は『浅間焼け吾妻川沿い岩井村泥押し被害絵図』(群馬県立文書館寄託伊能家文書)です。

図4 中之条盆地付近の史料や絵図による天明泥流範囲の復原(国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)
図4 中之条盆地付近の史料や絵図による天明泥流範囲の復原
(国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009)
左絵図:『天明三年七月浅間押荒地を示す絵図』(原町誌(1960)東吾妻町教育委員会提供)
右上絵図:『中之条町浅間荒被害絵図』(中之条町歴史民俗資料館蔵)
右下絵図:『浅間焼け吾妻川沿い岩井村泥押し被害絵図』(群馬県立文書館寄託伊能家文書【P8003-1454-2】)
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 No.9で形成された天然ダムは水圧に耐えられなくなって、数回に分かれて決壊しました。東吾妻町金井・片山豊滋氏蔵の『天明浅間山焼見聞覚書』(U,p.157)は、「四時(11時)頃長野原町追通り九時頃伊勢町うら追通り、そのさま大山のごとくやら数万ノ大木竪なり横なり、大石より火が出るやら煙か立やら、浪の高さ五丈やら拾丈(15〜30m)やら二目と見て見定シ人もなし。一ノ浪二番ノ浪三番ノ浪三度押出シ通り候なり。翌朝江戸行とくへ押出死人山ノゴトシト云。」と記しています。
 武蔵国幡羅郡飯塚村・原口周蔵の『砂降泥押浅間山焦之記』(V,p.191〜192)は、「・・・此吾妻川の南ハ郷原北ハ原町也。此町ハ吾妻第一之繁花て諸用不弁事なし。此原町ハ川を隔る事数丁高岸也。上町に善導寺と云禅林之大寺あり。其表門先段々下り之所迄数丁泥押来る故夫(それ)より以来此所を泥町と今に申事也。原町中の条伊勢町在駅場也。此所て沢渡草津の末流落合、又沼田辺嶋(四万)の温泉場抔(など)よりも流れ落合ひ、山川故流れ疾(とく)してややもすれば人溺れ死す故に人とり川とも云て也。夫より大岩むら男子(おのこ)峠、是より南の方伊香保入湯場弐里(8km)余也。」と記しています。現在でも群馬県東吾妻町原町の善導寺の山門前の地には「泥町」の呼び名が残っています(関,2006a)。原町では人的な被害はありませんでしたが、「流家」と「半潰」を合せて28軒の被害がありました。付近の道路工事では庚申供養塔や馬頭観音像が出土し、当時の家並を泥流が埋めたことがわかります。善導寺の門前には、六回忌(1788)、二十三回忌(1805)、三十三回忌(1815)、五十回忌(1832)、百五十回忌(1932)に供養碑が建立されました。

No.23 川島・上越新幹線下(山頂から63.0km, 1時間34分後)
 上野国吾妻郡原町・富沢久兵衛の『浅間記(浅間山津波実記)上,下』(U,p.124)、利根川との合流点に近い渋川市川島では、ほとんどの人家が流され、多くの流死者を出したと記しています。しかし、2.5里(10km,半田村)〜3里(12km,下芝村)流されても、助かった人がいました。また、新八という者は3里(12km)流されても無事帰ることができましたが、女房は帰ってきませんでした。このため、新盆の弔いを準備していたところ、13里(52km,下ノ芝村)も流された地点で、泥の中から死体が取り上げられ、盆後に送り返されてきたと記されています。
 渋川市川島のJR金島駅付近の広い河成段丘上(上越新幹線下)には、写真5に示した巨大な浅間石(長径15.8m,高さ4.4m)が存在します。この浅間石の横に立つと、吾妻渓谷の狭窄部を通り抜け、山頂から63.0kmまで流下してきたことに驚かされます。写真6はJR金島駅付近にある浅間石で、その上には供養地蔵が多く載せられています。長野県小諸市の美斉津洋夫氏蔵の『浅間山焼昇之記』(W,p.89-102)の「南牧の杢の関所被災の図」(図5)には、旧子持村にあった高崎藩の杢ヶ橋の関所付近を多くの火石や家・牛・人が流されている様子を描いています。山田ほか(1993a),井上ほか(1994)は、この付近の1m大の浅間石で古地磁気を測定し、キューリー点以上の高温で流下してきたことを確認しています。写真7は現在の杢の渡の状況を示しています。

