1.はじめに
いさぼうネットでは、1792年の雲仙の眉山大崩壊(島原大変肥後迷惑)についてコラム7で説明しました。
2025年5月の砂防学会(長野大会)終了後に長野市松代町にある真田宝物館に行きました。長崎県島原市に関連した『島原大変絵図』の4枚について、山中さゆり学芸員の計らいで、実物を見せて頂きました。実物の絵図はカラーで非常に鮮明で、絵図の中に小さなくずし字で島原大変による地形変化の状況が克明に描かれていました。絵図の中でどんな説明が書かれているか知りたいと思い、TOPPAN株式会社に「くずし字の解読」を依頼しました。
くずし字の解読結果が届きましたので、コラム7の結果を含めて、島原大変と呼ばれる地形変化の状況を説明致します。
2.4枚の絵図の経緯
2003年7〜9月に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で企画展『ドキュメント災害史1703-2003 地震・噴火・津波、そして復興』が開催されました。北原糸子東洋大講師が長野市松代町の真田宝物館で、企画展の準備のため善光寺地震(1847)関連の絵図を調査した折に、島原大変に関する4枚の絵図が偶然発見されました。
このうち、2枚は島原市本光寺常盤歴史資料館と島原図書館肥前島原松平文庫に残る絵図の写しとみられました。残る2枚は島原市にも存在が知られていなかったもので、噴火口が開いた普賢岳の山頂部を描いた絵図と、溶岩流の様子などを詳細に描いた絵図でした。これらは松代藩第六代藩主真田幸弘の所蔵品として、「寛政四年(1792)壬午春肥前国島原山焼・山崩・高波絵図画面四枚」と記された袋に納められていました。
なぜ遠く離れた長野の地でこれらの絵図がみつかったのでしょうか。その理由は松代藩主と島原藩主との親戚関係にありました。島原大変時に島原藩主であった松平忠怨の正妻は松代藩士真田幸弘の妹でした(太田,2002)。二人の間にできた子供が島原大変直後に急逝した忠怨の後を継いだ忠馮でした。島原大変関係の文書や絵図は島原藩から江戸幕府に提出するため、島原藩の江戸屋敷に送られ、幕府に提出されました。江戸屋敷におられた奥方が幕府に提出前に、これらの絵図などを写し取り、実家の真田藩に送った絵図が真田宝物館に残されたと考えられます。
3.雲仙普賢岳と眉山
図1に示したように、雲仙普賢岳は233年前に寛政噴火(1791-92)を起こしました。噴火の最末期の寛政四年四月朔日(1792年5月21日)夜に発生した四月朔地震(M6.4)によって、島原城下町の西側にそびえる眉山が大規模な山体崩壊を起こしました(片山,1974;井上,1999,2014)。砂防学会誌に投稿した井上(1999)の論文は、2000年5月に砂防学会賞を受賞しました。崩壊した岩石や土砂は流れ山を形成して、島原城下町南部と付近の農村を埋め尽くしただけでなく、有明海に流入して、大津波を発生させました。このため、多くの住民が崩壊土砂によって生き埋めとなり、島原半島の沿岸や有明海対岸の熊本や天草の沿岸では、死者・行方不明者が1万5000人にも達しました。このため、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれています。
島原大変については非常に大規模な災害であったため、島原地方だけでなく日本各地に多くの絵図や記録が残されています(井上,1999,2014;菊地,1980;島原市仏教会,1982;国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所,2003)。島原藩の公式記録だけでなく、民間でも様々な記録が残され、雲仙普賢岳の噴火や眉山の研究資料として、大きな意義を持っています。
図1 雲仙普賢岳・眉山周辺の地形分類図(井上,1999),沿岸海域地形図「島原」に追記
