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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム31 天正十三年(1586)の天正地震による土砂災害
 
1.日本最大の直下型地震
 天正地震は天正十三年十一月二十九日(1586年1月18日)に発生した大規模直下型地震で、阿寺断層系または庄川断層系等、複数の断層によってもたらされた可能性が大きいと考えられています。地震の規模は、河角(1951)はM7.9、宇佐美(1996,2003)はM7.8±0.1、飯田(1979,1987)は震度分布からM8.2、村松(1998)はM7.8、などと推定しています。図1は天正地震による大規模土砂移動の地点(建設省越美山系砂防工事事務所,1999,中村ほか,2000,田畑ほか,2002,1箇所追記)を示しています。
 この地震は、戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構は混乱しており、多くの史料が残りがたい時期でした。しかし、土砂災害地点は、近畿・中部・北陸を含めた非常に広い範囲に認められました。伊勢湾や琵琶湖では津波が発生し、飛騨山中(岐阜県北部)では大規模崩壊が各地で発生し、越中(富山県)の平野部や濃尾平野(岐阜県南部・愛知県西部)では、液状化現象が確認されています。また、秀吉の築いた近江長浜城が全壊し、京都では三十三間堂の仏像が600体倒れ、堺では60軒以上の倉庫が倒壊したという記録があります。
 天正十三年八月下旬は、越中・飛騨地方においてかなりの豪雨があったらしく、豊臣記には、「秀吉軍越中に入る、暴風雨洪水して暗夜の如し」と記されています。さらに、長滝家文書にも、「大洪水、郡内の家、数多く流出」等の記録があります。八月下旬は西暦で9月下旬ということになるので、規模の大きな大風が襲来した可能性があります。このように、山地崩壊の誘因が十分にそろったところに天正地震が発生し、各地で大規模な土砂移動が発生したものと考えられます。

2.土砂災害の分布と震源
 表1と図1によれば、17箇所の土砂災害が抽出されています。天正地震は、岐阜県北部で大規模な土砂移動が確認されたことや、阿寺断層系・庄川断層系の一部が活動したことから、白山大地震と呼ばれることが多いのですが、伊勢湾付近で津波・液状化が発生したこと等から、震源は伊勢湾北部にもあったと言われています。飯田(1989)は、天正地震の2日前の十一月二十七日(1586年1月16日)に、富山県高岡市福岡町木舟付近(砺波平野)に震央を持つ「越中地震」(M6.6)が発生したことを指摘しています。木舟城の埋没は、この時に発生した可能性があります。
 以上のことを考慮すると、3つの地震がほぼ同時期に発生した可能性があります。これら3つの地震による大規模土砂移動や被害分布などから、図1に示したように震度Wの範囲を推定すると、伊勢湾から富山付近まで広範囲に及ぶものとなります。
表1 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の一覧(建設省越美山系砂防工事事務所,1999に追記)
表1 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の一覧(建設省越美山系砂防工事事務所,1999に追記)
図1 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の分布(建設省越美山系砂防工事事務所,1999に追記)
図1 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の分布(建設省越美山系砂防工事事務所,1999に追記)  

 濃尾地震は明治24年(1891)10月28日に発生したM8.0〜8.4の大規模直下型地震でした。図1には濃尾地震による大規模土砂移動の範囲も図示していますが(濃尾地震については、次回のコラム32で説明します)、土砂災害の発生域は天正地震の方が大きかったようです。
 大規模土砂移動の記録は御母衣断層、阿寺断層に沿った地域を中心に各地で確認できますが、人里離れた山間部での現象であるため、史料が残されていない事例も数多くあると考えられます。したがって、現在わかっている事例は、当時発生した大規模土砂移 動の一部であると思います。今後も多くの歴史史料を分析することによって、新たな事例が発見される可能性が十分に考えられます。地点17は、鈴木ほか(2008)、坂部(2005)、永田(2012)などが最近調査したもので、岐阜県恵那市上矢作町達原の海で、上村川の北側斜面が大規模崩壊(崩壊土砂量1700万m3)を起こし、堰止高50m、湛水量670万m3の天然ダムを形成しました。この天然ダムは堰止め土砂量が湛水量に比し大きかったため、すぐには決壊せず、数十年後に決壊したようです。