写真5 上越新幹線の下にある浅間石 高さ4.4m,長径15.8m 写真6 浅間石上の供養地蔵(渋川市川島)
写真5 上越新幹線の下にある浅間石
高さ4.4m,長径15.8m
写真6 浅間石上の供養地蔵(渋川市川島)
2012年8月井上撮影

図5 浅間山焼昇之記「南牧の関所被災の図」小諸市の美斉津洋夫氏蔵 写真7 現在の杢の渡し
図5 浅間山焼昇之記「南牧の杢の関所被災の図」
小諸市の美斉津洋夫氏蔵
写真7 現在の杢の渡し
2009年12月井上撮影


No.25 南牧の杢の関所(山頂から64.8km,1時間38分後)
 中村(1998)は、史料・絵図の記載をもとに、吾妻渓谷より下流の吾妻川沿いの浅間石について現地調査を行い、分布図を作成しています。家から酒樽程の大きさの浅間石(火石・本質岩塊)は非常に高温で、水蒸気を激しく噴き上げながら、天明泥流中を浮き沈み・転びながら流下しました。大きな火石の周りの泥流はかなり高温で、吾妻川の上流から流された人は泥流の熱によって、亡くなった人も多かったと推定されます。天明泥流の堆積物中に残された浅間石は、12〜13日の間煙を上げており、雨が降るたびに、浅間石はひび割れを生じ、小さくなっていったようです。やや多孔質とは言え、密度が2.0以上もある安山岩質の大岩塊が利根川との合流点付近まで、70km以上もどうやって流下できたのでしょうか。『川越藩前橋陣屋日記』(T,p.33)では、「追々水之模様申出候所、一躰水黒土をねり候様成水而火石之由。」と表現しています。澤口(1983,86)は、渋川市中村遺跡(No.28,山頂から69.8km)の発掘に際して出土した天明泥流の調査を行い、「無層理で分級が悪く、砂礫の混合割合は垂直、水平とも極めて均質に堆積しており、流動中も含水率がかなり低く、かためのお粥のようであった」と推定しています。中村(1988)は、ハワイ島で溶岩が海水に流入する時、高温の溶岩が白煙を出しつつ海面上をしばらく浮遊している様子を観察し、本質岩塊はホバークラフトのように、天明泥流の表面付近を転動していったと考察しました。

3.利根川沿いの泥流と洪水
No.27 利根川と吾妻川の合流点(山頂から68.2km,  1時間49分後)
 コラム18の図1に示したように、お粥のような天明泥流は吾妻川から利根川に流入し、利根川上流からの流水を塞き止めたようです。上野国佐位郡の西宮新六の『慈悲太平記』(V,p.67)は、「夫(それ)より渋川浦(裏)大崎にて利根川え押出す。此勢譬(たとえ)をとるにものなし。白井南杢通え三里(12km)川上え押上泥溢れ返し川筋の村々筑(津久)田猫八崎真壁広瀬口え泥弐丈(6m)余り火石交りに淡々として押掛る。」と記しています。猫は敷島の旧地名で、津久田の下流に位置します(関,2006)。吾妻川との合流点より上流の利根川は大きく蛇行していますが、合流点から津久田までは直線距離で6kmあります。1.5km上流の塔ヶ渕まで、粥状(密度の高い)の天明泥流が逆流し、利根川を塞き上げました。このため、利根川は天然ダムが形成されて、上流からの流入水で4km上流まで満水となりました。
 上野国佐位郡伊勢崎藩の常見一之の『天明浅嶽砂降記』(V,p.27〜28)は、「斯て吾妻川の石流は煙り火事の如く水立流るる音百町の外に聞え、両岸の村々は或は流し或は埋め或は砕き、平地に立し家々は壱軒も残らねば忽渺々たる曠原となり、川の縁に二軒三軒ヅツの大火石を家のならびたる如くに推あげおく。吾妻川の上(かみ)に周(めぐり)四五十間(72〜90m)の大火石を推出しおきしと、埋りたる田畑泥の入りたる家は幾何といふ数をしらず。谷合狭き所にては泥たたへ山の中腹迄大木大石を推抜て通り、いくつよりか大なる山を木の生茂りたる侭にて推抜き推抜き流し来り。利根川吾妻落合の少し下(しも)の川中に止りしが後(あと)より推来る泥川筋を塞がれて利根川の川上とうか渕と謂へる所迄さかのぼる。流水は逆(さかさま)に衝かれ堪(湛)へて又とうか渕より四十丁(4km)斗上迄洪水す。扨(さ)て泥の堪へし間に流れ来る人々牧村白井村辺え多く這揚り或は人々竿を出して索揚げしと。吾妻の上ミ川内にてはひあがりし者共は火石にてつよくやかれし故皆数日の内に死にける。・・・」と記しています。 このため、合流点付近の河道閉塞で利根川上流に湛水し、決壊するのに1時間かかったと推定しました。