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島原半島の中央部には雲仙地溝帯があって、東西方向の断層が数本走っています(渡辺・星住,1995)。この地溝帯は現在でも南北に拡大し続け、火山活動や地震活動が活発です。雲仙火山は粘り気の強いデイサイト質の岩石からなり、平成新山(標高1486m)や普賢岳、国見岳、眉山など多くの溶岩ドームからなります。図1は国土地理院(1981,1998)の沿岸海域地形図「島原」の上に写真判読による地形分類図を示したものです。拙著(2018)『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』(そのT)の表紙では、鳥瞰図にしてあります(島原大変前の海岸線を緑線で示しました)。
溶岩ドームは不安定で崩壊しやすく、火砕流(噴火時のみ)や土石流が多く発生し、山麓部には崩落・流出した土砂によって形成された複合扇状地が広がっています。時には、島原大変のような大規模な山体崩壊を起こすため、斜面下部には多くの流れ山地形が分布しています。眉山は2つの溶岩ドーム(七面山と天狗岳)からなり、南側の天狗岳は1792年に山体崩壊を起こし、東側が大きく抉られています。有明海東側の沖合5kmまで、広い範囲に多数の流れ山地形が認められます(井上,1999,2014;国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所,2003)。
4.寛政噴火から島原大変に至るまでの経緯
寛政噴火と眉山の山体崩壊に至る経緯は、表1に示したように、5段階に分けられます(片山,1974;太田,1984;井上,1999)。年月日の表示に当たっては、太陰暦が使われていた明治5年(1872)以前は漢字、西暦(太陽暦)はアラビア数字を使用して区別しました。
第1段階:
1791年11月3日に始まり、以後毎日のように有感地震が続いた前駆地震の時期である。地震動は島原半島西部の小浜方面で最も強く、震度X〜Yに達した。
第2段階:
新焼溶岩が噴出し続けた時期である。1792年1月には、前駆地震はほぼ静まったが、次第に雲仙普賢岳付近で山鳴りが激しくなり、大きな地震・鳴動が起って、噴火の始まりを告げた。新焼溶岩が噴出し始め、長さ2kmの穴迫谷を埋めて、2月27日〜4月20日までの期間、徐々に流下した。この噴火に伴って、普賢岳東麓の山中に有毒の火山ガスが大量に噴出し、「鳥地獄」の状況を示した。
第3段階:
眉山−島原地区を中心として、4月21日の新月の時期に三月朔地震が発生した。この地震群は5月14日頃まで続き、島原城下では震度X〜Yに達した。眉山(天狗岳)で山鳴りが激しく、強い地震時には天狗岳からの崩壊や落石で山が一時的に見えなくなるほどであった。4月29日に天狗岳の東麓にあった楠平では、大規模な地すべり(南北720m、東西1080m、滑落崖90m)が起った。この地すべりが1ヶ月後の山体崩壊の前兆だった可能性が強く、楠平では地下水の異常な上昇に気付いて、山体崩壊前に避難して助かった者もいた。
表1 寛政の普賢岳噴火の経緯(片山,1974に基づき編集,井上,1999,2014)
第4段階:
5月21日20時頃に四月朔地震(M6.4、最大深度Y〜Z)が眉山の直下付近で発生した。このため、2度の強い地震とともに天狗岳から海中にかけて大音響が起り、山体崩壊による移動岩塊は有明海に高速で突入したため、大規模な津波を引き起こした。新月の真っ暗な夜に山体崩壊と津波が発生したため、島原の城下町だけでなく、有明海周辺の各地に甚大な被害を与えた。
第5段階:
その後も天狗岳は地震のたびに二次崩落を引き起こした。現在よりも大きな白土湖が形成されたほか、各地で湧水が絶えなかった。眉山(天狗岳)には6筋の縦割れ(谷)ができ、数箇所の穴から泥土が噴出し、煮えるような音がした。7月8日には水無川で最初の土石流が発生し、9日には普賢岳の山頂で火山灰が主体の噴火を引き起こした。8月19日以降、固まりかけた新焼溶岩の先端部が地震や降雨によって、少しずつ崩れた。
5.真田宝物館で見つかった島原大変の絵図のくずし字解説