3.木舟城の埋没
 No.1の木舟城は、富山県高岡市福岡町木舟にあった平城で、木船城、貴船城とも書かれます。主郭の北と南にも郭を構え、3重の堀に囲まれていました(安達,1976,1977a,1977b,1978a,1978b,1979,2005)。城下町は東西1.2km、南北1km程度(戸数2000戸以上,人口1万人余の市街地)であったとみられます。元暦元年(1184)、木曽(源)義仲に従って、前年の倶利伽羅峠の戦いで活躍した石黒光弘によって築かれました。天正六年(1578)、上杉謙信の死去を契機に石黒成綱は上杉家を離反して、織田信長方に付きました。天正八、九年(1580,81)は2度の一向一揆との争いが激しく、その直後に上杉景勝配下の吉江宗信によって、木舟城は攻め落とされました。天正十三年(1585)頃は前田利家の末弟である前田秀継が木舟城主となっていました(福岡町教育委員会編,2002,木舟城シンポジウム実行委員会,2004)。
 天正十三年十一月二十七日(1586年1月16日)、越中地震(M6.6)が発生すると、城の地盤が三丈(9m)も陥没、木舟城は倒壊して、秀継夫妻は多くの家臣等とともに、圧死しました。遺体が見つかったのは3日後のことだと言われており、城下は壊滅的な被害を受けました。遺領は秀継の子の利秀が継いで木舟城に入りました。
写真1 木舟城跡(高山市福岡町木舟),2017年4月7日井上撮影
写真1 木舟城跡(高山市福岡町木舟),2017年4月7日井上撮影  

 天正十四年(1586)五月、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城に迎えているが、震災からの痛手からの立て直しは困難であるとの判断から廃城となりました。現在は富山県の史跡となっているが、わずかに土塁と松林が残っているのみで、後年建てられた石碑と説明看板があります。高岡市(旧福岡町)と小矢部市との市境に立地する条件ゆえ、その周辺はのどかな散居村となっています(写真1)。
 
4.金屋岩黒(前山)の大規模崩壊と天然ダムの形成・決壊
 図2に示したように、金屋石黒(富山県西砺波郡庄川町前山・現砺波市)の崩壊は、庄川扇状地頂部に位置する庄川左岸の蛇島地区で発生した大規模崩壊(野崎・井上,2005では前山地すべり)です。崩壊土砂は20日間にわたって庄川を塞き止め、下流では水量が激減し、川魚が手掴みで捕れるような状態になりました。
 この地震前の庄川は、扇頂部の舟戸から野尻川・新又川・中村川・千保川・中田川など、幾筋もの流れとなって砺波扇状地を流下し、庄川本川は洪水の度に流路を変えていたと言われています。地震前の天正年間には、矢印で示した千保川が主流となっており、舟戸→高儀新→五ヶ→筏→古上野を流れていました。下流砺波平野の住民は、天然ダムの決壊による洪水を恐れて、積雪時期に周辺の山へ避難したと言われています。20日経つと満水となり、右岸側の名ヶ原の当たりから少しずつ流出し出しました。しかし、飛越地震時(1858,コラム22参照)のような大洪水にはならず、被害は少なかったようです。それでも、直下の右岸側にあった雄神神社は洪水流をまともに受け、社地は東西に分断された上、御神体は神殿とともに流されてしまいました。
 この天然ダムは少しずつ決壊したため、大きな被害には至りませんでしたが、流出が右岸側だったため、決壊箇所が東方に片寄り、現在の流路に近い方向に流路が変わりました。洪水流の流水をまともに受けた雄神神社は流失するなどの大きな被害を受けました。現在の雄神神社は、図2,写真2に示したように、庄川下流の右岸側の少し小高い位置に移転しています。
 雄神神社のあった元の地区は、庄川左岸側に位置し、現在は弁財天公園(写真3)となっています。そこには弁財天社があり、説明看板に「弁財天社は庄川流域四万の農家を庄川の洪水から守る水神として流域の人々の崇敬を集めている。三三年ごとに行われる御開帳には十万人をこす参拝者で賑わう。弁財天の起源については、古来諸説があるが、天正十三年(1585)の大地震で庄川が大洪水になったおり、藩主前田利長が被災地視察にこの地を訪れたとき、逆流逆巻く流れの中に樹木が繁茂した小島が残り、被害を最小限にとどめた。利長公は不思議に思し召され、記念のため弁財天を祀り、小島を弁財天山と命名したと記されている。弁財天社は別称「元雄神神社」といい、庄川の洪水で雄神神社が東側山麓に移転を余儀なくされ、残された拝殿に本殿と同じ祭神を勧請した故に名づけたといわれている。周囲には、近隣に珍しい大株のヤブツバキの群生が見ら れ、春には濃い緑の中に赤い椿の花を咲き誇っている。  昭和六十二年三月   砺波市教育委員会」と記されています。
写真2 庄川右岸に移設された山雄神神社(2017年4月7日井上撮影)
写真2 庄川右岸に移設された雄神神社(2017年4月7日井上撮影)
写真2 追良瀬川右岸の地点Fの露頭(2010年8月、古澤撮影)
写真3 庄川左岸の弁財天山と弁財天神社(2017年4月7日井上撮影)