No.29 渋川市半田嶋(山頂から72.7km,  3時間10分後)  
 上野国吾妻郡原町の富沢久兵衛の『浅間記(浅間山津波実記)』(U,p.125)は、寛保二年(1742)の「戌の満水」よりも泥流の水位は高かったと記しています。半田嶋(8軒)の集落は利根川の中洲(渋川伊香保インターの少し南,山頂より73km)に立地していました。家はすべて流されてしまいましたが、45人もの村人が椿の木に掴まって泥流の通過をしのぎ、二時(とき,刻,4時間)後に助かりました。しかし、洪水は中々引かず、中洲から外にでられませんでした。達者な者一人が対岸まで向い、食料を貰って帰り、45人はそれを分け合って食いつなぎました。3日後の七月十日(8月8日)の昼過ぎに流れが変わった(中洲の上流で分流していた北東方向の流れが減少した)ため、真壁村(渋川市北橘)へ渡り助かりました。

No.32 前橋城付近(山頂から83.0km,  4時間9分後)
 利根川も前橋あたりまで流下してくると緩やかになり、分流や流路の変遷を考察する必要があります。前橋付近の地形は、@北東部に浅間火山の山麓斜面、A南西部の洪積台地(前橋台地)、その両者に挟まれたB地溝状をなす沖積低地(広瀬川低地帯)とC現利根川の氾濫原、の4地域に分けることができます。利根川が現在のように県庁裏を南流するようになったのは、天文九年(1540)頃の大洪水からとされています。地形的には広瀬川や桃木川が流れる広瀬川低地帯を南東流する方が自然であることから、人為的に流路の変更が行われた可能性があります。
 現在の坂東橋付近には、利根川左岸の前橋地域へ用水を供給する広瀬堤・桃木堤の取水口、やや下流の右岸には総社藩領の植野堤の取水口がありました。群馬県中央部の水田を支える用水の大動脈であるこれらの堰も大きな被害を受けました。
 『川越藩前橋陣屋日記』(T,p.33)は、天明泥流流下時の公式日記ですので、川越藩前橋陣屋が浅間山の噴火と被災状況をどこまで把握していたかが分ります。天明三年七月二日(1783年7月30日)頃から時々火山灰・砂が降ってきました。七日(8月4日)から特に降砂が激しくなり、五六寸(15〜18cm)、場所によっては壱尺五寸(45cm)も降り積りました。利根川から流入した天明泥流は、前橋の城下町を通る広瀬川を満水にして流れました。また、空堀となっていた虎ヶ渕(山頂から83km付近)にも泥流が押し込みました。虎ヶ渕付近には、現在でも泥流堆積物中に浅間石(火石)が残されています。前橋城では、「前橋城の利根川に面した石垣が長さ三百間(540m)ほど崩れ落ちた。城外の柳原林が長さ四百五十間(720m)ほど欠け込み、利根川の本流が前橋城下に流れ込む危険が生じた」(前橋市史編さん委員会,1973)という記載から、天明泥流が前橋城の堀まで達したことが分ります。

No.37 利根川と烏川合流点・玉村町五料(山頂から102.0km)
 玉村町は群馬県南部に位置し、利根川と烏川との合流点付近に位置し、町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町でした。利根川・烏川合流点付近では、天明泥流の流下・堆積範囲は大きく広がりました。七月九日(8月6日)の『川越藩前橋陣屋日記』(T,p.33〜34)は、天明泥流の流下状況をかなり正確に記しています。五料の関所に見分に行かせましたが、関所に通じる道が見えないほど、一面に泥流が堆積していました。大渡の渡し場では多くの舟が流失したため、川越の本藩に被害状況の報告に行くのに、かなり下流の中瀬で渡河したと記されています。八月四日(8月31日)の『川越藩前橋陣屋日記』(T,p.44)は、「去ル八日(8月5日)利根川満水之義而巳御注進有之、常水に相成候儀不申来候得共、右京亮殿に而八日未之刻(14時)満水、艮(うし)刻(2時)常水相成候旨御届も有之候」と記しています。14時に満水となり、翌日の2時に常水になったので、天明泥流は半日ほど続いたことになります。