真田宝物館で見つかった島原大変関係の4枚の絵図について、TOPPAN株式会社にくずし字解読を依頼し、その結果が得られたので以下に示します。
真田宝物館の絵図にはタイトルはないので、
- 絵図1(図2)普賢祠前(地獄跡火口)と穴迫谷(琵琶の撥、新焼け頭)の山焼け
- 絵図2(図3)穴迫谷山焼(新焼溶岩の流下状況)
- 絵図3(図4)普賢山焼け開始後・前山山崩れ前の島原城下町と島原湊
- 絵図4(図5)前山山崩れ・高波(眉山大崩壊)と城下街の様子
と仮題を付けました。
このうち、絵図1・2は島原市にはなく、真田宝物館のみに所蔵されています。絵図3は松平島原藩の菩提寺である本光寺の常盤歴史資料館蔵の『寛政四年大震図』の写し、絵図4は島原図書館肥前松平文庫蔵の『島原大変大地図』の写しと考えられます。
島原藩ではこれらの絵図を「災害時の危機管理」に役立てていたようです。
新焼溶岩流の流下がこのまま続けば、千本木を通過して島原城の城下町まで溶岩流が到達する可能性が島原藩で議論されました(白石,1989;島原仏教会,1992;国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所,2003)。三月朔地震直後の三月二日(4月22日)、緊急の対応や避難時の心得などを詳細に書き付けた『奥山吹出(普賢岳噴火)に付御手当内調の事』(警戒避難指令書:俗に三月令と呼ばれる)が出されたため、早速各役所から役人が出向いて新焼溶岩流関係の絵図を写し取り、それぞれ役目柄必要な準備をしました。
この準備指令書は、溶岩流の流下による島原城や城下町の被害を想定して書かれています。また、溶岩流の想定条件はもっとも軽い状況から悲惨な状況まで順を追って書かれています。各想定条件下において指示された内容を分析すると、およそ半数が避難行動についての具体的な指令でした。また、溶岩流の挙動および山水(鉄砲水)の発生を知らせる警報の出し方や江戸・長崎などとの連絡体制といった、緊急時の情報伝達方法についても、詳細に取り決められていました。さらに、武士や町人が避難した後の城下警戒体制も事前に取り決められていました。
なお、これらの取り決め(三月令)は、殿様御一家の安全確保を主な目的として作成され、広く一般町民を避難させる趣旨ではありませんでした。結果として新焼溶岩流は千本木の民家の手前で止まり、城下まで及ぶ被害はありませんでした。
太田(2024)によれば、絵図1は、寛政四年一月十八日(1792年2月10日)に噴火活動を開始した山頂部の普賢祠前の地獄跡火口の様子が描かれています(表1の第2段階-2)。火口の縁に面した屏風岩を背に祠が描かれていますが、平成の噴火で平成5年(1993)末に祠が埋没するまで、普賢菩薩が鎮座していました。
絵図1(図2)では、地獄跡火口から祠にかけて階段が描かれていますが、平成噴火直前には藪で確認できないほど、埋没していました。平成噴火までは祠の横から南南東方向の竜の場(九十九島火口)にかけ、登山道に沿って階段が構築されていました。火口底や火口壁には赤い焔が描かれていますが、夜間に焔が見えたようで、昼間には白い噴気が見えました。島原藩の記録には、最初は2か所に穴が開き、泥土を噴出したと記されています。この絵図には、「古穴2ヶ所共泥にて埋まり」、直径1〜3mの新しい穴が数ヶ所描かれています。中には高温で「硫黄」が付着し、黄色になっていたようです。
太田(2024)によれば、この泥土を噴出している様子は、平成噴火でも再現され、太田が平成噴火開始後5日目に初めて火口底に降り立った時、島原藩関係古記録から想像していたものとそっくりで、200年前にタイムスリップしたような夢心地であったと記しています。
残念ながら、平成噴火により地獄跡火口はもとより、屏風岩・普賢神社・普賢池、さらには古焼溶岩中の鳩穴まで、その後に成長した溶岩ドームで埋没し、姿を消してしまいました。