その後、寛文十年(1670)から加賀藩の「松川除(まつがわいけ)」と呼ばれる千保川の締切り工事が始められました。そして、正徳四年(1714)までの45年間をかけて完成させたため、現在の東側の流路が庄川の本流となりました。
写真4は国土地理院が1975年9月11日に撮影した航空写真で、立体視できるように加工したものです。図3は前山(金屋石黒)の崩壊と周辺の地形、図4は同地区の地質図、図5は1586年の大規模地すべり前後の地質推定断面図(野崎保・井上裕治,2006)を示しています。図4と図5のカラー図は、野崎(2012)から転載しました。これらの図を見ると、緩い流れ盤構造をしていた庄川左岸斜面が、地震による激震によって大規模な高速地すべりが発生したことを示しています。庄川の右岸側には緩く庄川に向かって傾斜する単斜構造が認められました。当地区付近で庄川は大きく蛇行しており、金屋岩黒地区は庄川の攻撃斜面に位置しているので、繰り返し地すべり変動が起こっていると考えられます。庄川の右岸側には1994〜96年に顕著な地すべり変動を起こした落シ(おとし)地すべりがあります(富山県,1997,細谷・勝呂,2003)。
 野崎保・井上裕治(2006)によれば、天正地震による崩壊範囲は、史誌等では「金屋石黒山の東の山」とか「蛇島(庄川の河床)へ崩れた」という程度の記述しかありません。伝承による動山(いぶりやま)という山の名前などからおおよその位置は知られていましたが(郷土史家榎木淳一氏談)、詳細については必ずしも明らかではありませんでした。
 
しかし、野崎保・井上裕治(2006)の現地調査によって、この大規模崩壊は初生的な岩盤すべりであって、現在の井堰(いせん)神社あたりが北限で、西は砺波平野との分水嶺をなす稜線付近であることが明らかとなりました。南限はやや不明瞭ですが、標高350m付近と考えられ、動山の北西側にあるNE−SW方向の大規模な凹地が東端と考えられます。
図2 金屋岩黒(前山)の崩壊と天然ダム,国土地理院1/5万「城端」「八尾」(田畑ほか,2002)
図2 金屋岩黒(前山)の崩壊と天然ダム,国土地理院1/5万「城端」「八尾」
(田畑ほか,2002)

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写真2 追良瀬川右岸の地点Fの露頭(2010年8月、古澤撮影)
写真4 庄川左岸・金屋岩黒の崩壊 (地理院1975年9月11日撮影)    
CCB-75-21 C2-21,22,23 元縮尺1/10,000
図3 前山(金屋岩黒)の崩壊と周辺の地形(1/2.5万「城端」「山田温泉」
図3 前山(金屋岩黒)の崩壊と周辺の地形(1/2.5万「城端」「山田温泉」
(野崎保・井上祐二,2006)
図4 金屋岩黒地区の地質図,図5 1586年の大規模地すべり前後の地質推定断面図(野崎保・井上祐二,2006)(カラー図は野崎,2012)
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5.帰雲山の崩壊