写真8 玉村町の雷電神社に集められた浅間石 写真9 伊勢崎市戸谷塚の供養地蔵
写真8 玉村町の雷電神社に集められた浅間石 写真9 伊勢崎市戸谷塚の供養地蔵
2009年11月井上撮影

深谷宿(利根川中流,山頂から110km)
 武蔵国沢郡深谷宿の向伯輔の『泥濫觴』(V,p.186)は、「右泥の来る前、利根川一水も不流、誠に弥生の汐干の等しく、魚斃悉く取れる。彼の灰あくに中りしにや、小堀池の魚大分死ス。」と記しています。深谷宿付近でも利根川の流水が流れなくなってから、天明泥流が流れてきました。この異変を下記の「七不思議」と表現しています。
  泥河の人魚    泥水中の遺体
  七夕の昼のやみ  七夕(七月七日)の噴煙による日光遮断
  夕立の砂     夕立のように降った火山灰
  屋根の砂はき   屋根に積もった灰の除去
  水中の大石    流水の中の火石
  竜の毛ふり    火山毛の降下
  利根の干潟    利根川の干潟(堆積した泥流)
 関(2006a)によれば、濁った泥流の中に遺体と火石が混じり、火山灰や軽石・火山毛が降り、利根川が泥で埋まり干潟になるという原因不明の現象が起こったことを確認し、表現したものと考えられます。

幸手宿(江戸川との分流点,山頂から160km)
 上野国群馬郡大久保村医師・元龍の『浅間山焼記(浅間山焚記)』(V,p.369)は、幸手宿の状況を記録しています。利根川を流れてきた天明泥流は、幸手宿付近から江戸川方向に分流しました。七月八日(8月5日)の夜から九日昼八ツ時(6月12時)まで半日にわたって、壊れた家・蔵・道具や柱・戸板・桶などが六七十間(106〜126m)の川幅一杯に泥流(黒濁り水)となって流下してきました。図6の『浅間山焼昇之記』「幸手の利根川分流権現堂の状景」(美斉津洋夫氏蔵)は、図5の「杢の関所被災の状景」と比較すると面白いと思います。幸手では火石は描かれておらず、多くの家や材木、人、馬が流下しています。流れの廻りには、長竿などを持って救助しようと努めている様子が描かれています。

図6 浅間山焼昇之記「南牧の関所被災の図」,小諸市の美斉津洋夫氏蔵
図6 浅間山焼昇之記「南牧の関所被災の図」,小諸市の美斉津洋夫氏蔵

利根川・江戸川下流の流下状況
 図7は、利根川中・下流、江戸川沿いの天明災害供養碑の分布図(井上,2009)で、図中の数字は、群馬県立歴史博物館(1995)、萩原(1985〜95)、高瀬(1996)、大浦(2006)をもとに整理した天明泥流の供養碑の位置を示しています。天明泥流中を流れてきた屍体を見た周辺の住民は、屍体を拾い上げて埋葬し、多くの慰霊碑を建立しました。

図7 利根川中・下流、江戸川沿いの天明災害供養碑の分布図(井上,2009)
図7 利根川中・下流、江戸川沿いの天明災害供養碑の分布図(井上,2009)