『郡奉行所日記』(東京大学地震研究所,1984)には、一乗院からの報告として、「普賢岳より三拾丁北麓当穴底大ツキノ谷申所有之所此所子二月六日・・・硫黄吹き出し」と記されています。当時、一乗院は穴迫を穴底と呼んでいますが、大月(ツキノ)谷が穴迫谷筋であり、その谷頭であることは明白です。そうだとしたら、この祠前の状況を描いた時には、琵琶の首はまだ噴火しておらず、江戸へ書状を送り出す頃には噴火が始まっていたので、絵図右側を増補した可能性が考えられます。
4枚の絵図に書き込まれているくずし字の解読については、TOPPAN株式会社に依頼しました。くずし字の解読に使用したAI-OCR(ふみのは®)については、以下に示すように、TOPPAN株式会社が独自に開発されたものです。
くずし字の解読結果については、4枚の絵図の所蔵機関である真田宝物館の学芸員・山中さゆり様に校正して頂き、一部の文字を追加してあります。
太田(2024)によれば、絵図2(図3)は「琵琶の首」(琵琶の撥ともいう)からの穴迫谷を流れ下る新焼溶岩を描いたもので(表1の第2段階-6)、安山岩〜デイサイト質溶岩に特徴的な塊状溶岩流です。内部は流動性を持っていますが、表層は冷えて塊状になり、浮いた形で押し合いへし合いしながら流れに乗っています。溶岩塊にひびが入ると、「火を吹き」「花火をみるよう」であり、おそらく時折大量に崩れ落ちると、「黒煙数十丈(百数十m)」が吹き上がったようです。
図2(絵図1)普賢祠前(地獄跡火口)と穴迫谷
(琵琶の撥、新焼け頭)の山焼け
そのため、溶岩塊に割れ目が入り、封じ込められていた高温のガスが、灰を混えながら吹き出している様子が、えのき茸のように木目細かく描かれています。また、夜見ると、表面は薄墨色ですが、「岩中赤く誠に朱塗りのことき火」で、「数十間上より」ころげ落ちると「火煙」になり、柴木に火が付いたといいます。溶岩塊の間からは、夜見ると高温の赤みを帯びた流動性溶岩が覗かせていたのかもしれません。この絵図の下部には、さらに細かい観察結果が記されていて、溶岩塊にひびが入ると、「火を吹き」「花火をみるよう」であり、おそらく時折大量に崩れ落ちると、「黒煙数十丈(百数十m)」が吹き上がったようです。
これらは、平成の噴火で見られたような、まさに溶岩崩落型火砕流の原形と考えられます。崩壊量が少なかったことと、谷勾配が緩やかであったため、火砕流とまでは至らなかったようです。これらの2枚の絵図の描写は、火山学的にみて実際に観察しなければ描けない正確さと繊細さがあり、かつ誇張がなく、記事も島原藩関係者の古記録文とほぼ同じです。その意味で大変貴重な資料です。この溶岩流は、最盛期には1日に約30mの速度で千本木に向かって流れ下っていました。
図3(絵図2)穴迫谷山焼(新焼溶岩流)の流下状況
絵図3(図4)は、第2段階-7(噴火に伴う諸現象)の頃の状況です。本光寺常盤歴史資料館蔵の『寛政四年大震図』とほぼ同じですが、違いは簡略化され目立たなかった島原城郭と武家屋敷が、それぞれ桃色と青色にくっきりと色付けされ、文字も大きくなっています。さらに城郭には、単に「城中」と記されていたものに、大手門と本丸が追記され、大手門一角が単なる線から写実的な石垣模様へと書き換えられています。また、神社や寺も赤色化し、寺名が付け加えられ、一般市街地と区別するなど、城郭・神社仏閣が目立つようになっています。
肥前島原松平文庫によれば、下部を構成する『島原湊景観図』は、本来独立した絵図だったと考えられます。一般に『島原惣町絵図』と呼んでおり、九州大学(九州文化史研究所)に2点ほど保管されています。
絵図4(図5)は、第4段階-11の四月朔地震と眉山山体崩壊・高波(津波)直撃後の島原城下街の様子を描いたもので、島原図書館肥前島原松平文庫の『島原大変大地図』とほぼ同じです。絵図3(図4)と同じように、城郭を明確化するとともに、焼け下る溶岩流が眉山の背後であるという位置関係が分かるように描かれています。なお、白土湖の人工排水路である「音無川」も描かれています。絵図3と4ともに、東西南北の方位が示されています。