 No.3の帰雲山(きうんざん,標高1622m)は、岐阜県大野郡白川村・庄川の右岸にあり、この地震によって西南斜面上部が急性の大規模崩壊を起こしました。崩壊土砂は土石流となって急速に流下し、庄川を横切り、庄川左岸の保木脇にあったという帰雲城及び城下町を瞬時に埋没しました。この崩壊・土石流土砂によって、庄川は河道閉塞され、広大な天然ダムが形成されました。図6は、天正地震による災害状況図(田畑ほか,2002)で、帰雲山の大規模崩壊と天然ダムの想定湛水範囲、三方崩山(No.4とNo.5)の2箇所の崩壊と天然ダムの位置などを示しています。庄川に沿って、南北に御母衣断層が通っています。図6にも2001年夏季の写真を入れてありますが、写真5と写真6は、2017年4月8日の現地調査時に撮影したものです。
 図7は防災科学技術研究所の帰雲山周辺の地すべり地形分布図、図8は安間(1987)帰雲山崩れの平面図です。庄川の左岸側まで流下した崩壊・土石流堆積物は、かなり広範に堆積しています。現在明瞭に認められる崩壊地形は帰雲城と城下町を埋積した崩壊地としては小さ過ぎるように思われます。
図6 天正地震(1586)によ帰雲山崩れと三方崩山の天然ダムの湛水範囲
図6 天正地震(1586)によ帰雲山崩れと三方崩山の天然ダムの湛水範囲  
 (水山ほか,2002)1/5万地形図「平瀬」「御母衣」
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写真5 帰雲城址の石碑からみた帰雲崩壊地(1858年の飛越地震で発生した可能性が強い)
写真5 帰雲城址の石碑からみた帰雲崩壊地(1858年の飛越地震で発生した可能性が強い)     
2017年4月8日井上撮影
写真6 帰雲崩壊地と崩壊地直下の移動岩塊(2017年4月8日小田兼雄撮影)
写真6 帰雲崩壊地と崩壊地直下の移動岩塊(2017年4月8日小田兼雄撮影)
図7 帰雲山周辺の地すべり地形分布図図幅
図8 帰雲山崩れの平面図
図7 帰雲山周辺の地すべり地形分布図図幅
(防災科学技術研究所,2001)
図8 帰雲山崩れの平面図
(安間,1987)
写真7 庄川右岸・帰雲山の崩壊(飛越地震時に発生した可能性が強い)
写真7 庄川右岸・帰雲山の崩壊(飛越地震時に発生した可能性が強い)    
地理院1977年10月23日撮影,CCB-77-7 C3A-9,10,11 元縮尺1/15,000

 写真7は国土地理院が1977年10月23日に撮影した航空写真を立体視できるように加工したものです。庄川左岸(崩壊地の対岸)には3段の段丘面が認められます。そのうち、上位2段の段丘面上には流れ山地形が確認され、通常の営力で形成される平坦な面とは全く異なります。このことから、対岸の帰雲山の崩壊土砂が高速に流下して堆積されたと推察されます。
 この崩壊跡地の南東側には赤点線で示した大規模崩壊の痕跡地形が認められます。安間(1987)は、対岸の堆積土砂量を考慮すると、天正地震の時に発生したのはこちらの崩壊地であったと考察しています。写真5を撮影した帰雲城址の石碑は、庄川対岸の堆積土砂が載る段丘面上にあり、周囲は帰雲山崩れの堆積物で覆われています。コラム22で説明した飛越地震(1858)の起震断層である跡津川断層の西端に当りますので、この崩壊地は飛越地震時に発生した可能性が強く、崩壊土砂は対岸の段丘の上まで達していないと考えられます。
 庄川で形成された金屋石黒(庄川下流)と帰雲山の天然ダムは、20日後に決壊しています。詳しいことは分かっていませんが、帰雲山の天然ダムが先に決壊し、金屋石黒(庄川下流)の天然ダムを襲って決壊した可能性がと考えられます。田畑ほか(2002)の表1.1によれば、金屋石黒から上流の流域面積は1111km2、帰雲山から上流の流域面積は554 km2ですから、天然ダムの湛水量はほぼ同じと考えられます。
 現在の庄川における1月の平均流量は82m3/sec(小牧ダム管理所調べ)と計測されているので、2つの天然ダムの合計湛水量は1.4億m3(82 m3/秒×20日=82 m3/秒×173万秒)と算出しました。したがって、2つの天然ダムの湛水量は7000万m3で、湛水高は70〜80m程度と考えられます(田畑ほか,2002の湛水量は大き過ぎたようです)。
 