 『解体新書』を著した杉田玄白(1733〜1817)は、天明泥流当時50歳で江戸に住んでおり、天明噴火による被害見聞を『後見草』(X,p.29)で、「・・・七月十日(8月7日)、下総国金町村といふ所の勘蔵といへる村長、御郡代伊奈殿の裁断所へ訴へしは、昨九日末刻、江戸川の水色変し泥の如くに候ゆへ不審詠候内、根なから抜し大木を始め、人家の材木、調度の類皆細かに打ち砕き、又夫に交りて人の手足切れたる、人馬の死骸数限りも知られざる程川一面に流れ浮み引も切らす候ぬ。宵より夜半に至る比次第次第にまはらになり川下へ流れ行候と注進申上たるよし。続て幸手宿より訴へ出たるは、同日同刻、権現堂、中川、利根川、此二つの川筋へ家蔵の破れし材木類、六、七寸(18〜21cm)と思しき柱、七、八尺(2.1〜2.4m)の梁、棟其外戸障子、桁楊有とあらゆる調度の数々、又は生木の大木とも四、五尺(1.2〜1.5m)計りに打折て枝葉砕け、皮もむけ、本来の分ちも知れす流れたり候内、僧俗男女の屍とも手足が切れ、首もなく、子を抱き蚊帳に巻かれ、機物腰にまとひ付、或はあるいは手と手をとりかわし、からだ半分切はなれ、生々敷死骸とも、水の色も知れさる程浮きみき来候に、上州群馬郡川島村と書付たるに荷駄見付しゆへ、拾ひ取立帰り委敷人に尋問ひ候へは、伊香保といへる湯治場より二十里(80km?)計彼方なる村の名にて候よし語り申なり。・・・」と詳しく記しています。
 写真10は、東京都墨田区両国の回向院で、明暦三年(1657)の振袖火事(焼死者10万8千人)を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬しています。写真11は境内にある天明災害の慰霊碑(右2つ)と関東大震災(1923)の慰霊碑です。天明災害の慰霊碑については、中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会(2006)や井上(2009)にも一覧表がありますので、浅間山から吾妻川、利根川、江戸川沿いの各地に分布する慰霊碑(2009年時点で119箇所)をお参りすることをお勧めします。
 なお、コラム18の図8,コラム19の図5,6は小諸市の美斉津洋夫氏蔵の「浅間山焼昇之記」から転載させて頂きました。また、画像は群馬県立歴史博物館所蔵の電子データを借用させて頂きました。

写真10 東京都墨田区両国の回向院 写真11 天明災害の慰霊碑(右2つ)と関東大震災慰霊碑(左)
写真10 東京都墨田区両国の回向院 写真11 天明災害の慰霊碑(右2つ)
と関東大震災慰霊碑(左)
2009年11月井上撮影