図4(絵図3)普賢山焼け開始後・前山山崩れ前の島原城下町と島原湊
本光寺常盤歴史資料館蔵の『寛政四年大震図』の写しか
図5(絵図4)前山山崩れ・高波(眉山大崩壊)と城下街の様子
島原図書館肥前松平文庫の『島原大変大地図』の写しか
6.絵図をもとに推定した眉山の山体崩壊の形態と規模の推定
井上(1999・砂防学会賞受賞論文)といさぼうネットのコラム7では、絵図3と4をもとに推定した眉山の山体崩壊の形態と規模を推定しました。真田宝物館所蔵の絵図を見ながら、考察結果を振り返りたいと思います。
図6 山体崩壊前後の眉山の鳥瞰図(井上,1999)。
右図は国土数値情報(1996年作成の沿岸海域海底地形図 1/2.5万「島原」)をもとに、
島原城を視点として描いた眉山で、左図は崩壊前の眉山をトライアンドエラーで描いた。
図7 島原大変前後の等高線平面図と断面図,地形変化土砂量図
図4(絵図3)は『寛政四年大震図』(本光寺常盤歴史資料館蔵)、図5(絵図4)は『島原大変大地図』(島原図書館肥前島原松原文庫蔵)の写しとみられます。図4(絵図3)は新焼溶岩が流下していますが、三月朔地震(4月21日)で発生した市内の地割れは描かれていません。図5(絵図4)は地割れが描かれ、四月朔地震(5月21日)で発生した天狗山の山体崩壊と流れ山地形が描かれています。両図では右側の七面山の図柄は全く同じです。図5(絵図4)は島原城の天守閣に登って頂くと分かりますが、天守閣から見た景観(高さ方向は2倍に強調)とほぼ同じです。
これらの絵図をもとに、山体の眉山(天狗山と七面山)の地形変化を比較したのが図6です(井上,1999)。右図は国土数値情報(1996年作成の沿岸海域海底地形図1/2.5万「島原」)をもとに、島原城を視点として描いた鳥瞰図です。左図は2枚の絵図を比較して、トライアンドエラーで描いた山体崩壊前の鳥瞰図です。
図7の上図は、2枚の鳥瞰図をもとに復元した平面図で、左下図は崩壊前後の断面図、右下図は地形変化土砂量図を示したもので、山体の崩壊土砂量を示します。これらの図をもとに山体崩壊前後の等高線の差分を求めて、地形変化量を測定しました。山地部は山体崩壊で侵食された地域(最大崩壊深360m)で、堆積域(最大堆積深40m)は多くの流れ山地形が有明海の海岸線の5km先まで認められます。山体崩壊前後の等高線の差から山体崩壊土砂量は3.25億m³,陸上部の堆積土砂量は0.41億m³、海中部の堆積土砂量は2.76億m³と推定しました。海に突入した崩壊土砂量は、1.1〜1.3倍に膨らんでいると思います。
図5(絵図4)では天狗山から流出した土砂は2種類あったことが分かります。右側が山体崩壊による無数の流れ山地形で、左側の黒い流れはその後に発生した火山泥流(土石流)と考えられます(図1も参照)。島原大変時に有明海を航海中であった船員の報告には、天狗山が6分ほど崩れたところで、白砂が噴出したと記録されています(小林・鳴海,2002)。
7.むすび
5月29日(木)砂防学会(長野大会)で口頭発表後に、長野市松代の真田宝物館にお伺いし、島原大変関係の4枚の絵図の実物を見せて頂きました。これらの絵図が非常に克明に描かれていることに、改めて感心致しました。TOPPAN株式会社に依頼して、くずし字の解読をして頂きましたが、今まではくずし字が読めないまま、絵図を眺めているだけでした。太田一也先生も解説しているように、くずし字の解読は火山学的に多くの知識を与えてくれました。
4枚の絵図とくずし字の解読結果を持って、島原に行き、寛政噴火と平成噴火の状況と地形変化の状況を再検討したいと思います。
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- 渋江哲郎(1975):眉山ものがたり,昭和堂印刷総合企画,134p.
- 信濃毎日新聞(2002.7.2記事):江戸時代の普賢岳噴火、克明に―長野・真田宝物館絵図4枚初公開―
- 島原市(2002):平成島原大変・雲仙普賢岳噴火災害記録集,497p.