6.水沢上(みぞれ)の大規模崩壊
 岐阜県郡上郡明宝村は、2004年に郡上郡の7町村が合併して、郡上市となっています。水沢上地区は、現在明宝スキー場が開発されています。図9は水沢上の崩壊地形と地質分類図を示しています。写真7は国土地理院が1977年10月23日に撮影した航空写真を立体視できるように加工したものです。水沢上の巨大崩壊は、長良川支流・吉田川の最上流部に位置しています。崩壊面積が98万m3、崩壊土砂量が2300万m3の大規模崩壊で、天正地震によって崩壊したようです。崩壊土砂は対岸(左岸側)まで流下したものと推定されます。また、崩壊土砂によって西側に天然ダムが形成されました。対岸の左岸側斜面上の標高910m付近には、「婆岩」と呼ばれる独立岩尖(高さ7m)があり、伝承ではその岩に登った人が助かったという言い伝えがある(明宝村,1993)ことから、天然ダムの湛水高は60m(湛水標高910m)、湛水量1600万m3にも達したようです(水山ほか,2011)。天正地震当時、水沢上には鉱山施設と家数60〜70軒あったと言われていますが、この時の大崩壊でそのすべてが埋没したと言われています。
 崩壊地内を三尾河断層の延長と思われる東落ちの断層破砕帯が通過していることから、この断層運動によって東側の地塊が沈降し、同時に大規模な崩壊が発生したと推察されます。さらに、堆積物の表面には、安山岩の巨礫や流れ山地形が確認されることから、崩壊土砂はかなり高速で流下し、対岸に衝突して、停止したものと考えられます。 
図9 水沢上の崩壊地形と地質図(1/2.5万地形図「飛騨大原」)
図9 水沢上の崩壊地形と地質図(1/2.5万地形図「飛騨大原」)    
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999)
写真7  岐阜県明宝村水沢上の崩壊(地理院1977年10月23日撮影)
写真8 岐阜県郡上市明宝水沢上の崩壊(地理院1977年10月23日撮影
CCB-77-11 C4-43,44,45 元縮尺1/15,000

 写真9は、2017年4月8日の現地調査時に撮影したものです。1989年に開設された明宝スキー場が西側の山地に広がっています。残念ながら雨天で視界があまり良くありませんが、婆岩付近から移動岩塊を撮影したものです。写真10は、明宝村史通史編上巻に掲載されている「大割れ山」の写真です。移動岩塊が湛水量よりも大きかったため、この天然ダムは200年以上残り、上流側の湛水池には徐々に土砂が堆積し、かなり低平な平坦地が残りました(現在は明宝スキー場の野外ステージや駐車場になっています)
写真9 婆岩付近から大割れ山を望む
写真10 水沢上の崩壊地「大割れ山」
写真9 婆岩付近から大割れ山を望む
2017年4月8日井上撮影 
写真10 水沢上の崩壊地「大割れ山」
明宝村史通史編上巻(1993)

引用・参考文献
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安達正雄(1977a):白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,−第2報 両城主の家系図の検討−,日本海学会誌,1号,p.69-79.
安達正雄(1977b):白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,−第3報 内ヶ島氏系図と石黒氏系図の研究−,日本海域研究所報告,9号,p.9-25.
安達正雄(1978a):白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,−第4報 内ヶ島氏および石黒氏の家臣達−,日本海学会誌,2号,p.111-121.
安達正雄(1978b):白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,−第5報 両城主と一向一揆−,日本海域研究所報告,10号,p.117-127.
安達正雄(1979):白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」,−第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について−,日本海学会誌,3号,p.61-76.
安達正雄(2005):越中木舟城主・前田秀継の信仰について,石川郷土史学会会誌,38号,p.111-117.
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宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,増補改訂版 416-1995,493p.
宇佐美龍夫(2003):新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,最新版 416-2001,605p.
宇佐美龍夫・石井寿・今村隆正・武村雅之・松浦律子(2012):被害地震総覧,416-2012,694p.
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建設省河川局砂防部(1995):地震と土砂災害,61p.
建設省中部地方建設局(1987):天然ダムによる事例調査,229p.
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鈴木和博・中村俊夫・加藤丈典・池田晃子・後藤晶子・小田寛貴・南雅代・上久保寛・梶塚泉・足立香織・壺井基裕・常磐哲也・太田友子・西田真砂美・江坂直子・田中敦子・森忍・ダニエル ダンクリー・モニカ クシャク・鈴木里子・丹生越子・中崎峰子・仙田量子・金川和世・熊沢裕代(2008):恵那市上矢作町の地名「海」は天正地震の堰止め湖に由来した,名古屋大学加速器質量分析計業績報告書,XIX,p.26-38
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):2.2 天正地震と帰雲山,p.10-14.,天然ダムと災害,古今書院
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永田秀尚(2012):地震による被災事例カルテ票,5-5 天正地震・海,日本地すべり学会:地震地すべり,―地震地すべりプロジェクト特別委員会の総括編―,DVD付属資料
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