引用文献・参考文献
・吾妻町教育委員会(1983):唐堀遺跡,p.1-30.
・井上公夫(2004):浅間山天明噴火と鎌原土石なだれ,地理,49巻4月号,表紙,口絵,p.1-4,本文,p.85-97.
・井上公夫(2009a):噴火の土砂洪水災害,―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―,古今書院,シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ,第5巻,204p.
・井上公夫・石川芳治・山田孝・矢島重美・山川克己(1994):浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態,応用地質,33巻1号,p.12-30.
・大浦瑞代(2002):天明三年浅間山噴火被害絵図の分析,御茶の水女子大学人間文化研究科修士論文
・大浦瑞代(2006):第3章3節 災害の記録と記憶,中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会):1783天明噴火報告書,p.154-180.
・大浦瑞代(2008):天明浅間山噴火災害絵図の読解による泥流の流下特性,―中之条盆地における泥流範囲復元から―,歴史地理学,50巻2号,p.1-21.
・群馬県土木部砂防課,中之条土木事務所(1997):浅間山の噴火と防災,―浅間山を知り、浅間山と向き合って暮らすために―,43p.
・群馬県埋蔵文化財調査事業団(1995-2004):遺跡は今,1号,長野原一本松遺跡,4p.,2号,長野原一本松遺跡,[人々の集まる村],4p.,3号,横壁中村遺跡,[ムラのまつりの場],4p.,4号,出土文化財巡回展示会特集,[次々と見つかる縄文人の祈りの場],8p.,5号,天明3年8月5日の泥流に埋まった畑,8p.,6号,横壁中村遺跡のウッドサークルと黒燿石,8p.,7号,横壁中村遺跡で見つかった大型敷石住居跡,4p.,8号,横壁中村遺跡で見つかった中世の館,4p.,9号,徐々に遡る長野原の歴史,4p.,10号,発掘された天明三年畑跡の特集,8p.,11号,稲作農業が始まった頃の西吾妻,8p., 12号,上郷岡原遺跡の調査,8p.,13号,特集「長野原の縄文から弥生へ」,8p.
・群馬県埋蔵文化財調査事業団(2003):八ツ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書,第3集,第1分冊,[本文編],久々戸遺跡・中棚U遺跡・下原遺跡・横壁中村遺跡,―天明三年浅間災害に埋もれた畑地景観と中世遺構の発掘調査―,群馬県埋蔵文化財調査事業団報告書319集,本編434p.,写真図版,24p.
・群馬県埋蔵文化財調査事業団(2013):自然災害と考古学,―災害・復興をぐんまの遺跡から探る―,上毛新聞社,224p.
・群馬県立歴史博物館(1995):第52回企画展図録『天明の浅間焼け』,91p.
・国土交通省利根川水系砂防事務所(2004):天明三年浅間焼け,口絵,24p.,本文,119p.
・国立歴史民俗博物館(2003):図録「ドキュメント災害史1703-2003,−地震・噴火・津波、そして復興−」,2.1 富士山宝永噴火(小山真人・松尾美恵子・井上公夫),p.60-62,2.2 雲仙普賢岳の寛政噴火と島原大変肥後迷惑(井上公夫・小林茂),p.73-82,2.3 浅間山の天明噴火(井上公夫・古澤勝幸・荒牧重雄),p.83-94.
・澤口宏(1983):天明三年浅間山の大噴火と災害,地理,28巻4号,p.27-35.
・澤口宏(1986):天明三年浅間山火山爆発による泥流堆積物,中村遺跡,関越自動車道(新潟線)地域埋蔵文化財発掘調査報告書(KC-V),渋川市教育委員会,p.310-318.
・関俊明(2006a):天明泥流はどう流下したか,ぐんま史研究,24号,群馬県立文書館,p.27-54.
・関俊明(2006b):第2章 よみがえった「天明3年」,1,3〜8節,吾妻川・利根川沿岸の遺跡,p.43-90.
・関俊明(2007a):『浅間山焼昇之記』,―信州上州天明三年(1783)浅間山噴火―,予報時報,231号,p.2-3.
・関俊明(2007b):天明泥流の流下,―史料を用いた経過と現象の整理―,かみつけの里博物館,第16回特別展図録「江戸時代浅間山大噴火」,p.55-66.
・高瀬正(1996):埼玉県の近世災害碑,ヤマトヤ出版,205p.
・土木学会水理委員会(1995):水理公式集,第1編 基礎水理編,2.3 等流,土木学会,p.12-16.
・中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1783天明噴火報告書,193p.
・中村庄八(1998):吾妻川から失われつつある浅間石の記載保存,中之条高校文化祭発表のまとめを兼ねて,群馬県立中之条高等学校紀要,16号,p.15-25.
・萩原進編集・校訂(1985):浅間山天明噴火史料集成,T,日記編,群馬県文化事業振興会,372p.
・萩原進編集・校訂(1986):浅間山天明噴火史料集成,U,記録編(一),群馬県文化事業振興会,348p.
・萩原進編集・校訂(1989):浅間山天明噴火史料集成,V,記録編(二),群馬県文化事業振興会,381p.
・萩原進編集・校訂(1993):浅間山天明噴火史料集成,W,記録編(三),群馬県文化事業振興会,343p.
・萩原進編集・校訂(1995):浅間山天明噴火史料集成,X,雑編,群馬県文化事業振興会,355p.
・古澤勝幸(1997):天明三年浅間山噴火による吾妻川・利根川流域の被害状況,群馬県立歴史博物館紀要,18号,p.75-92.
・前橋市史編さん委員会(1973):前橋市史,第2巻,p.798-824.
・山下伸太郎・安養寺信夫・小菅尉多・宮本邦明(2001):1783年浅間山噴火により発生した火山泥流の吾妻川沿いでの流下特性に関する水理学的研究,砂防学会誌,54巻4号,p.4-11.
・山田孝・石川芳治・矢島重美・井上公夫・山川克己(1993a):天明の浅間山噴火に伴う北麓斜面での発生・流下・堆積実態に関する研究,新砂防,45巻6号,p.3-12.
・山田孝・石川芳治・矢島重美・井上公夫・山川克己(1993b):天明の浅間山噴火に伴う吾妻川・利根川沿川での泥流の流下・堆積実態に関する研究,新砂防,46巻1号,p.18-25.

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