- 島原地域広域市町村圏組合消防本部・島原消防団・深江町消防団(1992):脅威なる自然と防人の日々
−平成三年雲仙岳噴火災害,217p.
- 島原仏教会(1992):たいへん―島原大変2百回忌記念誌―,662p.
- 白石一郎(1985):島原大変,文芸春秋,文春文庫(1989),p.9-105.
- 関原祐一・小野菊雄・小林茂(1986):島原大変時における島原藩の幕府報告図について,野口喜久雄
・小野菊雄編:九州地方における近世自然災害の歴史地理学的研究,九州大学教養部,p.29-35.
- 高木繁幸(1994):嶋原大変記,日本農書全集,66,災害と復興1,農山漁村文化協会,p.181-250.
- 地質調査所(1995):雲仙火山地質図(縮尺1:25,000)
- 都司嘉宣・日野貴之(1993):寛政四年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海の熊本県側に
おける被害,および沿岸遡上高,東京大学地震研究所彙報,68巻2号,p.91-176.
- 都司嘉宣・村上嘉謙(1997):寛政4年(1792)眉山崩壊による島原半島側の津波浸透高,歴史地震,
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- 寺井邦久(1997):島原高校7年間の噴火記録,1990-1997. 平成8年度島高紀要,8号,64p.
- 東京大学地震研究所(1984):新収日本地震史料,第4巻別館,自寛政元年(1789)至天保十四年
(1844)
- 特定非営利活動法人島原普賢会(2000):雲仙・普賢岳噴火災害を経験して,被災者からの報告,
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- 土質工学会雲仙普賢岳火山災害調査委員会(1993):雲仙岳の火山災害―その土質工学的意義を探る―,
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- 長崎県災害対策本部(1993):雲仙・普賢岳噴火災害の記録(平成3年度〜4年度),375p.
- 長崎県島原市(1992):広報しまばら 雲仙・普賢岳噴火災害特集号,266p.
- 長崎県島原市(2012):雲仙普賢岳噴火災害20周年記録集,雲仙・普賢岳噴火災害の記録
〜次の世代へ〜,224p.
- 長崎県総務部消防防災課(1998):雲仙・普賢岳噴火災害誌,515p.
- 長崎県深江町役場企画課復興室(1994):災害と人間−普賢岳・深江町からの報告,112p.
- 長崎新聞社(1992):鳴動普賢岳,改訂版雲仙岳噴火 写真・記録集,164p.
- 長崎大学生涯学習教育研究センター運営委員会編(1994):雲仙・普賢岳火山災害にいどむ,
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- 長崎県土木部河川砂防課(1973):眉山(パンフレット)
- 丹羽俊二(1995):長崎県島原沖の海底地形―ナロービーム音響測定システムによる海底地形調査―,
地図の友,40巻5号,表紙,及びp.2-5.
- 古谷尊彦(1974):1792年(寛政4年)の眉山大崩壊の地形学的一考察,京大防災研究所年報,
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- 毎日新聞西部本社(2002):大火砕流を越えて,普賢岳が残した十年,出島文庫
- 松尾卓次(1997):島原街道を歩く,葦書房,224p.
- 松尾卓次(1998):島原大変の跡を探して,島原新聞1998年2月18日〜10月21日(全49回)
- 松尾卓次(2001):大嶽地獄物語,国見町史談会,9p.
- 松尾卓次(2002):ぶっらとさらく−島原,榊原郷土資料館,76p.
- 松尾卓次(2004):新島原街道を歩く,出島文庫,290p.
- 丸井英明(1991):雲仙火山「眉山」周辺地域における土砂災害危険度調査,地すべり学会関西
支部シンポジウム「地すべり・斜面崩壊の予知予測」論文集,p.129-143.
- 宮地六美・小林茂・関原祐一・小野菊雄・赤木祥彦(1987):島原大変に関する徳川時代の古絵
地図の地質学的解釈,九州大学教養部地学研究報告,25号,p.39-52.
- 歴史地理学会(2000):2000年度歴史地理学会島原大会発表資料集,84p.
- 歴史地理学会(2000):島原大変絵図資料集,42p.
- 渡辺一徳・星住英夫(1995):雲仙火山地質図,1:50,000 地質調査所
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